竹内敏晴を、再び
[2020・04・29]



 私は毎朝、ウォーキングをかねて近くの北野天満宮へ参拝に行っているが、今朝(4月29日)ある法華宗のお寺の前を通ったら、門前に日蓮の法語が掲示されてるのが目にとまった。

 「(妙法蓮華経の)
妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」『法華経題目抄(ほけきょうだいもくしょう)
 「
過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」『開目抄(かいもくしょう)

 甦る―黄泉
(よみ)帰る―(精神的な)死と再生の物語・・・。
 この春、コロナウイルスの影響で〈からだとことばを育む会〉の稽古を休んでいる間、私は、演出家・竹内敏晴
(たけうち・としはる 1925-2009)の著作を三十年ぶりに読み返していた。若き日の一人の人間との出会いが、その後の人生の原点となったことを、今一度、再確認するために。

 二十代から三十代にかけて、私は、何に苦しんでいたのだろう? 当時の私は、竹内が、哲学者・森有正
(もり・ありまさ)の『生きることと考えること』(講談社)を援用して語っている、“青年”の姿そのものであった。

 「
森有正は、パリはセクシュアルだ、と言う。『セクシュアル』とはせまい意味の性欲をそそるという意味ではなく、『もっと人間の全感覚がそれに向かって注ぎかかってゆくような』『ある対象と、性欲という観念によってしか表わせないような情意のかげをおびた関係に入るということです』。そのような対象との交渉のしかた、『それが私はほんとうに人間的な交渉だと思うのですけれども』それを森は『感覚の目ざめ』と呼ぶのだが、それが東京ではほとんど成立しない、と。(中略)

 
自分の全存在がその相手とつながってゆくような、この、なまなましい、激しい、直接的な対象の『所有』こそが、(性行為も含めて)青年のからだが渇望している他者へのふれ方であり、生を充溢させ、生きることの根底を形成する最も美しい情熱であり、からだに深い統一をもたらし、主体としてのからだを獲得する出発点なのだ」(『子どものからだとことば』晶文社 pp.71-72)

 『子どものからだとことば』

 一言でいって、あたまとからだが乖離
(かいり)していた私は、他者とのふれ合い(と自己救済)をもとめて、32歳の夏、朝日カルチャーセンターで開かれた〈からだとことばのレッスン〉に参加した。一週間の竹内レッスンの中ほどで体験したことを、十数年を経て、私は次のように書いている。

 (大学を出て9年勤めた)高校教師を辞めるか辞めないかの頃、私が貪るように本を読み、ワークショップにも参加した人に演出家の竹内敏晴さんがいます(人となりについては省略)。
 竹内さんの『子どものからだとことば』(晶文社)という本の中で、こんなエピソードが紹介されています。

 「
いわゆるエリート大学の学生のからだは、激しい受験戦争から予想されるギラついた緊張を、意外なほど示していない。奇妙に明るくのびやかである。いわば少年のからだがそのまま拡大したかのような素直さでそこに立っている。ところが、たとえば、レッスンの場で、力を抜いて横たわった青年の手を私が持ち上げようとして近づく、と、スッと下から先に手が持ち上がってくるのだ。何度試みても同じである。そんなことをする必要はない、と指摘してもからだはピクピク動いている。指示者の意図の結果を先取りして素早く反応しようと身構えているからだが露われてくるのだと言ってよいだろう。(考えてみれば、試験制度というものは、いかに出題者の意図を予測するかの競争に違いない。全エネルギーをそれに注ぎこんだからだが、過剰反応に仕上げられているのは当然であり、これは官僚に期待される最上の能力なのだ。)レッスンを進めてみると、かれらは、ある限度以上深い集中に入ることがきわめて困難であることがわかってくる。そこから先へ踏みこめば日常と違う自己がむき出しになるだろう境界線に近づくと、かれらの防衛は頑強になる。かれらは他者のための存在であり、自己が自己として現われるのを怖れるかのようだ」(同上書 p.68)

 何を隠そう、私がそうでした。エリート人間では決してありませんでしたが、竹内さんのワークショップで同じような体験をしています。

 (前略)二人一組になって1人が床に寝そべり、もう1人が1時間半近くかけて相手の体をほぐすというレッスンです。私の相手は四十代の女性でした。まず私が寝そべり目をつぶり・・・自分ではリラックスしているつもりでしたが、二度ほど竹内さんが近くに寄ってきて「この人(=私のこと)はあなたに合わせようとするから」とおっしゃるのが耳に聞こえました。

