第37号2007/01/20


豆ランチパーティー 夏(9月〜11月)
 


中央アジアを訪れて (10/9)  高島 千晶(たかしま ちあき)


豆ランチパーティー10/9

  ゲストのはるかさんと(はるかさんのボーイフレンドの)足立さん、貴重な報告、ありがとうございました。今日は中央アジアについて、イメージするのに一生懸命でした。ヨーロッパやアメリカのことは新聞や映画で多少はイメージすることができるのかも。インド、東南アジアは行ったことがある。アフリカは遠くてよく分からないけれど、友人が旅したり住んでいたりで少しイメージできる。ところが中央アジアのことは、本当にほとんど知らないんだということにまず気がつきました。15世紀くらいに今の五つの国家の基礎ができたみたいです。遊牧民族の侵略が何度もあって、民族が入り交じっている。土着的なシャーマニズムを取り込んだおおらかなイスラム教の普及。アジア的な多神教と厳格なはずの一神教が不思議に同居しているようです。

 一番、「自分事」して中央アジアを感じられたのは、わたしたちが着るコットンの世界最大の生産地域が中央アジアだということを聞いたときでした。わたしたちは中国製やイタリア製のTシャツを着ていても、その原綿は中央アジアのものが混じっている可能性は高い。私が山口で売っていたイタリア製のカットソーの原綿も、もしかしたらここから輸入していたのかな。

 そして、そのコットンの生産のために世界第4位の大きさの湖、アラル海が消滅しようとしているそうです。昔、湖岸の港町として栄えた街のはるか150キロメートルかなたに湖岸線は退いてしまった。水が不足し農作物もつくれない。飲料水にさえ不足する。貧しい国の子どもが「お金をちょうだい、食べるものをちょうだい」と言うように、干上がったアラル海のそばの街では小さな子どもたちが旅行客に「水、ちょうだい」と言う!すさまじい水への餓えをはるかさんもはじめて経験したそうです。昔、栄えた街が廃墟のようになっている。

 それらが、ソビエト時代の計画経済で綿の生産を集約的に行ったことからもたらされたと聞き、計画経済の恐ろしさを知りました。他のたとえば綿を加工するような産業をその地域では一切興こさせず、ひたすらパミール高原からの雪どけ水が流れる二つの川から取水して綿花の栽培を行ったそうです、中央政府の指示で。その結果、その二つの川が流れ込むアラル海に注ぐ水はほとんどなくなってしまった。

 さらに、綿花の栽培でつかわれる大量の農薬で、健康被害が出ているそうです。小さな子どもの呼吸器疾患が多いとのこと(やっぱりオーガニックコットンが普及しなければいけない)。

 とにかくわたしが感じた恐ろしさは、人間が中央集権的に政府を作って巨大な国家を建設したとき、地域の事情は勘案されず、「国」にとって必要な外貨を稼ぎ出すために、途方もない環境破壊を行ってしまうということ。おそらく「伝統」とか「保守」の尊重があれば、ここまでの環境破壊はおこらなかった。革新的なイデオロギーがこういうことをしてしまった。資本主義と同じように、共産主義も恐ろしい結果を招いていたんだなあと改めて思いました。

 今日のウズベク料理、とてもおいしかったです。手間のかかったお料理を作ってくれたはるかさんに感謝です。なつきさんをはじめ、たくさんの人に手伝ってもらったみたいですね。


病院という場所・写真を撮ること (10/10)  加藤 めぐみ(かとう めぐみ)

 「講演」とか「発表」といったかたちでなく誰かのお話を聞くのは初めてでした。貴重な経験を伺うことができて本当によかった。ゲストの来原裕子さんをはじめ皆さんありがとうございました。

 来原さんの語り口はとつとつと。物語を聞くようでした。お話が終わったときちょっとした旅から戻ってこられたような感じを来原さんから受けました。私のなかにも後に残る響きがありました。

 「病院」という場に、多かれ少なかれ参加者みんなが関わったことがあったからか皆さんの口から出た話は思わぬ方向に流れて弾んでいって面白かった。

 写真を撮るのは流さないため、あとで記憶を浮ばせたりそれを伝えるため、と来原さんは仰っていた。病院で(看護師として働いていて)感じる違和感さえフィルムに収めていた。撮るという行為は向き合うことでもあるから、来原さんは見過ごさなかったんだ、と思いました。

 私はたくさん流して、日々感じる違和感もただやりすごしている。向き合っていくのに私はどうするかな・・・。と今、考えています。現時点では思いつかない、けど今回の経験は流したくない!そこでMLに書くことにした次第です。


祝島訪問・報告会 (10/14)  山上 公実(やまがみ ひろみ)

 九月に山口県祝島を訪れて、上関原発反対運動にとりくむ島の人々と交流してきた佐野仙子さんと都間ひとみさんの報告会に行ってきました。

 真っ青な海、島独特の石垣(昔、平家一門が作りはじめたとされる)、びわ茶作り、空を仰ぐように吊るされた蛸たち、家の前でにっこり素敵な笑顔で佇むおばあちゃん、島から眺める、海になだらかな線を描いて漂っているかのような美しい山並、、、これらの写真を見てまさに祝島は宝島という感じがしました。そしてそれらとは対照的に山並の前に立ちはだかるボーリング調査のためのクレーンを撮った写真(ボーリング調査にともない海が汚染されているそうです)。

 「このクレーンに竹林たみさんが上らはってんよ!」と都間さんが身を乗り出して説明してくれました。竹林たみさん、祝島漁協婦人部のリーダー的存在、62歳の女性漁師さんです。反原発運動中に抗議のために上られたそうです。

 話の中で興味深かったのは、都間さんと佐野さんがこの竹林たみさんはじめ、漁協婦人部の女性達のパワフルさを語ってくれた時でした。

 若い女性は、デモの際、はじめは億劫がっていても、「おばさんパワー」に影響されて堂々となっていったり、女性達は、デモを日頃のストレス発散の場にしたりもして、良い意味で活用している。
 
 大月さんは以前祝島に行かれた時、島の住民達がデモの際それぞれに自分の思いを歌にのせて抗議しねり歩くところを見られたそうです。その歌は時にはユーモアを含み、ちょっと歌にのせないと言いにくいような近所の人のことでもあったりだったそうです。(どんな歌でしたか?)そこから黒人たちのプロテストソングなどの話になり、、、。その大月さんの話を聞いたむーさんが、「ちょっといいですか。演歌というのはですね、自由民権運動で歌ったことがそもそもの始まりなんですよ。演歌の『演』はまさに演説などの演です」とコメントされました。

 自分達の誇りをかけて歌う住民のうた。私も生で聞いてみたいと思いました。

 祝島は海産物などからだけでなく、その島をとりまく豊かな自然を生かした行楽から得る利益も多いそうです。うまく循環しながら、島の経済がなりたっている。外部からいろいろと指導しにくる団体があっても、住民には仕事に対するプロ意識があり、「これで生き続けるんだ。確信があるのだから、邪魔をするな!」というような気迫が感じられるそうです。

 現在祝島は高齢化がすすみ、若い漁師さんで40、50代。一本釣りの若手となると60代、とのことです。ちなみに人口は五、六百人(アバウトですみません)子どもは三人とのこと。次の世代に一本釣りが出来る漁師さんはいるのでしょうか、、そのあたりが気になるところです。

 もっと祝島に関して沢山説明してもらいましたが、一部を書かせてもらいました。

 それから、祝島では二月はひじき採り、六月はびわ狩りがあり、四月は山桜が美しいそうです。「ひじき採りに行きたい!」「私はびわがいい!」「むこうで豆ランチパーティーは?!」などなど、最後まで盛り上がった祝島報告会でした。そして「みんなの海基金」がとても意味のあるものだと、改めて実感しました。

 報告後に出された料理の数々、どれもこれも美味しかったです。祝島のたこの薫製と綾部の水田さんの畑でとれた玄麦を入れた具沢山なマリネ、ひじきキッシュetc.

