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分かち合う文化 100年計画

「小さな仕事」で平和な産業を発展させたい

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 フェミックス発行の雑誌『We』234号の特集〈暮らしと人生を自分たちの手に取り戻す〉に掲載された、高島千晶のロングインタビューです。副題は、〈安全な食と知恵をシェアする「楽天堂」の試み〉。オンラインショップでも購入できます。[ショッピング

リード

 ある時、ネットで偶然見つけた楽天堂(京都市上京区)。「豆とスパイスの専門店」「豆料理クラブ」「小さな仕事塾」とある。スパイスの効いた豆カレーは大好物。「商売になるのだろうか」という下世話な興味も湧いた。「代表者」とあった高島千晶さんに連絡をとり、会いに行くことに。JR山陰線・円町駅前の大通りから路地に入ると、間口の狭い町家や歴史を感じさせる店が隙間なく立ち並ふ。保育園帰りの子どもたちが歓声をあげながら駆けてゆく。なんだかなつかしい光景のなかに楽天堂はあった。主に夫が管理しているという隣のゲストハウスで、高島さんの仕事に対する思いを聞かせてもらったた。(聞き手&まとめ:社納葉子 2021年7月27日) 

洋服屋を閉めて「楽天堂」をオープン

――高島さんは今、夫婦で暮らしながら食料雑貨店とゲストハウスを運営されていますが、ここに至るまでの道のりを教えていただけますか?

高島:昭和のはじめ、祖父が兵庫県伊丹市にメリヤス会社を設立したんです。戦争中は大変でしたが、戦後、復員した父が立て直し、少しずつ工場を大きくしていきました。ただ、次第に人件費や経費も上がってきて。そこで仕事を求める若者たちがいる山口県に1960年代に工場を移しました。

 1991年に父が未経験の洋服の小売店経営をはじめたんですけど、直後にバブルが弾けました。父は中国に工場を移転し、店は私が継ぐことになりました。27歳の時のことです。

 結婚したのはお店を継いだ後です。経営が大変だったので、専業主夫だった夫が手伝ってくれるようになりました。最初はアルバイトでしたが、2人目の子どもが生まれる頃には経営と経理を担ってくれ、私は店長として接客や在庫の管理をしていました。夫はものの管理や運営が得意なんです。楽天堂のホームぺージの制作や運営、家計も含めた家事、ゲストハウスの管理運営もずっと夫が担当しています。

 楽天堂をはじめたきっかけは「子ども」です。1996年に最初の子どもが生まれた時、生命保険会社の人が「保険に人りませんか」と訪ねてきました。保険嫌いの夫が断ると、「保険に入るのは親の責任ですよ」と言われ、「何が親の責任なんだろう」と考え込みました。その時、親が未来に希望をもって働くことが子どもへの責任じゃないかと思ったんです。

 そこで保険には入らず、1997年に洋服屋を増築して、雑貨屋をはじめました。お金の保障はないけれど、希望があれば楽しく、楽天的に生きられるかなと「楽天堂」と名付けました。これが楽天堂のはじまりです。

 テーマは「オーガニック&共生」。共生とは「分かち合いながら共に生きる」こと。食べ物はまさに分かち合いですよね。最初から豆とスパイスを置いていました。アメリカに住んでいた親友と、おいしかった料理のレシピを交換していて、肉よりずっと体にいい豆のおいしい食べ方や、豆が環境に負何の少ないことは当時から知っていたんです。

――洋服店の経営には希望が感じられなくなったんですか?