 滂沱
(ぼうだ)の涙が流れてきました。ああ、自分では好き勝手なことをしてきたと思っていたけれど、他者(ひと)に合わせて生きてきたんだなあ、と。

 言葉で「おまえはこれこれだ」と言われても、「何言ってんだ」と反論できますが、自分の体を通して如実に示されると、ぐうの音も出ませんでした。(後略)――豆料理クラブのメーリングリスト〈100年計画〉2005年の投稿から 

 レッスンでのもう一つの体験を、自分の生い立ちやその後の人生もあわせて、さらに数年後、私は次のように綴った。

 (前略)何を隠そう私も、二十年近く前、〈型〉を見出そうと苦闘していました。職業としての高校教師&平和運動の活動家という自画像は抱いていたのですが、意識的な存在としての“わたし”と身体の欲しているものの乖離が、次第に露わになって飽和点に達しようとしていたのです。三十過ぎてなお男として一人前に結婚して家庭を持つこともできず、未だに自分に確信(芯)を持てない焦りと苛立ち・・・。

 私の父はいわゆる戦中世代で、予科練で終戦を迎えていました。本人が言うには、「特攻に往く手前だった」そうです。十代の後半、これから人生設計を描いていく時に時代の嵐とはいえ価値観が180度転換する体験を余儀なくされ、背骨をへし折られた人達の一人です。父は息子に、男はどう生きたらよいか、父親のあるべき姿を伝えられませんでした。自分を保ち、家族を養うだけで手一杯だったのではと思います。

 今から振り返れば、私は自分の規範となるべき型を体現した人間(いわば“師”とも呼ぶべき存在)を必死になって求めていたのでしょうが、周囲には見出しえず、他人
(ひと)には語れぬ深淵を抱えたまま、飢えて彷徨(さまよ)う獣のように体に関わるワークショップを経巡っていました。

 演出家の竹内敏晴さんが主宰する〈からだとことばのレッスン〉に参加した時のエピソードを書きます。5日ほどのワークショップの最終日でした。「対角線の出会い」というレッスンが行われました。フロアに10m四方ほどの場を区切り(別にテープをはるようなことは何もしませんが)、そこに二人の人間が向かい合って立ち、感じるままに動く。何をしてもよい。ただし言葉は使わない、というものでした。他の参加者は周囲に座って見守っています。

 四十歳前後の男性が指名され、手を挙げた二十代の若い女性との間で最初のレッスンが行われました。終始にこやかに笑みを浮かべる男性に対して、女性の方が何度か関係を持ちたいという素振りを示しましたが、年上の異性ということもあって遠慮が先立ち、男性も積極的に応じないまま、不完全燃焼のような形で終わりました。

 すると竹内さんが男性は残して別の三十半ばの女性を指名しました。年齢が近づいたためか、今度は男性が歩み寄って行きました。手をとるような仕草をしようとした瞬間――いきなり女性が平手打ちをくらわせたのです。男性の眼鏡が床に飛び落ち、会場にビビッと緊張の糸が張り巡らされ、男性の顔から微笑が消えて初めて真剣な表情になりました。

 その後の展開はよく覚えていないのですが、最後は二人がハグして終わったような記憶があります。講評で、竹内さんが“種明かし”をしました。「何のためのレッスンなのか。この人をこのままでは帰せない、と思った」――竹内さんはそれ以上語りませんでしたが、男性は牧師だったんですね。

 隣人愛を説く職業柄かいつもほほえんでいるけれど、身体は他者の存在を受け入れていない。向き合うことすらできてない。この意識と身体の隔絶・・・。彼にとっては一種の死刑宣告だったかもしれません。その後も牧師を続けたのかどうか――辞めるにしても担い続けるにしても、どちらもいばらの道であったことは想像に難くありません。それは、他人事ではない、私自身にも重い体験となりました。ガシッと両肩をつかまれて、「おまえは何をうわべばかり取り繕ろおうとするんだ。生きているという実感を、この手に握りしめたくないのか」と激しく揺さぶられるような・・・。

