[堂守随想・INDEX] |
(1) ■ゲルニカ in solidarity with GAZA from twitter of Thoton Akimoto @AkimotoThn 2023/12/08 Manolo De Los Santos @manolo_realengo BREAKING: The town of Gernika in the Basque Country stands in solidarity with Palestine. This same town was heavily bombed by the Nazis in April 1937 during the Spanish Civil War. #ShutItDown4Palestine ■私にとって神とは ――きのう、テレビで『報道特集』を観てたら、ガザのことをやってて、イスラエルの人たちが出てきたんです。ユダヤ教の、超正統派っていうんですか。この人たちが口々に「ハマスを根絶するために祈ってる」って言うんですよね。ハマスの人も人間でしょ。根絶って、まるで疫病(えきびょう)みたいに言うのを聞いてたら、こわくて―人を殺すのが、宗教って言えるんでしょうか。 ――僕も観ました。何と言ったらいいか・・・。ただ、ユダヤ教徒も、そんな狂信者ばかりじゃないんじゃないですか。僕はユダヤ教のことは何も知らないけれど、SNSでは、イスラエルのジェノサイドに反対するユダヤ教徒の人たち―それこそアメリカでもヨーロッパでも、抗議行動をおこなっているのが報じられているし。中には、イスラエルという国家そのものを認めないユダヤ人もいるようですね。 ――宗教って、人を救うものなのに。おかしくありませんか。 ――そうですね。そこが宗教というか信仰の持つ、人間のやみ、暗闇の闇でもあれば病気の病みでもあるのでは、と思えます。それは何もユダヤ教に限らず、イスラム教でも、キリスト教や仏教、神道でもあったし―大日本帝国では、天皇が現人神(あらひとがみ)でしたから―ありえるのではないかな。 ――ユダヤの人たちは、ナチスのホロコーストで、何百万人も殺されたんですよね、アウシュビッツで。それなのに、なんで今度は自分たちが加害者になって、同じ事をアラブ人にしてるんですか。 ――何故でしょうね。よくわからないけれど、人間は逆の立場にたちたいのか、宗教と国家の一体化とか、西欧近代のもつ矛盾とか、いろいろ考えてしまいます。だけど僕は、一つの要因として、宗教というか信仰がはらんでいる根元的な問題があるように思えます。 ――根元的って? ――キリスト教作家の遠藤周作(えんどう・しゅうさく 1923-1996年)の本、読んだことありますか? ――いいえ、名前しか。 ――僕も以前、といっても三、四十年前に、『沈黙』と『おバカさん』という、趣(おもむき)のちがう小説を二冊、読んだだけですが、最近、彼のエッセーを読み始めたんです。実は彼と心理学者の河合隼雄の対談本を読んでいたら、遠藤周作がすぐれた人間観察者・人間心理の洞察者だったことを知りました。遠藤には狐狸庵(こりあん)というもう一つのペンネンームもあって― ――知ってます、名前だけ。 ――おとぼけ作家の、エンターテイナーなんです。それにだまされてはいけない。彼の真面目なクリスチャンとしての目は―例えば、『人生の踏絵』(新潮文庫)という本の中で、こんなことを書いてます。引用してみますね。 「だいぶ前のことですが、御殿場にあるハンセン氏病の病院へ小説の取材に行ったことがあります。そこはキリスト教の病院で、もう二十年も看護しているという修道女の方が案内してくれました。 晚秋の夕暮れ時で、長く寒い廊下を歩いていましたら、おばあさんの患者さんがチラッと現れて、すぐ隠れたんですね。修道女の方が「あ、山田さん、山田さん」と呼んで、私に紹介してくれた。そして、山田さんの手を――病気のために曲がっている手をとって、「神経痛で痛いのに、いつも私たちの包帯巻きを手伝ってくれるんですよ」とさすってあげたのです。その時、ふと山田さんの顔を見ると、ものすごく苦痛の色を浮かべていた。アッと気づいたのですが、山田さんにとって、私のような院外の者の前で自分の曲がった手を晒(さら)されるなんて、とても恥ずかしくて辛(つら)いことなんですね。私はそういう心の動きがあるのを、恥ずかしながら知らなかった。修道女も知らないでいる。 これは批判しているのではないのです。ただ、患者さんの手をさすっているという行為には、いたわる気持ちや優しさと同時に、自己顕示や自己満足や虚栄心みたいなものも混じっている。それは、修道女自身だって気がついていない。決して非難しているんじゃないですよ。人間である以上、いいことを自己満足などなしに、完璧(かんぺき)に無私でやれるとは私は思わない。「いや、私は無私でやっている。自己顕示欲なんか全然ない」という人がいたら、嘘(うそ)つきだと思う。人が素晴らしいことをやる時、エゴイズムは必ず混じるでしょう。これは人間の業(ごう)みたいなもので、仕方がないし、それでも素晴らしいことをやっているのに違いはないし、私は尊敬します。しかし問題は、その修道女が自分のエゴイズムに気づいていないという点です。」(同上書 pp.204-206) 自分のエゴイズムに気づけないという人間のエゴの業(ごう)深さ―その究極のエゴイズムが、殺人ではないでしょうか。 ――でも、無々々さん、パレスチナでは、そんな善意からじゃなくて、悪意のエゴイズムではないですか。 ――そうだと思います。悪意に、正義のオブラートをかぶせて。ただ、悪意のエゴイズムについて問われても、今の僕には答えようがありません。いえ、僕にも殺意を覚える、感情がたかぶる瞬間はあったし、これからもあるでしょう。でも実際に手を下すかどうかには、おおきな溝がある気がします。その溝の手前で踏みとどまらせる、あるいは逆に飛び越えさせてしまうものは、何なのか、分からない・・・。 今は、善意のエゴイズムを問いたいな、という気持ちが強いです。 ――わたしは、今も殺されている子どもたちのことを想うと、いたたまれません。 ――ええ・・・。圧倒的な暴力の前で、自分たちに何ができるんだろうと思うと、無力感しか感じませんが。それでも「殺すな」の声は、上げつづけたいです。 善意のエゴイズムに戻りたいんですが。 ――はい。わかりました。 ――僕はこの文章を読んだ時、俳優の杉良太郎(すぎ・りょうたろう)さんのエピソードを、思い出しました。彼は刑務所の慰問など、様々な奉仕活動をボランティアで行っていますが、3・11の大震災の際、こんなエピソードがあったそうです。杉さんが避難所で被災者にカレーをよそっていたら、ある新聞記者がこう尋ねたんですって。 「それって、売名行為じゃないですか」 杉さんはどう答えた思います? 否定するでしょ、普通は。 「ええ、そうですよ。でも、楽しいよ。あなたもやってみたら」と切り返したんです。 いよっ、良太郎、お見事。男前!って、言いたくなりますよねえ。 ――(笑) ――少し脱線しましたが、本題に戻ると、『私にとって神とは』(光文社知恵の森文庫)という本の中で、遠藤はこう語っています。 「もしあなたが、私がいままで話してきたことを聞いて、キリスト教に興味を持ち、やがて洗礼を受けたとすると、神は直接目に見えるわけではないけれども、私という者を通してあなたに働きかけたことになる。神はいつも、だれか人を通してか何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時、神の働きを感じます。(中略)神は存在じゃなく、働きなんです」(同上書 pp.21-23) 遠藤はこの文章を、六十五歳の時に書いています。小学生の時によく分からずにカトリックの洗礼を受けて、以来、半世紀。聖書をくりかえし読み、もちろん教会にも通って、自問自答してきたんでしょう―「私にとって神とは?」と。いわば人生の課題へのこたえが、「神は存在ではなく働きである」というワン・フレーズではないか、と僕には思えます。 もちろん、僕は遠藤周作その人に会ったことはないし、全著作を読んだわけでもありません。間違っているかもしれないし、彼の一面を捉えているにすぎないかもしれない。でも僕には、このフレーズがヒットしたんです。 ――神は、存在、働き・・・考えたこともないから、むずかしいな。 ――そうかもしれませんね。それでも、難解な哲学用語を使ってるわけでもないのに、深く、重い表現になっているのは、人生を賭けた問いに、彼が真摯(しんし)にこたえようとした、思索の、探求の、賜物(たまもの)ではないか、と思えるんです。僕も、そんなワン・フレーズを、遺したいなあ、遺したいです。 ――わたしも、い・つ・か。 ――遠藤の言葉をヒントに、僕も考えたんですが、神を存在と捉えてしまうと、教祖や教典・教義を絶対化、神格化してしまうのではないでしょうか。そこから、ガザのような問題が―シオニズムという、イスラエルは神からユダヤ人に約束された土地だから、そこに祖国を建設しようという運動。ただ聖書に書いてある―存在ですよね、それを根拠にパレスチナ人から土地を暴力的に奪ってきた、そして今、ジェノサイドという無差別殺人を行っている。そこに僕は神の働きなど何もない、と思います。 ――そうですよ。神さまがいたら、こんな悪をゆるすはずがありませんよね。 ――それから・・・僕は個人的にも、遠藤のこのフレーズに、救われたんです。 ――無々々さんは、クリスチャン、でしたっけ? ――ちがいます。でもこの言葉と出会って―偶然であって必然、必然であって偶然というのかな。僕は然然(しかりしかり)と呼びたいんですが、僕の体験とひびきあった。その理由を、少し聞いてもらえませんか。 ――はい。 ■個人的な体験 ――『らくてん通信』第86号に、〈二人の社会学者〉というタイトルで文章を書きましたが、三十三歳の時に社会学者・見田宗介の主催するエチュード合宿に参加して、僕にとって人生の転換点となるような体験をしました。 ――読みました。 ――その時のことなんですが、野口整体の活元(かつげん)を皆でして―部屋の電気を消してタオルで目隠しをして、準備運動のあと、稽古会でも使っている和尚・ラジニーシの『クンダリーニ・メディテーション』のCDをBGMに始まったんですが―僕は初めてでしたけど、しばらくしたら、他の参加者の、もう活元慣れしてるのかな、ばたばたと体を動かす音が聞こえてきて、それから悲しい悲鳴のような声も聞こえてきたんです。そうしたら僕も―体が勝手に反応したのか、自分でも分からないうちに息が苦しくなって、過呼吸というんでしょうか。両手で首を押さえて「苦しい、苦しい」とうめいていたんです。そうしたら、誰かが僕の肩に手をあててくれた。その瞬間、僕は宇宙を、星々を見て、 「おまえはひとりではない」 という声を聞いたんです。僕は、赦(ゆる)された、救われた、なにもかもこれでよかったんだ、という想いが満ち潮のように寄せてきて、涙が止まりませんでした。僕は泣きつづけた・・・。 ――・・・ ――誰が、手を置いたんだろう? 他の参加者とは考えにくい。唯一、見田宗介だけが参加者を見守るために目隠しをしてなかった、だから見田さんだろうと― ――あの、水をさすようですけど、意地悪な質問をしちゃおうかな。それって、幻覚や幻聴じゃないんですか、心を病んだ人が感じるような。 ――そうかもしれません。統合失調症と呼ばれる人たちの、ですよね。僕はどんなものかよく知りませんが、ただ、違うのかな、という思いはあります。 ――どんな点が? ――幻覚や幻聴は、肉眼で見て、肉体の耳で聞くものじゃないかなあ。