PS:今回の参加費は佐野さんと都間さんを通じて〈わたしたちの海基金〉に寄付されました。


都会から地方へ―私を変えた15年 (11/3)  鈴木 宏子(すずき ひろこ)

 豆料理クラブを主催する京都の豆屋・楽天堂の高島夫妻(千晶さん、無々々さん)が静岡を訪ねて、初めて豆おやつパーティが開かれました。今夏に京都から会員の別所誠洋・久子ご夫妻がシェフとして入って働いているVivoという自然食レストランを会場に、私の田んぼ仲間でもある親友の藤田理恵さんを囲んでの集まりでした。

豆ランチパーティー11/3

 最初に自己紹介をしたのですが、13人の参加者それぞれの人生の歴史と今のくらしが本当に様々。
 シェフとして働きながら出産を待つ夫妻、女性ばかりの自然食レストランやねんどを扱う会社を立ち上げた人生の先輩夫妻、染色を一から勉強している人、玄米などを扱う会社の人、オーガニックコットンのお店のオーナー、豆料理クラブの若い会員さん、野口整体の先生・・・。

 そして、結婚してはじめて有機農業にかかわり、米づくりにはまってしまった私。

 大阪、関西で15年間、学生として労働者として働きながら市民運動をして、長野で10年間レタス農家で働き、結婚して静岡(大東町)で今は長男の嫁として、介護や米づくりや、“いもづるネット”(安心安全なくらしをめざすミニコミ誌)の編集を、仕事である遺跡の発掘にとりくみながら地元の原発と向きあい、原発反対よりも原発のないくらしをめざして、エネルギッシュに生活している、藤田理恵さん。

 おいしいおはぎとお豆のケーキをいただきながらのひとときでした。

 藤田さんのお話は息もつかせぬような迫力で、人生のドラマを生き生きと語る姿は、熱いエネルギーとユーモアにあふ れ、これほど自分のことを客観的に厳しくもいとおしく語れるってすごいなぁと思いました。

 日雇い労働者の町・大阪の釜ヶ崎でたべものやをやっていた時、炊事女の自分を見下している自分に気づいたこと。リーダー格の人に、「米とみそは絶対にきらすな」と食の大切さを教え られ縁の下の力持ちになれる人を育てようとされたこと。多くを学びながら挫折も味わった日々。そして長野のレタス専業農家での10時間労働のアルバイトの中で大規模農家の働き方のすごさ、共同体のよさもおかしさも、農薬の環境への影響(人や土を害すること)も、直接はだで感じてだんだんこれでいいのかと思うようになったこと。

 そして静岡での嫁としてのくらしの中でよそものであることに苦しんだこと、居場所がない時にひかり農園(私と連れ合いが営む畑です)と出会って、在来種の種の話に感動して、やがて味噌づくり、米づくりにはまりましたね。姑さんとも仲良くなり、その後ずっと認知症のお父さんを、力をあわせて大変な思いや状況をのりこえて家で看られたこと。自然農や野口整体との出会い。

 チェルノブイリ講演会を掛川でやった時は、今まで市民運動にかかわったことのない人たちが、東海地震のことや浜岡原発(1,2号機は事故で止まっているそ うです)のこと、生産の現場を知り、下請けの人たちが常に被爆していることを知り動きはじめて藤田さんは、縁の下の力持ちになろうと思ってとりくみ、大成功をおさ めたのです。

 地方には何もないと言われるけれど、だからこそ、できることもあるのでしょう。

 「100年先を考えて仕事をする」高島さんたちの分かち合い文化 を、小さな輪から作っていこうという生き方、くらし方に、藤田さんも共感 したそうです。

 ひかり農園も衣、食、住の中の食からはじめて、ささやかですが一人一人が自立しながら手をつないで共に立つようなくらし方を求めていきたいものだと思っています。自然の営みに学びつつ、日々追われるくらしの中で、こんな語らいの時 間はとっても貴重な時でした。いつか、浜松でも、豆ランチパーティを開いて高島さんたちを、それぞれの人生を分かち合うひとときをもてたらいいなと思います。


日本の農業を考える (11/12)  吉田 康子(よしだ やすこ)

 生き物にやさしく、見た目にも美しい田んぼは、百姓にはきびしい
 「豆料理クラブ会報」2006年11月号に掲載された堀さんの田んぼ(京都府南丹市)の写真をみなさんも覚えておられることでしょう。とてもすばらしい写真です。私はこの写真を見て、自分も会員でありながらこの稲刈り後のバーベキューに参加できなかったことを大変うらみに思いました。美しい風景、おいしい空気と食べ物、私もじかに味わいたい・・・と。

堀さんの田んぼと里山
堀さんの田んぼと里山

 「自分の田んぼに来てくれた人は皆、“いい風景ですね”と必ず言ってくれる。けれども、生き物、作物にやさしく、見目にも美しい田んぼは、百姓にはきびしい。百姓にとってはとても手がかかる田んぼなんです」

 いま政府は、田んぼを長方形にするようにと、全国のお百姓さんに奨励している。長方形の田んぼ、すなわち「圃場整備された田んぼ」(ホジョウセイビと読む)は、農作業するには大変効率的だが、水路を下げてしまうので、ホタル、カエル、トンボなどの生き物は生息できない、とにかく農作物を効率的につくる、ただそれだけのための田んぼ。

 今回のゲストの堀悦雄・美智子さん夫妻はこういった政府の方針に反対し、圃場整備をしない、未整備田(ミセイビデン)で行こう、とがんばっておられるのです。無農薬の安心でおいしい農作物をつくるだけでなく、田んぼ、畑を含む風景全体を、里山(サトヤマ)を守ろうと。しかし、これには非常にエネルギーが必要とのこと。

このままでは里山はなくなる。そこで消費者の協力も必要
 ここで「NPO法人 われらが里山をまもろう!」構想が、堀さんから説明されました。

 日本の農業の担い手は、高齢化する一方で、現在は60代から70代です。自分たちの田んぼをまもりたい、という気持ちはあっても手放さざるを得ない状況に追いつめられている。このままではごく近い将来に田舎の風景、里山はなくなってしまいます。生産者だけでまもることが無理なら、理解のある消費者に協力をもとめ、どうにかして里山を残そう!ということなのです。

 日本の政策では、経験と実績がないと農地を買うことも借りることもできない。しかし、日常的に農作業に携わることは無理だけれど、このまま里山が消えてなくなるのは嫌だ、たまには自分も土に触れたい、と思っている人も多いはず。そこでNPOを立ち上げ、そういう人たちを協力者として巻き込んでいこう、というのが堀さんのプランです。「私は行政がみずから良いほうに変わることはない、と思っています。だから下から変えていくんです。そして、それを見て行政のほうが今度は変わらざるを得ないところまで追いつめていくんです」

お上がやらないなら下から変えていこう!でも敵は多いぞ
 「新しいことを始める時には必ず抵抗勢力が出てくるということも想定しておいてください。」

 抵抗勢力とは、すなわち「これまでどおりで何が悪いの?」「農協さんの言うとおりにしておけばいいんじゃないの」と、自らの判断と決断を放棄し、農協の言いなりになってきた人たち、そして農協。とくに農協は「せっかく百姓たちを自分たちの言いなりに従わせてきたのに余計なこと言って惑わすな」と自分たちの既得権益をまもるためになんやかんやと手を出してくるだろうということです。「自分は切り込み隊長になります。でも、後ろを向いたら誰もいなかった、というのではちょっと・・・」

豆ランチパーティー11/12

動物との生存競争です
 里山をまもる、という新しい構想への抵抗勢力(?)は、まだあります。それはいのししなどの先住者たち。美智子さん曰く「だから、動物との生存競争なんです。あちらは命はっていますからね。」

だから自宅の排水溝へ何を流すかが大事
 最後にとても大事なこと。田んぼの水には、私たちが台所やお風呂場から流した、いわゆる生活排水も含まれていることはご存知でしたか? 農業用水のために専用に良質の水が確保されているわけではないんですね。私は知りませんでした。

 谷川岳の水のような冷たくてキレイな水では稲は育たない、かえって生活排水のような水のほうが栄養が豊富に含まれている、ということはあるにせよ、田んぼにも流れていくわけですから、自宅から何を流すか、ということが大事になってくるわけです。
 ちなみに、堀さんの田んぼでは、町内で共同で井戸を掘り、その水を滅菌して使用しているそうです。 
そもそもわたしが―
 お金もないのに堀さんゲストの豆ランチパーティーに参加するべく京都に行こう!と思い立ったのは、10月15日に無々々さんが書かれた堀さんの田んぼの稲刈り報告がきっかけでした。そのなかにある“釜ヶ崎からの子ども応援団”のことがとても胸にきたのです。そして堀さんという人にどうしても会ってみたい、という思いがぶくぶくと溢れてきたのでした。たぶん、完全無農薬で農業を営んでいる方のお話を聞く、というだけなら私は参加していなかった。十年、周囲から“村八分”状態におかれながらも、無農薬で農作物をつくることを徹底してこられた堀さんご夫婦。周囲からの孤立も恐れない求道者的な生き方、と同時に自らを開き、他者を受け入れていく(ちょっと小難しい表現だったでしょうか)、そういう印象を無々々さんの報告から感じ取り、「私もちょっとはそういう人の爪の垢のおこぼれでもいただきたい(とくに他者に開いていくところ)」と思い、私は京都まで出向いたのでした。