 『ことばが劈(ひら)かれるとき』

 竹内さんは『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)のあとがきで、次のように述懐しています。

 「
『からだ』の問題に手をつけることは、地獄のカマのフタを開けるようなものだ、と私は思う。目に見える、この肉体の奥深くうごめくものと、出会い、呑み込まれ、あるいは導かれつつ、それを超えること、それは容易ならぬ、古の人が悪竜との闘いと象徴したに値する事業に違いない。」(p.300)

 私もご多分に漏れず、そのワークショップが人生の転換点となって、勤めを辞め、四国をお遍路して回り、横須賀から熊野に移り住んで、周囲からは気が違ったと評され・・・思い描いていたレールは大いに曲がり、いえレールからころげ落ち、今は京都の下町で豆屋を営んでいます。

 では私は、あの時の体験から型を我が手に掴んだのか?いいえ、そんなことはありません。更に二十年近い時間が必要でした。結婚し、子どもをもうけ――それでも腰が定まらなかった私は、非現実的な沖縄への移住を考えたり、華々しい“作家デビュー”を夢見たりと、フラフラフラフラしていました。整体と出会い、稽古をつづける中で、型というもののかけがえのなさをようやく感じられるようになったかな、というのが正直なところです。

 例えば・・・私は剣術も習っていますが、それは流祖によってすでに型が創られており、後に続くものたちはただひたすら深めるだけなのです。そこにはオリジナリティーや創作といったものが入る余地は全くありません。二十代、三十代の私でしたら自分が枠に押し込められるようで窮屈に感じたでしょうが、不自由の中の自由こそ(大風呂敷を広げて言えば)近代的自我を超える道ではないか、と思っています。

 なぜ剣は45度に(44度でも46度でもなく)振り下ろさなければならないのか?その角度が最も力のモーメントが生まれる云々という合理的な解釈もあるでしょうが、それが身体感覚から生まれた型である、からなのです。なぜ畳の縁を踏んではいけないのか?それは縁がへたるからetc.という実際的な理由もあるでしょうが、場を汚す=美しくない、という一言に尽きるのではないかと思います。頭(知識)ではなく、体感として理解できるかどうか。

 体の問題すなわち意識と身体のズレに気づくことは、世間的には竹内さんが言われるように地獄(苦海)に落ちる結果になるかもしれません。ですが、整体の稽古で、身体と身体が意識を越えたところで触れ合い私と他者の間に生命
(いのち)が交流して奇蹟としか名づけえぬものが顕(あらわ)れる瞬間を体験すると、堕ちてこそ浮かぶ瀬もあれ――この世の地獄とは、個(弧)に閉ざされた自意識ではないか、と思えてくるのです。そして浄土とは、苦しみつつ生きる人と人が観念ではなく身体で共に喜び共に悲しむ、文字通り共生(ともいき)の世ではないだろうか、と・・・。(後略)――『堂守随想』2008年記〈深く哀しみつつ、半歩前へ〉

 上の文章ではふれてないが、竹内さんとの一期一会
(いちごいちえ)ともいえる出会いがホップとなり、半年後の春、一人の女性との邂逅(かいこう)によって異性の力でステップし、最後に翌年の夏、別のワークショップで体験した、いわゆる野口整体の活元(かつげん)で、私はジャンプしてしまった。三段跳びの、「見る前に跳べ」――何処へ?

 “自由に生きたい”から、“自由を生きる”へ・・・。

 それは、良くいえば一種の啓示体験だったが、脳のヒューズがとんでブレーカーが落ちてしまった――だけかもしれない。(注1)

 余談になるが、四国をお遍路した後、「これからは歩く生き方をしよう」と、私は免許証を捨てた。後年、職安(ハローワーク)の窓口で、「資格無し、特技無し、免許無し」の三無しの履歴書を見た係りの人が、「う〜ん」とうなったことから、無々々と号するようになる。

 「
人と人との『出会い』とは、本来、非日常の深い次元においてのみ、真に成り立ちうるものであり、その時、人は、エネルギーを使い果すかと思うほどの生の充溢感を共有する。そして演劇における舞台とは、本質的にそのようなものなのである」(『子どものからだとことば』p.80)「深い『出会い』は人をまるごと変容させる。」(p.81)

 竹内敏晴という存在は、私にとって、子どもから大人へのイニシエーション(通過儀礼)を授けてくれたメンター(導き手・師)であった。人と人との出会いは、日常的には〈交換〉で終わり、悪しき場合には〈収奪〉に堕す。〈贈与〉に至るのは――残念ながら――希であろう。