先ほども言ったように、僕は目隠ししていたし―いわば、心眼で見て、心耳(しんじ)で―そんな言葉はないけど―聞いたように思えるんです。それから、大きな違いは、その後と前とで、おおきな断絶があった、百八十度、人生の方向が変わってしまった、ということが言えると思います。 ――例えば、どんな? ――まず、起きる時間が早くなった、朝、三時頃に目が覚めて、何をするかというと、二時間ぐらい活元をするんです、毎日。すると、だんだん体のなかから、言葉が生まれてきた。何て言うかな、泉から水が湧きだすように。それを詩にして―いや、詩になったという方が正確かな。それから、童話、小説と、自分では思ってもみなかった事が生まれたんですね。 ――クリエイティブになられたんですね、うらやましい。 ――そんなことばかりじゃやなく、他には、部屋に―アパートを借りてたんですが、物が多すぎるのが苦しくなって、本は何百冊も図書館に寄贈するし、趣味の写真器材、百万円もかけたのを、友人に、それから車も― ――車に乗ってたんだ。 ――あげてしまった。免許証は、四国遍路の後に、捨ててね。 ――元祖、断捨離(だんしゃり)じゃないですか(笑)。 ――(苦笑)。自分でも意外というのかな、思ってもみなかったことは、性欲がなくなったんです。三十代の男は、青年―青年の「せい」は、青の字をあてますが、立心偏(りっしんべん)の「性」のほうがふさわしい、強いんですね。 ――へ~え、そうなんですか。わたしは、男の人のことはよく知らないけれど。 ――僕も、女の人のことは分かりませんが(笑)。なくなったというより、落ちた―かさぶたが、ポロッと落ちるように、と言った方が正解かな。僕はその時、上人(しょうにん)や聖人と呼ばれる人たち、人間は性を超越することが可能なんだ、と実感しました。凡人の僕は、そんな状態は半年ぐらいしか続きませんでしたが。 ――ふ~ん。 ――幻覚や幻聴とは違う、と話しましたが、半面、同じなのかもしれないとも考えます。というのは、ある脳科学者―苫米地英人(とまべち・ひでと)さんですが、僕のような精神状態を変性意識というそうなんですが、それはある種のドラッグでも起こりえる、交通事故なんかでも、別に特別なものではないんだ、とどこかで書かれていたんですね。だから、神秘体験なんかでは、ない。それが科学的・医学的に観た、客観的な視点でしょうけど、僕は、その視点は忘れてはいけないと思う。と同時に、でも本人としては、特別な、決定的な体験だった、という面も、あるんですね。 ――分かります。他の人には何でもない事が、わたしてきには、たいせつな想い出になるのは。 ――初めてですね、人に話すのは。三十五年・・・今、六十八歳ですから、三十五年、かかったんです、自らの体験を、言葉にして表現―対象化できるまでに。 ――無々々さんが、よく稽古会で、野口晴哉の言葉を引用しますよね、「勘をとりもどすには三十年かかる」って。そんなもんなのかなあ。 ――第二の七五三、です。七×五=三十五。 ――おやじギャグ! ――真面目な話、飛行機の着陸で、ハード・ランディングとソフト・ランディングという言葉があるでしょ。 ――比喩的にも、使われますよね。 ――ええ。「遠藤周作氏と比べるなんて、身のほど知らずな」とブーイングを浴びそうですが、僕は自分と彼のケースを、この二つになぞらえて考えたんです。 ――というと? ――僕は、彼と共通点があって、お袋が金光教の熱心な信者でね。子どもの頃、よく教会に―金光教にも教会はあるんです、連れていかれました。何か悩み事があるたびに、お袋は教会長に相談してた、僕はその横でじっと座ってただけですけど。長じて僕は、金光教に入信しなかったし、関心もありませんでした。その間、遠藤は、考え続け、問い続けたんでしょうね。僕は、自己抑圧がたまりにたまり―特に性的な―飽和点に達して、自我(エゴ)が砕け散った。それに対して遠藤さんは、一日一日と重ねて、あのフレーズに到達した、そんなふうに思えます。遠藤さんは、お茶の稽古を通して―茶道のお茶の会、出たことあります? ――一度だけ、な~んちゃってお茶会に。 ――こんなことを、書いてるんです。『生き上手 死に上手』(文春文庫)から引用しますね。 「あまりいい弟子ではないから偉そうなことは言えぬが、私が茶道で一番、心をひかれたのは「沈黙の声」を聴くということだった。 茶室ではすべてのものが緊張した静寂を作りだそうとしている。しかしその静寂は「何もない」ナッシングの空虚な静かさではない(と、私は感じた)。 その静寂は表面は無言だが、宇宙のひそかな語りかけに接することのできる静かさであり、我々はその語りかけを耳にするために静寂な茶室に坐るのだ(と、私は考えた)。 そのように考えたのは、私の仕事が小説家であるためだろう。 小説と何か、と問われると今まで色々な答えかたをしてきた。しかしこの道をまがりなりにも三十年以上も生きてみるとこの年齢なりに私なりの自信をもって、こう答えることができる。 「小説とはこの世界のさまざまな出来事のなかから、宇宙のひそかな声を聞きとることだ」 この世のさまざまな出来事とは、別に茶室の茶器や諸道具のように清浄にして美しいものだけを言うとは限らない。 いや、むしろ、その反対である。あまりに醜悪な、よごれきった人間的行為や心情の奥底にも実は宇宙のひそかな囁(ささや)きが聞える、と私は次第に思うようになってきた。 そしてそうした醜悪な心情や行為や人間ゆえのよごれのなかに深い意味があるのであって、その意味をほり出すことが私の今の大きな関心事である。 茶室の静寂に宇宙の声をきくのが茶人なら、さしずめ小説家などはパチンコ屋的なやかましさに充ちたこの人間世界のなかに同じひそかな声を聞こうとする人間ではないだろうか」(同上書 pp.94-95) 僕は、整体や武術の稽古を通して―今は新陰流の木刀振りは休んでいますが―ソフト・ランディングのたいせつさ、宗教や武術、技芸で、なぜあれほど修行や稽古が強調されるのか、分かったような気がするんです。それは、ハード・ランディングでは、一歩間違えると、とてつもなく危険だ、と思うからです。自分の経験に照らしてみて。 ――でも無々々さんは、フツーのおじさんですよ。ちょっと変わってるけど。 ――まあ、自称、凡才型アスペルガーですからね(笑)。ちょっと、危なかった。 ■余はいかにしてミニ麻原彰晃とならざりしか ――麻原彰晃(あさはら・しょうこう 1955-2018)、ご存知ですよね、オウム真理教の教祖。東京オリンピックの前に、処刑された。彼は、僕と同い年なんですよ。 ――そうなんですか。 ――麻原やオウムについては、いろいろな人が、いろいろなことを―グロテスクなカルトだと語ってきましたが、僕もそのとおりだと思いますが、意識的に避けてきたところがあります。一歩間違えれば、自分も彼のようになったのではないか、と思うと。 ――今の無々々さんを見てて、麻原彰晃と同じとは思えませんが。 ――ヒゲもはやしてないし、あんなに太ってないからね(笑)。正直に打ち明けると、僕にも、オレは啓示を受けた特別な人間だ、高級人間だ、という意識が、ぬぐいがたくありました。豆屋・楽天堂のような、百円、二百円の小銭をかせいで日々を暮らしている、市井の人々を見下すような、小馬鹿にするような意識が。それでも、崇拝者に囲まれた“教祖”にならなかった、なれなかったのは、二つ、いや三つの要因があると自分では分析しています。 ――どんな理由ですか。聞いてみたいです。 ――一つは、女房の存在(笑)。縁あって結婚した女性(ひと)が気が強くて、僕が地上1メートルをふらふら歩こうとするたびに、地べたに引きずり下ろされたんです。 ――そんなこと言っちゃって、いいんですか。今ごろ、千晶さん、くしゃみしてますよ(笑)。 ――他者の存在による、自己相対化、ですね。二つ目が、経済。要するに、お金。一緒に働き始めた洋服店が、赤字続きで、おまけに子どもも生まれて。三十代後半から、十数年は―今もです―金儲けに必死でした。食えてナンボ、これが第二の自己相対化。そして三つめが、僕の心の中では、これが一番おおきかったかな、小説家になれなかった挫折です。 ――詩や小説を、本に書かれたんですよね。 ――皆、自費出版です。今はインターネットとか、多様な自己表現の場がありますが、三十年前は、本にするしかなかった、それも認められた―ある意味、特権的な立場の―人たちだけに許された。僕は、無名の人間ですから、何度も懸賞小説に応募しましたが、ダメでした。それでも諦めきれずに、自費で出した本を、出版社に、何の“つて”もなく、送りつけたりしていました。即、ゴミ箱行きでしょう。僕の書いたものはブツブツ独り言を言ってるだけで、言葉が自己絶対化にとどまっていた、だから、何の共感も呼ばなかったんです。逆にいえば、僕は、自己相対化の洗礼を受けたんです、言語によって。 ――今のお話を聞いてると、若者が夢をあきらめる、“あるあるパターン”に思えますが。 ――そうですね、そうかもしれない。ただ、もう一つ、これは心にひっかかっていて、なかなか言えなかったんですが―見田宗介が、僕のいわばイニシエーションを導いてくれた。このことが、なかなか整理できませんでした。何人もの女性に―後(のち)の妻も含まれますが、心の傷を与えて、トラウマになってしまったものも・・・。そんなハレンチ社会学者から手をあてられて、人生の決定的な体験を得た、というのが長い間、受け入れられませんでした。これが、例えば、ある時、滝行(たきぎょう)で水に打たれていたら、滝壺から瀕死の青い蝶が舞い上がるのを見て大悟(たいご)した、悟りを開いた、という物語なら、世間に吹聴(ふいちょう)できるんですけど、ね。 三十五年後、遠藤周作のさっきの言葉を読んで僕が救われた、と感じたのは、このことだったんです。そうだ、見田宗介という存在が問題なのではない。彼をとおして―彼の手がふれて、神が―「神」という言葉は僕はあまりつかいたくないので―おおいなるもの、語りえぬもの、あるいは生命力(いのちのちから)、大気といってもいいかな、何かが現れた、働いた、と捉えればいいんじゃないか、と思えました。逆にいえば、僕が為すこと、為しうることも、僕―高柳無々々をとおして、目に見えない何かが現れている、働いている。改めて、人間というのは、人間の身体は、楽器なんだな、器にすぎない、と感じました。誰もが、ボチボチの弦楽器ではないのでしょうか。人生という、かけがえのない音を、奏(かな)でている。 ――ふう。 ――ところで、Yさん、お酒は飲みますか? ――何ですか、いきなり?! 時々、飲みに行きますよ、友だちと。 ――ある漂泊の歌人が―名前は忘れました―こんな歌を詠んでいるんです。聞いてください。 「酔い覚(ざ)めに見る星空」 僕は、はじめ、二日酔いの一首かな、と思っていました。 ――違うんですか。 ――「覚醒(かくせい)」という言葉がありますよね。「覚」は、さとる・さめる、「醒」の字は、お酒に星って書くでしょ。僕らは、人生に酔っている。自己絶対化で、ふらついている。ろれつがまわらず、足元、おぼつかず――麻原彰晃の最期の姿、覚えていますか。法廷で、意味のない言葉を吐いていた、自己絶対化の成れの果てを。そうなる前に、そうならないように、はっと我に返る自己相対化が、星空ではないか、と思えてきたんです。肉体的にも、僕らの細胞は、日々、生まれ変わっている。同じではない。それを同じと思ってしまうのが、自己絶対化―武術で嫌う、「居着き」だと思うんです。 ――自己相対化って、過去の自分を捨てることなんですか。ムズカシそう。 ――いいえ、捨てることはない、捨てることなどできません。