ルネサンス、ルネッサンス
[2017・02・14]
堂守随想・INDEX



 小春日和の陽ざしのなか、石のベンチにすわる私の足元を、一羽の小鳩がなにかをついばみながら歩きまわっている。私の周囲を、イタリア語、英語、日本語、中国語、フランス語、それに私には分からない言葉が、雑多に行きかっている。

 ここはイタリア・ローマのバチカン博物館のテラス。一月二日。私は、今観てきたばかりのラファエロの間
(ま)
のギリシャの賢人画、システィナ礼拝堂のミケランジェロの天井画・・・数々の圧倒的な印象をうけた絵画を思いおこしながら、考えつづけていた。

 彼らルネサンス期の芸術家は、なぜ人と神の両方を描いたのだろう。文芸復興・人間再生をうたうのならば、人を対象にすれば十分ではないか。古代(西欧文化にあってはギリシャ・ローマ時代)が神=人の時代で、人間を表現することが神の讃仰でもあったのなら――ここで私は、何の世界史的・美術史的知識の裏付けもなしに書いている――中世は神の時代、そこから近代の人間の時代への転換点がルネサンスとするならば。

 それとも彼らは、やみくもに前時代を否定して来るべき人間の世を謳歌したのではなく、神と人の間
(あいだ)に調和をもたらそうと苦闘したのだろうか・・・。

 バスの時刻が近づいている。私は立ち上がった。満員電車の車内のような人の群れ。この人たちは――意識しているかどうかは分からないが――西欧文明の精神的ルーツというか、存在の根拠を求めて、バチカンを訪れているのかもしれない。

 [EXIT]に向かって歩をすすめながら、私も遠く離れた東洋の島国の、それも中世の歴史について書かれた一冊の書物に想いをはせていた。

 

 
「正長元年ヨリサキ者、カンヘ(神戸)四カンカウ(四ヵ郷)ニヲヰメ(負目)アルヘカラス、」

 これは、奈良市柳生町の柳生街道沿いに建つ巨石に彫られた碑文で、史跡「柳生の徳政碑文」と呼ばれている。室町時代末期の正長元年(1428年)に農民が徳政を要求して蜂起した土一揆に対して柳生の里の守護権を持つ興福寺が徳政令を発し、その記録(?)に郷民が彫ったものと言われている。

 この碑文は、「正長元年以後、神戸四ヵ郷にはいっさいの負債がない」と解釈されてきた。しかし徳政とは、借金を棒引きにする施策である。素人目に考えても、これから先負債をおわなくてすむのなら、極端な話、経済というか社会がたちゆかないのではないか。

 歴史学者の勝俣鎭夫
(かつまた・しずお)は、「サキ」という単語に着目し、先が「以後」ではなく「以前」を意味しているのではないかという仮説をたてた。彼は学際をこえて様々な文献を渉猟し、次のような結論を導き出した。


 『中世社会の基層をさぐる』 


 「日本語のある時点を基準にして、時間の経過をあらわす「サキ」・「アト」という言葉は、世界の他の多くの諸言語と同じように、「サキ」は過去を、「アト」は未来を意味する言葉として、古代から現代にいたるまで使用されてきた。ところが、日本語のこの言葉は、戦国時代という大きな社会転換のなかから、「サキ」=未来、「アト」=過去というまったく正反対の意味を派生させ、以後、この言葉は、新・旧両方の正反対の意味をもつ言葉として使用され、近代以降、新語意は旧語意を圧倒するかたちで定着した。

 「サキ」・「アト」という言葉の本来の言語表現は、古代ギリシヤ語、南米アンデス地方の先住民のケチュア語、アイマラ語の言葉の成り立ちについての説明論理から明らかなように、未来を背に、過去と現在を眼前に置いた姿勢での視覚的体験より生みだされたものであった。そして、この表現は、人々が実感しうる社会的共通感覚を基礎にして形成された社会的時間認識にささえられて使用されてきたという性格をもっていた。このように、言語表現と社会意識との深い関係を具体的に示す「サキ」・「アト」という語の意味が、「サキ」=過去、「アト」=未来から正反対の「サキ」=未来、「アト」=過去に転換したということは、時間に対する視覚的認識のあり方と、言葉の表現の関係をそのままにして、それを認識する眼の位置、体の姿勢の向きを百八十度回転させたことになる。すなわち、「サキ」・「アト」の戦国時代における語意の転換は、日本列島で暮らす人々の原始・古代以来の伝統的時間認識の転換を前提とし、それをストレートなかたちで表現したものであった。(中略)

