二人の無期懲役囚

[2022・03・20/06・20/09・20



 (上)

 2019年12月18日、横浜地方裁判所小田原支部で一つの判決が言いわたされた。

 「被告人を無期懲役に処する」

 裁判長が判決理由を述べたあと、被告は退廷まえに立ち上がり「控訴は致しません。万歳三唱させて下さい」と言うと、制止をふりきって「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい」と大声でとなえたのだった。

 二名に重症をおわせ、一名を殺害した罪で死刑を回避できたからだろうか。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。被告・小島一朗(23歳)は、死刑でも有期刑でもなく、はじめから生涯を刑務所で過ごすために、“数を選んで”――つまり人を殺さなければ、××年の有期刑で娑婆
(しゃば)に戻され、二人以上殺してしまえば、死刑宣告されるだろうと計算したうえで――新幹線の車内で犯行に及んだのだった。偶然となりあわせた女性二人にナタとナイフで切りつけ、止めにはいった男性を馬乗りになって刺し殺した。この男は、「精神異常者」なのだろうか?

  『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』

 インベカオリ☆著『家族不適応殺 新幹線無差別殺傷犯、小島一朗の実像』(角川書店)は――この手のセンセーショナルな犯罪が起きると、世間の耳目があつまっているうちに“緊急出版”される際物
(きわもの)の本とは違って――写真家の著者が、拘置所で被告に面会し、何通も文通し(凶器のナタのさやが本人から送られる!までの間柄になった)、家族にインタビューをして、三年をかけて著した問題作である。

 この本を読みすすめると、あぶりだしのように小島一朗(以下、KIと略記)の人となり、背景となった家族(の問題)が浮かび上がってきて、万歳をとなえた彼の心情(パッション)がすこしずつ明らかになってくる。

 私が何よりも衝撃をうけたのは、両親の言動だった。

 父親:「
事件後、メディアの囲み取材に応じた彼の父親は、カメラの前で薄ら笑いを浮かべながら、息子のことを『元息子』と言い、『私は生物学上のお父さんということでお願いしたい』などと答えていた」(p.42 以下、同書より引用)

 母親:「
私は十数年、無給で働いているんですよ(引用者注:ホームレス支援の相談所でボランティアとして)。確定申告の収入もゼロ。周囲からは、マザーテレサと呼ばれているんです」(p.151)

 ・・・。KIの生育歴を、手短に記そう。

 1995年12月、愛知県で生まれる。本名は鈴木一朗、後に祖母と養子縁組をして小島性になる(1995年といえば、同姓同名のイチロー選手が登録名を変えて活躍し、オリックスが初めてパリーグで優勝した年である)。

 家庭の事情で、父は一宮、母は岡崎のそれぞれ実家で暮らしていたが、KIは三歳まで岡崎の家で母と祖母に育てられる。

 三歳の時に母子は一宮へ移り、父・姉(1歳年上)・祖母(父方)との共同生活が始まったが、父は仕事、母はボランティア活動で忙しく、実際は祖母がKIの面倒を見ていた。

 この祖母が――本によれば――信じがたいほど孫を虐待し、「お前は岡崎の子だ。岡崎に帰れ」と言いつづけ、中学生になると「私はあんたの女中じゃない」と食事を作らなくなり、KIは蛙や雑草をとって食べていたという(p.108 両親がそんな状態に気づかなかったというのも???であるが)。

 中学二年の時に一度、父親に包丁を向けて反抗したため、精神科でADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。短期間、精神病院に入院したあと、家に戻らずに母がかかわっていた貧困者用のシェルター(4人部屋)に、4年半!暮らすことになる。

 定時制高校をオール5の成績で三年で繰り上げ卒業すると、職業訓練校に1年通ったあと、工作機械メーカーに就職するが、ブラック企業だったのか過労のため10ヶ月で退職する。

 心身を癒すために岡崎の祖母(母方)の家で暮らすが、同じ敷地に住む伯父から「出ていけ」と暴力を受けて追い出される。

 その後、アパートで独り暮らしをはじめるが、自殺願望がつのり、ホームレスになって餓死するために家出。冬の木曽山中の県立公園にある東屋(あずまや)で死を待つも、警察官から暴力的に退去させられる。

 そして、最後にたどりついた結論が、殺人を犯して一生を刑務所で過ごすという選択だった。KIは著者宛の手紙で書いている。

 「
私は検事の取り調べにおいて、『キリスト教徒が修道院に入るように、仏教徒が山門に入るように、私は刑務所に入るのです』と供述した。すると、検事がこう問うた。『修道院には神の加護が、山門には仏の加護があるけれど刑務所にはないでしょう』。それに答えて私は『国家の加護がある』と供述しました。私は、刑務所では基本的人権が守られることを信じます。そうあれかし、アーメン。『人を罰するのも仏、人を許すのも仏なら、この日本に今ある仏とは日本の国家です』。私は上申書にこのように書きました。『私は刑務所に入らなければ幸福になれない凡夫であるから、たとえ刑務所に入って、幸福になれなくても構わない』と。その心は法然(ほうねん)聖人を思う親鸞(しんらん)と同じ」(ニ〇一九年二月二十一日)(p.55)

 さらに、半年後の手紙には、

 「
刑務所のすばらしいところは、貴殿も以前、ご理解なされたように、衣食住と仕事があって、人権が法律で守られているところくらいしかありません。それ以外は飾り言葉なのであって、理解する必要はなく、刑務所に私が入りたいと思ったのは、生まれてからずっと、刑務所以下の生活を一部の期間を除いて、送ってきたからです。刑務所並みの生活をすることは、刑務所でなくともできますけれど、刑務所に入るのが、易くて早いのです。食べて寝て出すだけなのが人生なら、刑務所で十分だと思いませんか」(二〇一九年九月二十四日)