 仕事のことやお金のこと、そして時間(行くとしても金曜の夜行バスで出発して日曜日に新幹線で東京に戻る)のこと、そして自分の非オープンな性格もあいまってもじもじと本当に行こうかどうか、直前まで悩んでおりました。

 でも結局のところ私は京都に行ったのでした。行くと決めてから豆料理クラブ会員のたんぽぽはるか(大関はるか)さんやMOMONGA(神戸市東灘区にある玄米と旬の野菜・チャイの店。会員の村上さんが経営されてる)のブログも念入りにチェックし、朝七時に京都に着いてからどこで一日を過ごすか入念に計画を立て、ほぼ実行することができました(ここで初めて告白します。突風が吹いて夕方過ぎからとても寒くなった11日の夜、MOMONGAさんで夕食を食べました!そして「WOMAN2007」を購入し、寒かったのでハーブティーをいただき、お腹ぽかぽかで住吉のおばの家に泊まったのでした。声をかけられずにごめんなさい。帰ってからモーレツ後悔しました)。

 京都に行くなら豆な宿に泊まるという手もあるだろう、と自分でも思ったのですが、MLで話を聞いているだけではどうしてもまだ不安で・・・。

 12日の当日もすごく緊張して、会場に向かう前、鴨川沿いをしばらく散歩していました(豆な宿の「下鴨サプライズ!」ってもっと北の方かな、とか思いながら)。

 でも、やっぱり直接会うことができてよかったなあ。札幌からたまたま京都にきておられてあの日参加した畑佐さんじゃないけど、「このあと時間があるならコーヒーでも飲みに行こうや、もっと話しよう」という感じでした。

 それに、(これも畑佐さんの言葉)やっぱり持ち寄りがいいなあと思いました。ほんとうにどれもこれもおいしくって、こういうものを「おいしい」と感じられる人、そしてこんなおいしいものを作ることができる人は信じられるなあ、と感じた。たんに「おいしいもの」を消費しているグルメな会とは違うんですよね(当たり前か)。

 岡本さんに「こういう会には東京でも参加しているんですか」と話しかけられたんですが、「こうやってご飯を持ち寄るようなことはないです」と答えたら「関係が双方向じゃないんだね」と言われました。ずばり見抜かれている。

 こうやって振り返ってみると、国会前の豆パーティーもあながち夢物語ではないかも、と思えてきます。国会前で、ピカソのゲルニカの絵が描いてある大きな紙にみんなでちょっとずつ色を塗っていく、ということをしている人たちがいましたけれど、ご飯をわけあうっていうのもいいですよね。たぶん、教基法や憲法を改悪しようとしている人たちにはこの味は分からないだろうし。
 
 12日夜10時に自宅に戻る。金曜日のちょうど夜10時に家を出たので、ちょうど24時間ぶりの帰宅。同居人は金曜日の夜とまったく同じままに、食堂のテーブルにスタンドをもってきて仕事をしていた・・・(そしてお土産が、千晶さんの和風惣菜の残りと堀さんの紅芋と里芋、小松菜だけだったことに、不満をもらす。私のほうは「お土産はこれだよ」とばかりに、お土産話をシャワーのように相手に浴びせつづける)。

 帰ってからこの体験を風化させないように(?!)みなさんが作ってくれた味を思い出しながらいろいろとまねしてます。山上さんのりんごのデザート、なつきさんのサラダも作ってみましたよ。千晶さんの茶レンズマメの和風惣菜、おいしかった。あまりを持ち帰らせて頂きましたが、同居人も喜んでいました。どうやってつくるんだろう。こんどチャレンジしてみます。

 また、みなさんに会いたいです。こんどは田植えの頃かな・・・。そのときには楽天堂やナツキさんのところに泊めてもらうかもしれません。


鍋カバープロジェクト・現地からの報告 (11/23)  山上 公実(やまがみ ひろみ)

  楽天堂プラス豆料理クラブ会員有志で商品化に取り組みとうとう完成した鍋カバーのインド側パートナー、モーラ・ハーリーさんが来日された際に囲む会がもたれました。

 【モーラさん】アメリカ、バッファロー生まれ。大学で日本語や仏教を学び、1989年来日。京都で暮らしていた八年間、環境問題の活動家として福井の原発問題などに熱心に取り組んだ。その後、京都で出会ったインド人のパートナーと共にインドへ。現在コルカタ(カルカッタ)で暮らす二児の母。

 モーラさんは、インドで出産された後、自宅を子どものための図書館として開放し、みんなのつどえる場にされています。今までインドの貧困や社会問題について本で読んだりして憤りや悲しみを感じてられましたが、実際インドで生活してみて、それを目のあたりにし、自分のできることから何か始めようと、児童リハビリセンター(RCFC)や女性自己支援職業訓練所(JEEVIKA)などの支援活動もされています。

 「私でも今いるところで出来ることはいっぱいあると思うの。私たち家族が展開するNGOを『mustard seeds(マスタード・シード=粒からし)』と名付けたのは、粒からしは小さいんだけどぴりりと辛く、ベンガル料理に欠かせないスパイス。私は小柄だけど、役に立って、みんなにいい刺激をあたえられればと思っています」と、モーラさんは粒からしと自分を重ね合わせておられるようです。 

 今回のパーティーでは、まず鍋カバーが現在のデザインに至るまでの経緯を、試作品を見せながら千晶さん、むーさんが話して下さいました。五、六点はあったでしょうか。試作品はそれぞれに会員のみなさんの創意工夫があり良さがありました。今回採用されたデザインは、そのなかでもコンパクトで、作る際に端切れも出ない無駄のないもので、納得!でした。

 モーラさんの話では、「インドの金銭的に貧しく、立場の弱い人達は今の環境から抜け出したくてもその術を知らず、資金もない。牛一匹でも、部屋一つでも、彼等に与えられたら、そこから道が開ける。鍋カバーの注文は、本当に助けになっているし、生産者は本当に喜んでいる」とのこと。「それからほとんどのNGOのグループはそれほど実用的でないものを主に売っていて、ほとんどがチャリティーみたいなもの。その点、鍋カバーは実用的で、環境にも良く、必要とされるもの。こういうものを作っているということが生産者の誇りにもなり、励みにもなる」とも。

 インドには国内外からの数多くのNGOがあり、社会的に弱い立場の人たちをサポートしていますが、金銭的な問題などから情報交換する手段が乏しく、ネットワークがほとんどないとのこと。モーラさんは、これらの横の繋がりのないNGOをなんとか繋げたいと思ってもおられます。

 モーラさんは話の中で、最近の大型化したフェアトレード団体について少し違和感を感じていて、モーラさんたちのような家族規模のNGOの注文を受けていた生産者の中から、規模の大きいフェアトレード団体と契約し、そちらを優先して注文を受ける生産者が増えてきたことに対して、「結局大きな工場で働くのと同じようになってしまうのじゃないか、、。自分達の自立を目指しているようで、そこの団体に依存してしまうのではないか、、。上手く言えないけれど、、」と、もどかしそうでした。

 あと、フェアトレードというものがどういうものなのか、現地のインド人生産者の間ではほとんど教えられていないし、いまいち理解されにくい、とも。

 そんなモーラさんの話を聞いて、千晶さんが、もともとフェアトレードとは、先進国が、今まで自分達が搾取し続けてきた国の生産者を守ろうとしたことからはじまったシステム。インドは先進国とは逆の立場だだから理解されにくいのだと思う、と述べられ、その話からム−さんが、そもそもトレードとは、フェアなものなのであり、顔の見えるもの(かつての近江商人もそうっだったように)。今は「フェアトレード」とうたわれているものしかフェアトレードじゃないと思われがちだけれど、真面目にきちんと商売している人は沢山います、と。

 モーラさんは、規模は小さいままで、常に顔の見える、生産者とバイヤーが対等な関係をもっていられることが大事だと思う、と繰り返し言ってられました。

 今回参加して、モーラさんと楽天堂は、人と人を、グループとグループを『つなげる』ということで、とても似ておられるな、と思いました。

 最後にまたまたランチの報告をさせていただきます。モーラさんはダル、ほうれん草のカレー(炒めもの?)、ベグン・バジャ(なすの揚げ物)を作って下さいました。その他テーブルには、かぼちゃのサブジ、キャベツの炒めもの(ココナツ風味)、蒸かしたじゃがいもとさやえんどうのディッシュ、ムング豆のモモ(シューマイ)、ムング豆のスコーン(豆のスコーンは初めて食べた)などが並べられ、どれもこれも美味しかったです。最後には竹村さんのリンゴケーキ、堀さんの黒米を入れた自家製甘酒(今回初めて私作りました。意外と簡単なんですね〜)も、、。

