[堂守随想・INDEX] |
今年(2016年)のゴールデンウイークも終わった日、京都市内の小さな公園が歴史の幕を閉じた。仁和公園――通称、立本寺公園。60年の間、地域の人に愛され、子どもたちを育んできた緑多き公園が、地主である立本寺の経営難によって京都市への賃貸が打ち切られ、民間の有料老人マンションが建設されることになったのである。 私たち地域の住民に事の顛末が知らされたのがこの3月。京都市(担当部署が「みどり推進室」!)の対応のマズさ――長年、お寺が財政難に苦しんでいたのに年額100万円という常識外の賃料に押さえてきた――に驚き、嘆き、怒った市民十数名が「立本寺(仁和)公園を愛する会」を立ち上げ、市会議員などもまきこんで公園存続の運動を繰り広げてきた。 一時は賃料を1500万円に上げることを京都市に確約させたが、1800万円を提示した業者(チャーム・ケア・コーポレーション)との契約を寺側が優先したため、公園の閉鎖が現実のものとなってしまった。京都市内でも緑が少ない、低所得層が多く住む密集地域に、ある人曰く「ベルリンの壁」のような4階建ての建物が建つ。それも近隣のお年寄りがとても入居できない額の有料老人ホームが。 私もこの間、横須賀在住時いらい久方ぶりに市民運動に加わったが、そこで痛感したのが「一人がいない」という現実であった。業者はもとより、行政にも、寺院にも、そして私たち市民(具体的には、市役所や寺との窓口になった町内会の連合体である「仁和福祉団体連合会」)の側にも、市民の共有財産である公園存続のために身を挺す、公(おおやけ)に奉仕する人間が一人としていなかったのである。 黒澤明の映画『生きる』で、志村喬が演じた公園開設に余命を捧げた市役所の老課長、あのような人がいれば・・・という声は、何人からも聞いた。が、ないものねだりだったのだ。あまつさえ、「その場にふさわしくない人物がそのポジションを占めている」事態に、何度も出くわした。それが、現実だったのだ。今の日本国の・・・。 ※ 昭和29年3月2日、仁和児童公園の開設を祝う京都新聞の記事のコピーがある。不鮮明で読みにくいと思われるので、以下、転載すると―― 「学区民の念願かなう――市も協力 立本寺境内に児童公園」という見出しの下に、次のような記事が続いている。 「【上京】児童の遊戯場がないためスケートやボール投げなど交通妨害になる遊びが路上で行われ、関係者も頭を痛めている折柄、このほど市の教育関係者や学区民の協力によって仁和学区の立本寺―七本松仁和街道―に児童公園が設けられることになり、一日午前九時から区民関係者が集って標識が立てられた。=写真は仁和児童公園用地 仁和校の運動場が狭く、また学区内の道路も狭く児童の屋外での遊戯に頭を痛めていた仁和協愛会では昨年十月、立本寺細井日苑貫主にその事情を打ちあけたところ、同貫主もかねてからこれが利用を希望していた折とて、鬼子母神会福島武氏その他寺院関係者と相談のうえ、同寺境内の約三百坪を市へ提供することを快く引受けた。 そこで市公園緑地課では予算を計上、新年度から着工することになった。 なお、同公園は仁和校の近くにあるため完成のあかつきには児童の校外運動場にも利用出来るので学校側も喜んでいる」 とあり、続いて2人の関係者のコメントが掲載されている。 「細井立本寺貫主談:わたくしは境内の土地を児童のために提供しただけで、実現については福原市教委長のなみなみならぬ熱意と尽力によるものであり、地元民とともにあげて感謝しております。 小野仁和協愛会幹事談:長い間の希望であり、協愛会員諸氏の努力が実を結んだことはまことによろこばしい。会員諸氏とともに喜んでおります。」 ※ 立本寺には、老人ホーム建設と同時に取り壊される予定の祖師堂というお堂がある。ここは、老朽化して現在は立ち入れないが、戦後十年ほど、内部をベニヤ板で仕切って、困窮していた人達に住まわせていたという。児童公園の用地を無料で提供したこととあわせて、お寺のパブリック精神には、頭が下がる思いがするが、それは何も特別なことではなかったのを、思想家&武術家の内田樹さんの本(武術家・光岡英稔氏との対談)から私は知った。以下、『生存教室―ディストピアを生き抜くために』(集英社新書)からの引用―― 「もう一つ印象深いエピソードは、多田先生(注 内田さんの合気道の師匠・多田宏氏)が入門された1950年は敗戦からもう五年経っていたのですが、六十畳ほどの広さの道場の端のほうにはまだ被災者が住んでいたという話です。(中略) 空襲で被災した近隣の人たちが緊急避難的に植芝道場へやってきて、そのまま道場で暮らしていた。その人たちが生活している横で、合気道の門人たちが稽古していたわけです。五年にわたって被災者に道場を開放したままだった。植芝先生(注 開祖・植芝盛平)は「出ていけ」というようなことをおっしゃる人ではなかった。(中略) 僕自身は被災者が道場に寝泊まりしていたという話に強く打たれました。「愛と和合」というのは単なる精神訓話ではなく、文字通り、行き暮れた人たちのための「アジール」を提供することだと植芝先生が実践されていた。 道場は稽古をする者にとってはきわめて神聖な場所ですけれども、それよりももっと優先することがある。住む家を失った隣人たちを迎え入れることのほうが、道場での効率的な修行よりも優先する。世を救い人を救うために武道があるのなら、武道の稽古のために行き場のない人を追い出すことはできない。そのあたりに合気道の本質があると、多田先生は感じ取って、それを僕たちに伝えようとされているのだという気がします。」(pp.131-134) ※ 身も蓋もない話であるが、立本寺の現貫首の下で務め、その後イヤ気がさして別の寺に移ったあるお坊さんは、「名誉欲・金・女、の人だ」と、評していた。この間の貫首の言動からは(あえて書かないが)、むべなるかな、と思えてしまう。右を見ても左を見ても――賛成する人も反対する人も、私利私欲、私利私欲。この半世紀の間に私たちが失ったものに、愕然とさせられる。 しかし、自己利益の追求そのものを、私は否定しているのではない。生き物として当然の欲求であるし、私自身、日々そのようにして生きている。であるからこそ、少しでも公につなげようとする志(こころざし)ある生き方が、求められているのではないだろうか。 今日は参議院選挙の投票日である。この時間、すでに開票が始まり、ニュースは改憲勢力の優勢を伝えている。圧倒的な分断の壁にはばまれた社会――「一人がいない」のなら、“一人から、一人でも始める”気概で、私たちはこの閉塞情況を生き抜く。 注:下の画像は、バルナ・ゲルゲイ氏(京都工芸繊維大学 ハンガリー)が作成したものです。 |