 裁判では司法医による精神鑑定がおこなわれたが、KIは「猜疑性パーソナリティ障害」と鑑定され、刑事責任を問われることになった。

 裁判であきらかにされた家族の供述調書に関して、KIは次のように著者に語っている。

 「
家族全員がペラペラ喋ってる。全部めちゃくちゃ。母は一朗の自己責任、自分はそんなこと知らなかった。伯父は、俺のせいじゃない。岡崎の祖母の供述調書では、私がホームレスになったときに『伯父がいるから家に帰ることはできない』と私が言ったことになっているけど、私はそんなことまったく言っていない」(p.171)

 著者も疑問を呈しているが、KIが小学生から中学生にかけて虐待をうけた一宮の祖母(父方)の調書は、ないという。さらにこの本では、二人の祖父にまったく言及されてないが、すでに故人であったためだろうか。

 それでは、家族間の関係はどうだったのかというと、著者と母親の会話では次のように記されている。

 
「日頃から暴力的だったんですか?」

 
「全然。彼が反抗したのは、そのとき(引用者注 KIが中学生の時に父親に向かって金づちと包丁を投げた事件)がはじめてよ。口答えも全然しなかった。凄く良い子だったのね。私のそばにいるときは、むちゃくちゃ良い子だった。『素直で明るくて優しくて、さすが〇〇さんの息子さん』って皆言うんですよ」

 「そうだったんですね」

 「むしろ暴力的なのは夫のほう。自分の言うこと聞かないと、私の服を道路に投げたりね。何回、『出ていけ』と言われたか」

 「お父さんと一朗君の仲はどうだったんですか?」

 「仲良くないですよ。話が全然合わないんです。自分の子どもじゃないみたいな感じで、お父さんらしくないお父さんだったの。虐待とまでは言わないけど、そんなに可愛がってない。可愛くなかったと思う」

 「お姉さんは、そのことをどう思ってるんですか?」

 「娘は、とにかくパパがクソだってずっと言ってる。一朗は被害者。ママも被害者だけど、ママはもっと一朗を守ってあげなきゃいけなかったって」

 「お姉さんと一朗君は仲良かったんですか?」

 「年子だから、どうしてもライバルになっちゃうんだよね。どっちがより愛されるか競争みたいになる。
(中略)お姉ちゃんは、自分が生き延びるのに精一杯で、弟のことまで庇えなかったって言ってたし」(中略)

 
「昔、夫に聞いたことがあるんです。『私とお義母(かあ)さん、どっちが大事なの?』って。そしたら『お母さんのほうが大事』って言いましたよ。言われたときは、凄いショックでしたけどね。お義母さんは、私のことを凄く苛めるんです。だからきっと十倍くらい一朗のこと苛めてたと思いますよ」(pp.260-262)

 そして、母親の目に映った伯父の姿は――

 
「一朗は、伯父さんに凄い苛められるんですよね。『なんでお前はこんなとこにいるんだ、さっさと働け』『一宮に帰れ』とかね。伯父さんは理解がないんです。祖母が、『なんで一朗をそんなに苛めるの?』と聞いたんですよ。そしたら伯父は伯父で『お母さんは一朗ばっか可愛がって』とか言うらしいんです」(中略)

 
「もう、やってられんって感じだよね。六十歳の兄が、八十過ぎの母に『お母さんは、一朗一朗って、俺はどうでもいいのか』みたいなこと言うんだって。だから嫉妬(しっと)じゃないかって母は言うの。甥(おい)っ子に嫉妬する?」(p.270)

 この伯父と平等な立場にしてやろうと、母方の祖母はKIと養子縁組をしたのだった。

 三世代にわたる家族の関係性のゆがみが、幼いころからKI一人に集注したと思われる。それでは、このゆがんだ関係をときほぐすキーマンともいうべき父親に対して、KIはどんな思いを抱いていたのだろうか。

 裁判の最終陳述でKIは、「
私が成人してからの父親の行動は完璧(かんぺき)でした」(p.228)と語っているが、この言葉を真にうけることはできない。父(と夫)としての責任を放棄した父は、KIにとって存在しないも同然の過去の存在=“元父親”だったのだ。

 検察が控訴しなかったために、地裁判決の無期懲役刑が確定し、KIは横浜刑務所に収監された。が、法律が守られるかどうか執拗に確認するためハンガーストライキで衰弱し、医療刑務所に移送されて、観察室にはいった。そこでの様子を、著者あての手紙で次のように書いている。

 「
まるで、水族館のペンギンのように、私は刑務官や監獄医〔筆者注.矯正医官のことと思われる〕から『観察』されている。(中略)私はおもわず『私が生まれた時に建てられた私が育つはずだった家』(引用者注 大工だった祖父がKIのために増築した部屋)を思い出した。あそこは四つの壁の内、二つの面が全面ガラス窓になっていたが、全面ガラスで覆われている、という共通点がある。私はついに『岡崎』に(私が遣うある特殊な意味における)迪(たど)り着いたのだった。なんということだ。観察室こそ私の『理想の家庭』。私の『岡崎の家』。『私が生まれた時に建てられた私が育つはずだった家』の代償。私は残りの人生をここで過ごすのだ。観察室は素晴らしい。私は最高に幸福だ」(ニ〇ニ〇年十二月二日)

 本書を、インベカオリ☆氏は次のようにしめくくっている。

 「
彼にとって、法律を厳守する刑務所こそが自分を確実に守ってくれる母であり、家庭だった。そこにいれば、助けてくれて当たり前、かまってくれて当たり前、生かしてくれて当たり前。