ただ、過去の自分にもたれかからない―良い意味でも、悪い意味でも、過去を絶対視しない事が、たいせつなのではないでしょうか。遠藤は「運命を生きる」と言っていますが、己(おのれ)の人生を全うするには、「一日一生」、日々、“覚醒”が、必要ではないのかな。その作業を怠ると、本人はもとより、周りの人間にも、勘違いが生じてしまうと思います。 彼、麻原彰晃は、決してあなどれない存在だった―確かに、何かの力というか技(わざ)を持っていたんだと思います。エチュード合宿で僕の身に起きたような体験を、信者の人に与えていたのでは、と思えます。具体的には知りませんよ、手を当てたか、何かの薬物を使ったか、ヘッドギアによるのか。言葉だけ、説法だけでは、あれほど多くの人が“尊師(そんし)”と奉るとは考えにくい。 でも彼の間違いは、文字どおり、間(ま)が真実の真(ま)ではなく悪魔の魔(ま)になってしまったこと。日々の更新を怠ってね。その勘違い男を、周囲の人間も持ち上げて、共犯関係ができあがってしまったのではないでしょうか。 坂本九(さかもと・きゅう 1941-1985年)のヒット曲「上を向いて、歩こう♪」じゃないけど―古いか―「星空を見て、生きよう♪」。 ――ハハハ。ということは、教祖と信者の共犯関係って、オウムだけに限らない? ――鋭い! そうだと思います。人間が集団生活を営むいじょう、どんな組織や団体にも、起こりうる問題ではないでしょうか。それこそ、小は家族から大は国家に至るまで。耳にしたことはありませんか。ナニナニ界のドンとかカリスマ、“天皇”と呼ばれる人のことを。女性週刊誌を開けば、トップ記事はいつも皇室報道でしょ。そういう権威・権力の礎(いしずえ)になっている“もたれあい”を生まないためには、よほど意識的にならないと。例えば、僕の― ――あ~、もう時間だわ。ごめんなさい。今日は、無々々さんの知られざる一面を、伺(うかが)うことができました。次回は? ――今日は、体験を経験へつなげる、僕なりのプロセスをお話しできたかなと思います。次回は、そうですね、宗教と国家の一体化とか、罪や悪も神の働きなのかとか、加害者とは何者なのか、ハンセン病の人たちの自己実現とは、などなど、考えるべきことが、宿題が、てんこ盛りだな。 ――今日は、どうもありがとうございました。次回も、楽しみにしています。 ――こちらこそ、ありがとうございました。それでは、また。 ■Can you hear me? from twitter of Middle East Monitor 2023/11/10 Doctor to @POTUS : Can you hear the screams of innocent Palestinians? Norwegian doctor Mads Gilbert, who has previously worked at Al-Shifa Hospital, says the West, including US President Biden and Antony Blinken, are all complicit in the crimes Israel is committing in Gaza. President Biden, President Biden, President Biden, Mr. Blinken, Mr. Blinken, can you hear me? Primeministers and presidents of European countries, can you hear me? Can you hear the screams from Shifa Hospital? From Al-Awda Hospital? Can you hear the screams from innocent people? Refugees sheltering, trying to find a safe place being bombed by the Israeli attack forces this morinng inside the hospital. Hospitals that are the temples of humanity and protection. When are you going to stop this? You're all complicit. Yes, I've heard “共犯者”. How about you? (2) ■2023 年 12月30日、 twitter of س ي د عابس ح س ي ن ن ق و ی @syedabishussai3· 「You know what also DIED in GAZA? The myth of western HUMANITY & DEMOCRACY.」 こんにちは、高柳です。春分も過ぎて、この季節、花粉症に悩まされているかたも多いのではないかと思います。私は花粉症ではありませんが、アレルギー性鼻炎に子どものころから悩まされ、さらに三十歳を過ぎて成人性のアトピー性皮膚炎におそわれたことがあります。 当時、私は和歌山県の田辺市でプータローをしてたのですが、何をしてたかというと、作家になりたくて小説を書いては懸賞小説に応募していました。結果として、落ち続けたわけですが、ある一月締め切りの募集があって―「寝る間も惜しんで」という言葉がありますよね―それこそ年末年始も関係なく、書き続けて―原稿用紙500 枚ほどでしょうか。そのストレスのためか、体じゅうに、手から顔から、全身に、赤い発疹ができてしまったんです。 そのころの私は、病院忌避(きひ)者といいますか、できるだけ医者にはかかりたくなかったので、よもぎ汁をぬってみたり、枇杷茶をのんだり、ジョギングをしたりして治そうとしていました。その“治療”の一つで、温泉に―田辺には市営温泉があったんですね、今もあるのかな。夕方、閉館まぎわに、毎日、通っていました。 ところがある日、職員から呼びとめられて、「他の入浴者から移るのではないかという声があるので、医者の診断書を持ってきてほしい」と言われたんですね。私は若かったから、自分を否定されたようで「アトピーは移りません。差別だ!」と反発したんですが、一度、田辺への移住をバックアップしてくれた方に間にはいってもらって、市役所で話し合いの場をもちました。 どこまでも平行線です。さすがにその後、私も気まずくなって温泉には行けなくなりました。すると、当時、田辺にあったユースホステルの経営者―“熊野のオババ”を体現しているような、おばあさん―が私をあわれんで、毎日、私のために宿の五右衛門風呂を焚(た)いてくれました。その後、アトピーはどうなったかというと、二年後に結婚したら、すーっと消えていきました。今は昔、の話です(笑)。 その時、私が思ったのは、皮膚病というのは、一種、独特のやまいではないか、ということです。わずらっている本人にしてみれば、皮膚という自分の境界がくずれていく、自分というものが溶けてなくなっていくのではないか、という不安。あえていえば、肉体的疎外にさいなまれているわけですよね。その疎外感が、他者にも伝染する―私が逆の立場だったら、やっぱり、移るのではないか、自分の境界をおかされるのではいか、という不安やおそれをいだくと思います。その両者のあいだの溝、けっして越えられないボーダーは、あえていえば社会的疎外になるかと思います。 ここまで話してきて、ハンセン病を思いうかべた方もいるかもしれませんが―そうです、私が今日、お話ししたいのは、そのことなんです。 ※ ハンセン病は、歴史的には、癩病(らいびょう)と呼ばれ、業病(ごうびょう)とも天刑(てんけい)病とも言われてきたそうです。癩菌が原因でおこる感染症ですが、感染力はよわいものの、重症になると神経の麻痺や顔や手足の変形、失明にいたるため、また近代にいたるまで治療法がなかったため、不治の病とおそれられてきました。遺伝ではないか、とも誤解されたため、家族と離縁されることもありました。 鎌倉時代の仏教僧・一遍上人(いっぺんしょうにん)の一生を描いた『一遍聖絵(ひじりえ)』には、覆面をして一遍につきしたがった、「非人(ひにん)」と呼ばれた癩病の人たちの姿が描かれています。むしろをたてかけただけの“家”に住んで、施しを受けて生きていたんですね。私は横須賀から田辺に移るまえ、四国を歩いてお遍路したことがありますが、明治時代まで、癩の人たちが集団で遍路をして―白装束(しょうぞく)に身をつつんで、お寺の本堂の床下に寝泊まりしながら――今ではそんなことはできませんが――お接待といって食べ物やお金をめぐんでもらい、一生、歩き続けた。行き倒れた死体は、村の人が埋めたそうです。 近代にはいって明治政府は、癩病患者に対してどのような施策をとったかというと、「国家ノ体面上」、1931(昭和6)年に癩予防法を制定して、「癩の根絶」のために、国立療養所への「絶対隔離」をおしすすめていきます。それが実際にどのようなものであったか、明(めい)と暗(あん)の両面から見てゆきたいと思います。 神谷美恵子(かみや・みえこ1914-1979 年)というクリスチャンの女性がいます。いました。彼女は若いときに癩病患者に出会い、「何故私たちでなくてあなたが?」(29 歳のときの「癩者に」という詩の一節『うつわの歌』みすず書房p.8)と衝撃を受けます。その後、1957(昭和32)年から十五年間、岡山県の国立療養所・長島愛生園(あいせいえん)で精神科医として勤めました。その間のエピソードでしょうか。1970(昭和45)年に兵庫県立伊丹高校でおこなった、〈生きがいを求めて〉と題する講演で、次のように語っています。余談になりますが、ここは連れ合いの出身校です(笑)。 「有馬(ありま)温泉で、浮浪者(ふろうしゃ)として保護された少年が、聾啞(ろうあ)であり、癩病、結核という病気をもっていることが判って、愛生園に連れてこられたことがあります。何しろ精薄児(せいはくじ)である上に、ロがきけない、耳もきこえないのですから、本籍(ほんせき)も年齢(ねんれい)も判りません。仕方がないものですから、この少年を連れて来た県庁の癩担当官が、大野さんという人だったので、その名を貰って、大野 連太郎君という名をつけ、歯を調べて十二歳(さい)ということにし、本籍不明ということで愛生園に収容されました。ところが、この少年も、次第に変って行きました。もう、浮浪児の時のように、犬のようにごみためを漁(あさ)らなくてもよくなり、次第に人間らしさを加えて、生き生きした表情になって来ました。現在、この大野君の生きがいとしていることは、実に多種多様ですが、例えば、にこにこして絵を描(か)いている彼や、海岸に流れ寄るプラスチックのかけらを拾って、部屋に積み上げている時の彼は、全く生き生きとして、昔のおもかげはありません。また、重症(じゅうしょう)の癩患者で、大声をあげてどなる老人がいるのですが、この人は五分間に三回ぐらい、看護婦さんを呼んで、溲瓶(しびん)をもってこいとどなるのです。すると、大野君は、すぐに便所に走って行って、溲瓶をとって来て、老人にあてがってやるのです。邪魔(じゃま)くさがらずに、にこにこして、老人につくしてやることが、自然なかたちで、彼の生きがいにもなっているのです。その大野君が、私を見かけると、こんなにして、手を挙げて、やあと言って、にこにこあいさつをしてくれます。そのことが、ともすればくずおれようとする私の心に勇気を与え、生きがいを感じさせてくれるのです。(中略) 私たちはお互(たが)いに時処(ときところ)を同じくして生きている人間同士として、生きがいを与え合う生活でありたいものです。