戦争法「成立」を受けて  
――対話カフェ i-think を、新たに始めます――
2015/09/22  by 高柳無々々
                                                                   

 9/19(土)に京都で行われた戦争法制に反対する高校生主催のデモ「School of Democracy」に行ってきました。

 翌朝の京都新聞によれば、高校生の参加は20名、全体で700名という報道でしたが、私の印象では千名近くにのぼっていたのでは。知った顔にも何人か出会いました。



 私は前日にDIYでつくった「自由民主」の幟を掲げ、着物・袴で歩きました(写真ではへたくそな字に見えると思いますが、これは整体の書法で、目を閉じて肚腰の気で書いています)。

 「自由民主党」ではありません。

 自民党は、9/17(木)、ヒゲの隊長こと佐藤正久のパンチによりお亡くなりになりました。翌日、山本太郎議員が式場にて葬儀をとりおこなってくれたので、成仏されたと思います。

 思い返せば右から左までウイングの広い国民政党であった老舗・自民党の面影はもはやなく、三代目のぼんぼんが社長の椅子にすわり、アメリカ資本が経営を握る個人商店「アベ屋」に変わりました。

 アベ屋の売りは、「国家主義」です。そして社訓は「大日本帝国を取り戻す」です。

 そんな馬鹿な、21世紀、このグローバルな時代になんとアナクロニズムな、と世人は驚いたのですが、今までは隠れるようにしてお経(近くにある「公明寺」のご住職から授かった「心に戦争を念じながら、口では平和を唱えるマンダラ)を口ずさんでいたアベ屋の従業員とお得意さんたちは、とうとう正座にしびれを切らしたか社長の業務命令によるものか、ご町内を「みなさまの生命と安全をおびやかす火事から、アベ屋はアメリカ製の優秀な消火器を購入して、仕事にあぶれた若者をボランティアに募り、すべからく鎮火してみせます」と触れ回ったのでした。

 日の丸を掲げ、徒党を組んであたりを暴力的に威圧する集団を目の当たりにして、「ナチスの手口を真似たのか」とささやく人もありました。

 このような光景に心を痛めた町内の青年有志たちは、連日連夜、街頭に立って、「個人として、一人の人間として、考え、判断し、行動して下さい」と呼びかけたのですが、返ってきたのは、「戦争は平和、戦争は平和」というオウム返しの大合唱でした。

 そして誰もが恐れていた暴力沙汰が、17日、町内のもやいの場「日本国神社」で起き、今までの決まり事がほごにされ、ファシズムが日本国憲法にかわってご神体とされたのでした・・・。 
                          
 
 今やSEALDsの象徴的な存在となった奥田愛基さんが参議院の公述人として、心から訴えかけたスピーチに私も感銘を受けましたが、安倍晋三(注)はなぜ奥田さんのように本音を語れないのでしょう。

(注)私は、現存の人物については「さん」または「氏」づけで表記するのを原則としていますが、クーデターにより暴力的に憲法秩序を破壊したファシストは呼び捨てにします。私は博愛主義者ではありません。「フェアプレーはまだ早い」「水に墜ちた犬は打て!」と書いた中国の作家・魯迅の言葉を信奉する者です。

 「国際環境が変わったから」というのは“外的”な説明でしょう。なぜ「私は、こう感じる。こう思う」と、“内的”に語らないのでしょう。いや、語れないのでしょう。

 安倍晋三が本音を語れない理由は二つある、と私は思います。

 一つは、日本はアメリカの属国である、日本国の首相はアメリカの雇われ社長で、反抗すればいつでも首を切られることを(重々、承知はしてても)口が裂けても言えないからです。

 安保法制の成立を急いだのは、「8月までに」とアメリカ議会で約束したから?約束とは対等な二者の間で成り立つものです。

 日本の自主的な外交を追求した、田中角栄(日中国交回復)はロッキード事件で、小沢一郎氏は無実の政治資金問題で、鳩山由紀夫元首相は普天間基地の移設(実質は新設)問題で、政治生命を絶たれました。

 アメリカの一存で、そしてアメリカの意向をくんだ日本の政財官、さらに司法とジャーナリズムの権力層によって。

 こと外交に関しては、安倍晋三に主体性などないのです。アメリカ(=オバマと軍需産業)に首根っこを押さえられて、アーミテージ・レポートを忠実に履行するように強制されている。

