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秋場和弥さん
 私の祖父母が北見市に入植致しましたのは大正15年。その年に父が生まれたという事ですので、ちょうど4分の3世紀となるようです。北海道の開拓の歴史は屯田兵制度により、有事の際は対ロシア警備の兵隊として一方で教練を受けながら、血のにじむような苦労と努力の末、屯田兵のご家族の方々によって進められました。私の祖父母は1926年、親類筋による屯田兵の地所の一部を開墾・小作しながら父達を育ててきたと聞いております。ただし父の兄弟が成長する頃は、開拓屯田兵の二世・三世の時代背景となり、その方達は比較的裕福な経済状態となっていて、その小作人として育った父達は経済的には相当貧乏な状況にあったようです。そのような環境の中で、父も当時は中学校進学をあきらめざるを得なかったという悔しさをよく話しておりました。   

 私が物心ついた頃は、約6ヘクタールほどの水田稲作農家となっておりました。小学校高学年頃から、秋の収穫時は学校から帰ってから星が見える頃までよく手伝った記憶がございます。農家の長男として家業を継ぐつもりでしたが、北限地帯での水稲栽培の為、3年に1度は収穫皆無に近いようなことがあり、私の高校在学中などは3年に2度も続いた次第でした。北限の水田農業に親子して絶望してしまった経緯の中、父は自らが断念した進学希望を、自力で就学するなら機会を与えると申し入れてくれ、私は毎日新聞奨学生として、1971年、中央大学商学部に入学することになりました。それから5年、途中朝日新聞に切り替わりましたが、なんとか卒業の運びとなり、76年、先輩にあたる千葉県大原町の自然醸造蔵元(木戸泉酒造)の妹であった妻と一緒に北見に戻り、農業を始めました。

 さかのぼりまして71年、農薬・化学肥料の大量普及から、戦後の食料難は一転し、大量の余剰米対策のため、第一次休耕政策の発令となりました。父は絶望した水稲栽培を全面畑作に転換し、補償金をリスク対策費として全面積を自然農法に切り替え、再び農業への希望を見出しておりました。ちなみに自然農法とは、戦中・戦後、日本観音教団、後の世界救世教の祖・岡田茂吉師の提唱した、太陽(火)と空気(水)と地(土)の力のみによって栽培し、人育糞尿堆肥・化学肥料・農薬など一切使用しない農法です。わが家では祖父の代から(私の生まれた52年度)自家用の米・野菜は実験的に栽培証明済みだったので、私の上京に合わせて全面実地に踏み切るに至りました。

 当時公害問題がようやく社会的にクローズアップされ始めておりました。私も東京での労働と学生の二足の草鞋生活に疲れ、特に当時の空気と川の汚さは、改善されてきた現在より相当ひどかったような気がします。その頃妻や妻の兄と知り合いになった千葉県内にあった自然農法農場は、その後生涯の師と仰がせて頂くことになったT先生が青年教育の根幹に無公害農場での実習体験を取り入れて栽培していた農場でした。都会生活での疲れが心底癒され甦ってくる感動の中で、5年前気候条件と経営の厳しさに絶望して東京へ出てきた経緯を乗り越えていこう、という若い情熱が勝り出しました。父と相談の上、政府資金を借り入れて新たに10ヘクタールの農場を購入して、自らが目覚める基となった事を念頭に、青年の教育実習農場と北限の地での自然農法の経営の成就を目標に、76年妻とその第一歩を踏み出した次第です。

 前段長くなりましたが、この四半世紀述ベ100名近くの青年実習生がおいでになり、多額の負債を抱えながらなんとかここまでやってこれたことを、感謝しつつ振り返らせて頂こうと思います。青年の出入り、育成、販売も含めた農場の経営は、T先生のご尽力とご指導なしには今日まで持ちこたえることはできなかったと思います。農場拡大の準備年の74年、75年と第一歩踏み出した76年、私が千葉県で青年時代共に汗した何人かの人達に冬将軍到来前の最も厳しい時に応援して頂き、未熟な私たち夫婦をもり立てて頂きました。一方で経営・販売面においても、世間の、寒冷地型農業に安定した経営形態を確立させ、農家戸数も3分の1くらいに集約し、化学合成肥料の効率的散布と除草剤始め農薬の適期散布でオートメイション化された世界から見れば、私たちのやっていることはあまりに無為に映った事と思います。そのことについては若さと健康で、日の出から夜更けまで、妻や実習生と喜びで頑張れたと思います。

