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  2025/06/24 [火]   稽古会


 参加者二名。前回と同じく〈イメージの活用〉の稽古を行う。千晶、退院して帰宅。初めての、入院生活だった。一週間――看護や介護に日々、骨身をけずっている人には、頭が下がる。


  2025/06/23 [月]   東京都議会議員選挙


 愚鈍(ぐどん)な知事の雑兵「都民ファースト」が第一党に、共産党が−5議席、れいわ新撰組は0。この結果を、何と言うべきか。


  2025/06/22 [日]   今日の一日の


 午後二時から伏見区のエコロジ−センターで開かれるイベントへ・・・のはずが、一時間間違えて(早過ぎて)京阪・藤森駅で下車。スマートフォンで検索したら藤森神社が近かったので、参拝。境内の湧き水で喉をいやす。

 イベント自体は、稔りが少なかった。帰宅して夕食後、りょう氏の6/17付けツイッターに、座布団一枚!投げ渡す。

 「都民ファーストだの日本ファーストだの、ファーストの背後には必ず右翼がいるからな。野球見ればわかるだろ。」


  2025/06/21 [土]   街を歩く


 木槿(むくげ)と夾竹桃(きょうちくとう)が、咲き始めた。今日は夏至―息抜きにキタマチロージへ食べに行くと、聡子さんが楽天堂の〈緑豆とまいたけのスープ・大麦入り〉に、冬瓜を入れてだしてくれた。

 千晶の退院が来週火曜日にきまり、ほっと一息。東京から見舞いに来た娘も交えて、病院のラウンジで三人で歓談。その後、菜芭とイオンで刺身などを買って帰り、夕食にはひさしぶりに日本酒を飲む。
 
 ※
 
 本日付けの朝日新聞デジタルより、必見。〈「蛍の光」歌詞から沖縄は消えた 広がる帝国、こぼれ落ちた「関心」〉――

■「100年をたどる旅〜未来のための近現代史」沖縄編@■

 卒業式で今も歌い継がれる「蛍の光」。1882(明治15)年に文部省(現文部科学省)が小学校の「唱歌」として発表したこの歌にはかつて、「沖縄」があった。戦後、歌われなくなった4番の歌詞だ。

 「千島(ちしま)のおくも 沖縄も 八洲(やしま)のうちの守りなり 至らん国に いさをしく つとめよわがせ つつがなく」

 沖縄はその3年前までに、明治政府による「琉球処分」で約450年続いた琉球王国が廃され、沖縄県が設置されていた。千島は、1875年にロシアとの樺太・千島交換条約で日本領となった北海道の千島列島、八洲は日本国の異称だ。

 明治維新を遂げたばかりの新政府は、歌によって国民の一体化を図ろうとした。日本に組み込んだ沖縄と千島を日本の「うちの守り」と示し、国土防衛に努めよと男たちを鼓舞する内容だ。
 
 3年前、「唱歌『蛍の光』と帝国日本」を著した大日方純夫(おびなたすみお)・早稲田大名誉教授(日本近代史)は「4番がたどった運命は、日本にとって沖縄がどんな存在であったかを物語っている」と話す。

 英国やロシアなど欧米列強がアジアへの植民地主義をあらわにした明治時代。当時、琉球諸島を初めて視察した内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)は、政府への「復命書」で「沖縄は我(わが)南門、対馬は我西門にして最要衝の地」と報告していた。「外敵を恐れた当時の政府にとって、沖縄や千島など国境の島は国防の最前線だった」
 
■拡張された前線 「国民の領土を意識させるため」■

 ただ、4番の作詞過程で問題となる表現があった。「うち」か「そと」か、だ。
 
 作詞者は、文部省に音楽取調掛として雇われた教員の稲垣千穎(ちかい)とされる。大日方さんによると、稲垣が付けた4番の歌詞の原案は当初、「千島のおくも 沖縄も 八洲のそとの守りなり」だったが、文部省幹部が「そと」という表現を「事実上甚(はなはだ)穏当ならず」と指摘し、「うち」に修正させたという。

