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分かち合う文化 100年計画

商売の楽しみ

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 『らくてん通信』に連載した、川内たみさん(オーガニックライフサポート・SORA 代表)と高島千晶との往復書簡です。

その1(2009年8月)
その2(2010年2月−3月)
その3(2010年6月)

その1(2009年8月)

高島千晶より(2009年8月9日)

 キャンプから帰ってきました。大人二人で子ども4人(息子の友だちを二人連れていく)をキャンプに連れていくというのは、なかなかたいへんなことでした。32リットルの水に、24合の米、テント2、水着や浮き輪、花火に釣り具、寝袋やら食器、、、、最初の日は炎天下の中、運ぶだけでクタクタでした。無々々が大半を運んだのですが。中の日は余裕。帰りの日は雨で、雨の中、テントを片づけて帰ってきたので、やはりなかなかハードでした。帰ってきてから、テントを干したり洗濯物をしたりと、また後片づけが一仕事。今、やっと一息ついているところです。

 キャンプの間中、なぜ今回、たみさんにメールを書こうと思ったかということを思い出していました。それはある対談で、鮎川誠さんが、「バンドをやっていて何が良いかというと、全部自分たちで決められるところ」というようなことを言っていたのを読んだからです。鮎川誠さんは、だから最初のうちは東京に出ていこうとしなかったし、東京に行ってからも、売れたらそれが一番うれしい、というのとはちょっと違うんだ、ということを言ってた。

 その鮎川さんの言葉を読んで、わたしと同じだ!と思ったのでした。商売をやっていて、どうして商売を始めたか聞かれても、なかなかそうと答えるチャンスは少ないし、他の人の商売についてのインタビューを読んでいても、そんな文章を読むことはほとんどない。でも、考えてみれば、わたしが何でこんな風な仕事をやってるかというと、一番の所は、全部自分で決められるところだなあと思ったんです。

 やるからには、やりたいことをやるし、社会的な意義みたいなことも言うんだけれども、それは後からついてくるもののような気がします。

 だから誰かから、「これは売れそうだよ」とか「これは有名な人のものだよ」とか「これが流行ってるよ」とか「これからの時代はこんな経営の仕方がいいよ」とか言われて、それを言われたとおりにするというのは、いくらお金が入ってくることが保証されようとも、したいことではない。

 自分の思い通りに生きてみたい、というのが自分の仕事の根元にあるような気がしました。そして、その文脈でたみさんのことが思い浮かんだんです。〈たべものや〉の仕事にしても、ボディクレイの商品開発の仕事にしても、自由な発想、今までわたしたちをしばってきたものがあるとしたら、そこから自由になる着想があって、わくわくしながら仕事をされてきたんじゃないかと思ったんです。

 こういうことが一番、たみさんに書きたかったことです。数年前、「NPOと社会企業家」ということがテーマのきょうとNPOセンターの催し物でパネリストのひとりとして呼ばれたとき、会場からの質問で、「あるスペースにどうやったら人が呼べるか、何を企画したら人が集まるか」という問いがあったのですが、わたしは違和感を感じ、「わたしはやりたいことをやります、人が集まるか集まらないかなんて考えない」と思わず言いました。これから社会的な活動をしようという方に対して、それは不親切な答だったし、他のパネリストがもっと親切な答をされて場がおさまったような記憶がありますが、それでも、その答はその時のわたしの素朴な実感でした。すごく不思議な気がしたのです、どうやったら人が集まるかという問いの立て方が。

 ハードだったけれどキャンプに行ってよかった。大事なことを思いだしました。鮎川さんの言葉を読んでそしてたみさんにメールをしようと思ったんだし、こういう大義名分でないことを商売の話でちゃんと書いておきたいし、そういう文章を読みたい。最近、マクロビオティックを学んでいる、それを仕事にしたいという人によく出会います。そしてなんだか違和感を感じることがある。誰かが既にオーソライズしたものを安心して学び、それにのって仕事にしたいってのは、なんか違うな、と感じるんです(もちろんすばらしい仕事をされている人はいらっしゃるんですが)。

川内たみさんより(2009年8月12日)

 千晶さんのメールを読むと、刺激されて、いろいろと引っ張り出されて来ます。いつも読んだ直後は、いっぱいいいたいことあるのに、しばらくすると、、、端的に言うと、忘れちゃうのね。最近は、ことに。やばいかも。すっかり、省エネモードに入っていますが、これも老人力というべきか。

 「やるからには、やりたいことをやるし、社会的な意義みたいなことも言うんだけれども、それは後からついてくるもののような気がします。だから誰かから、『これは売れそうだよ』とか『これは有名な人のものだよ』とか『これが流行ってるよ』とか『これからの時代はこんな経営の仕方がいいよ』とか言われて、それを言われたとおりにするというのは、いくらお金が入ってくることが保証されようとも、したいことではない。」