高島:洋服は好きだったし、販売の仕事も楽しかったんですが、郊外の国道沿いに広い敷地を借りて建てた洋服屋は家貨が月に86万円。最初の借り入れがー億円だったので、毎月100万円の返済に加えて利息と家賃を払っていました。従業員は5人ぐらい雇って。

 それがだんだん時代に合わなくなったんですね。山口県はユニクロ発祥の地です。当時はどんどんユニクロが元気になっていました。そのうち近くに大きな駐車場のあるショッピングモールができて、とても太刀打ちできませんでした。

 今の(京都の)楽天堂は、はじめた時が一番売り上げが低くて、だんだん上がってきています。でも洋服屋はその逆で、開店したてのピカピカの時がピークで、だんだん下がる。ほとんどのお店がそうじゃないかな。ただ、自分の店って愛情を注ぐから、なかなか手放す決心がつかなかった。

 小さかった子どもを連れて大家さんに会いに行き、家賃の値下げ交渉もしました。86万を60万円に。ありとあらゆることをしたけれど、最終的に2001年に閉店することで終わったんです。2003年に京都へ転居した後、夫は自己破産しました。

消費を煽(あお)らなくてもいい商売をしたかった

高島:夫はもともと私よりも自由に生きたい性分なので、洋服屋を閉めると決めた時は喜んだぐらいです。じゃあ、私はどうしようかと。2人の子どももいるし、借金も1千万ちょっとあったし、店がなくなるのもすごく寂しかったし・・・。

 でもいざ店を完全に閉めたら、すごい開放感がありました。そして閉店の3日後に会員制の「豆料理クラブ」を思いついたんです。

 洋服屋を閉めることを心に決めた直後に9・11、アメリカ同時多発テロ(2001年)が起きました。貧富の格差が平和を脅かしていると強く感じ、背景には「富める国」に偏つた消費文化があると思いました。

 たとえば、洋服というのは在庫との戦いなんです。シーズンの頭にはキラキラしていたものが、季節が変わる頃になるとゴミみたいに感じてしまう。だから消費をどんどん煽らなくちゃいけないんです。十分な数をもっていても、「今年はピンクが流行りですよ」「形はストレートですよ」と勧めるのがすごくしんどくなっていた。

 子育てにも、同じジレンマを感じていました。絵本を買ったらその時は喜ぶけど、読み終わったらまた「買って」と言う。買う喜びだけになったら大変だと思いました。

 私は商売そのものは好きだけど、消費を煽らなくていい商売をしたかったんですね。その点、豆は消費を煽らなくていい。むしろ豆の消費が増えると穀物消費の抑制になります。

――どういう意味ですか?

高島:日本人1人あたりの食肉消費量は31.6キロ(2016年)ですが、世界中で日本人並みの肉食をするには地球が3個必要だと言われています。ごく一部の人間が食べるための家畜に莫大な穀物が消費されている。アメリカ人と日本人が週に一度、肉食をやめるだけで世界中の人に食べ物が行き渡る計算になります。

 そもそも古代から豆は世界中で食べられてきました。古代ローマから中国、インド、中東・・・豆は痩(や)せた土地でも栽培できるので、あらゆる場所の遺跡から豆の化石や記録が見つかっています。現代社会で一番貧しい雖民キャンプの食卓にも必ず豆があります。私は今度こそ、平和な産業を発展させたいと考えました。

レシピと豆をキットにして通信販売

――それで豆料理クラブだったんですね。

高島:会員制にすれば在庫を抱える心配がなくなります。豆料理のレシピと豆やスパイスをキットにして、ひと月送料込みの3,000円でやろうとひらめきました(現在は複数のコースあり)。それからの半年問、毎日のように図書館に通い、豆や豆料理について勉強しました。世界の豆料理を調べて、日本で手に入る材料でできるものをピックアップし、家では毎日豆料理をつくりました。

 最初の頃は27名の会員からスタートしましたが、当時はまだ生産者と出会えておらず、普通栽培の豆をお送りしていました。そのせいもあってか、退会者も出て、夫が「やめよう」と言ったこともありました。でも私はどうしても「豆料理クラブ」がやりたかったんです。

――なぜですか?

高島:私は料理に苦手意識がありましたが、豆料理と出会って、一気に料理のハードルが下がったんです。日本の豆料理では、たとえば黒豆のようにシワが寄らないように、皮が破れないようにと見た目を気にするけど、世界の豆料理はふだんの料理。味を出すためにわざわざ煮崩れさせるようなものがほとんど。うちの食卓も豆料理にずいぶん助けられました。

豆を売ることで戦争反対の意思を示したい

――どうして山口から京都に移られたのですか?