 今回の戦争法案についても、露骨なまでに「アメリカの戦費を日本に肩代わりさせ、アメリカ兵の死者を自衛隊員に置きかえる」のがその本質でしょう。アメリカに対して、決してノーがいえない日本、どこが「日米同盟」「対等なパートナーシップ」なのでしょう。ちゃんちゃらおかしい。

 この悲しくも厳しい現実を、まず私たちは認識しなければならないと思います。

 第二の理由は、戦略としてウソをついている、からです。

 安倍晋三s(sは複数形、安倍晋三+極右団体・日本会議その他魑魅魍魎(ちみもうりょう))の本音というかめざすものは、解釈改憲ではありません。憲法改正です。

 なぜなら今回のように憲法を否定する法律を制定しても、法律である限り、選挙で多数を失い、一端制定させた法律を廃止されれば、元も子もないからです。彼らは来年の参議院選挙で絶対多数をとり、憲法改正の発議をする、と明言しています。

 憲法が彼らの望むとおりに変えられてしまったら、かなりヤバイです。すでに秘密保護法が制定され、次は共謀罪か、と言われているのですから。

 そんな、と思う人は、ぜひIWJ(ジャーナリスト・岩上安身氏が運営するIndependent Web Journal)から出版された次の本に目を通してみて下さい。

 『前夜―日本国憲法と自民党改憲案を読み解く』(現代書館)

 天皇を元首とし、国民が国家(権力)を縛る民主主義の憲法から、国家(権力)が国民に義務を強制する、国家主義・全体主義の憲法へと、180度ベクトルの変わった、驚くべき草案です(2012年に発表)。

 ですが、今、この内容をストレートに出したら、国民の反対にあう。そこで少しずつ小出しに、大阪の陣のように外堀から埋めて、「国民の生命と安全を守る」というウソ八百を並べて・・・という政治的思惑で動いていると私は思います。

 国民というのは抽象的観念です。私たちは一人一人名をもった人間です。思い出してみて下さい。二人の日本国民がイスラム国に拘束された時、彼のとった対応を(まだ今年の話しです!)。

 すでにこの戦争法案が密かにプランニングされていたのでしょう。彼はこともあろうにイスラエル国旗の掲揚された場で、イスラム国と敵対関係にある国々への支援を表明しました。その結果、どうなったか。

 命が国家主義によって殺されたのです。来る戦争法制の論議を有利に導くために、まさに利用した、としか言いようがありません。

 そのやましさからでしょうか。後藤謙二さんが殺害される前、国会まで救出の嘆願に出向いたご母堂に会うことから、彼は逃げ回りました。

 参議院特別委員会での強行採決の時も、いち早く逃げ出していました。こんなウソ八百代官、腰抜けの男が首相であるとは、日本男児として恥ずかしい。許せません。
                          
 
 シールズの若者たちは、「本気で止める」と叫んでいました。そうだ、私も本気が試されているんだ。ファシズムに反対し、立憲主義・民主主義・平和主義の日本という共同体を、今この時、ここから、仲間たちと創っていくという協同を。

 私に何ができるか、何をしなければならないのか・・・。
                          
 
 今日9/22(火)は、〈からだとことばを育む会〉のお茶会でした。子どもも含めて十数名でお茶を楽しみ、その後、一品持ちよりの食事会でなごみました。

 お茶会では、始めに濃い茶を皆で回し飲みし、次に一人ずつ薄茶をいただきます。私はお茶の嗜みなど全くなく、整体の稽古の一環でお茶会を催しているのですが、なぜこういう飲み方をするのだろうか、と考えてみました。

 整体の内観法では、からだの感覚として〈表〉と〈裏〉というキー概念があります。

 〈表〉というのは腰につながる、他者への「表出」感覚、
 〈裏〉というのは肚につながる、自己への「受容」感覚です。

 この〈表〉〈裏〉の感覚が、他者との関係性において言葉で表現されると、〈表〉は「こ」(個・小・子・孤・粉)、〈裏〉は「わ」 (和・輪・環・我・倭)となります。

 どちらも人間にとって欠くべからざるものですが、

 〈表〉は腰で立って個人として生きてゆく社会的な存在、
 〈裏〉は肚の生命力で大地とつながる生物的な存在、

 を表したものと言えましょうか。

 私には、お茶会の濃い茶が、まず皆で感覚を共有し(裏)、次に薄茶で独り立つ(表)――例えば武士が、合戦の前に飲む一服――そんな人間の在り方を具現化したセレモニー(儀式)ではないか、と思われるのです。