 まさに!わたしも全くそうです。

 「自分の思い通りに生きてみたい、というのが自分の仕事の根元にあるような気がしました。」

 そうよね。わたしも社会に出た最初は、大企業のOL(今で言う)だった。東京に出てきて、別の大会社に転職したのだけど、自分の時間を切り売りする ような会社勤めは、たとえ、給料がよくても全然満足できない気分、もっと沢山もらわないと合わない、と言う気分だったことを思い出しました。

 社員が気持ちよく働いていない、というのは、雇っている会社にとっても効率悪い話ですよね。働くモチベーションが低いと能力も発揮できないし、発揮できないとますます つまんないし。

 そういう経験を経て、私も主体的にというか、もっと楽しく(というのも誤解招きそうね)もっと自分にぴったりフィットしていきたいという欲求が強くなったんだと思います。

 子供たちが小さい頃、うちでできる仕事として、アクセサリーを作って当時の最先端というかトレンドのお店に卸していた時期があります。

 ファッションも好きだったし、作ることも大好きだったし、仕事は順調だったのだけど、私の関心事は、女としての自立した生き方、自由な生き方、やりたいことをやれる生き方だった。

 そういう本もあまりなくて、ボーヴァワールの『第二の性』なんか読んでも、むしろ女性の置かれた状況の悲惨さにがっくり来ることの方が多くて、一人で悶々としていたものでした。

 まだ、ウーマンリブが出てくる前だったけれど、私の個人的な関心事がそういうことだったと言うことは、いまだ連帯していなかったけれど、そういう女性がたくさん点在していたということだった。ウーマンリブがでてくるのも時間の問題だったのだと思う。だから、ウーマンリブが出てきたとき、私はとても嬉しかったし、駒尺喜美さんの「魔女の論理」にはわくわくしました。それまで、たった一人でウーマンリブをやってる気分だったから(勘違いしてるような団体もいたので、マスコミは、それをいいことにウーマンリブそのものを揶揄していました)。

 東京西荻の〈たべものや〉だって、単に安全な食材を使って、、とかいうだけだったら、それなりの存在価値はあるかもしれないけれど、私はやる気にならなかったと思います。女の人たちが、男社会の中で自分らしく仕事ができない状況だったので、もっと生き生きできる働き方を考えたかったのです。

 どんな仕事だってよかったのです。結果的に〈たべものや〉をやることになったのは、みんながやりたいこと、やれることを考えたとき、誰にとっても等距離の、いちばん身近で関心もてることが食べることだったからでした。

 女性ばかりで、〈たべものや〉を運営しているうちに、関心事は、共同で働く、コミュニティとしての働き方、に移ってきました。多分、だれでも、自分にとっていちばんリアルなことをやろうとするんじゃないかしら。

 それぞれ対等な関係で、自立して、みんなでやりたいことをやる、多数決じゃなく、意見を出し合って、納得しながら決めごとをしました。

 無農薬野菜とか玄米とか出していたので、外から見ると、いいことしてるみたいなイメージでみられていたかもしれないけれど、私たちは自然食と言われることにも抵抗あったし、自分たちの感覚に沿ったことしかしたくなかった。時代もあったのでしょうか。今思うと、ずいぶんわがままなやり方です。よく12年間もやってこれたなあ、と感心します。

 千晶さんがマクロを仕事にしたい人に違和感を感じる、というの、とても健全な気がします。

 仕事を通じて何かを表現したり、伝えるには、社会的な目的だけじゃなく、自分の中にリアリティというか、エネルギーというか、必然性がいるんだと思っています。

 話は横道にそれますが、ゴダールの『勝手にしやがれ』を初めてみたとき、どんなに興奮したことか。感動とか、共感とか同感とか、どんな言葉を使っても、私が感じた気持ちとはぴったりじゃない。誰かと、他の誰かとこんなにも同じ感覚を共有できたのは初めて、と思いました。あの時の気持ちは忘れられません。

 でも、それから、何年も経って、この映画をみても、同じ気分にはなりません。あの時代、誰とも同じ感覚を共有できなかった孤独な状況の中でみたからこそ、感じたのだと思います。

 多分、駒尺さんの本も、今読むと誰もがいってるようなことかもしれない。ああいう、新しい概念は、世の中に浸透していくと、なんでもないことみたいになっていくんでしょう。