自己を疑い、他人を疑い、生きがいを見失なった人生はさびしいものです。毎日の生活の中で、相手をはげまそうという気持をもちあうことが根本であって、その心さえあれば、制度や事業は、自然に形をとってゆくものだと思います。われわれ人間にとって、人生のかなりの部分が、自らの心の姿勢を変えることによって、変化させ向上させることが出来るものだということは、私どもに生きてゆく勇気を与えてくれます。そして、まず、人間としてこの世に生を享(う)けたことに対する感謝の念が根本であり、これこそ生きがいの前提となるものであることを申し上げて、私の話を終りたいと思います。」(『いのちの書』筑摩書房pp.420-422) ホームレスの少年が、施設に収容されて―最低限ですが―衣食住を保証され、人間性をとりもどしたこと。その相互作用として神谷自身も生きがいを感じていたことは確かでしょう。収容者からは、慈母(じぼ)―慈しむ母ですね―のように慕われていたそうです。善意による献身ですね。この二月に出版された『内にある声と遠い声鶴見俊輔ハンセン病論集』(青土社)には、「神谷美恵子管見」と題する短文が収められていますが、神谷美恵子との個人的な交流や回想を記した文章の第一行が、「神谷美恵子は聖者である。」で始まっています。 私はこの一文を目にしたとき、つよい違和感をおぼえました。というのも、私にとって聖人、聖者、上人(しょうにん)とは、一)性を超越している、二)同胞に尽くす、三)権力と対峙する、存在ではないか、と思うからです。一)の「性の超越」は、私が男だからそう思うのでしょうか。神谷は結婚していますが、女性のことはよく分かりません。二)の献身的な生涯は、疑う余地はないでしょう。問題は三)、権力への向き合い方です。私たちひとりひとりの心のありようが礎(いしずえ)である、というのは神谷の言うとおりだと思います。ただ、他者への思いやりによって社会や政治のシステムが自(おの)ずから調ってゆくというのは――今の世界の現状をみれば――ナイーブすぎるのではないでしょうか。別に武器を持って闘え、と言いたいわけではありません。地上の王権を否定したら、国家(権力)とのアツレキを生まざるをえないと思うのですが、皆さん、どう思います? 私には、神谷は、ハンセン病療養所の光―明るい面しか語ってないようにみえます。強制隔離とは、果たしてどのようなものであったか。何人かの収容者の自己表現―作品から、声をひろってみましょう。 まず、十三歳から七十年間、香川県の大島青松園(おおしませいしょうえん)で日々を過ごした、塔和子(とう・かずこ1929- 2013 年)の詩、「欲」から―― この味のない私の生に ただひとつ 味付けするものがある それは欲望だ 欲で体がふくらむとき 私は生き生きする 深い井戸から汲み上げる欲なら どんな欲でもいい 食欲 物欲 性欲 知識欲 創作欲 名誉欲 欲よ 私はお前をこんなに好きだ お前がないところには 実がない味がない私がいない お前でいっぱいになった脳髄で 存在の深奥から 光る言葉をかくとくしたら これほどの満足はないだろぅ 私の欲よ 私をいろどれ どんな暗いところにいても ただひとつ もえる炎はお前 欲で活気のみなぎる頭 欲で華麗な心を身の内にもって その先に コップ一杯ほどの 希望を見つめて歩いていられるなら 私は どこまで歩いて行ってもいい ――『いのちの詩(うた) 塔和子詩選集』(編集工房ノアpp.106-108) この詩集には、詩人・大岡信(おおおか・まこと1931-2017 年)の「塔和子の詩について」という文章が付されています。その中で大岡は、「この詩集は、形式の上で人をあっといわせる斬新さはないし、特異な内容の詩集でもない」が、「自分の本質から湧く言葉で」書かれていると、評しています。では、彼女の本質とは、何でしょうか。 私には、第一行の「味のない生」が、すべてを語っているように思われます。「味のない生」とは、言葉を変えていえば、「意味のない人生」ということになるでしょう。無意味な人生と分かりながら、それでも生きてゆく姿は、無意味な死と認識しつつ死んでいったカミカゼ特攻隊の兵士と重なる、ポジとネガの関係ではないか、と私は考えます。 塔和子は別の詩―これは、シンガーソングライター・沢知恵(さわ・ともえ)さんのアルバム『かかわらなければ~塔和子をうたう』(コモエスタ)に収められている、「証」という詩です一の一節で、 信頼する私の神様 どうか 生きていたのだという証明書を 一枚だけ私に下さい と、うたっています。言葉尻をとらえるわけではないですが、一般論でいえば、人間と神との間で存在証明を“発行”するのは、人間の側ではないでしょうか。仏像や聖画で、神や仏を形あるものに具象化して。その意味で言えば、彼女(たち)は、倒錯した生を生きざるをえなかった、そんな自身のありようを、普段づかいの言葉で、物静かに語ったのが、塔和子の詩ではいか、と私は思います。 「名は体(てい)を表す」といいますが、塔和子という名前が――これは、本名ではありません。施設に入所する際に、選ぶように“強いられた”名前です。私の、へたれペンネームとは違います(笑)――塔は、建ちますよね。「立つ」を個人の自立の象徴とすると、和子の和(わ)は、よい意味では人間の輪になりますが、マイナスにはたらくと、よくいう世間(せけん)の“同調圧力”です。この二つの相反する世界に引き裂かれて生きる姿を表現したのが、塔和子の本質ではないでしょうか。 ※ 続いて――私は朝日新聞を購読しているのですが、朝刊に哲学者・鷲田清一(わしだ・きよかず)さんの連載コラム『折々のことば』が掲載されています。書物などの一節を紹介して、鷲田さんが短いコメントをつけたものです。昨年、9月15日付けの紙面に、愛生園で生涯を送った近藤宏一(こんどう・こういち1938-2009 年)の著作『闇を光にハンセン病を生きて』(みすず書房)から、一文が引用されていました。 近藤は、11歳で収容され、赤痢患者を看護したさいに――園では、重症者を軽症者が看護や介護をしなければなりませんでした――手足の自由を失い、失明もしてしまいました。が、血がにじむ努力で―比喩ではありません。指がつかえないので、舌先を血でそめながら―点字の楽譜をよみとって、ハーモニカ楽団を組織した人物です。 鷲田さんが引用したのは、近藤自身の文章ではなく、近藤が感銘をうけた同病の先輩、明石海人(あかし・かいじん1901-1939 年)の言葉でした。明石は、兵庫県明石市、「かいじん」は、怪人二十面相を思いおこさせますが、海の人です。いうまでもなく、本名ではありません。 『闇を光に』におさめられた〈点訳書『人間の壁』について〉という短い文章の中で、たしかに近藤は鷲田さんが紹介した明石の言葉を引用していました(同上書p.87)。そこで、私はさらに源流をさかのぼるように、岩波文庫の『明石海人歌集』を図書館からとりよせてみました。その中におさめられた『歌集白描』の序文に、その言葉があったのです。序文全体を、読んでみます。 「癩は天刑である。 加はる笞(しもと)のーつーつに、嗚咽し慟哭しあるひは呻吟しながら、私は苦患の闇をかき捜(※1)ってー樓の光を渇き求めた。――深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はない――さう感じ得たのは病がすでに膏盲(ママ)(※2)に入ってからであった。齢三十を超えて、短歌を学び、あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぷ)しながら、肉身に生きる己れを祝福した。人の世を脱れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。 癩はまた天啓でもあった。」(同上書p.10) (※1)引用者注:捜(さぐ) (※2)引用者注:膏盲(こうこう) みなさん、どの言葉だと思います?――そうです、「深海に生きる魚族のやうに、自らが燃えなければ何処にも光はない」です。 明石は、近藤と同じ愛生園に入所、歌人でもあった医師から創作指導を受け、改造社(出版社)が募集した『新万葉集』に数多くの短歌が入選して注目をあびましたが、失明し、38歳で亡くなりました。歌集『白描』は、彼の死後、ベストセラーになったそうです。 この肺腑(はいふ)をえぐるような一文は、どこから出たのでしょうか。『明石海人歌集』には、〈明石海人の“闘争”〉と題された村井紀(むらい・おさむ1945-2022 年)による長い解説がついています。では、彼の“闘争”とは何なのか? 愛生園への明石の入所と前後して、癩予防法が制定されました。私の理解では、愛生園のバックアップなしには、明石の創作活動と歌集の出版はありえなかった―明石もじゅうぶんそのことを理解していて、いわば政府の施策の正当性を体現した、“癩者の優等生”としてふるまわざるをえなかった。でもそれはあくまで建前(たてまえ)―光の世界で、本音(ほんね)としては、闇の世界に生きる自分の姿こそ、表現したかったのではないか。そのedge―刃ですね―の上を歩いてゆくような人生が、彼の闘いであったと、私は思います。 朝日新聞には、ハンセン病患者の隔離の歴史に問題意識をもつ記者がいるようで、去年から今年にかけて、何本かの記事が掲載されました。その中で、もっとも衝撃的だったのが、先ほど名前をあげた沢知恵さんの〈ハンセン病療養所の園歌〉と題されたインタビューでした。沢さんは、全国の国立療養所13箇所をたずねて楽譜を集め、「園歌を通じて隔離政策の歴史や入所者の思いを明らかに」されました。その実践記録をまとめたのが、岩波書店から出版されたブックレット『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』です。 沢さんがなぜそのような問題意識を持ちえたのかは、一つにはキリスト教の牧師で大島青松園で奉仕活動を行っていた父親の影響と、東京芸術大学楽理科で音楽学を学び「音楽と社会の関係に関心があった」からでしょう。ちなみに、お父さんは韓国に留学して韓国人女性と結婚し、沢さんが生まれたそうですが、母方の祖父は、詩人の金素雲(キム・ソウン1907-1981 年)です。 沢さんは、インタビューのなかで特徴的な歌詞をいくつか紹介していますが、発言の一部を抜粋すると―― 「青森市の松丘保養園の前身、北部保養院の院歌に、こんな一節がありました。『民族浄化目指しつつ進む吾等(われら)の保養院』。作詞は内務省衛生局予防課長などを務め、歌人でもあった高野六郎です。作曲は軍楽隊で有名な陸軍戸山学校でした。高野はハンセン病患者をすべて療養所に隔離する『無らい県運動』を率い、『民族浄化』はそのスローガンでした。さすがに戦後は、歌われなくなりました」 「『一大家族』という言葉が出てくる歌もあります。長島愛生園(岡山県瀬戸内市)の園歌です。『なやみよろこび共にわかちつわれらが営む一大家族』。故郷を離れ、家族からも見捨てられた人たちにとっては、園で出会った人たちが親であり、きょうだいでした。療養所で家族のように仲良く過ごしなさい。園歌を通じてそうした意識を刻み込んだわけです。ある入所者は、強いられた隔離生活を『一大家族という甘いベールで包んだもの』と語りました。大島青松園の療養所歌にも『楽しき愛の我等(われら)がすまい』という一節があります」 「他にも『明るき理想の別天地』『上と下との隔てなく理想の楽土築かなむ』と、療養所が理想郷であることを強調する園歌もある。