 自分はこの世に必要な人間なのか、生きていてもいい存在なのか。彼にとって、それを確認できる場所は、刑務所のシステム以外になかったのである。
」(p.285)

 

 長年ホームレスの支援活動にたずさわってきた北九州のNPO法人抱樸
(ほうぼく)の理事長で牧師の奥田知志(おくだ・ともし)さんは、「「ホームレス」と「ハウスレス」はちがう」と次のように記している。

 「
「このために」と思える自分の役割がないように感じたり、「この人のために」という他者がいなかったりする。いくら経済的な支援を行っても、人との絆、社会とのつながりが切れてしまっているために、生活を立て直すことが再び困難になってしまう事例が多くありました。

だからこそ抱樸は、「ホームレス(社会的孤立)」と「ハウスレス(経済的困窮)」の問題を分けて考えています。ハウスレスの人には「この人には何が必要か?」を考え、ホームレスの人には、「この人には誰が必要か?」を考えます。
」(抱樸のホームページ https://www.houboku.net/より引用)

 KIの母親には、ハウスはあってもホームがなかった。彼女がホームレス支援のNPOに“居場所”を得たのは――人が“逆の立場”にたとうとする、例えばケアを求めているのに他者をケアする職業につく、というような例を多く見てくると――ある意味では必然のような気がする。

 ましてKIは、ホームもハウスも奪われていた。母方の祖母に奥田氏のいう「必要な誰か」の可能性があったが――母親は祖母のことを「太陽のような人だ」と評している。――彼女ではKIを全的に抱きとめられなかったのだろう。この点に関して著者は、次のように考察している。

 「
小島の視点に立てば、養子縁組までした岡崎の祖母は、愛情を期待できる最後の相手とも言える。寝食をともにした、愛する祖母であるはずだ。けれど祖母は、言葉で愛情を訴えながら、肝心なところで向き合ってくれない。ならば、はじめから期待させない父親のほうが、楽な存在だったに違いない」(p.279)

 砂をかむような読後感のなかで、私がまず思ったのは、〈一人の問題〉ということだった。現代の日本では、“一人でも(よいからそこに)いれば”防げた、起こらなかったであろう事象が、社会面でも政治面でも、多くないだろうか。

 2014年の神戸市小一女児殺人事件では、容疑者(知的障害で生活保護を受けていた)が、「茶飲み友だちがほしかった」と警察の捜査員に語ったという(新聞記事の記憶)。彼は後に無期懲役で服役する。さらに、2019年の京都アニメーション放火殺人事件、昨年12月の大阪クリニック放火殺人事件etc.etc.

 一方、安倍晋三元首相が関わった「もり・かけ・さくら」の事件では、逆に赤木俊夫
(あかぎ・としお)さん一人が公文書改ざんの責任を感じて自死し、他に手を染めたであろう数多くの人間たちは、誰一人、真実を告白しようとはしない・・・。 

 ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル氏は、2020年3月にNHKテレビで放映された〈欲望の時代の哲学2020〜マルクス・ガブリエル NY思索ドキュメント〜(4)「私とあなたの間にある倫理」〉という番組で、「
「私はあなただったかもしれない」これが重要です。倫理の基本的なポイントです」と語っていた。

 今日も獄中で(死ぬまで?)闘っている――二〇二〇年十二月二日付けのインベ氏宛の手紙で、KIは「
私は他のすべての被収容者のためにも、人権のために戦わなければなりません」(同上書p.284)と書いている――小島一郎という人間の存在は、私の頭の上で、漬け物石のように重苦しくのしかかっている。

 私は思う。KIの家族に凝縮・象徴されていた母性(の二面)と父性(の欠如)は、日本社会(文化共同体)が歴史的に負ってきた、今なお負っている(ということは、私自身にとっても他人事ではない、直視すべき)課題ではないだろうか、と。(つづく)

(中)

  「心は形を求め、形は心を求める」

 以前、都心のターミナル駅を歩いていたとき、通路の広告で目にとまったキャッチコピー(確か仏教系の大学?)が忘れられない。

 私たちの日々の生活は、ひとことで言うと、心の想いを何かの形に表わすことで営まれているが、形になって現れたものに、心有る=真心か、心無い=魔心か、どちらがこめられているかで天と地ほどのひらきがでるだろう。そして、誰の人生においても、もっとも数多く形づくられるものは、言葉――音声か文字かを問わず――ではないだろうか。

 

 私は高校に入学した五十年前、言葉を喪ったことがある。肉体的に(器質として)言葉を発することができなくなったのではない。意図的に言葉を避けていた。言葉に向き合えなくなっていたのだ。

 十代半ばといえば、昔なら元服で、少年から青年(大人)への移行期だろう。私は悩んでいた。「ナゼ、学ぶのか」「ナゼ、生きるのか」、自分の中には、何もない・・・。言葉にウソ臭さを感じて、“ほんとうのことば”を求めていた。

 後に、場面緘黙症
(ばめんかんもくしょう)という精神疾患の病名があることを知ったが、数年の間、私は暗い淵の中であえいでいた。登校拒否の現象報道などなかった時代なので学校には通っていたが、教室では誰とも話さず、家に帰ってからも家族とは最小限の会話しかかわさなかった。

 現代ならさしずめインターネットに向かうだろうが、半世紀も前のこと、書物しかなかった。学校の勉強には身が入らず、本(主に文学)ばかり読んでいた。定期テスト前の一夜づけで、何とか赤点だけはまぬがれていたが。