 ポップアートを初めて、上野の美術館でみたときも、すごく自由な気分になって、解放されたのでした。

 ウーマンリブも、ヌーベルバーグもポップアートも、あ、これでいいんだ、と自分を肯定できた。

 「そして、その文脈でたみさんのことが思い浮かんだんです。〈たべものや〉の仕事にしても、ボディクレイの商品開発の仕事にしても、自由な発想、今までわたしたちをしばってきたものがあるとしたら、そこから自由になる着想があって、わくわくしながら仕事をされてきたんじゃないかと思ったんです。こういうことが本当は一番、たみさんに書きたかったことです。」

 ありがとう。昔、ねんどの歯みがきのことをエコ研(エコロジー事業研究会)の会報に書いたことがあるのですが、その時、主宰者の加藤哲夫さんが、私がやりたかったことを的確にコメントしてくれて、とても元気づけられたことを思い出します。・・・何か今までとは違ったセンスや、大げさに言えば違った生き方につながる感覚をこの粘土の歯みがきは伝えてくれます。・・・

 私が、仕事を通じてやってきたこと、やりたいことは まさにこういうことだったので、そういう風に感じてくれる人がいた、というだけでとっても嬉しかった。

 ボディクレイは、手塚昭雄さんが手にしていたジェル状の粘土をみて、ピンと来た、というか、引力を感じたことは確かだけど、化粧品とか、スキンケアとかだけじゃ本気にはなれなかったと思う。

 私の中では、この粘土を介して、オルタナティブな提案ができるんじゃないか、と思えたんです。当初から、世の化粧品と競争する気は全くなく、宣伝に振り回されたりしない、主体的なユーザーを想定していました。

 最近は、それに答えてくれるようなユーザーも徐々に増えてきてるようでうれしいです。今年のアースデイでのお客さんの反応は、今までとはずいぶん変わってきたとかんじます。

 商売って面白いなあと思うのは、売っているものを介して伝えることができるし、つながることができると言うところです。

 私の経験では、経済的には一番大変だけど、一番面白いのは 最終ユーザーに直接対応できる小売店だと思う。

 〈たべものや〉もその前にやっていた〈ジャムハウス〉という“なんでもや?”も経済的には、やり続けられる最低ラインだったと思うけれど、あの頃の毎日は、楽しくて、刺激的だった。自分たちの売ってるものを通じて、思っていること、望んでいること、今の消費社会に対するアンチテーゼを表現できるから。それで、自分たちの食い扶持をなんとか確保できていたのだから、なかなかいい仕事だと思います。

 私自身は、社会性がなく、個人的なところからしか考えられないから、いまだに運動を一緒にやるみたいなのは苦手なのだけど、自分の仕事を通じてやってきたことは、けっこう社会的なことだったのかな、と思います。

 お店として、社会に顔を出しているわけだから、いやでも社会的な存在になりますね。ジャムハウスは75年のミルキーウェイ・キャラバン(各地の拠点でワークショップやコンサートをしながら沖縄から北海道まで行進するという平和行進)の拠点の一つとなり、その後の「ほびっと村」立ち上げにつながっていきます(ほびっと村は当時のカウンターカルチャーの中心地になり、大勢の人が通過していきました)。

 文学とか音楽とか美術とかみたいに直接的ではないけれど、ビジネスだって商売だって、その人の表現だと思っています。 

その2(2010年2月−3月)

高島千晶より(2010年2月28日)

 前回は夏で、もう半年も経ってしまいました。
 この2月、鳥取・倉吉でたみさんと一緒にすごして、、、お会いしたのは2年ぶり、、、それも商工会議所の事業の一環でしたから、様々なお店の人と会ったこともあり、とても刺激を受けました。

 帰ってきてから、たみさんもわたしも提言書を書いたわけですが、書いていてまたいろんなことに気がつきました。人の商売にアドバイスしているようで書いているのは自分の経営哲学みたいなもの。自分でもできないようなことは書けないわけで、わたしは自分のしてきた二つのことを書きました。

 売上を増やすためにすることは二つ。一つは「顧客を増やすこと」。もう一つは「客単価を増やすこと」。それは言い換えると、「どうやっていろんな人と密接なつながりを作るか」という課題と、もう一つは「お客さんに喜んでもらえるような品揃えと見せ方」という課題です。どちらも良い聞き役になることで答えが出てくるという楽観的な見通しを書きました。(具体的には豆ランチパーティーを開くことと、関連商品を広げることについて書きました。)

 でも、実際は、それぞれにリスクがあります。
 つながりを作るためいい聞き役に徹しようとするなら、うっかりすると常連客のたまり場みたいになってしまう。お店はパブリックな場なので、いつでも新しいお客さんが入っていける空気を作ることを心がけないといけない。

