[高柳無々々.com]


  
  2018/08/17 [金]   秋の気配


 昼、中立売商店街の「元気おまめ」へ、弁当を買いに行く。

 十六穀ご飯に和総菜(野菜、豆、海草がほとんど)を自分で小さなパックに詰め合わせて540円なり。
 
 道すがら、澄んだ空を見上げると、綿毛をすいたような雲。吹きぬける風が、頬に心地よい。立本寺の境内からは、つくつくぼうしの鳴き声が聞こえてきた。


  2018/08/16 [木]   からだの声


 夕食時、テレビから「全国戦没者追悼式」での天皇のメッセージ(録音)が流れてきた。

 我知らず、涙がにじんだ。意味にあたまが反応したのではない。音声に、からだが共鳴したのだ。

 彼の声には、確かに身体の裏付けがあった。私は天皇制廃止論者だが、天皇は何を「反省」し、誰に「追悼」したのだろう・・・言葉が、ふかく身にしみた。

 後で、鳩山由紀夫氏が式に参列した際の感想を、ツイッターに書いているのを読んだ。首相・衆参両院の議長・最高裁長官も式辞を述べたが、いずれにも共感できなかったと。さもありなん。


  2018/08/15 [水]   エーリッヒ・ケストナーの言葉


 朝日新聞・朝刊の連載〈折々の言葉〉by鷲田清一より。

 「この世の中では、なにを悲しむかということは、すこしも問題ではなく、どれほどふかく悲しむか、ということだけが問題なのです。」(『飛ぶ教室』)

 *

 私も、「整体とは、病気治療や心の癒しではなく、深く悲しみ、深く喜び、深く怒ることだ」という先生の言葉を、胸に刻んでいる。


  2018/08/14 [火]   手の為せる事


 我が家の近く、丸太町通り沿いに饅頭屋さんがある。

 老夫婦、二人の店。正直、儲かっているとは思われない。この暑さに、クーラーもなく換気扇でしのいでいる。

 以前、団子を買ったら、前日の売れ残りのようで固く、食べられなかった。それ以来、買うことはなかったが、今朝、お団子を食べたくなって店に行った。

 お盆の繁忙期だからだろう、若い女性が助っ人で団子をまるめていた。五串、三百五十円の「御手洗団子」を買う。

 家に帰って食べると――ほのかにあたたたかく、そして歯ごたえがあった。これは、スーパーで売っている山崎のふにゃふにゃ工場製品とは、あきらかに違う。

 特においしいとは感じなかったが、これが“手の為せる技”だと思った。


  2018/08/13 [月]   気配(けはい)と気配り


 二人の子どもが小さかった頃(一歳と少し?)、どちらも縁側からコンクリートのたたきに落としてしまったことがある。

 家で、目をはなしていたほんの隙に、庭へ出ようとしたのか、50cmの高さから落ちてしまったのだ。鳴き声に飛んでゆくと、仰向けになって泣きじゃくっていた。幸い――上手に落ちたようで――ケガもなく、事なきを得たが。

 まだ、よちよち歩きもできない時で、ハイハイで驚くほどの早さで離れて行ったのだ。それも、音もなく。

 *

 この頃、「勘」とは、かそけき訪れだな、と思うことがよくある。ふっと感じて、臨機応変に対応しないと、すぐに逃れてしまう。結果は、因果応報である。

 稽古ではよく「紙一枚の感覚」という言葉を使うが、この紙も、コピー紙のような洋紙ではなく、手漉きの、やわらかな、静かに舞い落ちる和紙のようなものだ。

 メジャーリーガーのイチロー選手が、何かの記録を達成した時に、インタビューに答えて、「神が降りた」というような発言をしていたのを新聞で読んだことがある。私は、神=紙ではないか、と思ったものだ。

 勘は、気配を感じる、と言い換えてもよいだろう。私は、気配りと気配、なぜ同じ漢字を用いるのか、以前から疑問に感じていた。というのも、気配は、「私が」受け身になるのに対して、気配りは、逆に能動態であるのだから。

 そして、ふと、今朝、気配とは、もともと、「気這い」ではなかったのか、と思い至った。気が向こうから、這う――ハイハイをしてくるのである。音もなく、気づくと、そっと袖にふれている・・・。

 何の根拠もない憶測だと言われるかもしれない。でも、言葉のなりたち(特に漢字の仕様)は、そんな理性では測れない“戯れ”も作用しているのではないか、と思えるのだ。

 例えば――私は山口時代、洋服屋をしていたが、入ってくる荷物を検品していた時、伝票に「入日記」と印刷されているのが不思議でならなかった。なぜ、日記なのか?