 私の周囲に、ロールモデルとなる大人の男性がいれば、私の“脱皮”も、困難をともなわなかったかもしれない。父は、十代後半で1945年を迎えた戦中派で、戦地には赴かなかったが、戦争に人生を翻弄されて腰骨を折られた一人だった。

 何事にも自信なげというか、確たるものを持ててないように息子には見えた。価値観が180度変わる人生を強いられた世代としては、やむをえなかったのかと思う。長野の小学校を出て戦前は横須賀海軍工廠
(こうしょう)で、戦後はアメリカ海軍横須賀基地で働き続けた工員だった。コツコツと働き、家庭をきづき、子どもを育てた市井(しせい)の人だった。

 ある時、好奇心にかられて、父が寝床で書いている雑記帳のようなものをパラパラとめくってみたことがある。家計の悩みだろうか、数字が書きなぐってあるなかに、「死にたい」という言葉が目にとびこんできて、驚いた。

 父とはほとんどコミュニケーションがなかったので、学校の出来事など、日常の会話相手は母だった。母は浦賀の工員の娘で、小学校を出たあと事務員として働き、父と結婚してからは主婦をしていた。母は敗戦後、二十歳で実母を亡くし、姉妹間も宗教対立(金光教×創価学会)で仲が悪かったため、家族への愛着が人一倍強かった。台所仕事をしながら「お母さん」と、母が無意識につぶやくのを何度か聞いた。この母から――愛情という名の下の――抑圧を、私は受けることになる。

 今でも思い出すが、小学校六年生の時、社会見学に行くのにナップザックを持ってなかったので、私がカバン屋さんに買いに行くことになった。赤と青がならんでいた。私は――母なら青の方を買うだろうなと顔を想い浮かべながら、反抗して――赤色を選んだ。案の定、母は怒って、私は返しにゆくはめになった。

 青=男、赤=女という“刷り込まれた”世間常識によるものだった。東京オリンピックの時に、我が家にもテレビがはいったが、NHKの番組しか観るのを許されなかった。母の(そして父の)バックボーンは、国民学校で教育された修身の儒教的な道徳律だった。私はそこから自由になりたかった。

 

 ユング派の心理学者・河合隼雄
(かわい・はやお 1928- 2007)は、『母性社会日本の病理』(中公叢書)におさめられた〈母性社会日本の“永遠の少年”たち〉と題された論文で、「母性原理と父性原理」について次のように述べている。

 「
母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。

 しかしながら、母親は子供が勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子供の危険を守るためでもあるし、母―子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑みこんでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、生み育てるものであり、否定的には、呑みこみ、しがみつきして、死に至らしめる面をもっている。
(中略)

 
これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、子供をその能カや個性に応じて類別する。極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子供を鍛えようとするのである。父性原理は、このようにして強いものをつくりあげてゆく連設的な面と、また逆に切断の力が強すぎて破壊に到る面と、両面をそなえている。」(同上書 pp.9-10)

 河合によれば、日本は母性原理が優位な社会なのに対して、西洋は父性原理が優位だとされるが、どの社会でも少年が大人になるためには、「母親殺し」と「父親殺し」が必要だとするユングの解釈を紹介している。

 「(ユングは)
母親殺しは、肉親としての母ではなく、白我を呑みこむものとしての太母との戦いであり、自我が無意識の力に対抗して自立性を獲得するための戦いであると解釈した。
 さらに、父親殺しとは、文化的社会的な規範との戦いであり、自我が真に確立するためには、無意識からだけではなく、その文化的な一般概念や規範からも自由になるべきであり、そのような危険な戦いを経験してこそ、自我はその自立性を獲得しうると考えたのである。
」(同上書 p.20)

 この象徴的な殺人が、イニシエーションと呼ばれる通過儀礼であるが、「母性原理を基礎にもった「永遠の少年」型」の日本社会では、特に困難なものになると――辛辣
(しんらつ)に――述べている。(引用者注:この論文は、いわゆる大学紛争後の1975年に執筆された)

 『母性社会日本の病理』

 「
日本の若者たちはその自我の確立のためのイニシエーションをどのように体験しているであろうか。彼らは父を求めて右往左往するが、出会うのは母ばかり。しかも彼ら自身、母親から分離し切れていない状態となっては、業を煮やしての短絡行動も生じてくるわけである。イニシエーションの儀礼として、内的に行われるべき死と再生の密儀は、にわかに外界に向かって行動化され、それは自殺や他殺という事件へと成り下がってしまう。

 若者たちは改革を求めて血を流しているが、それは新しい自我を確立するべき再生へとはつながらず、太母のいけにえとして、僅かに母なる大地をぬらすだけで、そこには何らの本質的な変化をもたらさないのである。

 現代社会におけるイニシエーションの欠落は、社会的、教育的に大きい問題であると考えられる。若者達の行動をみていると、自ら個人として個人のためのイニシエーションを演出するほどの力はなく、さりとて社会的制度としてのイニシエーションも無い現状において、無意識のうちにそれを求めて右往左往しているように思われる。そして、このような自覚のないままに、根元的な休験を求めて行動しても、結局それは儀式として昇華されない「事件」へと落ちこんでしまうのである。新聞をにぎわす血なまぐさい事件を、失敗に終ったイニシエーション儀礼としてみると了解できることが多い。
」(同上書 p.26)

 『家族不適応殺』の無期懲役囚・K.I.が、この典型的なケースではないか。家庭の中で、規範者としての父、受容者としての母という役割が明確に分担されていれば、子どもは混乱することはないだろう。父の不在と母の二面は、子どもを「stray sheep」(迷える子羊)にしてしまうのだ。それでは、私の場合は?私の中の“わたし(たち)”を、どこまでえぐれるか。