外にいる患者に、早く楽園においで、と呼びかける意味があったのでしょう」 今、イスラエルがガザでジェノサイド―民族浄化を行っていますが、日本でも、同じ国民に対して民族浄化を行っていたこと、しかも浄化される側が浄化をたたえる歌をうたわされるとは、これを“底知れぬ闇”といわずして何と言う・・・。ナチスが強制収容所のゲートにかかげたスローガン「労働は自由への道」を思い起こさせます。 インタビューではふれられていませんが、大日本帝国から日本国に政体が変わっても、「癩予防法」は1953 年に装いもあらたに「らい予防法」として存続し、「全国の保健所が主導して第二次「無癩県運動」が展開され、断種、堕胎の手術は、一九四八年に成立した優生保護法の後押しにより続けられました。(中略)優生保護法下でのハンセン病療養所での不妊手術は、千五百件以上にのぼります」(同上書pp.14-15)。 さらに、「ほとんどの療養所に、脱走や窃盗などをした人を閉じ込める監禁室がありましたが、厳しい懲罰が必要とみなされた人は「草津送り」となったのです。「特別病室」(引用者注)は一九三八年に建てられ、戦後四七年に廃止されるまでつづきました。厳寒と飢餓の中で、九十三人のうち二十三人がいのちを落としました」(同上書p.38) (引用者注)群馬県草津町の栗生(くりう)楽泉園にあった、通称「重監房」。朝日新聞2023 年11 月25 日付けの記事によると、国立重監房資料館の学芸員たちが、「もうひとつの草津温泉」という無料ツアーを年に5回ほど行っているそうです。詳しくは、楽泉園のホームページをご覧下さい。 私がはじめに神谷美恵子をナイーブ過ぎると批判しましたが、彼女は、果たしてこのような史実を知ってたのか、知らなかったのか。知らなかったとは思えませんし、知っていたのなら、何故?という疑問がきえません。でもそれは、私自身への批判にもなります。なぜなら、私は1955 年生まれですから、1996 年にらい予防法と優生保護法が廃止されるまで、傍観しつづけた「共犯者」の一人だからです。強制隔離の歴史を知るほどに、はずかしいし、くやしい。“無知の涙”です―おまえ、何そんなに力(りき)んでんねん、って言われそうですけど(笑)。 ※ 私がハンセン病隔離の歴史を少しずつ知った時に感じた疑問が、二点あります。 (1)天皇制: 朝日新聞のインタビューで、記者から「園歌とは別に、各地の療養所には大正天皇の妻、貞明皇后の歌碑もあるそうですね。」と投げかけられた沢さんは、次のように答えています。 「『つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて』という歌です。行くことが難しい私に代わって、療養所の職員ら関係者が入所者の友になり慰めてあげなさい、と解釈できます。貞明皇后は、慈善運動に関心が高かったといい、下賜(かし)金をもとに、1931年に『癩(らい)予防協会』がつくられました」 「貞明皇后の歌に、当時一流の作曲家、山田耕筰と本居長世がそれぞれ曲をつけ、各地の療養所の式典では『君が代』に続けて歌いました。園歌はその後に歌われており、支配のピラミッド構造が見えてくる。しかも『つれづれの』は園歌より頻繁に歌われました。『園歌は歌えないが、これなら覚えている』という人がいて、うっとりとした表情で歌ってくれました」 さらに「どんな気持ちだったのでしょうか。」と記者から聞かれた答えが、以下のようなものでした。 「社会からはじき出された自分たちのことに、皇室までもが思いを寄せてくださる、ありがたい、という思いでしょう。メロディーがつくからこそ感動を呼び、人々の心に深くしみる。音楽によって一つの思想が簡単にすり込まれてしまうのです」 「確かに最初は、上から押しつけられた歌だったかもしれない。でも共に声を合わせることで、つらい隔離生活を乗り越えた。だから今でも笑顔で、時に涙を流しながら歌うのです」 大日本帝国は、現人神の天皇が絶対的な主権を有する全体主義国家でした。それは、天皇を父、皇后を母とし、国民を―正しくは臣民ですが―赤子(せきし)とする、家族を擬(ぎ)したピラミッド型の差別抑圧構造をかたちづくっていました。「天皇陛下、万歳!」といって死ぬことが、真善美だったのです。そのまぎれもなく底辺に――最底辺ではありません――位置づけられたハンセン病の人たちが、なぜ、天皇制を賛美するのか? 沢さんはそこに、彼らの―決して特殊でない―「二重意識」をみています。『ブックレット』では、次のように書かれています。 「終生隔離の療養所で生きるということは、抑圧され、排除され、名前と存在を消されながら、それでも「存在」しようとする意志によって、引き裂かれた二重の意識をもたざるをえなかったということです。「一大家族」「民族浄化」は心にもないことではなく、そう思わないでは生きのびることができなかったのです。 私が出会った全国の瘠養所のみなさんと対話する中でも、しばしばそのような「二重意識」を感じることがありました。国の強制隔離に対して憤りながら、一方で皇室を賛美し、「国のおかげで生きている」と真顔でいう人もいました。矛盾ともとれるそのような態度に戸惑いながら、いつしか私は、どの思いも真実ではないかと受け止めるようになりました。むしろ、そのような「二重意識」をもたせるにいたった権力構造と政治的文脈を思い、その責任が問われないことへのもどかしさと痛みを感じずにはいられません。これはハンセン病だけでなく、先に見た沖縄や在日コリアンなど他のマイノリティーの問題にもあてはまる歴史的現実です。」(同上書pp.71-72) 大日本帝国(全体主義)から日本国(民主主義)へと政体が変わったにもかかわらず、昭和天皇の戦争責任を私たち日本国民自身の手で裁けなかったこと、また天皇制や元号(昭和)が断絶せずに存続したこと、そのうえ、安倍晋三に代表される大日本帝国を「美しい国」と賛美する復古反動主義を許してしまっていること――これらの「歴史的現実」を解くカギの一つが、この“二重意識”ではないか、と私は思います。私自身の、探求すべき課題です。 (2)内と外: 神谷美恵子は、精神科医としてだけでなく、翻訳家やエッセイストとしても数多くの業績を残していますが――みすず書房から、『著作集』が出版されています――そのなかでも名著とされる『生きがいについて』(同社刊)には、愛生園の収容者たちの声が、多数、収録されています。神谷が行ったアンケートへの回答や、直接、話を聞いた内容など、様々です。私が『生きがいについて』を読んで、考えさせられた箇所があります。 「彼らは(引用者注 らい患者のこと)「壮健さん」、つまり、ふつうの健康人に対しては、ただ彼らが健康であるということだけで別人種のように思い、絶対に頭があがらないと思っている。あるいはまた、この劣等感がうらがえしになって、反対に威丈高になるひともでてくる」(同上書p.157) 神谷は、自分が「壮健さん」であり、また先生と呼ばれる医者でもあったために、らい患者との間に壁が存在することに対しては自覚的であったようですが、次のような記述を目にすると――あえて言えば、宗教者にありがちな――社会的存在としての人間への視野がせまかったのではないか、という感想をいだいてしまいます。 「「人類の一員」にお互いがなるとき、そのときのみ、人種間の差別、階級間の差別、患者と「壮健さん」の差別はなくなりうる。それは愛生園での経験が教えるところである」(同上書p.278) 今年の2月7日付けの朝日新聞に、〈舌読(ぜつどく)の歌人祖国で眠る〉と題された、一人の元ハンセン病患者・金夏日(キム・ハルヒ日本名:金山光男1926-2023 年)の紹介記事が載りました。一部を抜粋します。 「夏日さんは植民地下の朝鮮半島の農家に生まれ、13歳で海を渡った。当時は「らい」と呼ばれたハンセン病がわかり、人生が狂い出した。終戦したのに、平穏は取り戻せなかった。 ハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」のもと、草津町の療養所「栗生楽泉園」に入った。家族はバラバラになり、病も進行して両目を失明。唯一の生きがいが歌を詠むことだった。(中略) 夏日さんを有名にしたのが「舌読」だ。病のせいで視力を失い、指も使えない。それでも自分で本を読み、学びたいという知的欲求を満たそうと、感覚が残っていた舌の先で点字を読んだ。(中略) 植民地時代は「日本人」になることを強いられ、戦後は「在日」に。ハンセン病者への差別とともに、療養所では在日への差別があった。二重の生きづらさを味わった夏日さんは、そんな不条理や祖国への思いを歌にした。 指紋押す指の無ければ外国人登録証にわが指紋なし」 web で検索すると、彼は「本名を わがなのるまでの 苦しみを いっきに語り 涙ぐみたり」という歌も詠んでいます。1910(明治43)年に韓国を併合した大日本帝国は、皇国臣民化政策の一環として1939 年に「創氏改名」を法制化しました。朝鮮人の姓名を日本式の氏名に変えるように強いたのです。この歴史的背景が、現在も在日コリアンが本名ではなく「通名」を名のらざるをえない遠因ではないかと私は考えます。 ハンセン病療養所は、人里はなれた孤島などの場所に置かれました。日本社会からは目に見えぬ壁で隔絶された「外」です。しかし、その施設の「内」にも、数多くの壁が存在しました。上にあげた「壮健さん」だけでなく、軽症者と重症者、日本人と朝鮮人etc.―女性がハンセン病に罹患して収容されるケースは男性にくらべて少なかったため、女性への壁がどうだったかはよく分かりません。 国家として考えると、日本は「内」、国境の向こうの朝鮮は「外」になります。「朝鮮問題は―韓国・朝鮮(人)にどうかかわるか、かかわらないかは、日本人にとって、試金石になる」と語った文学者がいましたが、残念ながら『生きがいについて』には朝鮮(人)にふれた文章はありませんでした。 「内」と「外」は隔てられているようで、通底しているのではないか、と私は考えます。大日本帝国が植民地の台湾・朝鮮で行った「創氏改名」にみられるように、国家(権力)はピラミッド型のヒエラルキー(差別抑圧構造)を保持するために、「内」で行ったことを「外」でも行い、「外」での実践を「内」にも持ちこむのではないでしょうか。 ※ それでは、私たち市民、民衆が―私はこのごろ、土民(どみん)という用語にひかれるのですが―壁をのりこえる、できればベルリンの壁のように打ち壊す可能性は、どこにあるのでしょうか。 先に題名をあげた『内にある声と遠い声』には、いくつかの講演がおさめられています。その一つ、2001 年に東京・多摩全生園で鶴見俊輔が行った講演〈ハンセン病との出逢いから〉での参加者とのQ&A から、私はおおくの示唆をうけました。一部を抜粋してみます。 質問者1:一九五三年に、らい予防法を廃止しようじゃないかという動きがあったと覚えているのですけれども。ここ全生園からデモ隊が行って途中で止められちゃったということがあったと思うのですが、あの時に厚生省が、こともあろうに、なぜ廃止しないかというと、いま〔入所者が療養所の外へ〕出されたらかわいそうじゃないかと。そんなことをするくらいだったら隔離するほうがましだということを言うわけですよね。それに対して日本人というのはそんなに奇異に思わないわけです。そのへんがどうしても不可解なんです。(中略) 実際、鶴見先生も知識人として、一九五三年のらい予防法關争のことはよくご存じだったはずです。しかし、何らかの運動が起きなかったということが、もうちょっとわからないことですし、先ほどの先生の言葉を使えば、どうして日本人の国民は、闇の中に目が開かないのか。どうしてもわからない。