 モーラさんが作って下さったベンガル料理ベグン・バジャ(なすの揚げ物)ですが、初めての味で、作り方も簡単、さっくりととっても美味しかったので分量はきっちり言えませんが、だいたいのことを書いておきます。

 天ぷらの衣をつくる要領で、小麦粉でなくひよこ豆の粉を使い、ターメリックとブラックオニオンシード(またはケシの実や黒ごま)を各大さじ1ほど加え、水で溶き、衣を作る。1cmほどにスライスしたナスを、衣をつけて油であげる。塩をふっていただく。

 ひよこ豆の粉は手に入りにくいかもしれませんが、手に入った方は是非。ブラックオニオンシードは黒ごまを丸くしたようなもので、播けばチャイブ(あさつきみたい)のような植物になるそうです。

 PS:今回の参加費はモーラさんに寄付されました。

 ねんどとわたし 
オーガニックライフサポートSORA・川内 たみ(かわうち たみ)


 1994年、友人のスペースのオープニングパーティで現ボディクレイ社長の手塚さんが持ってきていたモンモリロナイトのジェルを見かけたのが、そもそもの出会いでした。今とほとんど同じチアパックの容器に入ったモンモリロナイトのジェル。見た途端に惹きつけられたのですから、やはり縁があったというべきか。

 いわゆる化粧品というのはうさんくさくて信用できないと思っていたし、そういう化粧品に高いお金を出すこと自体、当時の私たちにはかっこ悪くてはずかしいことだったので、わたしのスキンケアは ずいぶんシンプルなものでした。

 西荻の「たべものや」時代は、台所の棚にゆずの種を日本酒につけた瓶が置いてあって、それを手や顔につけていましたし、ビワの葉や種もよく使っていました。沖縄のおみやげに貰った火山灰の洗い粉「白つばき」はみんなが気に入って 結局お店でも仕入れて売っていました。これは火山灰そのものですが、ボディクレイのねんども何億年か前は同じ火山灰ですから、私にはなじみのものだったのです。

 自分で手作りした簡単なローションやクリームをずっと使っていたのですが、50歳を過ぎて、さすがにもうちょっとなんとかしなきゃ、というタイミングでこのねんどに出会ったのは今から思うと幸運でした。

 食べ物だって、なんだって、まだ試したことない素材だったら、作ってみたい、という好奇心だけは旺盛な私。ねんど、というだけで魅惑的だったし、すぐにでもこれで作って試してみたい、とワクワクしたことを覚えています。わたしがこれほどピンときたのに、手塚さんはなんだか自信がなさそうでした。大丈夫、これはきっと売れるわよ、とわたしは確信を持って言ったのでしたが・・・。

 バブルの頃、12年間続けた「たべものや」=女たちでやっていた安全な食材のレストラン=も立ち退きでやめることになって、その後、わたしはやっと手に入れた自由な時間を、アクセサリーを作ったり、個展やクラフトフェア、旅行や演奏などしながら、人生の夏休みという感じで、貧乏だったけど、楽しくすごしていた時期でした。クラフトやアート関係の友達も大勢できたし、アジアやアメリカに長い旅をしたり、六ヶ所村の脱原発のお祭りにスタッフで参加したり、、、この生活に終止符を打つのは後ろ髪引かれる思いだったけれど、手塚さんに誘われて、結局、週に二日だけ、とか言いながら、粘土科学研究所に通うことになり、その後、どっぷりとねんどにはまることになってしまったのでした。

 まず、捨てても土に帰る安全性に惹かれたのですが、使ってみると気持ちいいだけでなく、思いがけない効果(化粧品に対して期待していなかったせいもありますが)もあったし、スキンケアだけでなく、他にもいろいろと可能性を秘めていそうで、興味津々だったからでもあります。

 この粘土(モンモリロナイト)の研究を十数年もやっていたのは、今は亡くなった手塚さんのお父さんだったのですが、彼からマンツーマンで化学の授業を受けながら、一緒にレシピを考えたり試作をしたり、もともと勉強好きな私は手塚お父さんの熱心な生徒になって、モンモリロナイトなんて聞いたこともなかった未知の物質の不思議さに、どんどん引き込まれていったのでした。

 でも、当時は、パッケージの形態こそ今に近かったけれど、違う名前で産声を上げたばかりの状態で、販売方針やアイテムの構成、価格等々、何からなにまでやることが山積していたのです。

 おかげで 私はいろんな分野の能力を全部引っ張り出して何とかしなければならない羽目になったのだけど、今思うとそれは楽しい体験でした。

 販売や経理的なことに関しては お店での長い経験があったし、製品のレシピの検討や試作はお料理を作る面白さ、むずかしさとよく似ていて「たべものや」の経験が役立ちました。何よりきびしい消費者としてのキャリアがあった。それに、大昔は、これでもセツ モード セミナの第一期ゲリラ(我ながら懐かしい!今となっては殆どの方は知らないでしょうけれど)のイラストレーターとして活躍したこともあったので、パンフレットのイラストやレイアウト、ラベルのデザインも、好きな分野の仕事でした。

 ボディクレイという名前に決めて、販売を始めたのは95年、ラベルも基本的には現在のものと同じですが、当時の粘土科学研究所は貧乏だったので、最初の頃はコピーしたラベルに、手書きで丸く色を付けていたものです(その後、同じデザインの印刷へ)。

 その頃、私がねんどの仕事をしていることを知ったデンマークの友人が、彼女が愛用しているかけら状のねんどをプレゼントしてくれたのです。彼女はこのねんどだけで全身を洗えるので便利、これだけを持って世界中を旅してる、といっていました。わたしも使ってみたら、色、形、使い心地共に大好きになって、ちびちび長いことかけて大切に使いました。これが「ガスール」だったのですが、その後、何年も、これがどこで採れてどこで手にはいるのかはわからなかったのです。

 ヘナの企画をしていた頃(現在のナイアードという会社で)、アレッポの石けんのスタッフが旅行のお土産に粘土を買ってきてくれました。これってモロッコの粘土だったんだ!モロッコでは、昔からこのねんどを石けん代わりに使っていたのでした。

 念願のガスールは、ナイアードで輸入することになり、今はいろんなところで手に入ります。ちびちびと使っていた十年前を思い出すと不思議な感じです。

 粘土と一口で言っても、その成り立ちや結晶構造などからいろいろな種類があり、また例え同じ種属の粘土でも 場所によってミネラルの割合がちがうし、特性も変わったりする。焼き物などによく使われるカオリン、化粧品にもよく使われている雲母や滑石も粘土の仲間です(粘土鉱物ではないのに、便宜上粘土とよばれている紙粘土や油粘土のようなものもありますが)。

 何億年か前に海底で火山が爆発し、それがその後隆起してできたのが日本列島ですから、日本では、全国のあちこちに上質のねんどが産出します。世界でもいちばん粒子が細かく、膨潤力(水などを吸い込んで膨らむ力)の大きいナトリウム・モンモリロナイト(スメクタイト属、ベントナイトともいう)という種類のねんども採れます。モロッコのガスールも、同じスメクタイト属の粘土ですが、こちらはマグネシウムが沢山含まれており、現地の技術者はマグネシウム・モンモリロナイトと言っていました。

 粘土に関わってすでに十数年、モンモリロナイトに関してはいっぱしになった気でおりますが、このねんどに関する研究はまだ始まったばかり、粘土の粒子が見えるようになったのは 電子顕微鏡が発明されてからのたかだか四十年あまりだそうですから、まだまだ全貌は解明されていません。未だに驚くようなことの発見があって、まだまだ奥が深そうです。

 粘土、という言葉に反応するようになって気がついてみると、テレビのドキュメンタリー番組などにも、ねんどはよく登場しています。時代を超え、世界のあらゆるところで、ねんどが生き物と関わってきていることがわかります。例えば、南米に住む色鮮やかな鳥の餌はその地方の毒のある木の実なのですが、彼らが毒消しに使っているのは崖の粘土だとか、傷ついた動物たちはある種の粘土質の場所に横たわって治すとか、世界各地で髪を洗ったり、からだに塗りつけたり、羊毛を洗うのに使っていたり、日焼け止めに顔に塗ったり。

 工業的にもよく使われています。色を吸収させたり、紙の表面加工に使ったり、全国のゴミ処理場や六ヶ所村の核廃棄物の周りには有害物質を通過させないために、この粘土を使っているそうです。