 

 演歌歌手・藤圭子
(ふじ・けいこ)の『圭子の夢は夜ひらく』の歌詞「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」ではないが、二十、三十と、私は暗夜を生きていた。部屋にひきもっていたわけではない。逆である。

 二浪してすすんだ大学の四年間では何も得られず、民間企業では使い物にならないのは分かっていたので、卒業後、私は県立高校の英語教師として働き始めた。

 その九年間は苦難の連続であったが、何とか続けられたのは仲間(地元・横須賀の市民運動と、日教組の教研活動)のつながりがあったからだ。私は活動を通して、すこしずつ自閉的な人間から脱却していった。私が“外”に踏み出す契機になったのは、就職した年の夏休みに大学時代の友人に誘われて行った水俣での援農体験だった。

 私たちを受け入れてくれたO氏夫妻は、水俣病の患者支援運動に関わる中で水俣に移り住み、甘夏の産直販売で患者と自らのなりわいをたてつつ活動を続けていた。O氏宅に寝泊まりして過ごした1週間、 私は“地域に生きる”夫妻の生きざまに肌身でふれ、感化された。水俣への寄り道が、私に自らの足元=“暮らす場”と“働く場”へと、自らを向かわせる力になった。

 水俣行から帰った後、私は積極的に市民運動と教研活動に参加していった。私には、ひきこもり以来の課題があった。両親が背負っているものと、どう向き合うか。アメリカ軍基地に勤める親に養われた>ベトナム戦争が闘われていた>横須賀から空母ミッドウェイが出撃していった>俺は、ベトナム人の流した血を吸って育ったのではないかという負債感・・・。

 秋に、初めてヨコスカ市民グループの定例デモに加わった時の光景は、忘れられない。生まれ育った街のメインストリートを、少人数でデモンストレーションしながら、「軍都ヨコスカ、解体!」と叫んだ高揚感・解放感・・・。私は歩道で“見る”人間から、車道を“歩く”人間に変われた。自己否定のシュプレヒコールは、私の負い目をやわらげた(ように感じた)。が、私の心は晴れなかった。

 私が勤めたのは、教育困難校とよばれる工業高校だった。英語が分からない、嫌い、必要ないと言う生徒たちを前に、どうしたら授業が成立するか・・・。試行錯誤をくりかえすなかで、私は“開かれた言葉は、開かれた体から”、真のコミュニケーションに求められるのは、文法や単語の知識以前に、体が他者に開かれているかどうかではないか、と気づくようになる。その認識は、ブーメランのように私にはねかえってきた。

 「高柳さんは、世界の苦悩を一人でひきうけているようだね」と職場の同僚から揶揄
(やゆ)されたり、「攻撃的で、こわい」とストレートに言われたこともある。活動家としての外面的な姿とは裏腹に、私の体は閉じたままだったのだ。私は他者、特に異性に対しておそれを感じていた。母からの抑圧が強かったために、ユングや河合のいう太母が――深層意識で――現実の女性と重なり、どうアプローチしていいか分からなかった。頭では女性と対等でありたいと願い、体はオスとして攻撃的にならざるをえない、その矛盾・分裂に苦しんでいた。三十歳を過ぎても“女を知らない”(手を握ったこともない)というコンプレックスを、いつも抱いていた。劣等感は、容易に攻撃性に転化する。

 ことばからからだへ・・・私は自己を解き放つために、言葉と身体をテーマにする本を読んでは、ワークショップに出かけていった。そして、演出家・竹内敏晴の〈からだとことばのレッスン〉を受けて、竹内から「生きられてないからだ」を指摘されて涙にくれ、先日亡くなった社会学者の見田宗介
(みた・むねすけ 1937-2022)氏の〈エチュード合宿〉に参加して、初めて体験した野口整体の活元運動で、ヒューズがとんでしまった。自己抑圧が強かった私は、崩壊した。《第一章》

 「気がちがったんじゃないか」とかっての仲間からは評されたが、私は何かのために生きるのではなく、(ただ)生きたかった。大仰
(おおぎょう)なようだが、私はre-born生まれ直したのだ。三十三歳になっていた。

 その後は、糸が切れた風船のように――以前なら辞めたらどうしようとあれほど不安に思っていた――教師を辞め、四国をお遍路し、熊野(紀伊田辺)に移り住んだ。退職金で暮らしながら小説を書いていたが、エチュード合宿の参加者だった女性とあるワークショップで再会し、pick upされて結婚した。

 結婚も難産だった。はじめて彼女の父(500人規模の縫製業を営む中小企業の経営者だった)に挨拶しに、工場のある山口へ行った。《第二章》

 料亭で会食した。雑談のあと、結婚の届け出のことになって、私が「国家の保証など受けずに自由な関係でいたい。婚姻届は出しません」と言ったために口論になり、「そんなことは許さん」と激高した義父に殴られた。

 実家のある横須賀まで落ちのびようと、二人で駆け落ちした(両親とは“和解”していた)。が、兵庫まで来たとき、彼女が大学の恩師に会い、「そんなつまらない男とは止めときなさい」と諭されて――今の私なら、同じことを言うだろう(笑)――あえなく挫折してしまった。傷心の私は独り横須賀へ戻ったが、ことの顛末
(てんまつ)を話した友人の牧師から、「そんな一片の紙より、目の前の人をたいせつにされたらどうですか」とアドバイスされ、目から鱗、つきものが落ちたように私の心はひるがえり、別の牧師が仲人役になってくれて結婚式をあげることができた。