 一方、お客さんに喜んでもらえるような品揃えということでもリスクがあります。お客さんの希望に添って際限なく希望の商品を入れると在庫がふくれあがってしまう。自分の店のキャパシティー(空間的なキャパシティーと商品に気を配って管理するキャパシティー)を考え、厳選していかなくてはいけない。そこには決断と批評眼が必要になってきます。

 たみさんの書かれた提言書を読ませていただいて、商売のそういった厳しさが伝わってくるのを感じました。

 それから、倉吉で、どうして原発問題に関わっているのですかと聞かれたときに、「電気を使っていながら、反原発という人は嫌い」と言われたことについても考えていました。

 しばらく考えていて、矛盾の中で人は仕事をするのだと思いあたりました。

 洋服屋をやめて豆屋になる前に模索していたのは、消費をあおる商売から消費を抑制する商売へという「ありえない」(かもしれない)アイデアです。商売は好き。でも、消費をあおるのはくたびれる。消費をあおらずに商売ができるだろうか。それは矛盾なのだろうか。無理なのだろうか。しばらくは具体的なプランが思いつきませんでした。

 その後、豆料理クラブを思いつき試行錯誤して、10年前からしたら今はずっと無理のない商売をしていると思います。

 今まで考えもしなかったけれど、電気エネルギーのことを考えてみます。
 かつては80坪の店と20坪のストックヤードに電気をつけエアコンをつける店だったのが(バブル期に建てられた消費電力の大きい店でした)、今では一般家庭と同じ消費電力で、小売りも卸しも製造業もしている。エアコンを使わない分、平均的な家庭より消費電力は少ないかもしれません。

 もちろん、これにはリスクもあります。京都の伝統的な豆屋はうちと同じで豆を一年中常温管理しています。でも最近の自然食品店は夏場24時間冷蔵している店も多い。たしかに品質の保持や虫の発生を押さえるということを考えると、商業用の大型冷蔵庫かエアコンを備え付けるのがベストでしょう。迷いました。

 人類とマメ科の植物の1万年のつきあいの中でエアコンが登場したのはたかだかここ数十年であることを思うと、豆の保存のためにエアコンを24時間使うことには抵抗がありました。結局、高温多湿に弱い豆はギリギリまで生産地の北海道においてもらい、こちらに来てからは脱気して保管するという道を選びました。ベストな体制ではないかもしれないけれど、遜色なくおいしく煮えると思いました。

 この10年、さまざまな葛藤の場面でアイデアが出てきたと思います。矛盾がある限りは商売をしないというんだったら、豆屋をしようというアイデアも浮かばなかった。電気を使いつつ反原発であり、消費文化に疑問を感じつつ商売をするということ。今のところこれらの困難はわたしにいい風に作用して実験が生まれているように思います。

川内たみさんより(2010年3月9日)

 倉吉には、起業する方とお店を始めたばかりの方にアドバイスをする、という役目でいったのですが、帰ってから報告書を作っていて、なんだ、これって、わたしが何時もやっていることじゃない、と改めて気がついたのでした。

 SORAに問い合わせくださる方は、今からお店を始めるという方や 小さいお店をやっている女性が多くて、取引の前に、何度かメールのやり取りをして、お互い、一緒にやって行けそうだったら、お付き合いが始まるのですが、その後も先輩としてアドバイスすることも多いのです。

 千晶さん曰く、「人の商売にアドバイスしているようで書いているのは自分の経営哲学みたいなもの」。まさに、そうなんですね。アドバイスしてるようで、伝えたいのは自分の考える商売のありかた、みたいなものですから。

 わたしは自分が売るものはわたしの表現である、と思ってきました。自分が売るものは、自分の考えを伝えるメディアでもあると。だから、ものを通じて、ひとと繋がれる、共感しあえる喜びがあります。

 私にとっての“商売の楽しみ”は、これが一番ですが、お店を成り立たせるためには、現実的な運営、品揃えや在庫管理など、手を抜くわけにはいかない諸々の仕事をこなさなくてはなりません。

 でも、やりたいこと、納得できることをやっている限りは、そういう仕事も苦にならないし、リスクも引き受けられる。うまくいくように工夫したり、アイデアが浮かんだりするから、やりがいもあるし面白くもある。

 そういうことを考えていたら、40年も前、私がお店を始めてオープンした頃のことを思い出しました。

 お店を始めるまでのこと。西荻でやっていたお店のこと。
 どういう働き方をしたら、納得できるのか、ということを真剣に考え始めたのは、会社にいってた頃です。50年も前ですから、卒業したら就職するのは当たり前と大手の企業に勤め始めたのだけれど、やっぱり絵の勉強がしたくなり退職して東京に出てきました。当時の感覚では、ニューヨークに行くくらいの大決心。こつこつ貯めた貯金も、東京ではあっという間に減っていったので、心配になってまた就職。今でもテレビで幅をきかしているような大手繊維会社でしたが、いろいろあって、すっかりやる気をそがれ、モチベーションも下がったまま、給料をもらうためだけにいやいや仕事をしていた時期があって、つくづく、これって自分自身にとっても、会社にとっても無駄だなあ、と思ってやめたのでした。それでも合計5年以上は、会社勤めを経験しています。