 なぜここでお茶会のことを書くのかというと、私は人間というものは感じ→考え→行動する、という基本パターンを持っているのではないか、と考えているのですが(順不同、または瞬間的に二つが重なる場合もあり)、お茶会の濃い茶は感覚の共有→続いて薄茶を飲んで行動(いざ、出陣)と、この基本パターンに当てはまるのではないか、と思うのです。

 では「考える」は? すでに肚腰の据わった人間に――例えば陣馬に跨(またが)った武士は――考えることなど必要ないでしょう。実践あるのみ。しかし、現代の民主主義社会を生きる私たち市民には、日々、“自分の頭で考えて、判断を下す”という作業が課せられているのです。主権者の義務であり、権利として。

 翻って安倍晋三には、小細工を弄(ろう)する思考と暴力をいとわない行動の気質はあっても、感じる力(共感)が著しく欠如しています。他者の痛みが分からない、感じられない。言ってみれば(腰が抜けているだけでなく)肚も、失われている。

 イラク戦争の時、アフガニスタンで活動しているペシャワール会の中村哲氏が、「日本人は地に足が着いてないのではないか」という旨の発言をされていましたが(正確な記憶ではありません)、まさにその典型、母なる大地との交感=肚の生命感覚の欠落→頭でこねくりまわした観念倒錯、自己幻想の世界の王様です。

 それは彼固有の問題である、とも言えますし、彼固有の問題ではない、とも言えます。今回の安保法制を裏で演出しているもう一人の脚本家は、日本会議という極右団体だと私は思っているのですが、ホームページの「役員名簿」には、前天台座主や裏千家前家元が名を連ねています(国会議員二百数十名も会員です)。

 おいおい、最澄や千利休が、泣くよ。

 特に千玄室氏の名前をそこに見たとき、私は失望しました。彼は、“特攻隊の生き残り”として、「平和献茶」などの活動を行ってきたからです。戦争のための平和?ですか、と私は問いたい。

 伝統的な日本文化では――茶道などの芸能や、武術、職人の技から、座禅などの宗教的な修行に至るまで――頭であれこれ考えない、思弁をできるかぎり排することをよしとしてきました。それはそれなりに理由がある、つまり知識というはかないものにすがるのではなく、直接体験にこそリアリティ(世界・人生の真相)を感じる、見る、知ろうとする、言い換えれば身体知=感知に、価値を置いてきたからだと思うのです。

 ですがそれは、からだで感じる力があってこそ。いのちを感じられなくなった人間にとって、残るは観念しかない。身体の直接体験と似て非なるものを、代置するしかない。それが安倍晋三にとっては、国家主義なのだと私は思います。

 8月、彼がテレビで戦争法案の説明をした時、ご丁寧にも「日本家」と「アメリカ家」の模型を持参して、火事に喩えて法制の必要性を力説していました。なぜ、“家”なのでしょう。日本国とアメリカ国の対等な関係性を示すためなら、たとえば図示するにしても、抽象的な○○でも良いでしょう。なぜ、“家”なのか。

 それは彼らにとって、国という共同体が、家として認識(意識的にせよ、無意識的にせよ)されているからだ、と私は思います。家というのは、動物的に派生した場・関係性ですが、同時に社会的存在(単位)でもあります。家族は、私たちにとってもっとも親密性の源となるもの、いわゆる郷土愛(ナショナリズムと区別されるパトリオティズム)の母胎です。

 それがなぜ国家という、誰も見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、まして触れることもできない観念に擬制されるのか?そして、排外的な民族主義(ナショナリズム)を産み、自ら国家のために喜々として死に、殺すという“情熱”を持てるようになるのか?

 私にとっても答えのない(いまだに考え続けている)課題です。このようなことは、日本という共同体に固有な現象なのか、それとも人間集団に普遍に見られる宿痾(しゅくあ)なのか?近代の、国民国家の病弊なのか?