 辞書で調べてみると、元々「入荷記」という言葉だったのが、誤用されて(発音が似ているから?)「入日記」も用いられるようになったとか。

 言葉は、人間のルーズな一面も表している。


  2018/08/12 [日]   お招きさん


 京都・堺町画廊で開かれたお招きプロジェクト主催の〈春画夜ばなし―夏編―〉に参加。

 第一部は、鈴木竪弘(すずき・けんこう)氏のTALK「春画にみる江戸の夏―七夕から怪談まで―」(参加者三十名、男性は三、四名)、第二部は、ワークショップ「お招きさんの土人形を作ろう!」(参加者十名、男性は一名)。

 お招きさんとは、江戸時代、「子孫繁栄」「商売繁盛」を願って、家々の神棚の上に飾られていたり、寺社で信仰の対象になっていた男性器をかたどった人形のこと。お招きプロジェクトは、そのようなユニーク日本文化の復興(?!)を期している。

 第一部の後で、講師に質問:春画には、着物の柄や背景に――メタファーとして――植物を描いているものが多いが、動物はないのか?

 例えば、(当日、紹介された絵で)満月と合歓木(ねむのき)が、夜這いをする男女の背後に描かれている。合歓木は、夜は葉を閉ざすのに開いているのは、二人の交合を暗喩している。

 ANS:猫などは(繁殖の象徴として)描かれている。確かに、植物の方が多い。

 私見:現代人は、sex=動物的、ととらえるが、近代以前(近世まで)は、生命の原初にちかい植物にこそ、エロス(根源的ないのちの力)を感じていたのではないか。人間の肉体には、植物性臓器(呼吸・循環・排泄)と動物性臓器(感覚・神経・運動)があり、前者が“はら・こし”にひびく身体の内奥に位置していることから類推されるように。

 感想:明治政府による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)・神社合祀(じんじゃごうし)と並んで、天皇=現人神の国教化による有形・無形の力で、このような俗神信仰が、民衆から奪われていったのだろう。

 *

 久しぶりに絵筆をにぎって、アクリル絵の具で描いた私の作品がこれである。家に持ち帰ったお招きさんは、しんみょうに神棚に鎮座まします。

 


  2018/08/11 [土]   平和の詩


 遅ればせながら、去る六月二十三日に沖縄で催された「全戦没者追悼式」で、相良倫子(さがら・りんこ)さんがうたった詩「生きる」を、YouTubeで観た。

 video テキスト

 これほどの魂(たま)ふる言葉を書き、語れる人間が、果たして日本に何人いることか。


  2018/08/10 [金]   この世は、ままならぬ


 夕方、郵便局へ振り込みに行ったついでに、自転車で生協に向かっていると、「ピーヒャラ〜」と路地からラッパの音が。

 おじいさんが、自転車でリヤカーを引きながら、客を呼び込んでいた。

 ――僕もまえに、別の豆腐屋さんだけど、リヤカーで引き売りをしてるのを、買ったことがあるんですよ。

 ――なつかしいわねえ。さぞ、おいしかったでしょ。

 ――それが・・・まずかったんです。

 ――え?!