 義父は度量のおおきい人だった。今では“絶滅危惧種”ともいえる、同族会社をひきいる族長のような存在だった。辞め教師で使えない男だった私に、子会社の衣料品店(従業員数名、年商一億数千万円)の経営をまかせてくれた。私も中小企業大学校に通うなどして努力したが、十年後に倒産させてしまった(開店したのがバブル崩壊後で、私が赴くまえから赤字続きだった)。倒産→借金の踏み倒し→自己破産という難題をのりきれたのは、海千山千のつわものであった義父が、軍師のように控えてくれていたからだ。

 義父は齢
(よわい)七十にして工場を中国へ移す決断をし、上海で独り暮らしをしながら経営にあたっていた。私は実父から学べなかったものを、義父から教えられたように思う。自(みずか)ら営む者として、もたれかからずひとりよがりにならず、社会に貢献して仕(つか)えること、とでも言えようか。

 義父は三年前に他界した(私の両親もすでに亡い)。産経新聞を購読し、安倍元首相を礼賛する義父とは、政治的には最後まで水と油だったが――恩讐
(おんしゅう)の彼方に――今、義父の形見の着物を着ている私がいる。

 社会的な存在としての私のメンター(導き手)となったのが義父なら、身心をそなえたトータルな人間としての生き方を導いてくれたのが、四十半ばにして出会った整体の先生だった。《第三章》

 師の下で稽古にはげんだ十年間、稽古内容はほとんど忘れてしまったが、思想は胸の情(こころ)にきざまれた。今でも時折、先生の言葉を反芻
(はんすう)し咀嚼(そしゃく)している。

 例えば、呼吸のノウハウを私は習ったことはない(一般に身心の術技では、呼吸第一とされるが)。師が呼吸に関して語ったのは―

 「世にある呼吸法は、いかに自分の邪気を出し清気を入れるかを眼目
(がんもく)にしている。そうだろうか。呼吸とは、身近ないきとしいけるものが息がしやすくなるように、自分のまわりの空気を動かすことではないか」。

 ライフワークとして賭けられるものを得て、私はしあわせだなと思う。そもそも私が稽古に通うようになったのは、整体協会・身体教育研究所の稽古場が――まだ全国に十数カ所しかなかった時に――山口の家の近所に開設されたからだった。女房が一度体験してみて、すすめてくれた。仏教で説く因縁(因は近くの原因、縁は遠くの縁起)なのかな、と思う。

 

 今朝も私は、日課として北野天満宮まで、小一時間ウォーキングをしてきた。帰ると、掃除・洗濯をし、野菜スープや果物のスムージー、一品を作ってから風呂に入る。その間、後から起きてきた女房はサイクリングに出かけていて、帰宅すると、食卓が調っている。

 北野天満宮・稲荷神社 
稲荷神社

 何も義務でもなければ、約束事でもない。自分の心地よさを追求すること――それが整体(内観技法)の求めるところだ。それって、自己チューじゃないの? その通り。しかし、私たちが拠り所にするのは、肉体の感覚ではなくからだ(身心)の勘覚である。感覚は個に閉ざされているが、勘覚は個を超えて共感しうる。そこに内観技法の(おおいなる)逆説がある。

 楽天堂で運営している〈小さな仕事塾〉のテーマである近江商人の家訓「売り手よし、買い手よし、世間よし」も、整体のキモを社会化した理念だと私は捉えている。

 「身体は人生である」と、くりかえし師は語った。からだは、その人がどう生きてきたか、どう生きているか、どう生きていきたいかを物語っている。思想はここから生まれる。言葉は、からだから生まれる。(つづく)

(下)

 2022年2月9日の朝日新聞・夕刊に、一人の無期懲役囚と彼の審理を担当した裁判官の“その後”を伝える記事が掲載された。より詳しいデジタル版から、全文を引用させていただきます。

 【「あさま山荘事件」裁判長から受刑者への遺言 いつかこの腕時計を…】

 娑婆(しゃば)に出るときにはこの腕時計を身につけて欲しい――。元裁判官は、そんな遺言を残した。託されたのは、1972年に起きた「あさま山荘事件」を含む連合赤軍事件で逮捕・起訴され、無期懲役が確定した連合赤軍元幹部の吉野雅邦受刑者(73)だ。事件から間もなく50年。吉野受刑者は、いまも獄中にいる。

 聖書と腕時計

 「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。ヨハネの手紙一 四八」


 使い込まれた黒い革バンドの腕時計。もとの持ち主は、元裁判官の故・石丸俊彦さん。吉野受刑者の裁判で裁判長を務め、2人は東京地裁の法廷で、出会った。

 吉野受刑者は東京出身。旧財閥系企業に勤める父を持つ。入学した横浜国大で共産主義革命思想に関心を抱き、反戦集会やデモに出るように。一方で、合唱団のサークル活動にも熱心に参加した。当時としてはごく普通の大学生だった。

 しかし、ベトナム戦争下に学生運動が全国に広がる中、「当時の社会体制がベトナム民衆や国内の底辺労働者の犠牲の上に成り立つ罪悪的なもので、それに従順に生きることは彼らへの抑圧に加担することになる」と思い込み、武力による革命運動に身を投じた。革命左派のメンバーとなり、その後赤軍派と合体して連合赤軍が結成されたときは、序列としては末席だったものの中央委員7人のひとりに入った。

 吉野受刑者は連合赤軍による山岳ベースでのリンチ殺人やあさま山荘に立てこもっての銃撃戦などで、自分の恋人も含む計17人の死に関与したとして、殺人、殺人未遂、死体遺棄、強盗傷人、住居侵入、監禁などの罪に問われた。