 〈からだとことばのレッスン〉に参加し、彼の謦咳
(けいがい)にふれられたことは、私の人生の僥倖(ぎょうこう)である。私だけではあるまい。「対角線の出会い」の姉妹版である「砂浜の出会い」レッスンを経験したある男性カウンセラーは、次のような感想を述べたそうだ。

 「
直後にかれは『(相手役の女性と)あの世であってるみたいだった』と言い、後で『あの瞬間は私にとって永遠になった』と書いた」(『「出会う」ということ』藤原書店 p.215)

 ここで私は、敬愛する哲学者・鶴見俊輔の言葉を思い出す。2008年にNHK教育テレビで放映されたインタビュー番組〈鶴見俊輔――戦後日本 人民の記憶〉(注2)で、鶴見さんは次のように語っている。

 「
今86歳だから、非常に死ぬことが近いってるのは分かってるんだけれども、にもかかわらず、自分が今生きてるって感覚の中に、かけらとして、自分の中に、永遠がある。(中略)
 
永遠の感覚っていうのは、生きている感覚の一部としてある。最後の一息の中にもある

 整体協会の創立者・野口晴哉
(のぐち・はるちか)の言葉も、つけくわえたい(『偶感集』全生社 p.215)。

 
溌剌と生くる者にのみ深い眠りがある。
 生ききった者にだけ安らかな死がある。


 『偶感集』   

 

 竹内は、〈からだとことばのレッスン〉の方法論を、第一のステップ「世間性の自覚」、第二のステップ「感受性にめざめ、広げてゆく段階」=「気づきから表現へ」(『「出会う」ということ』p.190)と位置づけ、次のような項目を立てている。

・ひとにふれられないからだに気づく
・みずからのからだのこわばりに気づく
・からだをときほぐす
・からだの内に動くものを感じる
・感じるままに動く
・ものにふれる
・ひとにふれる
・他者に向かって働きかける
・声で働きかける
・ことばで働きかける
・からだ全体が深くいきいきと動く
(『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫 pp.158-159)(注3)

 三十年前には出版されていなかったこの二冊の本を初めて読んで、私が〈からだとことばを育む会〉の稽古会で行っている方法論と同じなのに、改めて驚いた。

 稽古会では、(1)現れる:内観技法の型(心眼・呼吸・元気)を深めながら、手真(いのちにふれる手)を育む。(2)表わす:からだの内から現れる“いのちのもえ”を、うたい・おどり・かたり・えがいて楽しむ。を、稽古の眼目にしている。

 整体は、手技
(てわざ)の修得が礎(いしずえ)にあるが、手に焦点をあてると、次のような三段階になるだろう。

 序:普段遣いの手(小手先)を否定して、意識的にはら・こしと手をつなげる
 破:手を肯定して、意識的に手にまかせる
 急:否定も肯定もせず、手が為すべきことを為す

 それでは、竹内レッスンのめざすものは、何だろうか。

 「
ここで行われるレッスンは、なにか有用な知識や技術を習得するためのエクササイズではない。あるひとつのエクササイズは、いわばリトマス試験紙のようにその人のからだや声のあり方を照らし出す。わたしはソクラテスに倣って『からだによるドクサの吟味』と呼び、半ば冗談に『からだによる現象学的還元』と言ったりもする。ある光にさらされる体験をしそれをもって世間にもどる時、世間は違った目でみえ価値観の落差に気づく。それに耐え、ひとりひとりがひとりで立って歩く力をめざす」(『「出会う」ということ』pp.177-178)

 これは、野口晴哉がめざしたこと、そのものである。演劇であれ整体であれ、道は違えども、稽古は“永続革命”の性格をおびてくる。

 「
青年が表現と出会いとを経つつ、ふたたび世界、社会との親和を獲得した時、人はそれを成人と呼ぶことになるのだが、そこには既成の社会秩序の受け入れを意味する側面がある。『対象とセクシュアルな関係に入る』ことは、しばしばそれと矛盾するだろう。主体としてのからだを奪回する闘いは、発展した次元において、またくり返されねばならぬことになる。表現を求めるとは、この闘いの謂であり、それゆえにくり返し青年であること、あり得ること、とも言えるのである」(『子どものからだとことば』晶文社 p.82)