 大日方さんは「まだ多くの国民にとって沖縄や千島は『そと』だった。政府はその認識を変えさせ、国を守る国民に領土を意識させるため、『うち』にこだわった」とみる。

 こうして国家色が強まった「蛍の光」は唱歌の一つとして、全国にあまねく建てられた学校で子どもたちに歌われるようになる。

 ところが20世紀に入ると、今度は4番にあった「沖縄」が、歌詞から消えていく。例えば1906年にある教科書会社が発行した「教育唱歌集」で、4番の冒頭は「台湾の果(はて)も 樺太も やしまのうちの まもりなり」に書き換わっている。

 この間にあったのが、日清(1894〜95年)・日露(1904〜05年)戦争だ。日本が日清戦争後に台湾、日露戦争後に樺太(サハリン)の南半分を領有すると、日本にとっての「国防の最前線」が沖縄から台湾へ、千島から樺太へと拡張されていったのだ。

 そして政府は、「うちのうち」となった沖縄への軍事的関心を、急速に失っていった。
 
■「郷土部隊」沖縄は例外に その帰結が県民の犠牲■

 太平洋戦争末期までの約半世紀、沖縄は本格的な基地建設や大部隊の配置がない「軍事の空白地」だった。

 琉球処分の頃から政府が沖縄に派遣していた数百人の軍隊は、日清戦争後の台湾獲得により版図が拡大したため「不便を忍んで駐留させる程の必要はない」と、1896年には撤退した。徴兵は、本土から25年遅れの1898年に沖縄でも始まっていたが、他府県では置かれていた地元出身者による「郷土部隊」は組織されず、県出身者は九州の各部隊に分散配置されるという例外的な扱いを受けた。

 戦後、防衛庁(当時)防衛研究所が編纂(へんさん)した「沖縄方面陸軍作戦」によると、徴兵の事務を担う沖縄警備隊司令部(1918年から沖縄連隊区司令部)は置かれたものの、「沖縄県には軍馬一頭」と言われるほど少数だった。

 沖縄の近現代史に詳しい国際政治学者の我部(がべ)政明さん(70)はその理由を、政府が沖縄を守る意識が低かったことや、当時の日本軍が、日本領となった後も清(中国)に近い沖縄の人の愛国心や忠誠心を信用していなかったためだとみる。「沖縄を領土として都合よく『うち』に組み込んでも、内心は、敵対する中国にも属した異国、つまり『そと』と見ていた。その帰結が、県民の4人に1人が犠牲になった太平洋戦争末期の沖縄戦だった」

 スコットランド民謡が原曲の「蛍の光」も、その頃には「敵性音楽」として歌われることさえなくなっていた。


  2025/06/20 [金]   今日の一日


 朝、起きぬけに「体の中に、ドロッとした、ヌルッとした、山椒魚やナマコのような生き物がいる」という、ヘンな感じがした。ウオーキングの後、気温が上がらない内に、ゲストハウスで庭仕事。

 午前中は、遅れに遅れていた卸の発送作業、午後はまず千晶のリクエストで病室にかざる紫陽花を買いに行き――切り花が売ってなかったので、鉢を買って剪定――一旦、病院へ。再び千晶のリクエストで図書館へ本を取りに行き、病院へ戻る。
 
 病院の4階ロビーでは、エレクトーンの演奏に合わせて、千晶を含めて十数名のお年寄りが、「故郷」などの童謡を歌っていた。帰宅―懸案だったショプカード作りが夕方までかかる。
 
 何だかこの一週間で、白髪が増えたような気がするなあ。


  2025/06/19 [木]   酷暑を思わせるけれども


 店前の桔梗の花が咲き、ゲストハウスの萩も、はや、蕾をひらいてきた。入院三日目で、千晶も平熱に下がり、食事もゼリー食からお粥+やわらかい副食へと、替わってきた。

 私も、ようやく肉体的・精神的に平常モードに戻りつつある。夕食時、北海道のキー坊さんが卵に同梱してくれたアスパラガスと、山口・祝島の山戸さんが送ってくれた枇杷を食べながら、絆に感謝する。