 一審判決は79年3月29日。石丸さんは12人が死亡した山岳ベース事件について、絶対的な権威と権力と地位を確保した森恒夫元被告(73年に拘置所で自殺)と永田洋子元死刑囚(2011年に獄中死)に従属させられた「『革命』とは無関係な、両名による狂気狂言の『同志』粛清の殺人事件」と指摘した。吉野受刑者の犯行の重大さは指摘しつつも、組織内での地位や力関係などを考慮し、検察側の死刑求刑を退けて無期懲役とした。判決文は700ページに及んだ。

■裁判長からの説諭「生き続け、その全存在をかけて…」

 「裁判所は、法の名において生命を奪うようなことはしない。被告自らその生命を絶つことも、神の支えた生命であるから許さない。被告は生き続けて、その全存在をかけて罪を償ってほしい」

 判決言い渡し後、石丸さんはそう説諭した。

 山岳ベース事件で、夫婦関係にあった恋人が胎児を宿したまま命を落としたことにも言及し、「恋人への愛は真実のものであったと思う。そのことを見つめ続け、彼女と子どもの冥福を祈り続けるように」とも説いた。

 無期懲役判決を不服とした検察側は控訴したが、東京高裁は一審判決を支持し、確定。吉野受刑者は83年、千葉刑務所に収監された。

■退官3年後、再び交わされたメッセージ

 2人の人生が再び交錯するのは、石丸さんが佐賀地家裁所長、東京高裁部総括などを歴任後、退官して3年後の92年。吉野受刑者の両親を介して聖書の贈呈を受けたのが始まりだ。

 その後毎年、クリスマスカードや年賀状、誕生日カードが届いた。2000年前後から、石丸さんは仮釈放を祈るという内容のカードを送るようになった。

 「社会復帰のすみやかならんこと切に祈っています。私に出来ることがあったら、お手伝いします」(01年の年賀状)

 「そろそろ仮釈放の条件が整えられるころではないでしょうか。私にできることがありましたら、いくらでもお手伝いします」(02年のクリスマスカード)

 石丸さんの妻によると、吉野受刑者から手紙がくると、「彼も頑張っているな」と大変喜んで、手紙を箱に入れて大事にしてまっていたという。

 しかし07年4月1日、石丸さんは慢性心不全で82歳で死去。吉野受刑者は新聞の訃報(ふほう)記事で知る。約5カ月後、石丸さんの妻から遺影と愛用の腕時計を贈られたことを吉野受刑者は母から聞いた。

 「恋人への愛は真実のものであった」との石丸さんの説諭について、吉野受刑者は「ありがたさで目頭が熱くなる思いだった」と記者への手紙で振り返る。だが同時に、真実の愛であったならば、彼女と運命を共にしていたのではないかと自問を繰り返し、深く悩み続けたという。

 「いまになって思うのは、全存在をかけて余生のすべてを彼女と娘、そして亡き方々に捧げるような生き方を貫くこと。それによって、彼女への愛情が真実であったことを証明しなさい、と石丸先生は言わんとしたのではないか」

 吉野受刑者の幼なじみで、あさま山荘事件についての著作もある元編集者の大泉康雄さん(73)は「石丸判決は吉野にとって非常に大きかった。説諭も含めて愛情のこもった判決だと思う」と評する。「あれがなかったら吉野はその後に生きている意味を感じられなかったかもしれない。今日まで刑務所で務めを果たしているのも石丸判決のおかげではないか」

 さらに、「石丸さんは吉野という人間に深く理解を示し、法律家の枠をはるか超えたところから事件の意味を探ろうとしていたと感じた」と語る。

 石丸さんは交流のあった大泉さんに、戦中は自身が天皇のために死ぬことを目指した皇軍兵士だったと何度も語ったという。「皇軍兵士としての戦争体験に吉野に通じるものがあったのかもしれない」と大泉さん。石丸さんは戦後、洗礼を受けてクリスチャンになり、裁判官の道を歩んだ。

 石丸さんは大泉さんへの手紙で「戦争も革命も一部の人間の大衆に対する犯罪。弱い者の『死』という犠牲の上になされる悪」と記し、大泉さんはそれを吉野受刑者に伝えた。

 石丸判決文を「自分の軌跡を詳細にたどり返すための導きの書」とする吉野受刑者は、こうしたやりとりから自分自身を見つめ続けた。その結果、「私にとっての『革命運動』とは、社会を変革する組織的運動ではなく、自らを改造するための個人的な精神的取り組みだったのではないか。障害者や底辺労働者、アジアの民衆、そうした弱者への後ろめたさから免れ、果てには生き続けていることへの負い目から自由になる、自己破滅を目指しての挑戦だったように思える」との境地に至ったという。

 いまも居室に石丸さんの遺影を掲げているという吉野受刑者は「石丸先生は日々、私を正面から監督、指導し続けて下さっている」と打ち明ける。「石丸先生の恩に報いるためにも、社会復帰を果たして、贖罪(しょくざい)としての生き方をしたい」

 知的障害のある二つ上の兄が長年、福祉施設で暮らしていることから、仮釈放が許されるならば、更生保護の活動に協力するとともに、障害者や高齢者の福祉活動に貢献したいと思い続けている。「慰霊のための墓参、謝罪と弔意を表す訪問など、慰霊と慰謝のために全生涯を捧げ尽くす」

 逮捕から50年。父母はそれぞれ2012年、20年に亡くなった。自身も年を重ね、昨年10月には心不全で生死をさまよった。

 贈られた腕時計は、身元引受人の弁護士が保管する。石丸さんの死から15年がたち、時計の針は止まったままだ。その腕時計を身につける日が来ることを、吉野受刑者は待ち続けている。(編集委員・大久保真紀)