 仕事が不満だと、どんなに給料をもらっても、引き合わない気がするんですね。でも、会社にとっても、社員に十分力を発揮してもらえないのは、大損でしょうに。

 会社を辞めて、フリーのイラストレーターとして仕事を始めたんだけど、これも当然ですが、なかなか一人前には稼げない。そのうち、子供たちが生まれて、締め切りのあるイラストの仕事を続けていくのがむつかしくなったので、しばらく仕事をしなかった時期があります。

 子育てに専念して、それを楽しめたらどんなによかったろうと、今にして思いますが、当時は全く情報がなかったし、話の合う同じような立場の人もいなくて、私は社会から切り離されてしまったような、どこにも繋がっていないような孤独を感じていました。あの頃は、人生で一番孤独だったと思います。

 頼りにしていた母は、その頃、原理主義のキリスト教に傾倒していて、今までとは別人になっていたし、それまでは、何でも一緒にやってきて、親友だと思っていた夫は子供ができても全く変わらぬ様子で、出かけたり、遊んだり、仕事をしているのに、私の生活は一変してしまったのです。自分の生きる道を探しながら、もがいていました。

 だから、自分で自分だけの仕事を作ろうと思った最初の動機は、こどもたちがいたことです。こどもがいても、家でマイペースでやれる仕事として、アクセサリーを始めたのでした。皮なのに、七宝焼きに間違えられるような手法を考えついて、それでポップなアクセサリーを作りました。運良く、時代は手作りブームで、今から考えるとあり得ない感じで、営業もしないのに飛ぶように売れて、十分にそれでたべられるようになったのです。あのまま、卸しだけでやっていたら、ビルが建ったかもしれません。(冗談)

 その頃、たまたま 駅の近く、大通りに面した郵便局が引っ越して空き家になったのです。昭和初期風のアンティークな建物で、私たちは以前から気になっていた場所でした。第一次石油ショックの頃で、ビルを建てるという大家さんを、今時ビルを建てても、と説得して、そこを借りることができたのです。

 今から思うと、そのことが、その後の私たちの人生にも、西荻の町のあり方にも、おおきく影響することになったのでした。場所がよいので、仕事場だけじゃもったいないと言うことになりました。お店をやろうよ、と。でも、手作りアクセサリーの店なんて、当時は、結構、トレンドではあったのですが、私としては全く乗り気になれなかったのです。

 どうだったら、ノれるか。なんか、もっと新しい生き方につながるような、あたらしい価値観を発見してもらえるような、今まで見たことないようなそんな店だったら、やってもいいかな、と思いました。自分の生き方と矛盾しないでお金を得る方法はないものか、とずっと探していたから、このお店から、私たちの価値観、オルタナティブな生き方などいろいろと発信できるんじゃないか。

 で、結果的には、そういう店をやったのです。なにを売ったかというと、人が見過ごすようなもの、見捨てられているようなものを、です。仕入れ先は専門の問屋ではなく、寂れた田舎の金物屋さんの売れ残りの水筒とか、町工場に転がっていた在庫品とか、問屋のデッドストックとか。お店に置くと、全く違う見え方になるのが快感でした。作業着屋さんで仕入れた作業着や靴下を染めてみたり、どこかの縁の下から見つけた古い印判のお皿や電気の傘を売ったり、今で言う雑貨屋(かな?)、アンティークやリサイクル品、手作りの洋服やバッグ、木のおもちゃ、自分たちが興味があるものはなんでも置いてある、ある意味セレクトショップだったのです。最後の頃はみんなに読んでほしい本とか、無農薬の野菜まで置いて、それがほびっと村の本屋や八百屋に繋がります。

 東急ハンズがない頃だったけど、ハンズのように道具や材料を売って、ワークショップもやっていたので、お客もスタッフも渾然として、すごく楽しかったものです。その頃、わたしもこういうどっちかというと無駄なものを売っていることに矛盾=消費社会に批判的でいるのに、お店でものを買わせている=を感じていたことがあります。詩人とか、せめて八百屋だったら、こういう矛盾を感じないですむだろうに、と。でも、今はこういう無駄こそ大事だったのではないか、魅力だったのではないか、と思っています。今の世の中は、きれいで効率的なことばかり優先されているので、なんだか入り込む余地がないかんじですもの。