  2025/06/18 [水]   今日の一日


 午前中は区役所へ行って、千晶の高額医療費助成の手続きをし、あわせて俺のマイナンバーカードと保険証の紐付けを解除してきた。

 午後は、病院へ。千晶は昨日は点滴だけだったので、少しやつれて見えた。今日から豆腐とゼリーの食事が始まると、喜んでいた。帰ってからは、入荷商品の検品やあれこれ、店を閉じていても作業はたくさんあって、はや夕方に。
 
 こういう肉体的・精神的に疲れるときは、必ずと言っていいほど、歯に異変がおとずれる。詰め物が二カ所、とれてしまった。明日は、午前中に歯医者へ。


  2025/06/17 [火]   思わぬ展開に


 千晶と丸太町病院へ。血液・CT検査の結果、虫垂炎で一部が破れて化膿しているとの診断。今日から一週間入院して、抗生剤で様子をみることになった。

 診察は、朝九時に行って終わったのが三時過ぎ。その後、入院の準備で家と病院を二往復し―徒歩十分弱の立地で良かった!―帰宅したのが六時を回っていた。
 
 入院は、本人もシンドイだろうが、周りも(時に看病する立場は)疲れる、と痛感。


  2025/06/16 [月]   今日の一日


 千晶がコロナウイルスに再感染(?)、熱が続いている。私も、昨日の昼下がり、胸に言いようのない痛みをおぼえた。夜は、寝汗をかきつづけて、一時間おきに目がさめて、着替えた。

 幸い熱はないが、ガッツが起きない、続かない。胸に慢性の気管支拡張症をかかえている身だけに、肺炎にだけはならないように気をはらなければ。


  2025/06/15 [日]   新聞記事・二題


 今朝の朝日新聞・朝刊より――

 (一)〈男のひといき〉「この苗、実るまでは」by 三重県熊野市・城六男氏(農業・75歳)・・・全文
 
 「昨年、後期高齢者の仲間入りをした。それまでの勤めをやめた還暦の年、75歳まで農業を現役で続けると内心決めていたので、目標を達成できてうれしかった。

 当然、次の目標は節目の80歳。しかし、持病のひざの痛みに加え、老化は加速度的に進行するだろうから、これからの5年間はより難しくなると覚悟している。

 1人でやっている農業は、温州ミカンを中心とする柑橘(かんきつ)栽培で、規模は3反あまり。専業農家の規模とは比較にならないが、品質は負けていないと自負している。

 ミカンづくりはすることが多い。土づくり、施肥、剪定(せんてい)、摘果、消毒、除草、収穫と1年サイクルが続く。年によって気象条件が変わり、害虫の発生状況も異なる。経験を積み、講習などで知識、技術も向上しているつもりだが、体力は年々落ちていく。そして、獣害や、夏の暑さとの闘いは厳しさを増す一方だ。生きがいとなったミカンづくりを1日でも長くやりたいと、毎日の筋力トレーニング、柔軟体操は欠かせない。

 今年の春、「いつまでやる気?」と笑う人がいるなかで、新しい苗を10本植えた。収穫までは4〜5年かかる。その時まで頑張って現役でいたい。」
 
 (二)京都版〈あふれる「おいしい」本質味おうて〉by 料亭「菊乃井」主人・村田吉弘さん・・・抜粋
 
 「みんな、「おいしい」って言い過ぎちゃうか思てます。「おいしい」って、本当はもっと、深いもんなんちゃうやろかと。
 
 料理というより、情報を食べてる感じやろか。わかりやすい見栄えとか、ブランド食材とか。そうなると、牛肉にウニとキャビアのせて……みたいなもんがもてはやされる。脂質が多いもの、やわらかいもの、甘みのあるものが「おいしい」と。でも、料理というもんは、皿の中だけの話やないはず。本当は、心で感じる、もっと深いところにおいしさってあると思う。本来の味わい、歴史、文化の奥深さを見失ってしまっている気がしています。
 