 ただ言えることは、日本文化の来し方・行く末に思いを馳せる時、“家”というものに足をすくわれないよう、重々、気をつけなければならない、ということです。なぜなら、国家主義(全体主義)を生み出す土壌は、私たちのこの日常の場に存在しているのですから。
 
 檀「家」制度に支えられた宗教教団、「家」元制度に成り立つ芸事団体、それらの業界人たちが、なぜ「大日本帝国を取り戻す」日本会議に集うのか?皆さん、思い起こして下さい。戦前の日本では、天皇主権の下、私たち国民(正確には臣民)は天皇の赤子(せきし=あかちゃん)とされ、「天皇陛下万歳!」と死ぬように強いられていた歴史を。 
                          
 
 楽天堂の活動の一環として、私は〈小さな仕事塾〉とからだとことばを育む会〉を運営していますが、前者は仕事をとおして行動する(=社会に働きかける)ことを、後者は整体の稽古をとおして感覚を鍛えることを目的にする、私塾に位置づけています。

 その間を埋めるというか、二者を媒介する「考える」活動として、今年の1月から〈カフェ からことっち〉を始めました。私の意図としては、哲学カフェ(カフェフィロ主催)を参考にしつつ、整体の要素も取り入れて、ゲームで感覚共有(=お茶会で濃い茶を回し飲みするようなもの)を行った後、一つのテーマを皆で対話しようとするものでした。

 2回行ったのですが、私の入院・手術で中断してしまいました。そして今、この社会的・政治的な状況を踏まえて、私のなかでは「哲学カフェは終わった」という想いが強くなっています。

 誤解してほしくないのですが、哲学カフェを否定している訳では全くなく、「我思う。故に我在り」の実在論に赴くような対話の場ではなく、もっと私たちの日常に即した、YES/NOの答えを迫られている時事問題、今回の安保法制もそうですし、例えば、「マイナンバー制度、どう思う?」、「軽減税率、YES or NO?」というようなテーマで、集い語り合う場を持ちたいな、と強く感じるようになりました。

 言ってみれば、〈カフェ からことっち〉では「考える」に軸足を置きつつ「感じる」方にも片足を置いてたのに対して、今度は軸足はそのままで他方の足を「行動する」に移そうとするものです。

 名づけて〈対話カフェ i-think〉。

 理由は二つあります(目的とも言えます)。

 一つは、これからファシズムの脅威がますます強まるでしょう。ファシストの手口は、ウソ八百を並べることと、暴力です(奇しくも強行採決が行われた日、沖縄の辺野古基地に反対する市民のテントに、右翼が押しかけて乱暴狼藉(ろうぜき)を働きました)。

 この間、私たちは様々な“集団的転向”の姿を目にさせられました。自民党は国民政党から極右政党へ、公明党は平和の党から戦争の党へ、そして内閣法制局長官にNHK(ここは以前からか)。

 私たちは民衆です。一人では弱い。考えることを止め、暴力に怯えて沈黙してしまうかもしれない。消極的な転向です。だからこそしっかと踏みとどまるために、抵抗の足場・仲間たちの集う場として、楽天堂・からこと舎を用立てたい、と思っています。

 もう一つの理由ですが、私は自分を「街場の下士官」(注)でありたい、と自己認識しています。

(注)「街場」とは、思想家の内田樹氏がよく使われるターム(用語)です。
(注)「下士官」で思い出すのは、吉田満の小説『戦艦大和ノ最期』で描かれた、海軍下士官達の姿です。

 自分は大将の器でもないし、なりたくもない。かといって兵士にもあらず(自慢でも謙遜でもありません)。

 では、大将と下士官、兵士はどこが違うのか?

 私の捉え方では、大将とはグローバルな視点をもってグローバルに生きる人達、兵士とはローカルな視点でローカルに生きる人達、下士官はその中間で、グローバルな視点でローカルに生きる人間です。

 この場合、グローバルとローカルというのは、単に地理的・空間的なものさしではありません。空間でもあれば時間でもある(つまり過去や未来を含みうる)、更にいえば、日本語の「ま」(間/真/魔)こそふさわしい、多義的な概念です。

 言葉を換えていえば、下士官とは民衆として生き、民衆として死ぬ人間です。ただし、一人立つ。仲間と協同する。

 私は〈からだとことばを育む会〉でも〈小さな仕事塾〉でも、そして新たにスタートさせる〈対話カフェ i-think〉の活動でも、一人でも多く「街場の下士官」を増やしたい、と心の底から願っています。戦争は(喩えがよくありませんが)優秀な下士官がどれだけいるかで帰趨が決するのでは、と私は信じています。

 デモをしていると、歩道を歩く人達の姿が目に入ります。中には拍手をしてくれる人、耳を塞ぐ人、腕組みをして立ち止まる人なども見受けますが、圧倒的多数の人は、無表情に歩いて行きます。