 地球上に生命体が発生したときに、そのゆりかごの役をしたのがこの粘土らしい、といわれてきましたが、最近読んだ『「生命の起源」地球の書いたシナリオ』(著者・中沢弘基さん=日本粘土学会の元会長、東北大の物理学の教授)によると、もっと積極的な役割をしていたのではないか、という興味深い記事がいっぱい出ています。

 太古の昔から、いのちにもっとも近いところに存在してきて、無機鉱物なのにまるで有機(小麦粉などと同じように水を吸い込んで膨らむなど)のような働きをするのです。

 モンモリロナイトの 無機でありながら有機物のような働きをするという特性は、スキンケアにも最適ですが、命に対して親和的ということは、肌にはもちろん、菌(これも生命体)に対してもいいので、制菌には気を遣っています(ねんどの粉やガスールなど水が入っていないものは菌が増える心配はありません)。

左から筆者の川内たみさん、千晶、ボランティアスタッフゆら

[モンモリロナイトがスキンケアにいい点]
1)0.2ミクロンの微粒子の層間に20倍もの水分や油、タンパク質(汚れや老廃物)を抱え込む力がある。
2)微粒子に抱え込んだ保湿成分を必要とする肌に届ける。
3)乾くと非常に薄い皮膜を作る(肌のバリア機能を強化し、肌自体が持っているしっとり成分(NMF=天然保湿成分)をひっぱりだしてくれること)。
4)鉱物なので、きわめて安定していて、植物や動物に比べ、アレルギーを起こしにくい。

 モンモリロナイトを使うと、合成界面活性剤なしで水分と油分を混ぜ込むことができるので、ボディクレイは乳化剤を使わない、というのも特徴の一つですが、乳化剤になれた人には使い心地が落ちるかもしれませんね。でも、使い心地のいい、すーっと沁みていくようなのこそ危ない。合成界面活性剤の危険性はよくわかっているつもりだったけれど、それ以上のようです。 

 作務衣のフェアトレードに携わって
 
齊藤 京子(さいとう きょうころ)


  私は、長野県松本にある浅間神宮寺に事務所を置く、特定非営利活動法人アクセス21の専従スタッフとして働いています。アクセス21はタイのHIV/エイズの問題にアクセスし、特に感染者の多い北部タイで現地の人々と活動をしています。具体的には、HIV感染女性とその地域の女性達のコミュ二ティーで製作した作務衣を日本で販売するという協働プロジェクト(フェアトレード)をしています。
 そもそも、今の仕事の相手国であるタイとの出会いは、大学一年の春に教授と行ったスタディーツアーでした。ツアー後、感じたことを共有しよう、伝えよう、ツアーで訪ねた現地NGOメーコックファームのために何かしようと、ツアーに参加した先輩、同期、後輩達とプアン(タイ語で仲間)という団体を創りました。活動内容は、フリーマーケットや国際イベントでのタイの民芸品販売。タイに関する展示。メーコックファームの日本国内活動の手伝いや現地でのボランティア活動。こうした活動をしていく内に、活動に利益が生まれれば、一つの仕事になるのではと思い始めました。そのいい例が、「フェアトレード」だったのです。

 そうした中で、「アクセス21」の代表の高橋住職と出会ったのです。卒論のテーマにもした「フェアトレード」の団体の一つとしてお話を聞きに、訪問するということではありましたが、その頃の私は、北タイと関係する会社を調べ上げるものの、どうも自分のやりたいことに結びつかない。国際協力の世界で新卒の現地派遣はない。もう現地で探す、もしくは自分で仕事を作らないといけないのだろうかと悩んでいました。そういう意味でも、あの日神宮寺を訪問したのは、私にとっては世に言う就職活動の一環で、「会社訪問」でした。実際99%は、私に仕事の話は回って来ないだろうと思っていました。しかし、北タイ現地で仕事ができる就職先を探すのは難しかった中、例え1%だってその可能性を無駄にしてはいけないと思ったのです。

 高橋住職の、「きみは何をしているの?」という質問に、自分達の学生の活動、そして現在就職活動中という話を一分もしなかったと思います。すると速攻「こりゃいい。丁度チェンマイで仕事してもらう人を探していたのだよ。きみ、しない?」「します!!!!」と決まったのです。

 大学卒業後、タイへ渡り、現地スタッフとして生産に携わりました。まずは、製作システム作り、同時に、よりよい商品化を目指しました。丸三年を終え、2005年7月に、後任に引継ぎをし、日本に帰国してきました。国内における作務衣販売に力を入れるため、アクセス21をNPO法人化するためでした。そして、事務所のある神宮寺の仕事も平行して行うお寺の専従スタッフにもなりました。2006年5月末に特定非営利活動法人(NPO法人)として登記し、作務衣の販路開拓に精を出しています。あっという間に一年半が経ちました。

 タイに居た当時一番頭を悩ませたのが、品質向上の意識化、特に布に関する問題です。その頃の布は、一律の色で染まってこない、織り傷が目立つというような布が多く、そうした布でもって、品質の高い作務衣をいかに作るかということでした。

 作務衣の生地は、一度は失われかけた綿作りから手染め、手織り技術の伝統継承の大切さに気づいたホット地区、バンタン村から仕入れています。その十月に他界しました。今は娘さんが引き継いでいます。質が良くない布だからこことの取引は止めましょうと、そういう簡単な話ではありません。作務衣製作を始めた頃からお願いしている所で、アクセス21からの注文が途切れずあったからこそ継承が出来たのだと思います。自分がやっていることがお金になると分からなければ、若い世代は受け継ごうと思わなかったでしょう。以前、後継した娘さんもアクセス21との仕事をしながら自分も布のことを学んでいると言っていました。品質の良くない布が出来上がってくる度に、その布を見てもらって、今後気をつけてほしいと言い続けました。

 例えB反でも、出来上がってしまった布は作務衣縫製を行うホーリン寺へもって行きます。まずは、裁断をするデーンさんに、織り傷や色むらのあるところは避けて裁断すること、ロール全体がそうならば裁断しなくてよいこと伝えました。何度となく伝えているが、それでも裁断してしまうデーンさん。良くない布の現物を見せ再度伝える時も「チャオ、チャオ(はい、はい)」とうなずいているが本当に分かっているのか、このことを深刻な問題と受け止めているのかが不安でした。縫い手の女性達にも、縫製してしまったら欠陥品扱いの作務衣でしかなくなってしまうが、縫う手前だったら買物袋にすることも出来るので、縫う前にそうした傷、色むらの箇所がないか見て、あった場合は縫わないでほしいと言い続けました。

 欠陥商品でも買い取りました。普通の企業であったら欠陥品は買い取らないでしょう。しかし、アクセス21の目指す先は、縫製技術の向上と品質の向上です。作務衣を縫い続けることで彼女達の技術は着実に向上しています。また、縫製後に皆でチェックするようになり、悪い箇所があったらその都度見せ、何がいけないのかを確認してもらってきた結果、少しずつ彼女達が品質とは何かということが分かってきています。こうした技術と品質の向上により、外からの注文も受けるようになったのです。今現在は、この品質向上に、布屋さんや縫製している女性たち皆が意欲的に取り組んでいます。

 日本側スタッフとなってからの悩みは、専ら販路構築です。私達は販売収益が活動資金となるため、売れることが活動を続けていく絶対条件です。販売促進、営業は苦手ながらも「やらねばならぬ」「売ってなんぼじゃ」と思って自分なりに取り組んでいます。しかし、苦手ではありますが、嫌いではありません。というのも、アクセス21の作務衣を好んでお求め下さる方、また、継続して委託販売、買取をして下さる方々は、とても興味深い活動を展開している方々でそうした活動内容、また、展開の仕方をお聞きする機会も多く、営業という名の研修のようで、たくさんのことを学ばせてもらっているからです。皆さん親身になって、アクセス21の特性を活かした営業展開のノウハウを教えて下さります。販売会では、お客さんとの対話の中で、HIVというひとつの社会問題と向き合っている活動紹介、そして、人と自然との協働によってできた着心地のいい作務衣だということを紹介しながら、納得してお求めいただけるよう努めています。

 最近、「やりがいは何ですか」と聞かれ少々答えに困りました。その時は「自分がしたいと思うこと、アクセス21としてやってみようと思うことを、たくさんの人が協力してくれ、励まされ、現実化することが出来ること」と述べました。おこがましくて言えなかった心の中で自負しているもう一つの(本当の)答えは、「この大きな世界のすべてのものが、平和に自然に暮らすための活動の一端を担えているということ」です。 

フェアトレード:立場の弱い人々や資源を窃取する不公平な貿易を是正し、公正な賃金を支払うことで、経済的自立と環境保全を促し、持続可能な発展を目指す貿易。 

事なかれ主義の世の中にうんざり
たんまりやれよ!
 大関 はるか(おおぜき はるか)


 チャリをこいでまちを走ると、「いじめをなくそう」と書いたタクシーに出くわす。テレビがなくても、社会でいじめが深刻な問題になっていることは知っている。だけども、タクシーに「いじめをなくそう」という標語を掲げることは意味があるのか?ネットニュースで見かける政府の対応にも嫌気がさすことが多い。まるで、いじめる側といじめられる側のふたつしかないような物言いが多いように感じる。そんな単純な構造を人間社会はほとんど持っていない!