 ――問屋から言われるままに、輸入大豆をつかって、凝固剤や消泡剤も昔のままに。これじゃあ、スーパーで売ってる充填豆腐に負けちゃうな、と。

 街の豆腐屋さんにはがんばってほしいが、郷愁だけでは、お客さんはお金は払わない。豆屋の自戒をこめて、一に工夫、二に工夫。


  2018/08/09 [木]   からだの感覚、〈裏〉と〈表〉について


 稽古会のメーリングリストへの投稿。

 Hさん、稽古の感想をありがとうございました。絵を描くのも、例えば皆で1枚の絵を描く、というような発展も面白いでしょうね。

 発声の〈裏〉と〈表〉ですが、僕も朝風呂の中で日々、発していると、その日によってなむあみあぶつがなじむ日もあればクリシュナが心地よい日もあります。

 つらつら考えるに(大仰なようですが)、〈裏〉とは“神を迎える声”、〈表〉は“神にささげる声”ではないか、と思えます。

 この点に関して・・・
 8/5の日曜日に、奈良で開かれた「わたぼうし音楽祭」に行ってきました。これは「たんぽぽの家」がメインになって主催する障害者の発表会です(今年で43回目)。

 音楽祭で大賞に選ばれたのが、「樹になった鳥」という歌でした。

 鳥よりも樹の方が自由である、というのは“常識”に反するようですが、進化の過程で植物が動物よりも原初(生命の発生)に近い、ということを考えれば、頷けるものがあります。

 あるお医者さんの書いた本を読んでいたら、人間の肉体には植物性臓器(呼吸・循環・排泄)と動物性臓器(感覚・神経・運動)が併存しているそうです。前者は体内の奥に、後者は表面に位置しています。人間は、植物的な要素と動物的な要素を併せ持っているのです。

 では、動物と植物の違いとは?・・・と考えていたら、〈声〉にあるのでは、と思い至りました。つまり、植物は、声を発することはできず、〈受容〉のみ、それに対して動物は、〈受容〉に加えて、声を発する〈表出〉も可能になったのでは、と。

 そう考えると、「なむあみあぶつ」と〈裏〉で発声している時は、(声には出していますが)おおいなるものから命を受けとっている、そのために声は低く小さくなり、「クリシュナ」と〈表〉で発する時は、逆に神に届けとばかり、声は大きく高くなる、そういうことなのかな、と思います。

 行気は基本的に〈裏〉で行いますが、それは1本の木になることで、活元は〈表〉で行う=動物になりきること、かなと思えてきました。さらに細かく言えば、こしの行気は木の「幹」をつくり、はらの行気は「根」をつくるのではないでしょうか。

 つらつら、真夏の夜の考察でした


  2018/08/08 [水]   初めて、布施を受ける


 朝、公園で稽古。

 終わっていつものように一本歯の高下駄から雪駄にはきかえ、かにばさみと袋を持って公園の中をゴミ拾いに回っていると、道路を隔てて向かいの家の玄関から、「ありがとうございます」と奥さんに声をかけられた。

 この児童公園には、南側の隅にお地蔵さんが祀ってあり、朝、近所のおばさんたちが花生けの水を換えたり掃除をしたり、またお参りに何人かが現れる。また北側にはトイレがあって、用足しに来る人もある。

 さらにいくつか置いてあるベンチに、座ってスマホをチェックしたり、煙草を吸いに寄る人も、たまに見かける。

 私は主に北側で稽古しているので、南門(その脇がゴミの収集場所になってる)付近で挨拶を交わしているご近所さんとは、言葉を交わす機会もなく、縁遠かった。それが今朝、初めて――前の立本寺公園が老人マンション建設でつぶされ、この鹿垣公園に移って二年――声をかけられたのである。

 仏教には布施(ふせ)の一つに「無財の七施」というものがあり、その中に「眼施」や「和顔施」と並んで「言辞施」(ごんじせ)があるそうな。言葉による布施である。その功徳を、身に染みて感じた朝だった。



  2018/08/07 [火]   今日の夕食


 小さな仕事塾の塾生からいただいたひもかわうどん(群馬)に、小豆島から入荷した放牧豚の焼き肉、義父母が家庭菜園で育てたゴーヤの塩糀和えとミニトマト、それにスーパーで買ってきたキャベツの千切り。デザートは、これも豆料理クラブ会員からのいただきものブルーベリー(奈良)。

 *

 このところ、夏バテなのか、腰がだるい(痛いほどではないが)。これではいかん、と――いつもは布団に仰向けになって、手抜きで行う――「こしの行気」を、今朝は正座して行った。すると、頸椎の五=腰椎の五を内観している時に、“こしにはいる”感覚が生まれて、楽になった。あのダルさが、嘘のように消えて。