 それぞれの「おいしい」があって、当然なんです。外食だけやなくて、家庭料理や給食でも「おいしい」は育まれる。それが食文化やと思うわけです。でも今は「おいしい」があふれている。こんな時代やからこそ、見境なしに「おいしい」って言うてたら、大切なものも見失わへんやろかと心配しています。

 最近は、予約が取れへんことを売りにしたり、高額路線の店が増えたりしているみたいです。
 
 普通の人が、普通に働いて一生行けへんようなもんは変やと思う。変なもんは続かない。

 料理人の良心はどこにあるんや、と思いますね。普通の人を遠ざける商売でええんやろか。それは、ちょっと違うんちゃうやろか。料理人はいつからそんな偉くなったんや、とも思います。料理人やったら、たくさんの人に自分がつくったおいしいもんを食べてほしいと思うのが普通やと思うけどね。 
 僕は、料理屋って公共の施設やと思てます。お金さえもうかったらええねん、という考え方では、それは難しいわな。

 うちは予約に関しても、外国人観光客のお客様は4割くらいに抑えさせてもらってます。町の人が来られるようにと思って。町の人が特別な日に「菊乃井で」とせっかく思ってくれはったのに、予約がとれへんと申し訳ないです。

 料理人というのは、食べにきてくれはった方たちのいろんなことを考えて、その人のために最善を尽くすのが仕事やと思います。食べられへんもんはないかとか、お年寄りやったら、かみきれるように薄造りにしておこうかとか……。

 そして、その人の心に届くようなものを作りたいと思うのが料理人やと思う。俺のつくるもんがおいしいんや、文句あんのやったら来んでええ、というのんとは違うと思うんです。
 
 料理って、文化や歴史が詰まってます。僕くらいの年になると、料理をどう伝えていくか、どう人を育てていくかということを考えるようになりました。日本の食文化を後世にどう伝えていくか、何を伝えていかなければばらばいのか。こんな時代やからこそ、「おいしい」ってどういうことか、料理の本質は何か。今こそ立ち止まって考える必要があると思ってるんですわ。」


  2025/06/14 [土]   稽古会


 参加者一名。前回と同じく、イメージの活用+「神社でなぜ柏手を二度うつのか?」の稽古を行う。強い雨の中、遠方の滋賀県から参加してくれたTさんに感謝。


  2025/06/13 [金]   「攻撃」?


 イスラエルのイランに対する爆撃や、殺害は、「国家テロ」ではないか。もし逆にイランが行っていたら、欧米のジャーナリズムは―日本も含めて、言うまでもなく―“許されない蛮行”と、わめき散らしていただろう。

 このダブルスタンダードを、疑う知性さえも、もう既に失ってしまったのか。いやしくも報道の“道”にたずさわる人間たちは。

 ※
 
 「boundaries(境界)」と、「mind(心)」―この二つの言葉が、タニヤさん&アレンさんと知り合って学んだ(日本と西欧文化の相違を痛感させられた)用語だった。次回の『らくてん通信』のテーマに、書きたいと思う。

 


  2025/06/12 [木]   友となる


 先週、座禅会で初めて会ったイギリス人のアレンさん。話が合い、彼が私に会いたがっていると千晶から聞いて、今朝の座禅会に参加。終わった後、本堂の階段で、二時間話し込む。

 リバプールでの叔父の言葉、インドでの超越体験、日本での座禅修行etc. 彼は76歳、二年に一度、日本に来ているという(奥さんが日本人)。友愛は、boundaries を越え、会った回数や時間の長さではない。
 
 次に会えるのは、いつか・・・。固い握手をして、別れる。(写真は、初対面時に。2025/06/06)。
 
 