 私自身、いじめられた経験もいじめた経験もある(これは小学生)し、そのどちらでもないけど、その場にかかわる経験はたくさんある。自殺未遂をした友達が手首を十何針も縫う手術をした後、学校に行く前に彼女のうちに寄り、お化粧をしてタバコをふかして、それからタバコのケースでコンドームを入れるケースを作る遊びをして、そして二人乗りで学校に行ってたこともあるし、大金を巻き上げられる友達をかばって歩いてたこともある(これは中学生)し、いじめを横目でみていたこともままある。そのどの立場ででも自分の、ない頭で考えたり、複雑な心で感じている。これが人間だと思う。

 いじめで命を絶った子がいて、そのことは本当にやるせなくて、苦しいけれど、では、いじめた子は誰か?校長をつっついて、「加害者」の「処分」を明確にすることを求める風潮には疑問がある。たとえそこがはっきりしたとしても、問題がめでたく終わるわけではない。問題を共有した人は、みな一生それを負っていく必要がある。これが生きることなんだと思ってる。校長が、ありがたいことに、「加害者」の子どもたちを槍玉に上げることを阻止できる大人である場合、私は内心ちょっぴりホッとする。でも同時に、今の社会だと自分の体を張って子ども(ここでは加害者と言われるこども)を守るために、この校長は大変な苦労をするだろうとも思う。 

 私は、生きているという中でつまり成長する中で、あれこれを十分にやることを大事にしたいと思っている。幼児期の親への甘えも、思春期の親や先生への反抗も、過剰な自意識も、いじめることもいじめられることも(特に女の子は)、当時は自覚していなかったけれど、十分にやれてよかったと思う(十分といっても人並のことであって、現代で言うと誤解を招かれやすいかもしれない。冒頭に深刻ないじめの話題を挙げてしまった後では切り替えてもらうのは困難かもしれない)。

 私の容姿をさんざんに言ってくれた中学時代の男子たち、あるいは女子も、十分にやってくれてよかった。電柱(長身)、タイ米(顔長)、さんざん言われた。号令係りが「起立、礼」と言えば、前の人が避ける。バレーボールをやれば、はるかのチームが「タイ」になる。相手チームが「ニッポン」。そういう容姿のからかいは重要で、だから容姿ばかり気にする。気にしまくって、あごを削る手術を真剣に考える。目を二重にする手術を夢見る。そうして、異性に好かれるということは自分には一生起きないんじゃないかと不安を抱える。

 ところが、ティーンエージャーも終盤で、自分をスキだという人が現れる。「自分は身長が低くて、それがコンプレックスだったから、もしもはるかとの間に子どもができればその子は高くなるかもしれない」と言われたとき、(実際に子どもができるとか、その子の身長が高めだとかいうことは全く関係なしに)自分のコンプレックスがひとつはげる(実際この人とは一年足らずで別れたんだけど)。

 ヨーロッパに行ったとき、背の高い人の中で同じ目線で会話をした。またひとつはげる。自分の住まう世界が広がるごとに、それははがれ、目の前が明るくなり、自分はなんと生きているだけですばらしいかと知る。

 また、大人の存在も肝要だ。中学生の頃、行きつけの美容室があって、そこでいつも一番うまいと思っている人を指名していた。この人にいつも「顔が長すぎるから、絶対前髪は眉毛の下にして」とお願いすると、彼は決まって「何言ってるの!?その身長にその面長で、後頭部が出てるのは、外人の容姿なんだよ!坊主にしたらめちゃくちゃカッコイイんだけどな〜」と言ってくれる。だから、私は内心(当時は無意識だけど)そこに行けば、何か自分が肯定された感を持っていたのだと思う。必ずその美容室に行き、必ずその人を指名し、毎回その会話をして、必ず眉毛の下まで前髪を残してもらった。前髪はすぐ伸びるので、前髪だけサービスで切ってあげるからと言われ、前髪だけ切ってもらいに何度か行ったこともある。

 大人の存在というのは、こういうものだと思う。自意識超過剰な娘が言うことを聞けるのは、数ある大人のうち極々少数だと思う。十年以上経ってやっと自覚が沸き、感謝の気持ちが沸いている。 

 何かを十分にやらないと次の世界を見ることができない。事なかれ主義の世の中につぶされた多くの人間はどうなるのだろう。 
 私がいたNGOは、毎夏、二百人規模の若者の集まりをする。若者が集って四泊五日、最後の晩は音楽がなり、仮装をし、踊る。これを初めて経験した18歳の夏、自分の新しい一面を知った。それは私が踊りたいということ。同時に別な誰かは、この雰囲気を異様と感じ、また別の誰かは、自分は踊りたくないけど、暗くて騒々しい中で誰かと二人っきりで話すに好都合だと捉えていたかもしれない。どれもあっていい。不快も快もとっても大事。

 それが不快な人がいるからと、翌年からその合宿形式のイベントで踊り騒ぐ企画はやめになった。仲間に入れない人に配慮しよう、ということだった。事なかれ主義にうんざりした19歳。普段しないことをする時に感じる多様な反応がいかに大事か、当時の私はうまく言えなかった。非日常を設定することの大切さは後にやっとわかるようになる。

 私が所属している環境関係のML(メーリングリスト)で、一時戦争反対メールが流れ、月に一度「環境に関するメールだけにしましょう」と、注意が流されることになった。「戦争って環境破壊やん!」まるで反対意見があると、ややこしくなると言わんばかりだった。何かの反対を締め出したら、その反対はどこへ行く? 

 ことなかれ主義が多くて世の中つまらんくなる。一体私達には、何があってもよくて何があっては困るかの線引きが、できなくなったように思う。 

 私は、自分自身が自覚さえできれば、むしろたんまりやったほうがいいと思っている。自覚するということが、非常に大切だと強調した上で、私のたった今を例に挙げると、私はやっとこの人だ!という彼氏ができたと思っていて(のろけもできるうちに十分やった方がいいと思ってる。笑)、誰かと恋に落ちると決まってそうであると思うけど、最初は一緒に居られたらそれでいい。次第にその時期が終わると、相手に対する不満や甘えが出てくる。私の彼は、おそらくこれまでの無茶な「冒険」(本人は冒険という言葉を非常に嫌がる。冒険だと思ってないからと。でも、ほとんどの人が冒険と言ってイメージするものが近いと思うのであえて冒険と表現)の反動のせいか、私から安心感を得た時点から、とにかく一緒にいるとすぐに寝てしまうようになった(ジャングルや氷の世界でそれはできないことだと想像する)。最初は体調もだいぶ壊した。これを十分にやれば、きっと落ち着くときが来るだろうと自分に言い聞かせながらも、私はあれこれ心配をした。これは一年でだいぶ落ち着いてきたように思う。

 一方私は、ここのところ、相手のせいにしまくる。彼が最も嫌うことのひとつに「誰かのせいにすること」がある。だから、毎回大喧嘩になる。最近は毎週末大喧嘩だ。私は自分自身について、昔からどこかで別なもののせいにしたいことがあると自覚している。それを毎回出すわけにはいかないから、抑えてきているけれど、心の一部はそう感じている。相手に対しての甘えで、今それをやりたい放題やっている。これは全然いい方法ではないとわかってる。相手は手こずってるし、お互い傷つくし。でも、人間の成長としておおらかに見ると、内心私は順調だとも思ってる。これを十分にやったら、別の段階に行くのではないかと多少期待してるからだ。まったく人騒がせで自分勝手な方法でしかないとわかってるけれど、なんでもかんでも存分にやらないと自分の実感として得られない私の性質上、これが早道だと今のところ思っている。 

 最後にもひとつだけ。私のことをスゴイという人がいる。私が何か話す前から、スゴイという相槌が聞こえてきそうな。自分で考えることなしに、私の考えを鵜呑みにし、さっきと今とで真逆のことを言っていても、どちらにもスゴイと言う勢いだ。私の彼のやることをエグイという人がいる(自転車に乗る人に多い気がする)。零下47度のシベリアや4600メートルを越える山へ自転車で行くというと、エグイと言ってる。彼がやることはなんでもエグイ!とひとまとめだ。