高島:夫が整体を勉強したいというので、東京か京都に住みたいと考えるようになって。東京の家賃は高いけれど、京都にはお金をかけなくても、玄関ですぐに店がはじめられる「町家」がありました。今住んでいる店と住居を兼ねた町家は、京都に出向いた夫が1軒目で決め、電話で聞いた私も賛成しました。
 
 山ロから京都へ引っ越す数日前から、イラク戦争(2003年)がはじまったんです。ざわざわした気持ちで京都に来て、翌日子どもを連れて近所をうろうろしていたら、家の前に棚をつくっただけのお店があったんです。後で、反原発運動をされていて、自分の畑でつくった無農薬野菜を販売されている方だと知ったんですけど。軒先にイラク戦争に反対する理由を模造紙に書いて貼ってありました。

 私もすぐにでも戦争反対という自分の意思を伝えたいという思いがあったので、「これだ!」と、引っ越して3日目に「山ロから越してきました。豆屋です」と貼り紙をして、家の軒先に丸テーブルを置いて、袋に詰めた豆を並べて店をはじめました。

 豆料理クラブのレシピの中にはアフガニスタンの豆スープやイラクの人たちがよく食べるひよこ豆のべーストがあります。爆弾が飛び交う空の下にも生活があって、台所がある。豆を売ることで戦争反対の意思を表明したいと強く思いました。いてもたってもいられない気持ちでした。

――反応はいかがでしたか?

高島:しばらくは1日の売り上げが千円ぐらいという日もありました。豆とスパイスがメインで、最初の年はフェアトレードの洋服もたくさん売っていました。

 主なスパイスは最初からずっとネパリ・バザーロというフェアドレード団体から仕入れています。普通は、スパイス収穫の約1年後に日本へ入ってくるんですけど、ネパリさんは3ヶ月ごとに送ってくださるんです。

 国産の豆は主に農薬と肥料を使っていない生産者から、外国の豆はオーガニックのもの。豆とスパイスという基本の商品の質がいいので、飲食店を営む人を中心にだんだんお客さんがついてきました。

「小さな仕事塾」で知恵をシェアする

――楽天堂で経験、実践されてきたことを「小さな仕事塾」として教えておられますね。

高島:2011年の東日本大震災の後、「商売の仕方を教えてほしいIと言ってくる人が出てきてはじめました。当初は起業講座を、今はカウンセリングもしています。どちらも有料です。

 ここ数年、ようやく自信をもって「小さな仕事」を勧められるようになりましたが、それまではうまくいかない人やしんどくなっている人もいて、「人に勧めていいのか」と考えたこともありました。

 私自身の考えもだいぶ変わりました。以前はオリジナルなアイディアがないと食べていけないという思いがあったんですね。でも今はそうでもないと思っています。お店って、最終的には誰がやっても、その人の個性が出てくるんです。普通のお店が普通にできるということが大事なんですね。

――うまくいかない理由は何だったんですか?

高島:しばらくはわからなかったんです。値段のつけ方とかを一通り教えて、後は精神的な部分を伝えることに重きを置いていました。「雇われ人ではなく、経営者として立つ心構え」みたいなことです。

 ところがコロナ禍で集まることができなくなって。そこで一対一でカウンセリングをしていると、どういうところでつまずくのかが見えてきました。掛け算と割り算がうまくできない人か多いんですよ。

 たとえば粗利率が何%のもので、原価がわかっていて、そしたら上代(売値)はいくらにすればいいのかという計算をする時は割り算が必要なんですが、それが人によっては本当に難しいということがわかってきました。

 そこで私が用意した例題を繰り返しやってもらう形にしたら、ようやく理解され、計算できるようになりました。そうなると商売がうまく回り出すんです。

 商売がうまく回れば、生活の見通しも立ちます。小さい時から数字が苦手だったという人が少しずつ自信をもちはじめて、言動や顔つきも違ってくるんですよ。数字に明るくなれば人生に展望がもてる。人が変わる。私も教える自信が出てきました。

――私も算数はずっと苦手でしたが、計算が苦手で商売がうまくいかないというのは女性が多いですか?

