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  2019/02/03 [日]   


(豆料理クラブMLより〜豆ランチパーティーつけたし)

今日、豆ランチパーティーから帰ってからひとつ気になったのは、農的な暮らしに近い人に対して、町の人が引け目を持つとしたら、それはちょっと違うということです。

出口さんが、山間部に住む人と街に住む人では、話してる言葉が違う。共有する経験がないとしたら、同じ日本語でも違う言葉なんだ、というようなことを話されました。

それには共感しつつ、同じ現象はいろんな場面に起きてることだとも思うんです。
介護の現場で働く人と話していても感じます。
病院で働く人と話していても感じます。
図書館で働く人と話しても感じます。

すべてが自分と切っても切り離せない仕事。年老いた両親の所に通ってくれるヘルパーの人がいるから、わたしはわたしの仕事ができる。
そのヘルパーの人たちの労働条件が今どんなに厳しくなってるか、一般には知られていない。(こんど会員の東さんに、らくてん通信に寄稿してもらいます。)

年老いた母を見舞って病院に行ったときも、看護士さんの人たちの日常をかいま見て、頭が下がる思いでした。死に近い人に接するという経験をわたしたちは持たない。誰もが死とは無縁ではないのに。

図書館で働く人の話を聞いてもびっくりすることだらけです。どれだけ予算が削られて、大事な文化を受けつぐことが難しくなっているか。

お店に来るいろんなお客さんと話していて、しばしば、はっとするのです。豆ランチパーティーに参加する人の話を聞いても。
おうちに高齢のお母さんがいらして、その食事を作ることにどんなご苦労があるのか、想像のつかなかったなあ、とか。

今日、参加して下さっていたNさんは、スマホの部品を作ってる。その仕事がどんなところに工夫をして、どんなひらめきがあって仕事されてるか。
誰もがスマホを持ってるけど、スマホの向こうにそれを作ってる人がどんな努力をして仕事されているのか、お会いしてみるまではまったく想像がつかないのです。

女性が職場でセクハラにあいながらどうやってやめないで自分の権利を守ろうとしてるか、そんな話になることもあります。

社会は相互依存的。どの人の仕事とも、自分は関係があって、どの人の暮らしにも戦いがあり、喜びがあり、切りひらいていく未来があるなあと思います。