 非日常の場での出会いから、日常の場でのふれ合いへ――自己と他者が、おのおの自己と他者を受容しつつつお互いに超克するという、edgeの上を歩むような道行きを、私の友人であった故・加藤哲夫
(かとう・てつお 元せんだい・みやぎNPOセンター代表理事)は、「闘いなくして共同性なし」という名言を遺した。

 「
今になってみると、私の生を貫いてきたたった一つの願いは、ただ『じかに、そして深く、人とふれあうこと』と言えば尽きるのであろう」(『ことばが劈(ひら)かれるとき』「文庫版あとがき」)
 
 私も同じような思いで、生きてきたし生きている――理想をいえば、“誰とでも”。2011年春、他者とのふれ合いを通して、自己に気づき、心身を解き放つ場として、〈からだとことばを育む会〉の稽古会をスタートさせ、今日まで営んできた。

 からだは、諸刃の剣である。自己の内に、そして自他のあいだに存在する間
(ま)が、真にも魔にもなりうるのだ。家族をみれば、親子関係をみれば、しかり。一般的には“健康体操”とみられている活元運動でさえ、私にとっては、“地獄”への引導になった。竹内敏晴は、次のように警鐘をならしている。

 「
精神の深い集中に身を投げる場では、必ずその場を支える人がいなければいけない。そういうものがないと、ある種の人格崩壊を起こしてしまったり、『気が狂って』しまう危険性がないとは言えない」(『子どものからだとことば』p.159)

 若き日の私は、この一節を読み落としていた、記憶にない。三十年の時を経て、竹内さんと出会った頃の歳に自分がなり、位相が逆転したことに自覚的であろうとするからこそ、気づけたのだろうか。

 私のメタモルフォーゼ(自己変容)の体験は、求めて得たものではないハードランディングであったが、その危険性を避けるのが、古来から、型による地道な稽古の積み重ね=ソフトランディングではなかったのか、そして、型が生きるも死ぬも、師弟の間に〈贈与〉の関係があるかないかにかかっているのではないだろうか・・・。

 と、竹内さんの本を読みなおし、過去をふりかえり未来を展望しつつ、思いをあらたにしている今日このごろである。

(注1)後年、私と同じ三十三歳で気が違った“同類”に、『チッソは私であった』(葦書房)の著者・緒方正人
(おがた・まさと)さんを知る。

(注2)これは、戦前・戦中・戦後の日本を生き抜いた、一人の知性を浮彫にしたロングインタビューであるが、最後の場面で、鶴見さんが――遺言のように――この言葉を語っている。ご覧になりたい方は、録画したDVDをお貸しします。楽天堂までご連絡下さい。

(注3)竹内レッスンの“紙上体験”には、『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)が良いだろう。

PS:「
見るまえに跳べ」 W・H・オーデン

 
危険の感覚は失せてはならない
 道はたしかに短かい、また険しい
 ここから見るとだらだら坂みたいだが。
 見るのもよろしい、でもあなたは跳ばなくてはなりません。

 ずいぶん頭はしっかりしてても、睡眠中にはべそを掻く、
 阿呆の守れる細則でも破ることには遠慮がない、
 失せる傾向をもつものは
 因襲でなくて恐怖なんです。

 じたばたする奴、塵、円るんだ角、ビールなんかは、
 頭を少しひねったら、しゃれくらいなら毎年飛ばせる。
 笑いたければお笑いなさい、でもあなたは跳ばなくてはなりません。

 着るのにちょうど恰好の衣装を見ていると
 間が抜けているうえに 値段が決して安くない、
 羊のように従順に生きる限りは
 失せる奴らに遠慮しているあいだは。

 気の利いた社交界の振舞もまんざら悪くはない、
 だがひと気のないところで悦ぶことは
 泣くよりももっと、もっと、むつかしい。
 たれも見ている人はない、でもあなたは跳ばなくてはなりません。

 一万尺の海底の孤独というものが
 あなたとわたしの臥ているベッドを支えているのです。
 むろんわたしはあなたを愛するんですが、あなたは跳ばなくてはなりません。
 安全無事を祈願するわたしたちの夢は、失せなくてはなりません。


  ――深瀬基寛
(ふかせ・もとひろ)訳『オーデン詩集』(せりか書房)


堂守随想・INDEX

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