 その勢いのままに、公園へ剣術の稽古に向かったのだが、道々、「上意下達(じょういかたつ)の組織は、上下(タテ)の感覚しか(悪い意味で)育まないのではないか」という思いというか、言葉が浮かんだ。

 左右(ヨコ)の感覚は、フラットな人間関係――「いのちは絶対平等である」ことを、観念ではなく、からだの感覚として共有する集団・共同体――でしか、養われないのではないだろうか。

 私が職業的には、高校教師をアホらしくなって辞め、今こうして女房と自営業をしているのも、ライフワーク的には身体教育研究所を離れたのも、上下関係(と、それが醸し出す雰囲気)に耐え切れなかったからだ。

 オウム真理教は、特異な存在などではない。勘違いのトップ(特に世襲制の家元に生まれたような)と、トップとの近さを競いアイデンティティーとするような周囲の人間達との、共犯関係。そして、免状・段位の授与←→本部への上納金という、ギブアンドテイクのビジネスシステム。

 そう、それは家父長制(&天皇制)の本質そのものなのだ。からだとことばを育む会はそんな場にはしまい、と私は常に心懸けてきた。そうだからと言って、社会組織におけるヒエラルキーを全否定しているわけではない。指導者も必要である。誰にも、各々、役割・使命があるのだ。

 ただ、共通のプラットフォームとして、「同じいのち、つながるいのち」という感覚を共有しない集団(共同体)は、滅びざるをえないのではないか――たとえ一時は、栄華をきわめても。崩れなくとも、形骸化は必定(ひつじょう)のように思える。


  2018/08/06 [月]   白兵戦のように、一進一退を繰り返しながら


 一日、ECサイト(ネットショップ)構築の作業にあたる。

 仮説を立て、検証し、納得がいかなかったら(妥協できなかったら、と言った方がよいかもしれない)、再び仮説を立て、一歩ずつ駒を進める。この間、インターネットで必要な情報収集にあたる。

 PCの作業は、稽古の方法論とよく似ている。


  2018/08/05 [日]   第43回わたぼうし音楽祭


 @奈良県文化会館。以前、一日見学に訪れたたんぽぽの家(音楽祭の主催者)から招待券をいただき、参加。

 四十数年の積み重ねに敬服。ゲストの上海市障害者芸術団による、自閉症の青年のピアノ演奏と、聴覚障害の若い女性達の群舞――レベルの高さに驚嘆。

 そして、大賞を得た歌「樹になった鳥」には、涙が止まらなかった。中途障害(おそらく)の女性が作詞し、消防士の男性が作曲&ギターとハーモニカで演奏して歌った。

 このような場にこそ、杉田水脈や植松聖のような“気のちがった”人間達に、来て、聴いてもらいたいと思った。


樹になった鳥

作詩:新井美妃(群馬県藤岡市・48歳)
作曲:新井研二(群馬県藤岡市・32歳)


不自由を 知らなかった頃
本当の自由も わからなかった
日常は当たり前で
当然のように 続いていた
行きたい時に 行きたい場所へ
孤独さえも 清々しく
夢は 現実のすぐ先に
自分次第で なんでもできた
あの日 あの瞬間(とき) 翼が折れるまで
空はただ青く 均一に広がっていた

飛べなくなった鳥は 空を見上げる
もう二度と 辿り着けない遠い所
ほんとうに・・・?
幾千の涙が 大地を濡らした
嵐の中で 耐えるうちに
足に根が生え 翼は枝に
いつしか鳥は 樹になった
ありのままを 受け入れて
飛べない空に 心を飛ばす
世界が新たに 目覚め始める

悲しみは 優しさ深め
苦しみは 強さ育み
支えあう 絆の中で
生きるとは こんなにも
つらく いとおしい
伸ばした枝は 変幻(へんげん)空(くう)を纏(まと)い
風に葉を靡(なび)かせて 樹は
今日を 羽ばたいている
本当の自由を 感じながら
花咲く明日を 信じながら