先生が言うように、国家が悪の主体であるとはぼくにはどうしても思えないんですね。共犯関係にあるような気がしてならないんです。どうして、特殊な精神状況を持ってしまったのかということをお聞きしたいです。 鶴見:「共犯関係」っていうのに、私は同感です。「共犯関係」なんです。それがいつ始まったかっていうと、私の考えでは、一九〇五年が起点だと思います。黒船が来たのが一八五三年ですが、それから一九〇五年まで、じつによくやったと思うんですよ。政府の指導者も、一九〇五年で力尽きて倒れたんです。」(同上書pp.342-344) もともと、らい予防法〔一九〇七年「癩予防ニ関スル件」〕をつくる背景にあったのは、先進国として、先進国じゃないんだけれども、かっこうが悪いから。外国人が来た時に、熊本の神社なんかにずーっと患者がいるっていうのは体面が悪いから、ひとところに閉じ込めたい。 「先進国」という、この前提が問違っています。この前提を、外国に行ってきたような国家の高等官僚が考え、国民が支持した。ここに共犯関係があります。これが、敗戦によっても断たれなかったというのが問題なんです。 先進国っていうのは、金を持ってる持ってないじゃなくてね、まっとうなことをやってるかどうか。(同上書p.347) 質問者2に答えて―― 鶴見:どうしたら日本の国民が人間になるかっていう問題なんですよ。結局、九十年に及ぶハンセン病に対する差別もそこに根差してるんです。日本の国民が人間になる道は遠いです。(同上書p.351) 質問者3に答えて―― 鶴見:人間になるというのは、偏見のない人間になるというのは、学校制度が植え付けている誤解なんですよ。ふだんは私も自分の持っている偏見を、いくらか行き過ぎを抑えるようにして、表に出さないように抑えてるんですよ。だけど、私を生かし動かしているものは、人間への方向に行かせているものは、私の持っている偏見なんです。 日本国民はどういうふうにして人間になれるのか。じつはそれこそが最大の問題なんです。私は、ハンセン病の文学が、人間になるその道しるべをつくっていると思いますね。(同上書pp.359-360) 共犯者としての自覚、そして“偏見のない人間になるために偏見を持つ”とはどういうことなのか――私は鶴見から与えられた課題を、考え続けたいと思います。 そして、鶴見は別の講演〈内にある声と遠い声〉*で、次のような事を語っています。 「自分を大切にして、自分の内なる声が聞こえないときは、聞こえないままじっと黙って、 じっと座っていればいいんです。かすかに聞こえるときもあるでしょう」(同上書p.303) *一九九六年十一月三十日に行われたらい予防法廃止記念フォーラム“排除から共生への架け橋”(大阪・御堂会館)での講演を基に『おおやまと』編集部が構成したもの 鬱病で大学を休職した経験もある鶴見らしい言葉かな、とも思いますが、「内なる声」とは何でしょう? 私が考えるに、生命(いのち)の萌(もえ)=人間の声、ではないか。その声がからだの内から現れた時、壁の向こうから、遠い声が―私と同じ「人間の声」が、聞こえるのではないでしょうか。壁を打ち壊すことはできないかもしれないけれど、壁を越えてひびきあうような・・・。 そんな“からだ”で、私はありたいと願いますが、そのことは、また別の機会にお話できれば。今日は、ありがとうございました。 PS1:朝日新聞のインタビューで、最後に「療養所の将来は?」と聞かれた沢さんは、「まずは、最後のひとりまで安心して暮らせるようにすることです。ふるさとの家族のもとに帰れなかった魂を、どうお守りしていくのか。年1回の慰霊祭にだけ人が集まるようでは、忘れられてしまう。地元自治体が知恵を絞る。例えば、人権教育の場となるような公園にするのもいいでしょう」と具体的に提案しています。 一方、ブックレットの末尾は、あの明石海人の一文でしめくくられています。 PS2:10 歳の時に入所してから86年間、愛生園で暮らす宮崎かづゑさんの日常を描いたドキュメンタリー映画『かづゑ的』(熊谷博子監督)が、各地で上映されています。宮崎さんは78 歳でパソコンを覚え、80代で『長い道』・『私は一本の木』(みすず書房)を出版されました。詳しくは、web サイトをご覧下さい。 PS3:3月25日付けの朝日新聞では、沢さんが、植民地下の朝鮮につくられた療養所を韓国の小鹿島(ソロクト)に訪ねた記事がのっています。そこには、貞明皇后の歌碑が巨大な石垣の上に据えられていました。歌は、削られていたそうです。「日本の療養所では見たことのないような頑丈なスタイルです。患者は歌碑をはるかに仰ぎ見る形になります。植民地を支配する権力の威圧を感じます」と沢さんは語っています。 ■2024 年2月15 日、NHK 広島NEWS WEB〈ガザ地区の戦闘中止を生徒がキャンドルで訴え 福山市〉 ガザ地区でイスラエルの軍事作戦が続く中、福山市の学校で生徒たちがキャンドルに火をともして戦闘の即時中止を訴えました。 福山市の盈進中学高等学校では生徒会の呼びかけで14日夕方、学校の中庭に約500人の生徒が集まりました。 参加者が約500本のキャンドルに火をともすと「ガザ地区での大量虐殺をやめろ」という意味の「STOP GENOCIDE IN GAZA」の文字が浮かび上がりました。 そして、生徒会長で高校2年の梶山一歩さんが「罪のない多くの市民の命が危険にさらされ、奪われている。平和を1人でも多くの人に広げていくことが私たちの使命だ」などと訴え、戦闘の即時中止を求めました。 その後、参加者全員で黙とうして戦闘の犠牲者に祈りをささげました。(後略) ■2024 年2月24 日、アメリカ・ワシントンのイスラエル大使館前で、一人のアメリカ人青年が、「I will no longer be complicit in genocide.」と語ったあとに、焼身自殺をとげた。最期に「Free Palestine. Free Palestine. 」と叫びながら―――“Last Words” (3) 無々々:では、始めましょうか。今日もよろしくお願いします。 Aさん・Bさん:よろしくお願いします。 無々々:楽天堂は自然食品店なので、健康やからだに気をつけている人が多いように思います。そんなお客さんとの会話の中で、「体の声を聞く」という言葉を耳にすることがあります。「体の声を聞く」って、どういう― ――その時、外でカラスが「かー、かー、かー」と鳴く。 無々々:今カラスが鳴きましたが、あの声のように聞こえるわけではないでしょう。みなさん、どう思われますか? Bさん:よく分かりませんが、体が求めているものが分かる、っていうか。食べたいものが、食べたいなって、感じることですか? でも、それって特別なことじゃないような・・・ 無々々:そうですね。Aさんはどう思いますか? Aさん:私もいろいろな場で聞きますが、自分でも使っているし。あらためて聞かれると、どうなんだろうと。普段は何も意識しないです。 無々々:日常生活では、そうでしょうね。何か特別な―例えば、病に倒れるとか、事故にあうとか、何かなければ。ここで、考えるヒントに、前にも一度紹介した心理学者の河合隼雄が、面白いことを言っています。『物語とたましい』という本から、読んでみます。 ――無々々、用意してきた本をひろげて読む。Aさん、一緒に連れてきたCちゃん(生後十ヶ月)がグズリはじめたので、立ってあやしながら、聞いている。 「いつだったか、ロシアの宇宙飛行士のレべデフさんと話し合いをしたことがある。宇宙飛行を二百日以上も続けた人だ。実はこれは大変なことで、自分の健康管理によほど気をつけていないと地球に帰れなくなってしまう。一例をあげると、無重カ状態で生活しているので、相当な身体のエクササイズをしないと筋肉が弱くなってしまって、地球に帰ってきても歩くこともできないような体になってしまう。それに夜も昼もないような生活だから、睡眠時間の確保も難しい。そんななかで、ニ百日以上いたのだから、どれほど規則正しい生活をしなくてはならないか。それこそ鉄の意志をもって生活を律してきたのであろうと思った。そこでその点について訊(き)いてみると、案に相違して次のような答えが返ってきた。 レベデフさんは、言うならば「体の声」に従って生きていたのだ、と答えた。仕事をしていると、何だか体のほうが「エクササイズがしたいな」と言ってるような気がする。そうするとそれをする。しばらくすると体が「もう止(や)めたいな」と言う。それに従ってやめる。こんな調子なので、エクササイズがニ時間のときもあれば、三十分のときもある。睡眠時問なども、まったく不規則である。しかし、それらは、レベデフさん流に言うと、「自分の意志ではなく、体の声に従ってやった」ことになる。そうすると苦痛は少ないし、長い問、宇宙空間にいても、心身の健康を保っておられるのである。 これには感心してしまった。「体の声」に従うとは凄(すご)いことだ。そこで私はつっこんだ質問をした。「地上に降りて生活していても、体の声は聞こえてきましたか」と。レベデフさんの答えは「ノー」であった。そこで、私は「地上に帰ると奥さんの声がよく間こえてきたでしょう」と冗談を言ったので、レベデフさんは愉快そうに笑った。 養生術の最高は、おそらく「体の声」に従うことではないか、と思う。しかし、おそらくそれは日常生活のなかでは不可能であろう。日常生活のなかの物音や声が聞こえすぎるし、それに注意を払わなかったら、この世に生活していくことはできないであろう。しかし、「なるベくなら、体の声に従おう」と思うことぐらいはできるだろう。そして、レべデフさんの列が示すように、極限状態のほうが、それが聞こえる可能性は高いはずである。つまり、ほんとうに危険なときは、体からの信号があるはずだ。」(『河合隼雄 物語とたましい』平凡社 pp.207-209) Bさん:地球にもどればタダの人っていう(笑)。 無々々:宇宙飛行士という特別な訓練を受けた人でも、ね。僕が面白いと感じるのは、日常生活では「体の声」を聞くのは不可能だと河合は言ってるんだけれども、「日常生活」を「日常的身体」と置きかえたら、そうだろうと思うし、最後に「体からの信号」って言ってるでしょ。それを、「からだの勘覚」=気と置きかえたら、可能性なきにしもあらず、ではないでしょうか。ここで行っている、稽古の眼目そのものですが。 ――Aさん、うなずく。 無々々:では、実際に稽古に入りましょうか、からだの声を聞く。 ――と言いながら、無々々は立って隣室から、用意してきた食材を各自の前にならべる。パックご飯・あおさ・練り梅・さきいか・チョコレート・人参・バナナ・レモン・くるみ・ノンアルコールビール・トマトジュースの11種類。AさんもCちゃんを抱えてすわる。 無々々:山海の珍味です(笑) Bさん:(チョコレートとノンアルコールビールを指さして)これ、楽天堂の商品ですよね。 無々々:はい。後は生協で購入したものばかりです。本当はここに、作った料理とか、市販の、農薬や添加物がテンコモリの加工品も並べたらいいんですけど。そうもいかないので。 ――無々々はまた立つと、黒板とチョークを持ってくる。 無々々:まず、第一印象で「食べたいな」「飲みたいな」と思ったのは、どれでしょう。Aさん? Aさん:トマトジュース、少し喉がかわいていて。 無々々:Bさんは? Bさん:私は、何となく、チョコレートです。 無々々:僕は、朝ご飯まだ食べてないので、パックご飯ですね。あれ、Cちゃん、もう手をのばしてる。 Bさん:人参にバナナにレモン、はっきりしてますね(笑) 無々々:加工品じゃないんだ、う~ん。それでは、と― ――無々々、黒板に図を描く。 