高島:そうですね。ジェンダーギャップ指数が世界で120位(2021年)という日本の社会状況をものすごく反映していると思います。

 私は1963年生まれですが、私の周りは「女の子は勉強より家の手伝い」「四年制大学より短大」「結婚したら寿退社で家庭に入る」という風潮が強かった。同世代には専業主婦の人が多いです。ずっと家事や家族の世話をしてきてようやく一段落ついたと思ったら人生の残り時間が少なくなっている。「自分を生きられていない」と焦っている女性にたくさん出会ってきました。経済的に夫に依存してきたことから、夫に子ども扱いされたり、バカにされたりしている人も本当に多いです。

 じゃあ、どうしたらいいのか。私は経済的に自立できたら、自由に発言しやすいし自分でマネージできるという自信にもなると思うんです。それを「小さな仕事」で応援したいとずっと思ってきました。

――今、小さな仕事塾には何人ぐらいの生徒さんがいらっしゃるんですか?

高島:30人ぐらいです。去年は塾生以外の方にも20回以上カウンセリングをしました。若い男性ですが、リヤカーで果物を売る人になったり、いろんな人がいます。

「小さな仕事」はすぐにはじめられる

――自分がどんな暮らしをしたいかによって目標設定も変えればいいんですね。コロナ禍で仕事を失う人も多いと思いますが、起業する人は増えていますか?

高島:去年(2020年)は起業の相談にきた人が多かったです。

――資金がなくても小さな仕事ははじめられますか?

高島:失業して、すぐにでも何かはじめなくちゃいけないという人が、月5千円で一坪のスぺースを借りてモノを売る「一坪ショップ」というのをはじめました。その人は手持ちの資金が10万円ぐらいだったかな。もともとパートをしながら、手づくりの布ナプキンを手づくり市で売ってたんですが、失業したうえに市もなくなって。でも布ナプキンだけじゃ食べていけないから、「うちみたいに物販したらどう?問屋さんも紹介するよ」と勧めたんです。

 うちがお世話になっている問屋さんの多くは1点から仕入れられるんですよ。せっけんなどの洗濯用品や生活雑貨、食品なんかを少しずつ仕入れて、残ったら,自分で使えばいい。その人もそうしてスタートされました。

 全員の「その後」を追跡しているわけではありませんが、ずいぶん後になって「起業しました」と挨拶してくれる人もいるし、問屋さんから「楽天堂さん経由で取引の申し込みがありました」と連絡がきたりもします。「みんな、どんどんやってるやん」とうれしくなりますね。

 自宅に一坪ぐらいのスぺースがあれば家貨もいらないし、子どもをみながら仕事ができます。私はよく「明日からできるよ」と言ってます。

一貫した「物差し」で堂々と商う

――資金が少なくてもはじめられる、規模が小さいからリスクも小さい、小さい仕事の利点はイメージできますが、難しい部分は何ですか?

高島:たとえば小さいからこそ、値段のつけ方が難しい部分がありますね。みんな、最初は、自分の取り分をとっても小さくしちゃうんです。「友人から儲けたりできない」と。

 でも、たとえば材料費が上がった時、お客さんに売る値段をどうするか。ここでもちゃんと割り算掛け算ができることが大事になります。自分のなかに一貫した「物差し」をもっていれば、どこでも誰に対しても堂々と説明でき、公平にやっていけます。

――近しい人ほど「商売する」ことに遠慮を感じてしまうんですね。

高島:塾生に「自分の友だちが商売していたら、同じことを言う?」と聞きます。「私から儲けるの?」なんて言う人がいたら、友だちじゃありませんよね。一貫した物差しで、卸す人も売る人も買う人も、みんなが納得できる線を修正しつつつくっていく。それが信用になっていきます。そこを感情で「今回はまけよう」なんてやっていたら、信用もなくなるし、まけてばかりだと自分がしんどくなるし、仕事になりませんよね。

自分の売りたいものを、楽しく売る

――それは本当に大事なことですね。高島さん自身が楽天堂を経営されるなかで悩まれたことは何ですか?