 しかし人々の健康を度外視して農薬・化学肥料の効率的使用をはかり、欧米に比べれば化学研究と土地の生産性を極限まで追求していく日本農業のあり方によって生まれる単位面積当たりの収量は膨大であり、そのことは家畜堆肥や有機肥料を多投して、化学慣行農業と同様な収量をあげようとする有機農法にとっても同様でした。私どもは天地水のご恩を最大限恵んで頂ける適期管理に全力を傾注しながら、なんとか世間に互せるまでいかなくとも、再生産可能な収量を目標に努力して参りました。通常肥料観念でいきますなら、四半世紀収奪し続けたなら土地は痩せ、収穫は皆無に近いのでは、といわれるところでしょうが、自然界は目に見えない“]”とでもいいましょうか、無限力とでもいいましょうか、働き続けているようです。60億の人類が正常に呼吸し続けることができる不可視力の世界が厳然とある以上、人々のあり方次第で、60億の人類が健康に存在し続ける為の健全な食糧が、人々の叡知でもって生産されることは不可能ではない、ということを確信できます。

 先ほど申し上げましたような、化け物のような生産力を誇る一般農産物に対して、同じ土俵の上で販売していこうというのですから、初めから負債をしょい込んで経営していこうというあり方は無理があったにもかかわらず、この四半世紀持ちこたえられた事実に対して、不思議な力に守られ続けた天意を感じずにはおれません。何とか適正価格の販売をお願いして初年度の冬期間から早速上京し、健康を真剣に考えてくださる消費者の皆様との交流とご協力を頂く中で、次年度実習を志す青年達との出会いがあり、またその青年が次の青年を次年度送り出してくれるという連続でした。一方で80年代から90年頃のバブル期までは、水田転作補助金が継続されていたり、求められて一部地所が高値で売買されたり、今日では到底考えられないような恵みを許され、基本的には負債償還の赤字体質にもかかわらず、ここまでこれたようです。また販売に関して、毎年のように冬場上京して努力している中で、80年代後半、当時築地市場におられたSさんという方に出会い、今後はより多くの生産者に機会を作って頂き、不特定多数の皆様にも買い物かごでいつでも購入して頂けるようなあり方が求められてくる、と強くアドバイスを受け、自然農法販売協同機構という会社を設立し、関心をもってくださる量販店さんへの卸業務を開始しました。

 様々な出会いと浮き沈みを繰り返しながらも、辛うじて初心を貫徹してこれたこの四半世紀でしたが、この世紀の変わり目にあたる今日、大きな節目に直面しております。不惑の年代も残り少なくなっておりますが、初心を忘れる事なくこの岐路を整理し、正しく4人の子供たちにも伝えながら新たな世紀の第一歩を踏み出していかなくては、という思いで妻共々祈りつつ天意に鑑みようという心境で過ごしている今日この頃でございます。

 子供達につきましては、おかげさまで皆物心ついた時から志ある青年達と寝食を共にしながら成長しまして、今日の学歴社会からは脱落してはいますが、マスコミで最近特に報道の著しい低年齢層の暴走とは正反対に、親の背中を見て、というより私共以上に純粋に、師の志に感性で納得して努力しております。現在24才の長男、21才の長女は共に高校中途でやめて私達を助けてきてくれましたが、長男は一昨年12月より、去年他界されたT先生が海外で開いた、秋場農場のような場で学び、実践しており、長女は今年の2月中旬より千葉の方で学ばせて頂く運びとなっております。

 現在私共夫婦、25年前の原点に立ち返り、99年、2000年と困難な時協力してくださった堀田さんをはじめ、京都の堀さん、井上さんなど過去を支えてくれた方々と、今後のあり方を正しく天意通りに遭進しようと模索している次第でございます。どうかこれを機会に、今後ともご協力と知恵を賜りたいと思います。よろしくお願い致します。(2000年記)