無々々:内観技法では、三つの心を措定(そてい)しています。皆さんがいまあげてたものが、どの心が求めていたのか、以前おこなった“一人オーリング”で確かめてみましょう。一人オーリング、覚えてますか? 左手に食材を持ち、右手の親指と小指の指先で輪をつくります。(二人を見ながら)そうです。それから、左手の食材を順に、頭は後頭部の中央、胸と腹はそれぞれの中央にあてて、〈裏〉の吸い切る呼吸で息を吐きながら「あ・い・う・え・お」と発音し、はらの玉も内間和(うちまわ)りに回転させます。そうすると、からだが欲している時は、ぐうっとですね、握り拳になってくる。〈裏〉の勘覚は、外から内へ、つながる勘覚“わ”(輪・和・環)ですから。逆に求めてない時は、こうやって開いてくる。強いときは、何か放り投げるような動きも生まれてくるかもしれません。〈表〉の勘覚、内から外へ、わかれる勘覚“こ”(個・己・孤)です。 では、始めましょう。目を閉じて、どうぞ。 ――三人、それぞれ内観をする。ややあって― 無々々:それでは、息を吐きながら、片目ずつ目を開けて下さい。あ、Cちゃんがバナナを食べてる、皮ごと! Aさん:すみません、畳をよごしちゃって。 無々々:古新聞があったから、それを下に― Aさん:紙もなめるんです、このごろ。 無々々:じゃあ、布巾を。 ――無々々は立って、台所から布巾をとってくる。 Bさん:(笑顔で)おいしそうに、食べてる。 無々々:バナナは、食べさせてるんですか。 Aさん:いえ。 無々々:離乳食は、何を? Aさん:特別なものは、作ってなくて。同じものを、やわらかくして。 無々々:う~ん、調体っ子、って言うんだろうか。お腹の中にいる時から稽古に参加してて、初めてでも分かるんですね。おいしいかどうか。他のものには手を出さず、人参とレモンも舐めてる。はあ。 で、どうでしたか。 Bさん:私は、頭はちょっと離れて、胸はついたままで、お腹は少し開きました。 無々々:そうですか、甘いものは好きだけど、今は、っていう感じなのかな。Aさんは? Aさん:頭と胸は、それほど動かなくて、下で―お腹で、ぐうっと閉じて。 無々々:そうですか、じゃあジュース差し上げますから、稽古の後で、飲んで下さい(笑)。僕は、何故か頭の憶(こころ)で開いてですね、胸の情(こころ)と腹の性(こころ)では、ぼちぼち、でしたね。あれ、炭水化物を急にとると、血糖値の急上昇って、言われてるでしょ。その先入観からかなあ(笑)。 ――二人、笑う。この後、(1)初見で「No thnak you」と思った食材を同じように内観、(2)本来のオーリングテストのように、二人で手をつないで内観の稽古を行ったが、紙面の都合で割愛。 Aさん:(あいかわらずバナナを口に入れているCちゃんをあやしながら)あの、質問があるんですが。 無々々:どうぞ。 Aさん:だいぶ前に一度、オーリングテストを体験したことがあるんです。その時は、確か、親指と人差し指で輪にしたような記憶が・・・。 無々々:ええ、一般的には、そうですよね。でも僕は、親指が〈表〉の勘覚の代表、小指が〈裏〉の勘覚の代表で、二つを合わせた方がいいように思うんです。人差し指は、〈表〉と同じ一族。何しろ、人を刺す、ですからね(笑)。 僕が少しかじった新陰流では、木刀を、親指と人差し指は使わずに、残りの三本指で握るんですよ(と、手の型をつくってみせる)。つまり、気力で振るうんです。親指と人差し指は、肉体の腕力です。 日本人はあまりこういうポーズはとらないけど、アメリカ人は「good!」って、親指を立てるでしょ。逆に子どものころ、よくしませんでした? 小指と小指で「ウソついたら、針千本、の~ます。指切った」って。 ――二人、うなずく。 無々々:やくざも小指を落とすし、恋人同士は、小指と小指をからませて― Bさん:無々々さん、今時そんなことしませんよ。それ、昭和、です。 無々々:(あわてた様子で)そうかなあ。まあいいでしょ。何を言おうとしてたんだっけ―そうそう、Cちゃんを見てて(Cちゃん、あいかわらず、バナナをしゃぶっている)思い出したことがあるんです。ちょっと待ってて下さい。 ――無々々、隣家の楽天堂に向かい、本を一冊手に、もどってくる。 無々々:皆さんは女性だから、麻雀(まーじゃん)はしないでしょうね。 ――二人、首を横にふる。 無々々:僕も麻雀は知らないんですが、その界隈では「雀鬼(じゃんき)」とおそれられた桜井章一(さくらい・しょういち)さんという人が、本で、こんなことを書いてるんです。読んでみますね。 「みな相手を倒そうとする時、まずは頭で考えて、理論的にここを押せば相手は倒れると考えて挑む。物を動かすには力が必要だと勉強で教わったことが正しいと思い込んでいる。しかし実際は、物を動かすのに力はいらない。 まったく力を入れないで相手を倒せるというのは、いわば感覚のようなものだ。この感覚を得るためには、自分を過去へと戻さないとならない。先端の便利なほうへ行こうとしたり、知識に行こうとすれば感覚は取り戻せない。 一流の大工はけっして先端に行こうとしない。原点へ原点へ戻ろうとする。先端の技術のほうへ取り込まれないで、過去へ過去へと戻っていく。 人間というのは、物事の原点、いいかえれば自然から学んでいた。たとえば、魚の動きを見たり、鳥の動きを見たりしながら、自然とともに生きていた。つまり、体の感覚は動物の動きを学びながら、取り戻すことができる。(中略) 小さい子どもはみんなやわらかく動く。そうした過去の感覚を取り戻すことだ。子どももいつしかそれを忘れ、何かやるにもだんだん力が出てきてしまう。しかし、力を入れるということは、むしろ自分が不自由なほうへ不自由なほうへと向かわせているだけなのだ。 力は捨ててしまったほうがいい。力などなくても若い人に負けることなどない。それには、テクニックを覚えるのではなく、過去に戻るという感覚を取り戻すことだ。それは赤ん坊の頃ではない。赤ん坊ですら、すでに両親の動きが入っている。生まれるもっともっと前、それこそ人間が発生する前くらいの根源の感覚にまで戻ろうとする意識だ」(桜井章一『みっともない男にならない生き方』フォレスト出版 pp.139-141) 無々々:桜井さんの言う「過去の感覚」というのが、僕は内観技法の〈裏〉の勘覚だと思うんです。Cちゃんを見てると、誰しもそういう原初の勘覚っていうのかな、持ってきて生まれてきたはずなんだけど、いつしか錆(さ)びついてしまった。だから稽古っていうのは、つくづく、何か知識やハウツーを身につけて自分に箔を着せるんじゃなくて、逆に、錆びついたものを、削(そ)いで削いで削ぎ落としていく営みではないか、と思います。 子育てって、まさに親育て、ですよね。 Aさん:この子は、上の子にくらべて、欲求がはっきりしてるような。 無々々:末、たのもしいな。食べることに関して言えば、整体協会の野口晴哉は、「頭であれこれ考えずに、食べたいものを食べろ」と、バカの一つ覚えのように言っているんです。僕はそれを真に受けて、「食べたいものを食べりゃあいいんだ」と、バカに輪をかけてジャンクフードやカップラーメンをぱくぱく食べていたら、大腸ガンになってしまいました。痛い目にあった。 Bさん:時代が、違うんじゃないですか。 無々々:ええ、野口は明治生まれで、農薬や食品添加物の問題はなかっただろうし、こう言っては何なんですが、生き残った人間は、強い人たちだったと思うんです。乳幼児の死亡率も高かったし、戦争も、くぐってますからね。 僕は“一人オーリング”、食べものだけでなく、スーパーで買い物をする時にも、ひそかに行っています。皆さんも、日々の生活で、役立ててみて下さい。 そろそろ時間ですから、最後に一言ずつ、感想を。Bさん。 Bさん:以前の稽古で、雑貨とかをただお腹にあてた時より、楽しかったです。ただ、胸の情(こころ)が、いまいち、よく分からなかったです。 無々々:そうですね。胸は、頭と腹の間で、バランスをとろうとしているんじゃないでしょうか。(と言いながら、黒板に白いチョークで、○-△-□の絵を描く)ちょうど、このシーソーの支柱のように。僕たちの苦しみも、そこにある・・・。Aさんは、どうでしたか? Aさん:バナナ、ありがとうございます。私も頭であれこれ考えてしまうタイプなので、子どもたちに選ばせた方が良いのかな、と思いました。 無々々:バランスですよね、あくまでも。今日はCちゃんも稽古に参加してくれてたのしかったですね。では、終わっていきましょうか。ありがとうございました。 Aさん・Bさん:ありがとうございました。 ――以上、〈調体―からだのしらべ―〉の稽古会@からこと舎での、ある日の稽古風景でした。 ※ 宝満寺*にて、由良の法燈国師*に参禅し給ひけるに、国師、念起即覚の話*を拳せられければ、上人かく読て呈したまひける となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして 国師、此歌を聞て「未徹在*」とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾・薬籠*を附属して、印可の信*を表したまふとなん となふれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏 *宝満寺 神戸市長田区東尻池町に現存。 *由良の法燈国師 由良は和歌山県日高郡由良町。法燈国師、諱(いみな)は覚心。信濃国神林の人。建長元(一二四九)年春入宋、居ること五年、同六年帰朝し、正嘉二(一二五八)年由良に西方寺を建立、永仁六(一二九八)年九月、九十二歳をもって示寂(じじゃく)した。 *念起即覚の話 参考『無門関』(西村恵信訳注 岩波文庫)187-189p *未徹在 未だ徹底した悟りに入ってはいない。 *手巾・薬籠 手巾は手や顔を拭う布、薬籠は薬のはいっている籠。 *印可の信 印信認可のしるし。禅宗では、師家(しけ)が学人の心地を洞観して、機法の円熟したものに証明認可するを例としている。(大橋俊雄校注『一遍上人語録』岩波文庫 pp.65-66) (4) 崩れ落ちぬ 瓦礫(ガレキ)を手に 言葉は何処(どこ)へ 九十六歳の義母は、今、サービス付き高齢者住宅(サ高住)で暮らしている。昨年までは家で独り暮らしをしてきたのだが、二度の大腿骨(だいたいこつ)骨折を手術・リハビリで克服し、子どもたちのアドバイスも受けてサ高住に移り住んだ。この施設は家に近く、環境も良く、何より三度の食事を厨房で手作りしているのが特徴である(高額な費用のかかる施設でも、冷凍食品をチンするだけの食事を出すところが多いそうだ)。 義母は何より食事がおいしいとよろこんでいて、千晶が毎朝電話するたびに、「ありがとう、ありがとう」という返答が聞こえてくる。定員四十名の静かな建物の個室で、義母は、テレビを観たり、日に何度もお経(般若心経)を唱えて過ごしている。「さびしくないのかな?」と思うが、「お父さん(夫のこと)に護られているのよ。今がいちばんしあわせなの」。 中小企業の経営者の妻として、何十年も“身を粉にして”働き、人生を夫のため、会社のために尽くしてきた義母には、そうなのかもしれない、と納得する。乳幼児のように世話される受け身の存在となって終焉(しゅうえん)を迎えようとしている義母にとって、この場が自己救済・自己解放の場なのだろう。般若心経を読む―声に出すことが、こころのささえになっているのだ。 ※ 日本人にとって、歴史的文化的宗教的に、もっとも称(とな)えられ唱和されてきた言葉は、「南無阿弥陀仏」ではないだろうか。 