高島:平和な産業を発展させたかったと言いましたが、日本の状況がどんどん悪くなっていくなかで、精神的に行き詰まった時がありました。2014年に閣議決定で集団的自衛権が認められ、2015年に国会で安保法制が通り、楽天堂を続けることが本当に希望につながるのかと。おしゃれなオーガニックショップも増えて、自分がこの仕事をする必要があるのかなとモチベーションも下がって、 2016年は私にとってすごくしんどい年でした。

 ちょうど娘がイギリスに留学していたので、思い切って家族でイギリスに行きました。これがよかった。

 ロンドンの下町、サウスイーストを歩いたら、アフリ力系やインド系など、有色人種の人たちが経営するグロッサリー(食料雑貨店)がいっぱいあったんです。インド系の店にはガネーシャ(象の頭をもつ豊穣や商いの神様)のブロマイドを売ってたりして、ものすごく楽しかった。

 さらにどの店にも乾燥豆がいっぱい置いてあって感動しました。そんなにおしゃれでもなく、みんな自分の売りたいものを売って、リラックスして商売してる。

 その後に行ったイ夕リアにも同じようなグロッサリーがいっぱいで、やっぱり乾燥豆もたくさんあって。それで「こんな店をしたい」と、もう一度やる気になりました。品揃えを増やして冷蔵ケースも買って、蒸し大豆や豆腐、野菜の重ね煮など、すぐ食べられるものも置くようになりました。それでまたお客さんの幅が広がり、売上も増えました。

 日本では、こうしたグロッサリーの役割をコンビニが果たしています。コンビニはみんなにインフラを提供してくれているけど、過当競争で経営する人は大変。働く人も給料は安いのに高級ホテル並みの接客を求められる。楽天堂みたいな店を自分でやれば、経営者や株主のぶんまで働かなくてすみますよね。

――でも楽天堂みたいなお店が増えたら、それも過当競争になりませんか?

高島:私もそう思ったことがありました。同じ学区に住むシングルマザーが、ジムのインストラクターと料理教室の仕事をかけもちしてたんだけど、コロナ禍でどちらもなくなったんです。困っていたから「うちみたいにやったらいいよ」と教えてあげたんですね。その時にちらっと「うちの売り上げが減るかな?」と思ったんだけど、減りませんでした。

 彼女の店にはジムの生徒さんが買いに行くし、うちにはうちのお客さんが来るし。経営する人が違えば、来るお客さんも違うんですよ。たから相手が誰でも私のやり方を教えてるし、取引先もどんどん伝えてます。

数字を夢をかなえる手段に

――高島さんのお話を聞いていると、自分にもできるような気がしてきます。しかも楽しく。ただ、最初のー歩を踏み出す勇気が出ない人はいるかもしれません。

高島:人に弱みを見せまいと、いっぱい「鎧」を着ていると不安が大きいですよね。鎧を着ず、「今、あかんねん」とか弱音を言える状態でいろんな人とつきあっていたら――楽天堂みたいな小さい店はまさにそうなんですけど――意外と不安はないんです。困ったら助けてくれる人が現れるし、そんなに意地悪もされないし。経験するなかで、実感してきました。

 でも、難しいですよね。不安を抱えて鎧を着るのも理由があるから。日本はいじめがすごく多い社会だと言われているし、突際そうだと思います。それが不安を生み出していますよね。私がみんなに小さな仕事をしてほしいと思うのは、女の人も男の人もいろんな職場でいじめられている話をたくさん聞くからでもあるんです。そうやって社会で傷ついた人が一人でもやっていけるのが小さな仕事です。いじめを我慢し続けなくていい。戦う必要もない。自分のままでいられる仕事をみんながもてればいいなと。

――経営というとひるんでしまいますが、「数字に明るくなると人生に展望が生まれる」という言葉に希望を感じました。

高島:そうなんです。雇われ人にとっての数字は、自分を評価してしばるもの。でも私がいう数字は夢を叶えるための手段なんです。さっき話した「一貫した物差し」をもって、自分の人生を自分のものにしてほしい。そのために私が手伝えることをこれからもやっていこうと思います。

解体騒動から中まれた町家ゲストハウス

――ゲストハウスはどんな経緯ではじめられることになったんですか?