 「この人達は、何を考えているんだろう、感じているんだろう・・・」ふと、そんな思いにとらわれてしまいます。

 各種の世論調査では、大体3割ぐらいの人が、「安保法制は分からない」と最後まで答えていました。YES or NOが求められているにもかかわらず。

 私だって分かりません。法文に全て目を通した訳ではありませんから。しかし、私はこのような“応用問題”を考える時のスキル(技法)として、英語の授業で習った4W1Hを活用しています。

 Who(誰が)、When(いつ)、Where(どこで)、Why(なぜ)、How(どのように)、ナニナニを行ったか――WhyはFor what(何のために)で置き換えることもあります。

 そうやって、ない頭を絞る。結論を出す。

 そう考えると、安保法制はNOです。ひとことで言って、戦争法案なのですから(参議院でのあの強行採決は議事録にも記載がないので、私も「無効」と思いますが、ここでは一応「強行採決」としておきます)。

 未来を託す若者たちが、「本気」で立ちあがった今、私も――SEALDsはとうに卒業し、MIDDLEsでもなく、OLDsにはまだ早い(と自分では思っている)――WAKADOSHIYORIsを結成して、自分には何ができるか、何をしたいのか、感じ、考え、行動していきたいと思います。
                          
 
 対話カフェ i-think は、10月から始めます。

 毎月2回、日曜のお昼と平日の夜にからこと舎で開く予定です。お仕事の都合などで空いている曜日や時間帯などが決まっている方、できるだけご要望に添う形で設定しますので、ご連絡下さい。

 当日は、まず“他己紹介”のゲームをしてなごんだ後、前座として発題者(前月に募ります)から今月の〈話題〉に関して話していただきます。続いて、楽天堂のおいしい豆料理を皆でいただき、お茶を飲みながら、自由に対話をくりひろげます。

 遠方からの参加者は、からこと舎で宿泊が可能です。

 時間 11時半−2時半(日曜)、6時半−9時半(平日)
 会費 1500円/大学生・経済的に困難な方 1000円/高校生以下 500円 
 定員 10名

 9月末までには、テーマなど詳細を決めて告知いたします。
                          
追記 2015/10/06

 昨夜は、京都精華大学で行われた思想家・内田樹さんと社会学者・白井聡さんの対談会に千晶と行ってきました。

 お二人のお話を聴きながら私が考えていたのは、日本社会(文化と生命の共同体)の存続を脅かしているのは、安倍晋三sに顕著な反知性(知性の欠如)と、不感性(感性の鈍磨)ではないだろうか、と。

 知性があるとは、ひとことで言って、自己相対化の視点をもっていることではないか、と思いますし、感性があるとは、つきつめて言えば、生命感覚、いのちへの畏敬の念をもっていることではないでしょうか。

 その二つを喪った、まさに“気がちがった”人間達が日本社会という大船の船頭役におさまっている。船はファシズム(全体主義国家)に向かおうとしている。その航行を、私たちが許してしまっている。

 では、どうすればよいのか?

 私が思うに、一方で、選挙での落選運動やデモンストレーションなどの直接的な政治行動を行いつつ、他方で――迂遠な道に見えるでしょうが――民主主義社会を担う市民としての、感性と知性を、私たち一人一人が普段に鍛えることが大切ではないか、と思うのです。

 まず何より、「いのちの感覚をとりもどす」、そのために私はからだとことばを育む会の活動をおこなってきましたが、ここにきて、ファシズムの軍靴がせまってきた危機の時に、知性を鍛える場として、〈対話カフェ i-think〉を始めます。

 なぜ“I think”なのか?

 それは、安倍晋三が発表した「戦後70年談話」に明らかなように、ファショズムとは徹底して主語が無い!社会だと思うのです。匿名の世界で、誰も責任をとらない――日本文化・生命共同体の存続に対して、我関せず。

 ならば、「私はこう思う」「私はこう考える」と、一つの主体として、立ち上がり、発言することが求められているのではないか、と私は思います。SEALDsの皆さんが、街頭宣伝での発言の最後に、その日の日付と、自分の名前を言って、「私は戦争法案に反対します」と締めくくっていたように。



 10/14(火)の〈対話カフェ i-think〉は、残席3名です。参加ご希望の方は、お早めにご予約下さい。

 10/25(日)の会は、まだまだ余裕があります。

 どちらの会にも、SEALDs関西から、野間陸さんほか2名の方をゲストとしてお招きしています。Teens、Youngs、Middles、Wakadoshiyoris、Olds、Mamas、Papas、などなど、各世代、男女を問わず、ご参集下さい。 



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