■無期刑の受刑期間が長期化

 法務省によると、2020年末時点で無期刑の受刑者は1744人。同年に仮釈放を認められた8人の平均受刑期間は、37年6カ月となっている。

 犯罪白書によると、1980年代までは多くの無期刑受刑者が18年ほどで仮釈放されていた。しかし90年代以降、刑法が改正されて有期刑の上限が20年から30年に。有期刑以上の罰である無期刑の受刑者が先に出所できるという矛盾が生じ、無期刑の受刑期間が長期化した。過去10年を見ても、新規の仮釈放者は年平均7・8人。一方、受刑中に死亡した人は過去10年間で225人にのぼり、20年は29人だった。

 また98年の最高検通達により「動機や結果が死刑事件に準ずるくらい悪質」などと判断された無期刑の受刑者について、長期間受刑させる手続きが設けられた。これに対し、「事実上の終身刑」と危惧する声もある。

 吉野雅邦受刑者の身元引受人で、元検事で法務省保護局長も務めた古畑恒雄弁護士(89)は「『運用による終身刑』は重大な問題だ。検察庁・法務省は法律に書いていないことを通達でやっている。人の更生は何十年もかけてなされるものだ。検察の『死刑事件に準ずる』との判断で終身刑化するのは、人の更生ということに目をつぶることになる」と疑問を呈している。

■あさま山荘事件

 1972年2月19〜28日、共産主義を目指して結成され、武力闘争による革命を主張した連合赤軍の極左メンバー5人が長野県軽井沢町のあさま山荘に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもった。警察にライフルや猟銃で応戦し、機動隊員2人が殉職。事件後、拠点とした群馬県の山岳ベースで仲間12人を「総括」と称して殺害していたことが発覚した。


 

 
黒白フィルムは 燃えるスクラムの街
 足並揃えた 幻たちの場面
 それを宝にするには あまり遅く生まれて
 夢のなれの果てが 転ぶのばかりが見えた
 Rollin' Age 淋しさを
 Rollin' Age 他人(ひと)に言うな
 軽く 軽く 傷ついてゆけ
 Rollin' Age 笑いながら
 Rollin' Age 荒野にいる
 僕は 僕は 荒野にいる

   ――中島みゆき『ローリング』

 吉野受刑者から7年、中島みゆきさんから3年“遅れて”生まれた私にとって、「連合赤軍事件後」をどう生きるかは、自ら問い自ら答えなければならい課題だった――多くの同時代の人たちが直面していたように。

 〈地域の中へ〉・・・自らが暮らす生活の場で、闘いつづけること。連帯と共生を求めて、世直しの旗を下ろさずに。私の二十代から三十代、駆け抜けた人生は、この一言で要約されるだろう。

 

 『「あさま山荘」籠城 無期懲役囚 吉野雅邦ノート』

 記事でコメントを寄せている大泉康雄氏の著作『「あさま山荘」籠城 無期懲役囚吉野雅邦ノート』(祥伝社文庫)を読むと、吉野受刑者は山荘事件以前、「恋人」(金子みちよ 享年二十三)に二度、中絶させている。そして三人目の子どもが、“同志たち”によって――自分も共犯者になって――殺されたのだ。それを止められなかったのは、ナゼ?

 判決が確定して千葉刑務所に収監されていた1997年に、吉野は両親に宛てた手紙で次のように書いている。

 「
病室の外の椅子で一晩明かしながら、苦痛を訴える彼女の姿に、自分の罪を感じても、それは一時的なものでしかなく、中絶した生命への思いも深いものではなかった私は、一年半後、もっと冷淡なかたちで(中丸子(なかまるこ)のアパートを出て潜行する際に中絶費用を渡すというかたちで)二度目の堕胎をさせるに至るのです。

 自分自身の命や生そのものに対しての確固たる姿勢を持たなかったことから、こうしてもっとも身近な存在であるみちよや子供の生や命に対しても責任を持った対応ができず、犠牲にしていったもので、みちよ自身を身ごもった身で死に至らせた私の罪はすでにこの時から始まっていたのだと思います
」(同上書 pp.91-92)

 「私は彼だったかもしれない」というのは、重い問いだ。革命であれ宗教であれ、人間は主義(政治)や教義(宗教)に囚(とら)われてしまうと、観念を唯一絶対的な存在として神格化してしまい、いきものとしての勘覚(いのち)と人としての倫理(「殺すな」)を喪ってしまうのだ。

 何処へ? 荒れ野へ。そして、誰もいなくなった・・・。

 〈身近な存在を犠牲にしない〉――それは、今日に至るまで、私が自分を律するテーゼでもあれば、他者の言説や活動(どんなに世上で評価されているものであれ)をみきわめるバロメーターにもなった。心せよ、心せよ。誰かを犠牲にした、生き方をしていないか?(つづく)

PS:「私は彼女(金子みちよ)だったかもしれない」という問いが欠落していることに、後日、気がついた。それは、新聞記事や上記の本が――金子の生い立ちなどにふれてるとはいえ――吉野雅邦に焦点をあてているからだともいえるが、私が男で女の目線に立てないことに起因しているのかもしれない。

 この連載の(上)で描いたKI(小島一朗受刑者)や、(中)の私自身、そして今回の吉野受刑者の生を考えてみると、性(男性vs女性、父性vs母性)と力(暴力vs??、権力vs??)の問題が、根底によこたわっているように思える。

 現在の私の力量では、これ以上踏みこんで書けないが、今後の考察課題として棚に置いておきたい。


堂守随想・INDEX

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