 私は、この思考のストップと自分の実感を捉えられない若者が、事なかれ主義の産物のように感じることがある。自分自身もその要素をたくさん持っているから、人事ではないのだけど、少しでも意識していきたいと思う。

麹遊び 
 
その1
 小紺 有花 (ここん ゆか)


 麹は日本の食の礎です。ちょっと見回しただけでも味噌、醤油、酒、みりん、漬け物等。。。実に多くの食品に麹が使われています。私達の食卓は麹に支えられていると言っても過言ではありませんね。

 日本の風土環境に適した微生物である麹菌で作られる麹は、日本人の体質にも適していて、その麹で作られる様々な発酵食品は日本人の体調を整える働きをしてくれます。そんなとってもお役立ちな麹ですが、現代の食生活ではちょっと忘れ去られている存在。見たことも触ったこともない未知の食材になりつつあります。今一度、その良さを見直し、ちっちゃな生き物「麹」とつきあってみませんか?麹を扱うなんて難しそうに感じるかもしれませんが、使ってみると意外なほど簡単で、手軽です。

 家庭で一番手軽に作れる麹の加工品は「甘酒」だと思います。甘酒はビタミン、ミネラル、アミノ酸が豊富で滋養強壮、免疫力強化にとても役立ちます。腸内環境を整える乳酸菌の働きで、体内浄化もしてくれます。「飲む点滴」と言われるほどの健康食品なのです。甘酒を調味料のひとつとして、様々な料理に使えばその世界はどんどん広がります。味噌や醤油と同じくらいの気楽さで毎日の料理に取り入れてみて下さい。甘酒がもたらす新鮮な味わいに驚くこと間違いなしです!美味しい甘酒を食べて美と健康と喜びを手に入れましょう。

 今回は基本の〈甘酒〉〈甘酒とりんごのタルト〉の作り方をご紹介します。甘酒は麹だけで作る方法もありますが、お粥に混ぜて作るほうが経済的です(味の違いもほとんどありません)。お粥と麹を混ぜて炊飯器に入れておくだけで簡単に甘酒が出来上がりますから、気楽に取り組んでみて下さい。甘酒とりんごのタルトは卵も乳製品も砂糖も使っていないので、とってもヘルシーです。発酵食品としての甘酒の個性が生きた味に仕上がっていると思います。作り立て→翌日→二日目と日ごとに味が落ち着き変化していきます。冷蔵庫で三、四日は日持ちしますので、その味の変化もお楽しみ下さい。

 あとひとつ、おまけとして〈大福豆の甘酒煮〉のレシピもご紹介します。甘酒がくせのない大福豆の味を引き立てます。「甘い煮豆」という感じではなく、ほのかに乳製品の香りを感じさせる味が面白かったです。それでは甘酒ワールドをお楽しみください♪

〈甘酒の作り方〉
【材料】
ご飯 2カップ、水 2カップ、米麹 3カップ
【作り方】
@ご飯と水を鍋に入れ、火にかけて沸騰したら弱火にして5〜10分煮込みお粥を作る。
A@が約60℃に冷めたら麹を混ぜて炊飯器に入れる。
B炊飯器のふたを開けたまま保温にして、布巾をかけて約10〜15時間放置する。途中一、二回かき混ぜる。
C出来上がった甘酒をフードプロセッサーなどでかくはんしてクリーム状にする。ふた付きの容器に入れて冷蔵庫で保存する。

【補足】
@炊飯器によって発酵の進み具合が異なります。
A炊飯器以外の方法をとる場合は湯せんにかけるか、暖かい場所に置いて55度を保つ。
B生米から作る場合は米1合と水2合半を鍋に入れ、火にかけて沸騰してから弱火にして約15分煮込む。60℃くらいに冷めてから麹3合を混ぜて炊飯器にて保温する。
C麹菌は80℃以上になると死滅します。温度管理に注意して下さい。
D米や餅米のかわりに、キビ、ヒエ、アワなどの雑穀でも同様に作れます。雑穀と一緒に炊いた御飯でも大丈夫です。我が家ではいつも麦御飯や玄米御飯を炊くので、それを使って作っています。それぞれの穀物によって微妙に風味が異なってきます。その味の違いも楽しみのひとつですね。

【甘酒の保存について】
@常温では麹菌の働きにより、状態が変化し酸味や辛みが出てきます。必ず冷蔵庫か冷凍庫で保存して下さい。
A冷蔵庫で約二週間(実際にはもう少し日持ちしますが、それぞれの環境に応じて様子を見ながら保存して下さい)。冷凍庫ならもっと長期保存が可能。加熱処理(鍋に入れ火にかけて80℃で5〜10分加熱)して発酵を止めておいたり、塩を少々混ぜておけばさらに日持ちするようです。

甘酒とりんごのタルト 甘酒とりんごのタルト

〈甘酒とりんごのタルト〉(18cmケーキ円型1個分)
(タルト生地)
全粒薄力粉 40g、無漂白薄力粉 40g、シナモンパウダー 小さじ1/2、菜種油 40g、甘酒 30g、天然塩 小さじ1/8
(フィリング)
甘酒 180〜200g(甘酒の濃度、甘さに応じて調節する)、豆乳 200cc、レモン汁 50cc、レモン皮のすりおろし 小さじ1/4、菜種油 30g、天然塩 小さじ1/4、アーモンドプードル  50g、無漂白薄力粉 20g、葛パウダー15g、煮りんご 200g
【作り方】
(タルト生地を作る)
@二種類の粉とシナモンパウダーを混ぜ合わせておく。
A菜種油、甘酒、天然塩を混ぜ合わせておく。
B@とAを合わせ、へらなどでさっくりと混ぜる(こね過ぎないように)。
CBをケーキ型の底に手で平らに伸ばしつける。
DCを170℃に予熱したオーブンで15分焼く。
(フィリングを作る)
E甘酒、豆乳、レモン汁、レモン皮のすりおろし、菜種油、天然塩を混ぜ合わせる。
FEにアーモンドプードル、無漂白薄力粉、葛パウダーをザルでふるい入れ、滑らかになるまで泡立て器でよく混ぜ合わせてから、煮りんごを入れて混ぜ合わせる。
GDで焼き上げたタルト生地のケーキ型の側面にオーブンシートをあてて、Fのフィリングを流し入れる。170℃に予熱したオーブンで45分焼く。
H冷めたら冷蔵庫で冷やしておく。焼き立てよりも翌日の味がなじんだ頃が美味しい。
*煮りんごの作り方*
りんごをさいの目に切って塩少々と水大さじ1とともに鍋に入れ、ふたをして弱火で水分が飛ぶまで煮る。

大福豆の甘酒煮 大福豆の甘酒煮

〈大福豆の甘酒煮〉
【材料】
ゆでた大福豆 250g、甘酒 70g、水 適量(豆がかぶる位)、塩 小さじ1/2
【作り方】
@材料すべてを鍋に入れて煮汁が1/3くらいになるまで弱火でコトコト煮込む(焦げ付きやすいので注意する)。
A好みで仕上げにレモン汁や良質な植物油(エキストラヴァージンオリーブオイル、ウォルナッツオイル、アマ二油など)を混ぜても美味しい。
 


「リフォーム料理でひとやま当てて!」なんていわれても・・・その3
 
根石 佐恵子(ねいし さえこ)


  私のなかに、小さい頃からの結構濃い思い出のリフォーム食材(?)があります。それは魚の煮汁です。瀬戸内海で遊び、せとうちの魚を食べて育った私には北陸の魚とはまた違ったおいしくも、楽しい笑えるエピソードがつまっている気がします。

 その中でも鮮明なのが、大体夕飯のおかずに出てくる「煮魚」そして、セットのように横に並ぶ「煮汁で炊いたれんこんやにんじんやごぼう」。なぜか、単品でど〜んと盛られていて、翌朝はお鍋の中で茶色く変身しながらも、化石のようににこごりのなかに埋もれるれんこんやごぼうを発掘したものでした。

 でも、いつも「こおり」といいながらそのにこごりをスプーンですくってご飯にのっけてとろける様子をみながら食べるのも楽しみの一つでした。

 そこで今回のメインディッシュは〈魚のジュレ丼〉!前日の煮魚の煮汁を冷蔵庫で冷やすだけ!後はご飯にスプーンですくってのっけて彩りに緑の葉物やねぎなどをちらします。好みで卵の黄身をぽこっとのせるともう見た目にも栄養的にもばっちりではないでしょうか?かれいやえいなどのコラーゲンたっぷり、ぷるんぷるんの味を楽しみましょう。ちなみに写真は昨年暮れに帰省したときに母が煮てくれた舌平目(げたがれい)のジュレ丼です。みんなで大騒ぎしながら撮影しました。