高島:2018年に、空いていた隣の町家を壊すことが決まったんです。買い手を募集されていたんですが、なかなか見つからなくて。私たちはお金がなくてローンを組めないので、ツィッターで「誰か買いませんか」と呼びかけていました。町家というのは壁を共有したり屋根がつながったりしています。裏の庭もつながっているので住人同士、気軽に行き来やおしゃべりができます。でも壊されたら、地域の生活まで変わってしまう。

 そうしたら「町家を残すためならお金を貸しましょう」と言ってくださった方がいたんです。元々知り合いいではありましたが、大金を貸し借りするほどの間柄ではなかったので、驚きました。でもさすがに気がひけて「お願いします」とは言えませんでした。
 
 期限の3日前に「解体します」とポストに通知が入り、いよいよ壊されるとなった時、私は味わったことのないような悲しみを感じていました。われわれ貧乏人はこうしてずっと無力でやられっぱなしなのかと。

 私の思いを察した夫が、隣家を買うことを考えてみようかと言い出しました。用意できるお金について話してくれ、用意できないぶんについては貸しましょうと言ってくださった方にお借りしてはどうか、と。そうしてギリギリのところで取り壊しを逃れ、私たちが町家を引き継ぐことになりました。

――そんなことがあるんですね。ゲストハウスの運営状況はいかがですか?

高島:うちは化学物質過敏症の人がよく泊まりに来てくださっています。新建材や芳香剤を使うホテルは、いくら高級でおしゃれでも化学物質過敏症の人には苦しいんですよね。あと、コロナでアルコール消毒をするところか増えましたが、アルコールにも反応しでしまう人たちがいるんですよ。

 ネットや口コミでうちを探し当てて、1ヶ月のうち20日ぐらい泊まってくださる方もいます。近くで塗装工事がはじまったりして家に入れない時に、自宅から避難して来られたり。

 結果的に築100年の五軒長屋を守られているんですが、2年が経った今、あそこまで追い込まれないと古い家を補修することに取り組めなかったんだなあと感じています。私自身も使い捨て文化の側にいたんですよね。最近、ずっと傷んだままにしてきた自宅の壁を少しずつ補修しながら、今までにない充実を味わっています。

――お子さんたちは京都での暮らしをどんな風に受け止められましたか?

高島:子どもたちは庶民的なこの町にすぐなじみ、地域の人たちから親の知らないところで世話を焼いてもらっていました。夫も整体の稽古会を主宰していて、今では10人ほどの稽古仲間がいます。

 私も最初は何もわからなかったけど、お客さんにいい商品や売り方を教えてもらいながらここまできました。分けてもらった知恵を今度は他の人たちにシェアして、みんなと助け合いながら平和な産業と暮らしをつくっていきたいです。

取材を終えて..................社納葉子

 高島さんの個人史にそのまま日本が歩んできた道が重なって見えた。高度経済成長期からはじまった大量生産に、使い捨て文化。子どもから大人まで競争に駆リ立てられ、本来の自分を見失う。一度は見失いかけた自分を取リ戻してきた高島さんの言葉は、優しくも力強い。得た知恵を惜しみなくシェアする姿勢にこちらも背筋が伸びる。私たちにはまだまだ可能性も未来もある。

 インタビューの終盤、「公共」というキーワードが出た。公共がやせ細った社会は自己責任が強調され、人々を追い詰める、と。今回は「小さな仕事」に大きな可能性を感じた。今度は「公共」のあるべき姿や私たちの関わリについて高島さんの考えを聞きたいと思う。

しゃのうようこ:1965年生まれ、ノンフイクションライター。雑誌などでインタビュー記事を中心に執筆。

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