  2018/08/04 [土]   『全生』八月号


 巻頭の野口晴哉の言葉。

 「自分が至らないから、まだ人を救えないとか、教えられないとかいう人があるが、至った人間など昔から一人もない。ただ至らないままに人を導き、教え、救っていると、だんだん至る道に近づいてゆく。」

 常に肝に銘じている格言。


  2018/08/03 [金]   若者、一字違えば


 一昨日は、娘(東京でインターン中)のレポートを出しに、夕方バタバタした。

 五時の締切に、四時半にメールで送ってきた。急いでプリントアウトし、タクシーに飛び乗って大学へ。

 学生に聞き聞き、国際高等教育院という建物の一階にあったレポート提出箱(マンションの入り口にある郵便箱を思わせる造り。壁一面に、授業科目と担当者が印刷された小ボックスが並んでいる)に、五分前に間に合った。

 この科目の単位がとれれば、九月に卒業できるかもしれないという。科目は〈現代史概論〉、テーマが「20世紀を生きた人物」ということで、娘は祖父(千晶の父)の人生をとりあげていた。

 担当教員が、農学部の藤原辰史(ふじはら・たつし)氏。「自由と平和のための京大有志の会」の発起人で、有志の会主催の読書会でも何度かご一緒させていただいている。

 世間の間口の狭さを、ここでも感じる。

 *

 帰りがけ、バスから百万遍の石垣を見ると、京大“名物”の立て看板が撤去されて、何もなかった。吉田寮の入り口では――誰もいなかったが――小さなテントで一杯二百円のかき氷を売っていた。小さな遊び心。

 わかもの、’’を加えれば、ばかもの。バカができる、というのが若者の特権というか、それしかないではないか。世間の常識・良識を打ち破り、揺さぶることこそ、社会(文化共同体)における――大仰なようだが――若人(わこうど)の使命に思える。

 大勢順応、寄らば国家の陰、の若年寄にならずに、永遠の“異邦人”であってほしい。




  2018/08/02 [木]   「生命 かつ消えかつ結びて」


 朝日新聞・朝刊の連載〈福岡伸一の動的平衡〉より、一部抜粋。


 「方丈記の冒頭ほどみごとに生命の動的平衡を言い表した文章を私は知らない。

 『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし』。

 あらためてこれを読んでみて大発見をした。なんと鴨長明は、消えることを結ぶことよりも先に書いているではないか!つまり、合成よりも分解の意義の優位性をすでに言い当てていたのだ」

 *

 稽古の方法論でも、まず普段使いの体を否定し、そこから生まれる新たな体を肯定する、という常道がある。


  2018/08/01 [水]   こんなところにまで、グーグルの魔の手が


 今日から八月。朝、近くの児童公園に剣術の稽古に行く。

 自転車を止めて、ふと見ると、トイレの壁の注意書きが書いてあるボードの裏に、封筒が差し込んである。落とし物かと思って近づいてみると、あの見慣れたグーグルのロゴが。

 児童公園の住所の下には、「○○公園広告宣伝担当者様」という宛名。封書には、「グーグルで表示される情報を更新しましょう」という文面が印刷されている。

 郵便やさんも、どこに配達してよいものやら迷ったあげく、このボードに差し込んだのだろう。苦笑がこみあげてきたが、この現実、笑ってばかりもいられない、と思い直した。こんな無人の公園にまで、グーグルの“管理”が及んでいるのである。

 *

 7時になっても、ラジオ体操の子どもたちが姿を見せなかった。七月までだったのだろう。誰もいない公園で、一人、足歩の稽古を繰り返す。

 今は、まず、南北にタテ(〈表〉の呼吸+はらの回転)・東西にヨコ(〈裏〉の呼吸+はらの回転)で歩く稽古を行い、その後、こしの一から五に心眼を向けてそれぞれ現れる感覚を感じながら歩き、最後に少しだけ木刀を振るっている。熱中症にならないように、何度も水を飲みながら。

 今日は、南北に〈表〉で進むと視野がひろがるように感じ――これが、宮本武蔵が『五輪書』で語っていた「観(かん)の目」か、と思う――東西に〈裏〉で進むと背後に目が向く(もちろん気配で)ように感じられる。

 心地よく汗をかき、最後はお礼に公園のゴミ拾いをして、帰宅する。