  2025/06/11 [水]   ピンチヒッター


 千晶が腹痛と高熱でダウンしたため、今日は一人で店を運営した。閉店後、明日、興聖寺の座禅会で一緒になるアレンさんの“お土産”に、調体の英語プリントを作成。就寝が十一時に。


  2025/06/10 [火]   稽古会


 参加者一名。〈イメージの活用〉プラス〈柏手(神社でなぜ柏手を二度うつのか?)〉の稽古を行う。


  2025/06/09 [月]   今日の一日


 不思議な夢を見た。先生から「妹が病(高熱?)で苦しんでいるから、レコード(?)を選んできてくれ」と頼まれ、アルバム帳のようなものを一つずつ一人オーリングでチェック。最後に「小泉八雲全集」がOKだったので先生のところに持って行くと、涙を流して喜ばれた。

 朝、図書館へ本を返しに行った時、歩くのに慣れてない白状の老人をみかけた。「どこまで?」と尋ねると、丸太町病院だったので、右手を添えてエスコートした。西郷さんをガイドした経験が生きた。
 
 午後は、明日の稽古に向けて〈イメージの活用〉の資料を作成。


  2025/06/08 [日]   今日の一日


 國分功一郎氏と熊谷普一郎氏の対談『〈責任〉の生成ー中動態と当事者研究』(新曜社)の読書。図書館から返却期限オーバーの連絡があったので、読み切ろうと思ったがかなわず。

 メルカリやアマゾン(中古)で購入しようと検索して、最終的にヤフーオークションで入札。ところが、千晶が一冊持っていることを知らされて、あわてて「入札取消」依頼を送って、出品者からOKを得た、ドタバタ記。


  2025/06/07 [土]   小女郎ヶ池トレッキング


 平バス停〜池〜蓬莱駅のルート。全行程の三分の一ずつ、上りと下りは植林帯で退屈だが、中の三分の一は琵琶湖を見ながらの尾根歩きと小女郎ヶ池でのゴクラクお昼寝タイム。赤坂山の次に、私の好きなコース。

 尾根道で鳴く鶯と感応した/下りの沢で、「熊の鳴き声を聞きませんでしたか」と青年に聞かれた。? 彼は、山椒魚を探していた/岩のあるゴロ道も、ポールを使って上手に後歩きで降りれた/座禅でよく言われる「半眼」とは、瞼を半分閉ざすことではなく、肉眼で外を・心眼で内を、それぞれ半分ずつ使え、ということではないか、と気づいた。
 
 勘覚が失われると、形式的―形だけの、〈表〉の、合理的な肉体の操作、に堕してしまった一例ではないか。


  2025/06/06 [金]   今日の一日


 朝、千晶にさそわれて、興聖寺(こうしょうじ)の座禅会に参加。六時半から三十分、その後で読経。

 市民に開かれた、無料の、類い希な場。久方に座を組んで、三無(no popularity, no benefit, no pride)に徹せよ、との託宣を得る。ただ、読経の時間は、住職がcryingするように読むので、苦痛だった。自然に発声すれば、よいのでは。
 
 その後、Zen coffee Kyoto で、コーヒーを飲む。その場で、参加者の一人だったイギリス人のアレンさんと親しくなり、友になる。彼はリバプールでソーシャルワーカーとして働いていた後、日本文化に関心を抱いて来日。英語を教えていたそうだが、岡山の寺で、住み込みで一年間仏教の修行もした経験を持っている。
 
 伝統的な日本文化への敬意、と同時に現代の日本文化・社会(それは、西欧の文化・社会にも共通する)への問題関心、失望を、共有できた。こんな友が、身近な日本人で得られたら・・・。
 