日本における民芸運動の提唱者・柳宗悦(やなぎ・むねよし 1889- 1961年)は、晩年、民芸品(日常的に使われる工芸品)の作り手である民衆の宗教的なバックボーンとして、浄土宗―浄土真宗―時宗と続く念仏宗の意義をあきらかにした。彼の著作『南無阿弥陀仏』(岩波文庫 1955年刊)のカバーには、次のような簡潔な紹介文が付されている。 「南無阿弥陀仏という六字の名号が意味するものを説き明かしつつ、浄土思想=他力道を民芸美学の基盤として把え直した書。なかでも、日本における浄土思想の系譜を法然―親鸞―一遍とたどり、一遍上人をその到達点として歴史的に位置づけた点は注目される。柳宗悦晩年の最高傑作であり、格好の仏教入門書である。」 この本を読みはじめて「八 凡夫」まできたとき、私は七十年前の著作とはおもえない“親近感”をかんじてしまった。 「実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。如何(いか)なる時世に住むとしても、これ以上の劣悪な時世があろうはずはない。この意識なくして宗教は成り立たぬ。『往生要集』の著者は、その「濁世末代」云々と述べた。今の吾々(われわれ)にとっては今ほど醜悪でみじめな時代がかってあったとは思えぬ。私は何も目前に迫る貧苦や戦争の恐怖だけを見ているのではない。心の貧困、文化の俗臭は、今に至って最もひどい。道徳的にもこんな廃頽(はいたい)した時代が他にあろうとは考えられぬ。昔の人は「厭離穢土(おんりえど)」といったが、誠にこの地上のこの現下の生活が何より穢土なのである。だから「欣求浄土(ごんぐじょうど)」たらざるを得ぬ。この穢(きたな)い国土を何とか厭(いと)い離れて、浄(きよ)い王土を欣(ねが)い求めるのである。穢土にいたままではどうにもならぬ。安心して活(い)きていられる浄上が欲しい。仏教における浄土門はこの切な求めに答えようとするのである。穢土とは何なのか。二相に堕(お)ちて相争う世界である。浄土とは何なのか。不二に座して相和する世界である。末法の今日、何としても浄土を示す宗教がなければならぬ。」(同上書 p.80) 民主党の代表選や自民党の総裁選も終わり、総選挙がちかづいている。街を歩くと、政党や立候補予定者のポスターが目にはいってくる。その中に一枚― 〈伝えよう 美しい精神(こころ)と豊かな自然(こくど)〉 「Who are you?」「I am 西田昌司(にしだ・しょうじ)、京都府選出の自民党参議院議員です。税理士から京都府議を経て、父の後を継ぎました。信条としているのは、故・安倍総理が唱えていた〈とりもどそう 美しい国日本を〉です。そのために、日本会議・神道政治連盟に所属し、憲法を改正して「教育勅語」に示された建国の精神を実現すべく、日夜奮闘しています。今私が最も力を入れているのは、北陸新幹線の京都延伸です。共産党などの抵抗勢力は「大深度の工事による自然破壊」などとうそぶいていますが、日本の技術力をもってすればそんなことは杞憂に過ぎません。与党プロジェクトチームの座長として、私が断言いたします。インバウンドともあいまって、京都の彌榮(いやさか)、疑問の余地がありません。え?!、安倍派のパーティー券、411万円の還流問題? 私は知らない間に巻き込まれ、「裏金議員」などとレッテルを貼られて憤りを感じています。派閥の幹部は、説明責任を果たすべきだ。秘書による判断とはいえ、私も道義的責任は痛感してます。で、何か問題でも?」 ロシアが行えば「侵攻侵略」ウクライナは「越境攻撃」、ハマスが行えば「無差別テロ」イスラエルは「爆撃爆破」―このダブルスタンダード(二重基準)!! 国会ではウソ八百の言い逃れに無責任答弁、街頭ではヘイトスピーチが横行し、SNSでは誹謗中傷&フェイクニュースがあふれかえる。本来の「売上税」が「消費税」とカモフラージュされて庶民と零細自営業者を苦しめ、なおざりにされた社会的弱者は立ち上がることもできず、権勢をほこる者たちはますます富み、栄え・・・日本文化共和体は、凋落の一途・・・。 柳が存命だったら、日本社会の現状に対して、何と言うだろうか――上に引用した文章に続けて、柳は次のように書いている。 「だが末世とは私の周囲を見ての嫌悪なのであろうか。それもしかりである。随処に醜悪な場面を見るからである。これを憤(いきどお)る者は何とか世相を改めようと心を燃やすであろう。こういう人々があることはどんなに有難いか分らぬ。公憤には道義が光る。しかし社会への憤りでは、まだ切実な宗教心とはいえぬ。自身へ向けられた嫌悪でない限りは、まだ穢土への見方はなまぬるいといえよう。私を囲(めぐ)る社会は、直ちに私自身の事ではない。厭離の想いが、何よりもまず我が心内の穢土に注がれる時にこそ、浄土への切なる欣求が湧(わ)き上る。このことなくば、まだ菩提心(ぼだいしん)が起ったとはいえぬ。考えると我が悪、我が愚はいうもおろか、我が善、我が賢そのものが、既に穢土なのではないか。どれとてニ見の妄想にさまよっていないものはない。ただ穢土の住民だというに止まらぬ。実にその主人たるに外ならぬではないか。何より現に今、自他の二を分けて、憎愛のさ中に沈んでいるではないか。日夜生死の巷(ちまた)に彷徨(さまよ)って、苦楽のただ中に迷い続けているではないか。この心内の二相をどうしたらよいのか。ニ相こそ穢相ではないか。実に求道の想いはここに根ざさねばならぬ。道心とは浄土への欣求を意味する。 それ故一切の宗教は、それが自力門であれ他力門であれ、自己心内の穢土、即(すなわ)ち妄執の穢土に嫌悪の念を起すことから発足せねばならぬ。それは何よりも自己の脚下の出来事である。他人の出来事どころではない。自己に巣喰う穢濁についてである。この末法の底下(ていげ)にある己れの妄執についてである。何よりもこの自己が急ぐべき問題である。」(同上書 p.121) 若き日の私は、こんな物言いには――柳の著作など読んだことはなかったが――反発しか感じなかっただろう。実際、20代から30代にかけて、私は生まれ育った横須賀で“正義の士”としてふるまっていた。正義の旗をふりつづければ、人々は後からついてきて、社会は変革される。それが自己解放を通じた自己救済だ、と信じて、市民運動・社会運動に挺身(ていしん)していた。だが、そうはならなかった。 「高柳さんの言ってることは、理屈では分かるんだけど、なんか腑(フ)におちないんだよなあ」―勤めていた高校の同僚から言われた言葉が忘れられない。グサッときた。そう、自分でもうすうす感じていたのだ。観念的で頭でっかち、あたまとからだが分離していたことを。最終的にはからだが悲鳴をあげて自己崩壊し、人生の転回点となった。正しいことが必ずしも人を動かすものでもない―社会的存在としての自己解放と生命的存在としての自己救済は(無条件で)イコールにはならない、という苦い教訓を得た。 それから十数年後、四十代なかばになっていた私は、整体と出会った。これではないか――宗教の信仰ではないが、からだの中の生命力を信じること。そこに自己救済を通した自己解放の可能性を感じたのだ。私は整体協会の稽古にうちこんだ。当時住んでいた山口から京都まで月一で通い、京都に移住してからも熱心につづけた。私のからだの勘覚は、すこしずつサビがとれてきたと感じていたが、同時に疑念も生まれてきた。 というのも、非日常の場で稽古すること自体には意味があるが、日々の暮らしと断絶してしまっては、社会性を失った単なる“趣味、道楽の世界”に堕してしまうのではないか、と危惧を覚えるようになったのだ。実際、平日の昼間に、遠くは北海道や九州から二泊三日の講習会に参加できるのは、お金と時間に恵まれた階層だろう。自分が受けたものを、社会(文化共和体)にどう還元するか?という視点を、欠いている(ように見えた)稽古仲間も、少なくなかった。十年で、私は整体協会から離れた。 私が求めていた(今も追求している)のは、車の両輪である。生命的存在(=死すべき人間)としての自己救済(往生)と、社会的存在(=共和体の細胞)としての自己解放(共生)を、どちらも欠くことなく感じ・考え・動くこと。六十九歳になった私は、生業(なりわい)として豆屋を営みながら、ライフワークとしてからだの勘覚を探求している。小さなコミュニティでの活動である。 そんな私にとって、『南無阿弥陀仏』の中に共感する文章を見い出した。柳は書いている。 「彼(引用者注 親鸞のこと)はために、同じ罪に泣くもろもろの人々の友となろうとしたのである。彼は在家の信徒の一人として立つことに新しい意義を感じた。それ故後代真宗に寺僧が現れたのはおかしい。寺を持つ僧として妻をめとるのは、親鸞の道ではあるまい。非僧非俗と僧而俗(そうじぞく)とは異るのである 。だから宗祖の道を踏む限りは、真宗が寺院をもつことはもともと矛盾があろう。ただ道場でよく、その場主は在家の者でよい。ここにこそ真宗の面目があるはずである。今の法主の如く、真宗僧の如く、寺を持ち僧を名のって、妻帯するのは、親鸞の意志にそむくであろう。誠に非僧非俗ということが、新しい一宗の骨髄なのである。だがこれは罪への真実な反省を伴わねばならぬ。かくてこそ在家の友としての宗派であろう。凡ての在家は因縁によって僧たることが出来ないのである、しかも法を求める身である。これに応ずるものこそ、非憎非俗の教えではないか。親鸞において浄土宗は一段と在家の中に入ったのである。在家の一人として立ったことに、真宗の発足があり、その意義があったといえよう。それ故真宗は寺院や僧侶による宗派であってはなるまい。もしこのニつを執持するなら僧は須(すべか)らく戒を守ってよい。寺は須らく世襲を破ってよい。さもなくば仏法の権威は保持出来ぬ。真宗の今の衰微は非僧非俗の切実な体験に根ざさぬことにあろう。今の如く僧にして俗なのは、かかる体験を欠くためではないか。」(同上書 pp.226-227) 法然上人のように僧としての志を抱いたわけではなく、一遍上人のように徹した生き方もできなかった凡夫(の一人)の自分には、親鸞上人が示した道しか残されていない。三十過ぎに四国遍路を歩いた際、私は般若心経ではなく「南無阿弥陀仏」の六字名号を称えていたが、三上人が躍動した時代から時をへた現代の日本社会で、「ナムアミダブツ」が人口に膾炙(かいしゃ)するとは思えない――正直、手垢(てあか)がついてしまったのだ。私自身、どこかの浄土系教団に属しようとも思わない。 では、何を柳の言う道場――楽天堂の場合は、〈調体―からだのしらべ―〉と名づけた稽古会――の基軸にすえるのか? 飛躍するようだが、私は「母音」発声だと考えるようになった。言葉-音声は、生命的存在と社会的存在という二つの車輪をつなぐ車軸ではないか、と私はみなしている。言語には、はら(の勘覚)に相当する身体性(音声・勘覚)と、あたま(の勘覚)に相当する記号性(文字・意味)の複雑な重層性がある。が、現代の電脳社会では、いちじるしく記号-形式1・2・1・2にかたより、「言葉はからだから生まれた(生まれる)」という基(もとい)がなおざりにされているのではないか。 歌手の三波春夫(みなみ・はるお、1923- 2001年)は、「声はその人の魂の音色」という色紙を遺した。からだの内から現れる“いのちの萌(もえ)”が、声―言葉になって他者(の魂)と共鳴し、社会がふるえる・・・。十代に失語症になっていらい「まことの言葉」をさがしつづけて半世紀。言葉の崩壊する時代をまのあたりにして、私は、「あ・い・う・え・お」までもどる、降りてゆく稽古に、賭けている。 「唱えれば 我も汝(なんじ)も無かりけり あいうえお あいうえお」(無々々) P.S.調体の内観技法では、はらに5つの玉(調律点)を措定し、玉が間和(まわ)ることによって母音が発生するととらえている。 |