 お店の新聞を発行したり(1973年当時の私たちの新聞に、すでに温暖化のことが書いてある)、近所の空き地で野外ロックコンサートやフリーマーケットやお祭り(これも、その後のいのちの祭りに繋がっています)もしました。前例がなかったので、近所の人たちも面白がってくれ、協力的でした。店の裏には台所やこども部屋(というには狭かったけど)もあって、自分たちのライフスタイルに合わせた働き方ができました。

 ただし、小売店というのは、経済的にすごくきびしい、ということも身にしみました。在庫もいっぱいだったし、頭が痛かったことを思い出します。

 経済的には、メーカーとして、卸しをしていた頃とは雲泥の差でした。楽しかったから、やって行けたようなものです。

 その後、そこを拠点に、仲間に呼びかけて南口にほびっと村ができました。村といっても4階建てのビルなのですが、このビルの持ち主から、私たちの店に「あなたたちだったら、楽しい場所にできるんじゃないか」と話が来たのです。1970年代のほびっと村は、1階が元ヒッピーたちの無農薬八百屋(山尾三省もここのメンバー)と私たちのジャムハウス、2階は、べ平連などの運動系のほんやら洞、3階はオルタナティブな本屋と「やさしい革命」の編集室、いろんな自主講座やワークショップが目白押しのほびっと村学校で、当時のカウンターカルチャーのメッカの様相を呈し、毎日、大勢の興味深い人たちが出入りしていて刺激的だった。とても、70年代的でした。

 ここの樹裸衣という女性たちの自主講座を母体に、まだまだ不自由な働き方しかできないでいる女性たちが 主体的に働ける場を実現するために無農薬野菜や安全な食材をつかって食事を提供するレストラン「たべものや」をオープン。食べ物を通じて、また自分たちの働き方を通じて、もう一つの考え方、生き方を伝えていきたかったのです。でも、まず、一番大事にしたかったのは、自分たち自身の嘘をつかない生き方とナチュラルな関係性だったかも。

 「たべものや」は今でいうワーカーズ・コレクティブという経営形態で、自分たちにとって違和感ない独自の運営をしていたのだけど、12年後のバブル時、やっぱりビルを建てる、という大家の要求で、閉店することになります。ここでの経営は、また独特だったので、長くなりそうなので、又の機会に。

その3(2010年6月)

高島千晶より(2010年6月2日)

 たみさん、前回はジャムハウスの当時のこと、書いて下さってありがとうございました。とても面白かったです。ほとんどお聞きしたことのないお話でした。子どもができてもマイペースでできる仕事としてのアクセサリーづくり。見捨てられているようなものを文脈を変えて売る話。「自分の生き方と矛盾しないいでお金を得る方法はないものかとずっと探していた」と書かれているのを拝読して、わたしも同じだと思いました。

 ところで、商売の楽しみってことをこのように書くと、いろいろ可能性のある中で商売が楽しいからそれを選んでしているという雰囲気になると思うのですが、実際のところ、他にどんな生き方が可能だったんだろうかと思うと、思いつかない風です。このように生きるしかない中で、その中に楽しみがあるとしたらそれは何かについて書いているのだと思います。

 昨日、テレビで『ビューティフル・マインド』という映画を見ました。どちらかというとエンターテイメント映画だと思うのですが、天才の特殊な精神状態からもたらされる孤独について描かれていて、途中から身につまされました。わたしは天才ではもちろんなくてごく平凡な人間だけれど、平凡な人間にもそれぞれに固有の、人には説明しにくい精神状態がある。わたしの場合は、困っている人とすぐに共感できてしまうということがあります。商売をはじめてそれがわかりました。山口で洋服屋をやっている時に、はじめて会う人から親にも兄弟にも友だちにも言えない秘密を打ち明けられることがありました。深刻なことだと放っておけない気持ちになります。警察に一緒に行って犯罪の被害届を出したこともあります。いろんなことがありました。

 昨日の映画の主人公が、最後の方で、いくつかの欲望を抑えていると言っていました。それは例えば、数字や文字のパターンを探し出すことでした。わたしにとっては、困っている人に親身になるという欲望がそうです。いつもブレーキをかけています。助言してくれる家族がいて助かります。「それはあなたがする必要のないことだよ」と言ってくれ、そういうものなのかと思いとどまります。