 固い握手をして別れる。その後、キタマチロージで、豆プレートを朝ご飯でいただく。
 
 ※
 
 午後、ゲストハウスの梅、いちじく、桑、山椒を、楽天堂裏庭の柿の木を、剪定。


  2025/06/05 [木]   今日の一日


 ルーティーンの仕事+午後、ゲストハウスのザクロとローリエを、大きく剪定する。ザクロは六年目を迎えてもまだ実がつかず、失望。ローリエの枝は、ダ・マエダの直美さんとキタマチロージの糸井さんに、それぞれ一抱えずつもらってもらった残りは、「ご自由にお持ち帰り下さい」コーナーへ。

 明日は、同じく仕事の合間に、いちじくと我が家の庭の柿の剪定を行う予定。


  2025/06/04 [水]   手本と見本


 神田橋條治氏が常々、著書の中で語っているのは「手本ではなく、見本に」ということ。手本はコピー人間をつくり、見本は自主性を育くむ。

 ※
 
 朝日新聞・朝刊の社説で引用されていた、長嶋茂雄氏のことば:「大衆の波動とプレーヤーのきらめきが一体となった時が、本当のスターが誕生する瞬間だと思いますね」「天覧試合のあのファンの波動が、長嶋茂雄を生み、高度経済成長が、育てたんですね」
 
 そして今、大谷翔平投手が、大衆の波動と重なっている。何が、大谷翔平を育てるのか?


  2025/06/03 [火]   訃報


 長嶋茂雄氏、逝去。子どもの頃、「王、金田、長嶋、廣岡」(=「おう、金だ、流すま、拾おうか」)と皆で唱えていたのを思い出す。昨日は、神道学者・鎌田東二氏の逝去が、朝刊で報じられていた。十年前までは、氏の多くの著作を読んでいた。ものたりなくなってっきたのは、現実世界との接点の希薄化のためか。
 
 ※
 
 午前中は、明日のキット定期便の発送準備、午後は、上京区役所へ千晶と集団検診を受けにいった。帰りがけに、喫茶パーチで千晶はカレーを、私は(めずらしくメニューにあった)定食を食べて帰宅。
 
 昨日のトレッキングにもかかわらず、足の筋肉痛がほとんどないのに我ながら驚く。写真は、登山口近くの自然観察路で見た、銀龍草(ぎんりょうそう)。あざやかな白色、神秘的な雰囲気―はじめて知ったが、きのこではなく、ツツジ科の多年草。神の使者?
 
 


  2025/06/02 [月]   赤坂山トレッキング


 今春は、五月の週末に雨が多く、四月に堂山へ登って以来の山行になった。体力に不安はあったが――赤坂山は堂山400mの倍以上の標高――登り始めると、アライグマに出くわし、春蝉の押しつぶしたような声を聞き、ほおじろ・このはずく・うぐいすの鳴き声にみちびかれ、たにうつぎ・こあじさい・やまぼうし・ねじき・えごのき・あおだもの花々に惹かれ(赤坂山の代名詞、きんこうかは、まだ蕾だった)、充実した内省の時間を得た。

 彼女から与えられたもので、満ち足りること―欲望は限りなく、程々に(so so)。一瞬を、惜しむこと―すでに人生の第三(第四?)コーナー、若き日の茫洋とした未来は、無く。
 
 さらさ温泉からスタートしてピストンを予定していたが、山頂に着いてみると、まだ行けると判断して、三国山湿原から黒河峠を経て、白谷まで回った。「眼が洗われる」という慣用句は、こういう勘覚なのか、と体験した一日だった。


  2025/06/01 [日]   今日の一日


 朝方、霧雨。赤坂山トレッキングへ、家を出る頃には上がるだろうな、と思ったが、別に今日でなくても明日があるさ!、と思い直して山行は中止(予想通り、陽が差してきた)。

 今日は一日。ホームページの修正や、ゲストハウスの報告その他、などなど、月初にやらなければならないルーティーンを追えた後、ようやく気持ちが動いて、冬用の着物と、ストーブなどを仕舞う。
 
 ヤレヤレ。明日は、赤坂山へ。ピストンにするか、それとも黒河峠まで足をのばすか、体調次第で。