 ここで新しく形成された、未来に向き合うという時間認識の姿勢は、西欧近代社会のもとで明確なかたちで形成された「近代的時間観念」と同じ認識の方向性――知覚的に認識しうると考えていた時間に、神仏の支配領域に属し、人間が知覚できないものと考えていた時間を、知覚可能な時間として、新しく「人間」社会の時間に加え、過去・現在・未来という時間構造をつくりあげ、人間が正常な姿勢で進む前方に未来をおく方向性――をしめすものであった」
(勝俣鎭夫『中世社会の基層をさぐる』pp.21-22 山川出版社)

 私が新聞でこの本の書評を読んだのは、〈からだとことばを育む会〉の稽古で心眼(からだの内を観るこころの眼)で背側を内観するという新たな試みにチャレンジしていた時だった。専門書ではあったが、何か感じるものがあり、図書館でとりよせてもらった。

 稽古の意図は次のようなものだった。からだ(とこころ)をととのえようとする時、何と何の間を調えるのか?それは、肉体と感覚ではないか。そして、物質を識別する肉眼(肉体の目)は前を向いているのだから、感覚の眼=心眼は後に向けるのがスタンダード・ポジションでは?という仮説をたて、私は様々な稽古を試みていたのだ。

 勝俣の指摘・考察は、私の身体論&技法に何か論理的な根拠とでもよぶべきものを与えてくれたが、同時に私は愕然とした。それは着物を日常着に着始めた時に感じたフェイク感――私はここ十年ほど日々着物をきて暮らしているが、生まれた時はパンツにシャツの世代である。着物で一生を終えた人たち(彼らの世々の営みが、日本という共同体の文化をつくりあげてきたのだ!)の身体感覚とは、まったく違うのだろうな。「伝統の継承」などとかるがるしく言うまい――を上まわる、ションボリ感であった。

 国学者の本居宣長が――彼は江戸時代後期の人である。私たち現代日本人からすれば、明治以前は向こう側=伝統サイドに位置するだろう――すでに今の世には失われたと嘆いたのは、この身体(時間)感覚だったのではないか。人と神が一体となって生き、人間の目は始源の世からさす光に映し出された現在を見る、という・・・。

 

 マルクスを読んだことのない人間が、カール・マルクスについて書くのは気がひけるが、『マルクスの心を聴く旅』(石川康弘・内田樹 かもがわ出版)で、思想家の内田氏は、マルクスゆかりの地・ドイツ&イギリスをまわった旅の印象を次のように語っている。

『マルクスの心を聴く旅』

 
「トリーアでローマ帝国の遺跡を見た時に、「なんでドイツにローマがあるの・・・」と思ったんですけど、その時に、「ああ、だから『神聖ローマ帝国』なのか」ということが分かった。ナチスが「第三帝国」を名乗ったのもそうですね。彼らも主観的にはドイツはローマ帝国の系譜に連なるのだと思っていた。ドイツ人にとっては「帝国」という概念がたしかに「受肉」しているんだということが分かった。

 同じようなことを、リバプールの非常に空疎な豪奢さを見た時にも感じました。たいへんなお金をかけてつくられたリバプールの町並みを見て、これはまたすさまじいかたちで全世界の富を収奪したものだと、ぼくはちょっと気分が悪かったんです。(中略)街並みに人間性が出てしまう。」
(同書 pp.214-215)

 ヨーロッパは近代資本主義を受肉している――内田氏の用語にならって言えば、日本は資本主義を“臓器移植”したと表現できようか。その百数十年の生体史が、1945年の破局を生み、今またオキナワ・フクシマ・アンポ・カクサ、BLACK、Black、black の光景を産み出している。前掲書での内田氏は、悲観的である。

 
「資本主義のメカニズムというものを根源的に批判するような思想なり運動なりが、日本の伝統から生まれてくるということがあるのか。ぼくはたぶんないと思う。資本主義を生み出したのが日本じゃないから。これは外来生物なんです。だから、それが生まれた出自の土壌からしか、それを制御できるものは生まれてこない」(同書 pp.215-216)

 反論ではないが、二生(にしょう=二人の人間の人生)の身体を生きることを運命づけられた者には、その人間にしか果たしえない役割があるのでは・・・。 

 