 たとえば、一度しか会ったことのない人から起業の相談を持ちかけられます。どう考えても無理な計画。たくさん借金をして子育てと両立できないだろうし、たいへんなことになるだろうと思う。これはたいへんだ。その人から毎日のように電話があると、わたしも一生懸命相談に乗ります。そして、大事な友だちが食事に招いてくれていたのに、今日がその日だということをすっかり忘れてしまいました。社会的には、長年親しくしている友人が手料理で招いてくれたことの方がよっぽど大事なことなのに、一度しか会ったことのない人から深刻な相談があると、他人事でなくなってしまい、他のことが抜け落ちてしまう。これは困ったことでちょっと怖いことです。家族が「カレンダーを見てやればよかった」と言った時、ありがたいような情けないような気持ちになりました。

 だから、わたしは組織で仕事をするのがなじまなかったのだろうと思います。でも、この欠点と言えるわたしの特徴が小売店という場では生きることがある。はじめていらしたお客さんとも意気投合したり、頼りにされたりすることがあります。

 先週の土曜日は、陣痛がきている妊婦さんがご家族につきそわれて店に来られました。1ヶ月くらい前に知り合ったお客さんです。木曜に入院したのに、なかなか子宮口が開かず病院にいると不安で気も滅入るので、病院を抜け出してきたとおっしゃっていました。手首にはお名前の書いたラベルがはってありました。10分おきに陣痛が来る中で、お茶を出してお話ししました。

 「ゆっくりでいいから、元気に生まれておいでね」とお腹の赤ちゃんに話しかけました。その人は野口整体で言うところの10種体癖の人だったので、お産はゆっくりの人だと思ったのです。まわりがお産を急がせるとしんどくなる。ゆっくりだけれど、安産で生まれてくると思いました。

 そしたら、今日、ご家族の方が来られて、無事生まれたということ。促進剤も使わず自然分娩だったのだそうです。「ここに来てから落ち着きました。ありがとうございました」と言って下さいました。そして、お祝い返しにたくさんの豆料理キットを買って下さいました。

 嬉しかったです。もし、うちがお店でなかったら、人はいきなり来にくいでしょうけれど、店という窓を持っていたら、いろんな人がいろんな理由で来ることができます。そして、わたしも自分を活かせる。人と一緒に楽しいこと苦しいことを味わい、いろんなハプニングを共有する。それはお店をやっていてとりわけ楽しいと思うことです。

川内たみさんより(2010年6月7日) 

 千晶さん、商売について改めていろいろ考えるのは、楽しいです。こういう機会をありがとう。

 わたしも千晶さん同様、仕事の選択肢がこれしかなかったということだろうと思います。でも、小さな選択の積み重ねの結果、これに行き着いているわけだから、選んだ、とも言えるでしょうね。

 この間、ツイッターで、「自分の生き方と矛盾しないいでお金を得る方法はないものかと探していた」というところを千晶さんが紹介してくれたら、“そう思って会社を辞めたけれど、今は「生きるためなら何でも翻訳します」という状態に近い”という返信をくれた人がいます。

 わたしも、子供が生まれる前にやっていたイラストレーターをあのまま、やっていたら同じような状態かもしれない。友人にカメラマンや、イラストレーターやライターその他、すごく有能で、立派なキャリアもあるのに、依頼がこなければ、仕事がない。基本的に待ちの仕事なんですね。営業が下手で、マネージャーもいないとなると、活躍できなくてすごくもったいない。経済的にもなかなか大変そうです。

 先号のハミルトン純子さんのアイルランドの税金事情を読むと、高い税金をとられるけれど、ある種の芸術家には所得税が課されない、と。日本の文化度を上げるためにも、ベーシックインカムは導入されるべき。

 話が脱線してしまいました。
 それに比べると、ものを売る仕事は、わかりやすい。お金を得る一番原始的な方法だろうと思います。わらしべ長者ってまさに商売の話ですものね。

 自分で売る場所や時間を決めて、自分で選択した商品を売る。相手は世間の最前線にいる個々人です。買おうが買うまいがお客も自由。そういうお互い自由な関係のなかで、どちらもが満足できる売り買いが成立できるんだったら、なんといい仕事でしょう。考えてみると、自分がやりたいようにできる一番自由な仕事かも。

 大資本の大規模店におされて、全国にシャッター街が増えている状況でこんなこというのは、脳天気に聞こえるかもしれないけれど、むしろこんな時代だから、商売の基本を忘れないで、お互いに個人的な関係を作っていける小さいお店にこそ、希望を感じます。

 30年も前の話ですが、子供ができて、マイペースで出来るアクセサリー作りをはじめたのだけど、うちのアトリエでは手狭になり、東京・西荻の元郵便局を仕事場に借りることになり、場所がよかったので、成り行きで、お店をやることになった経緯は先号にも書きましたが、これが、わたしの「商売ことはじめ」でした。

 お店をはじめて、びっくり。想像以上に、面白いなぁって。お店というみんなに開かれたスペースがあれば、そこで何をやってもオーケー。やりたいことは何でも出来る。売りたいものは何でも売れる。それに、こちらの発信に応じて、いろんな人が来てくれる(なんか、ツイッターに似てる)。

