履 歴 書

                     
 
10−20代 
 長野県信州中野出身でアメリカ海軍横須賀基地の工員だった父・高島登と横須賀市浦賀の出で事務員だった母・マサの間に、長男(一登(かずと))として生まれる。

 後に父はレイオフされて横浜の船舶関係の会社に移ったが、母は結婚後は専業主婦だった。

 自我に目覚めた中学生時代、お茶の間のテレビでは、ベトナム戦争が映し出されていた。

 「ベトナムの人の血で、自分は生かされているのか」と思い悩む。

 高校生の時、言葉を失って場面緘黙症かんもくしょう)に陥る。「なぜ学ぶのか」――本の中に、必死に答えを探す。

 二浪して東京都立大学人文学部フランス文学科へ。

20−30代
 卒業後、県立高校に英語教師として就職。

 80年代の工業高校は、荒れていた。授業ボイコットに、一年で数十人の退学者。授業を成り立たせるための試行錯誤が続く。

 一方、水俣への支援活動の経験から、地域に生きるべく、横須賀での反基地平和の市民運動に打ち込む。民族差別がテーマの日教組の教研活動にも取り組む。

 英語といえど、言葉は体から――次第にからだの問題に気づきはじめる。教育演劇やフィリピンの民衆演劇、竹内敏晴(たけうち・としはる)レッスンなどを体験していく。

 ミイラ取りがミイラに・・・あたまとからだの乖離にたえきれず、破綻。離職。

30−40代
 四国遍路。「これからは歩いて生きよう」と、免許証を捨てる(出雲大社に置いてきた)。

 導かれるようにして、知る人もない熊野の紀伊田辺に移り住む。人里離れた小学校跡で米を作り、小説を書き続ける(退職金で生活)。

 懸賞小説に何度も応募するが、落選。芽が出ず。無理がたたって成人性のアトピー性皮膚炎に襲われ、体がボロボロになる。横須賀の実家へ“出戻り息子”になる。

 奈良の大倭紫陽花村で開かれた野草塾で今の女房に再会、拾われて結婚。山口に移り住む。

 縫製業を営む義父の子会社(洋服店)の社長におさまり、商売の世界へ。

 子どもも生まれ、必死に働くも、バブル期に建てられた初期投資の負担に耐えきれずに倒産。後に自己破産。

 京都に移り住み、町家を借りて豆屋・楽天堂を“身の丈起業”する。

40−50代
 子どものころから“新しもの好き”で、何事も三日坊主だった自分。

 それが山口時代に出会った整体(身体教育研究所)の稽古と同時期に始めた新陰流の木刀振りだけは、二十年も続いている。

 五十代半ばにして、生業は豆屋、からだとことばをライフワークに、と思い定める。

 2011年3月、〈からだとことばを育む会〉の稽古会をスタートさせる。

60代
 2015年春:膿胸(のうきょう)を患い、一ヶ月半入院して手術を受ける。

 整体の限界と可能性について、思い知らされる。

 ベッドの上で、東洋(的手当)と西洋(的医療)の調和について、思いを巡らす。

 2016年春:久々に小さな市民運動に関わる(児童公園の廃止反対運動)。

 生物(ナマもの)としての身体と、社会的存在としての人間の調和について、思いを巡らす。

 2019年秋:大腸ガンの摘出手術を受ける。

 身体感覚に傾いてバランスを欠き、肉体への気くばりをおこたっていたと痛感。

 整体とは、人間存在の多層的な間(ま)を調えることではないか、と思い至る。

 2021年秋:腸閉塞で二週間、入院する。

 幸い開腹手術をせずにすんだが、二年前の大腸ガンの手術以来、奢(おご)っていた自分への警鐘(けいしょう)と捉える。

 「一日一生」――今日を生きぬけ。

 2023年秋、〈からだとことばを育む会〉の名称を〈からだとこころを調える会〉に変更する。

 整体協会の創立者・野口晴哉(のぐち・はるちか)が、晩年、ナゼ整体をやめて“潜在意識教育”と言い出したのか?――そう、何よりも“こころ”なのだ。

 合わせて、もう「整体」という言葉(「正」の文字が含まれている。正しい体、正しくない体というのがあるのだろうか)は使わないようにしよう。あえて言うなら「調体」か。

 からだ・こころ・肉体の三位一体のシーソー(動的平衡)を調えることが、これからの課題になった。

 2024年、会の名称を〈調体―からだのしらべ―〉に変更する(通称、稽古会)。



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