 『日本農業再生論』 

 “奇跡のリンゴ”の木村秋則氏――品種改良がすすんだため不可能と言われていたりんごの自然栽培(農薬も肥料もいっさい使わない栽培法)に、十年の試行錯誤の果てに成功した青森の農家――が、近刊書で日本発の“農業ルネサンス”について語っているのを知った。

 
「高野さん(注 共著者の高野誠鮮氏)との話はどんどん進展し、ヨーロッパとアジアの両文化の融合と続き、日本から世界に農業ルネサンスを発信して、歯止めのかからない温暖化とその影響と言われる巨大化する自然災害など、破壊の進む自然環境の修復に走ろうと壮大な目標に行動を向けたわけです。

 ヨーロッパで始まったルネサンスは、芸術、学問、産業革命が次々と起き、現在の基礎になったことは言うまでもありません。では、日本はどうだったか。徳川時代(江戸時代)に鎖国政策がとられ、世界から孤立した中で、日本では独自の文化を発展させ、その一部が長崎の出島を通じて発信され、海外で素晴らしい評価を絵得たばかりでなく、逆にヨーロッパがそれを引用・利用するほどだったそうです。(中略)

 ガリレオ・ガリレイは、「地球の周りを太陽が回っている」が正しい常識とされていた時代に、全く逆の「地球が太陽の周りを回っている」と主張したので、世間から大きな批判を受け、ついには裁判にかけられました。しかし、その時も“私は正しい。間違っていない”と主張したそうです。私と高野さんが取り組む自然栽培も何か似ている感じがします。ガリレオの提唱した地動説が正しいと評価されたのは100年以上も過ぎてからです。正しいことを話しても、世間、社会から受ける誤解も多い。しかし、数年後、数十年後、必ずや理解され、世界各地で取り組まれていると思います。そして地球環境も少しずつ修復改善が進み、温暖化も弱まり、安定した状態になると期待しています」
(木村秋則・高野誠鮮『日本農業再生論』pp.2-3 講談社)

 木村氏は、奥さんが農薬散布でアレルギーに苦しむのを何とかしたくて、“常識”をこえた農薬不使用の道を志したという。それまでは、近代の産物(農薬)を――他のまわりの農家がほとんどそうであるように――疑うことはなかったのだ。

 「ルネサンス」とは、何と大仰な、と思われるかもしれない。しかし現代資本主義と、そのパートナーである近代国民国家が、手をたずさえて崩壊する“きしみ”(予兆)をみせはじめた今、人類、いや生きとし生けるものが生きのびるためには、地球規模のパラダイムの転換が求められているのではないだろうか。

 それは“近代の超克”などではなく――近代人が近代を否定するのは(頭では可能でも体は)不可能である――自然
(しぜん)を自他分別の対象として人間にとっての利を収奪し他は破壊してきた近代史をふまえたうえで、もうこれ以上人間と世界をこわさない自然(じねん)との共生をはかる生き方=社会の創造である。

 室町末の「柳生の徳政碑文」から戦国、江戸時代へと続く日本の「近世」は、確かにヨーロッパのルネサンスは生み出さなかったかもしれない。しかし、そこには、勝俣が指摘したような身体(時間)感覚と社会認識(観念)の転換の類似性と、にもかかわらず同じ轍
(わだち)を踏まなかったという――木村氏の言う――可能性が秘められているのではないか。

 ミケランジェロがラファエロが、神と人との間に調和をもたらすべく苦闘した姿を、思いおこそう。疑問から出発する。果たしてこれが、人によいのか、世によいのか。判断の基準は、いまここを生きる生命だけでなく、未来の生にとってでもあり、さらに――いのちはひとつ――過去の生にとってでもある。

 

 水棲昆虫のみずすましは、目を四つもっている。実際は二つの目が上下で区切られていて、それぞれ空中と水中のえさを見つけ、また外敵から身を守るのだそうな。それがみずすましの進化であった。では、私たちにとっての“目の進化”とは?

 生命(人類をふくむ)の歴史は不可逆である。私たちは、「サキ」=未来/「アト」=過去の目から、「サキ」=過去/「アト」=未来の目に戻ることはできない。しかし、身体(感覚)が文化(観念)を創り、逆に文化(観念)が身体(感覚)を規定することを考えれば、みずすまし仕様の上下の目を持つことは可能ではないだろうか。

 危機の時代に、危機だからこそはら・こしをすえて、近代の目=肉眼で主体を生き、中世までの目=心眼で客体を生きる――サキとアトを二重に、しかも同時に見れる目を獲得すること。この世に棲み、澄んだ目をもつ、あらたな人の誕生である。


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