 それに、実は人見知りで、知らない人に自分から話しかけるのは苦手だったのに、お店に来る人には、全然平気で話しかけられる。お店の人という立場がはっきりしているからだろうと思います。

 売るだけではなく、店先でお客に作り方を教えながら、一緒にものをつくったり(今で言うワークショップ)して、お客も、お客だか、店のボランティアだか、友達だか、という感じで毎日楽しかったものです。

 1970年代、フラワーチルドレンの時代だった、ということもあるけれど、今思い返すと、まだ商売の素人で、楽しいことばかりに気をとられていたのかも。経済的にはとても厳しかったのに、お金のことは全くといっていいほど気にならなかったのは、やはり、時代のせいだったかも。閉塞感のある今の社会とは違って、きっといい未来が拓けるだろう、と感じていたから(直に幻想とわかりますが)。

 儲けを第一に考えたことは一度もないけれど、その後の「たべものや」の12年間では、時代の変遷もあったし、自分たちのやりたいことをやり続けていくために、ずいぶん鍛えられたと思います。

 脱線その2.今では考えられないけれど、町で黒い服を着ている人がいなかった時代です。その後、どっと黒い服を見るようになるんだけど。

 5,6年前、初めて千晶さんに会ったとき、京都に引っ越してすぐ、まだ荷物もほどいてない時、イラクで戦争が始まって、いても立ってもいられず家の前に豆を並べて売った、という彼女の話に、とても共感したのです。バブルの頃、立ち退きでお店をやめてから20年以上経っていましたが、やっと、後に続いてくれる人を見つけたような、嬉しい気持ちでした。

 私も、店のやり方や商品を通じて、伝えたいことがありました。私にとって、お店は、メディアである、というくらいの気持ちだったのです。

 昔、士農工商とかいって、商売が貶められていたからか、商売=金儲けくらいのイメージしか持ってない人がいて、無意識にだろうけれど、ずいぶん差別的、と感じることがあります。

 「売り手よし、買い手よし、世間よし」で、有名な近江商人は、商売人としてすばらしかったと思うんだけど、一方で、身分が低いのに、こずるく金儲けしやがって、、というやっかみ半分の悪評もうけていたそうで、商売を見くびるような見方は、そのつづきなのでしょう。

 実際、なりふり構わず、儲けに走る人がいるのは確かだけど、何事につけ、NOと言いたいようなネガティブな面に目をこらすより、こうあってほしい、こうありたい方向を見て、小さくても自分で実践していく方がきっと近道なんですよね。

高島千晶より(2010年6月9日) 

 たみさん、
 「そういうお互い自由な関係のなかで、どちらもが満足できる売り買いが成立できるんだったら、なんといい仕事でしょう」――そうなんです。そのとおりなんです。それこそが商売の魅力です。

 公務員から商売人になった時、「ものを売る仕事は、わかりやすい」と思いました。なんてシンプルなんだろうと思いました。最初はほとんどイヤイヤ、行きがかり上、父の始めた店を切り盛りすることになったのだけれど、始めてみてそのシンプルさに惹かれました。そして、そのシンプルな毎日が、社会との関わりをとりもどすリハビリのように感じられました。

 学生の頃、社会というのがどういうものか分からず、知りたくて社会学を学んでいましたが、それは、いわば上から俯瞰的に社会というものを見渡せるようになろうとすることでした。

 その延長で公務員になり、霞ヶ関に働いている人たちの中で、やっぱりどこか人々を見下すような、行政のサービスを受ける立場の人を「連中」呼ばわりするような空気の中で、自分の給料がどこから来ているかまるで実感できませんでした。世の中はあまりに複雑で、自分のしていることが誰かを幸せにしている実感も持てなかった。

 商売人になった時に、これでわたしも庶民の一人だと感じられました。上から下を眺めているような感覚がなくなり、電柱に登って工事をしている人もわたしも同じ社会の一員なんだと感じられ、それを嬉しく思ったのを覚えています(それまで何様と思っていたのでしょう?今となっては恥ずかしいのですが)。わたしも同じように体を張って生きていると感じました。自分が安全なところに守られているような後ろめたさが無くなった。毎日、店にいらっしゃるお客さんに買っていただいてはじめて食べていける自分というものを掴みました。身の程を知ったという感じでしたし、同時に、これは誇りにもなりました。

 この感覚は、時に見失いそうになるけれど、商売を続けている限り、戻ってこなくてはならない場所、戻ってくることができる平穏です。「三方よし」の近江商人の平穏、ピース・オブ・マインドなんだと思います。

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