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  2022/08/08 [月]   


(楽天堂フレンズMLより〜国民主権のない世界〜)
おはようございます。
昨日の考察のつづきなのですが、「自己責任」ということばのどこが、腑に落ちないのか、これではっきりしてきました。
山上容疑者は、そして先日処刑された秋葉原事件を起こした加藤死刑囚もそうですが、自己責任論の支配的な社会で、孤立していたと思われる。
誰かに「それは自己責任じゃないか」と叱責されたという以上に、その声を内面化していて、自分で自分を低く評価していた。
今までわたしは、「自己責任」ということばの残酷さは、公平に「手段」や「環境」が与えられていない中で、厳しいレースに巻き込まれて、多くの人が負けを余儀なくされていることにあると思ってきました。実際、イスが5つしかない中で、10人の人がイス取りゲームを強いられてる状況があるなら、問題なのはその状況で、その状況を強いている権力者に、疑問や怒りを向けるべき。
それなのに、わたしたちの社会では、そのイスに座れない自分を責めたり、あるいはうまくイスに座った人への妬みがつのりがち。
ここまでは、今までもずっと考えてきたことでした。
だけど、今思うのは「手段」や「環境」という状況の不公平さ以上に、わたしたちの社会で人生の歓びや課題を自分で設定しにくいことが、問題であるという気がしてきました。
わたしはほんとうに驚くのですが、高校生に「投資」を公教育で教えるという流れがあるのですよね。
どんな社会が作りたいかを考えることよりも、今ある社会にどうやって最適化するか、そこに教育の重心が移っていっている。
もし「投資」というのがこなさなければならない課題であると子どもたちが内面化してしまったなら、経済的困窮に陥ったときに、その不幸は自分の資産運用の能力のなさに原因があると自分を責めてしまうでしょう。
わたしは今の岸田首相が、最初、「成長より分配」とか「新しい資本主義」とか言っておきながら、2ヶ月くらい前に新しい資本主義の内実が「貯蓄より投資」で「投資」する人を応援するということだと発表したときに、ほんとにほんとに驚き、頭がどうかなりそうでした。
ここには、二つの問題があったわけです。
一つは、貧困に陥っているおよそ30%の貯蓄ゼロ世帯は、投資に回すような貯蓄はそもそもないこと。なので、資本主義の問題点である格差の解消には何の役にも立たないバカげた政策であること。
そしてもう一つは、こんなことを一国の首相が発表すると、、、ある意味、これはカルト宗教ですよね、わたしたちは洗脳されてしまう。投資が「道徳」になってしまう。国の財政を黒字化するために、わたしたちはせっせと投資すべきなん
だと、すりこまれてしまう。(もちろん自己利益追求の保身からわたしたちは将来の不安を感じて投資しなくちゃならないんだろうか?と不安にもなるのですが。)
「道徳」、ほんとうにこれはやっかいです。為政者の意向を内面化すること、それがわたしたちの道徳になっている。
少し前にツイッターで、コロナに感染した子育て中のお父さんが、ちょっとした失望をつぶやいたところ、びっくりするくらい叩かれていました。
こんなツイートでした。
https://twitter.com/Negativ.../status/1549613242712031233...
「三連休前にわたしがコロナに罹ったしまった。どこにも行けず、エネルギーの有り余った次男が道路でサッカーして隣の家の庭にボールを蹴り込んでしまった。
壊れたものはないけど、お隣さんが『もうここでサッカーしてくれるな』と。
全面的に悪いのはこちらですが、世知辛い地域だなぁと残念に思った」
そしたら激しくこのお父さんが叱責されて(上のツイートのリプや引用リツイートで読めます)、あまりに気の毒だったので、わたしはこんな風にツイートしました。
「このツイートの引用RTを読んでびっくりしてしまった、たくさんの人のいらだちに。
ストレス抱えてる人が多いんだなあ。
うちの庭にもすぐ裏の家の子どもたちのサッカーボールがよく入ってきたけれど、イライラしたことなかった。だって、あまりに公園が少なすぎるんだもの。公園でも禁止されてるし。
そもそも大人の都合で、どんどん道路にしてしまった。
わたしが小さいときは、空き地がいっぱいあった。
イライラ向けるところ、まちがってないだろうか。無策な政府に向けたいよ。子どもを育てにくい環境とか、コロナ患者への支援のなさとか」
そんな風に書いたところ、こんどはわたしにもたくさんの非難が送られてきて、この会話から退出したのですが、そしたらインスタグラムにまでわたしを探し出して、「老害、お前の店つぶれろ」とか書いてくる人がいて、それをブロックしたら、こんどはグーグルの方にいやがらせをしてくる人がいて、びっくりしました。もともとその人たちは道路交通法に違反する道路族をこらしめようという道徳感情から出発してツイートされていたのですが、、、。
昨日問題にしていた「主権在民」とも関係するのだけれど、ほんとうは(民主主義の建前上は)わたしたちは、子どもたちがボール遊びできる空間を地域に作るという町づくりに参画できるはずなんだけど、そんな機会がまったくないまま暮らしていると、ただただお上の作ったルールが「道徳」になってしまう。
国民主権のない世界での道徳はなんておそろしいものなんでしょう。
最初に書いた自己責任論ともつながりますよね。生きる喜びや課題が自分で設定できるか、それがとても大切な気がします。まだうまく言えていないですね。
つまり国民に主権がない中で、自己責任が求められることが恐ろしんだと確認しておきたいです。主権在民というのは、国民一人一人が無条件に大切で、わたしたちは人間らしく生きることを望んでいいということ。政治はそれを実現する場であるということ。もしそういう前提で「自己責任」を考えるならば、マサリクの言うように、「内面的権威によって自らを律する自律的な人々の自治的共生への道」がひらかれるはずです。
反対に、今の政治は、お前には価値がないというメッセージを送り続けています。