魚のジュレ丼 魚のジュレ丼

 そこで続いてよく残るのがおつゆ、味噌汁。お正月というタイミングでおもちもあります。お雑煮は食べ飽きたし、味噌汁にそのまんま入れるのも・・・で思いついたのが〈おもちの味噌あんかけ〉。 残った味噌汁にたっぷりねぎを刻んで入れて味噌を足し少し濃い味にします。あとは片栗粉でとろみをつけて、器に入れた焼いたおもちの上にとろっとかけます。目先が変わってあんがおもちにからんでいけます。

 そこでおまけのあんかけもう一品〈おもちの大根はっぱあん〉。おろしもちで残っちゃった大根葉を刻み、ごま油でさくらえび・じゃこ・かつおぶしなどだしの出るものをちょこっと入れて炒めます。にんにくなどでさらにこくをだし、醤油・みりん・黒砂糖などで甘辛く味付けしとろみをつけます。あつあつを焼いたおもちにたっぷりじゃっ!とかけて「あちち」といいながら食べてください。手軽で子どもにも大受けで「おもちがこんなにおいしなんて!」という感じでお勧めです。

おもちの大根はっぱあん おもちの大根はっぱあん

 さいごはシンプルに〈豆の煮汁ごはん〉。先日作った浸し豆の煮汁、信州出身の義母がよく作ってくれた青豆にちょこっと黒いぶちの入ったお豆ですが、煮汁は結構黒かったです。どうしようもったいないなと思っていたら、娘が「これでご飯炊いたら?でも真っ黒になるかなあ」と、二人で顔を見合わせながらも「やってみよう!」と塩・醤油・だしを少したして炊いてみました。途中わいてきた汁も灰色でちょっと不安でしたが、炊きあがりはなんとさくらいろ文字通り「さくらごはん」を美しさ・おいしさの感動の中でいただきました。黒豆だと「むらさきごはん」かな?やってみてください。煮汁はエキスのつまった宝物!野菜やお麩とコラボレーションさせて一滴残らずいただきたいですね。

子育て真っ最中近況報告 その2
 
六年後
 高島 千晶(たかしま ちあき)



この『らくてん通信』に、「子育て真っ最中近況報告・お金を使わないほど豊かになるなんて」という文章を書いたのが、娘が五歳の2001年秋だった。この冬、その文章を久しぶりに読み返して、続きを書いてみたいと思った。
 ある日、息子の幼稚園の迎えの折、園庭でお母さんたちと立ち話をしていると、先生が「お家から電話があってお客さんが来ているので早く帰ってきてくださいとのことです」と伝えに来て下さった。帰ってみると、横浜から来られたはじめてのお客様が店でお茶を飲んでおられる。夫がお茶を出してくれたのだろうと思ったら、娘がいれたのだという。「それがですね、、、」とお客さんが、嬉しそうにいきさつを話してくれた。

 「お店が閉まっていてどうしようかと困っていたらですね、お嬢さんが帰ってきたんですよ。よかった。菜芭ちゃんですよね。でも菜芭ちゃんもカギを持ってなかったんです。わたしが横浜から来たことを話すとですね、お隣の電気屋さんに行ってくれて、電気屋さんのお二階のベランダから屋根を伝ってお家に入ってカギを開けてくれたんですよ。いやあ、助かりましたよ。そしてお茶も出してくれたんです。そしたら間もなくご主人が帰ってこられて、、、」

 えー!と驚き、でもひとまず楽しそうなお客さんの様子にほっとし、わたしまで何となく晴れやかな気持ちにもなった。お客さんが帰られた後、お隣にご迷惑をかけたなあと思って、お隣を訪ね、「菜芭がまた入らせてもらったんですね。すみません。この間、カギ忘れたとき、カギ、忘れんように、言っといたんですけど。えらいご迷惑、かけてしもて」と言うと、「いえいえ、それがね、菜芭ちゃんが『またご迷惑もかけられませんし、、、』って言いはるんですよ」おかしそうに笑っておられる。「それで、『ええよ、入り』、言うたんです。一人やったら、いつもここで待ってはるんやけど、横浜からのお客さんやって言うはるし。息子がベランダから見てましてん。菜芭ちゃん、落ちんとちゃんと家に入れはるやろかって。よかったですわ」

 お客さんに喜んでもらったことをほめ、でも、カギを忘れたことを叱り、それからちょっと考えて娘に聞いてみた。「今日はな、喜んでもらったし、ほんまによかったけど、菜芭ちゃん、色んな人がいはるから、今日みたいにいい人は入ってもらったらええけど、悪い人やったらどうする?」「そんなん、わたしも考えたわ。最初はあやしいなあって思ったよ。だって、家の前で看板とか写真、撮ってはるし。でも、見てたら悪い人やなさそうやし、話してみて・・・。そしたら大丈夫かなあって思ったし。それから尾崎さんにも、相談したんやで」尾崎さんとはお隣の電気屋さんのこと。「そうやなあ。尾崎さんに相談したのは、良かったなあ」「それに、お母さん、どうやって、いい人と悪い人、見わけんの?」「そうやなあ。見たらわかるんちゃうかなあ」「お母さん、そんなことないよ。いい人そうに見えて悪い人もいるし、悪い人に見えていい人もいはるやん。もう、お母さんって、頼りないなあ」

 知らない人に対して子どもがどう接すべきかというのは、親として意見の分かれるところだし、どの親も一度は迷うところだと思う。娘は今、小学校の五年生だけど、その娘が幼稚園の頃(六年前だ)、大阪の池田小学校で児童殺傷事件が起きた。子どもをどう守るかということを考えずにいられない事件だったが、考えても子どもとして気をつけようがないと思って、その事件については話さなかった。同じように子どもをどう守ったらいいかわからない事件はそれからも度々起きたけれど、知らない人について行ってはだめよ、と教えはしたが、それ以上に知らない人に警戒しなさいと言うのも恐怖感だけを与えるようでためらわれた。どうしたらいいんだろう?漠然と、必要なのは勘を養うことだろうと思った。こうしなさい、ああしなさい、と言う中では勘は育たないだろう、と思った。でも具体的にどうしたらいいんだろうか。

 わからないまま子育てを続けたわけだけど、その日、娘のしたことを見て、ひとつの答だなあと思った。こんなふうに今日の娘は答を出したんだなあ。

 こどもの成長には、なんて親以外の人たちのお世話になることだろう。お母さんが言ったとおりするのよ、それは簡単に言える。でも、実際の社会では、勘を働かせるしか解決のしようがないことがいっぱいだ。この勘を磨く場は、親がいないところなんだろう。親が、こうしなさい、ああしなさい、と示してやれないところで、子どもの勘が磨かれる。でも、まったく一人で決めていくしかないとしたら、なんてリスクとストレスの多いことだろうか。困るというチャンスを与えてくれる他人と、困ったとき相談にのってくれる他人の中で、子どもは(たぶん大人も)育っていくということを感じさせられる。

 近くの八百屋さんには野菜、果物はもちろん肉も魚も乾物も、食べるものならなんでもひとそろえ売っている。買いに行くたびに、「今日はこれがおいしいでっせ。柔らかくなりかけてるから安うしましたけど、ちょうど食べ頃ですわ」とか「二つで五百円にしときますわ。こうといて下さい」とか声をかけられる。あれこれ話して交渉成立、買い物が決まる。かぼちゃのカットしたのじゃなくて丸ごとがほしいんやけど、と相談すれば、奥から出してきてもらえる。子どもたちを連れて買い物に行くと、いつも何やかやと声をかけてかわいがって下さる。安心して子どもだけで買い物に行かせることもできる。「お母さん、昆布な、二種類あった。どっちがいいかなあって迷ってたら、今日の晩ご飯、なにって聞いてくれはって、お鍋って言うたら、『そしたら、こっちやわ』って言いはったよ」そうそう、これでいいよ。

 また、ある時は八百屋さんから電話がかかってきた。「お母さん、キノコともう一つ、なんやったけ?白菜?ああそやそや、そうやったわ」娘が帰ってきたとき、「あほやなあ。ふたつしか頼んでへんのに、なんで忘れんの?」「ごめん、ごめん。忘れちゃった」「菜芭ちゃんが電話、貸して下さい、言うたん?」「ううん。どうしよう、思い出されへん、って言うたん。そしたら、貸してくれはった」 次に買い物に行ったときに、八百屋さんに「すみません、娘がぼんやりしてて、お電話、お借りして」と言うと、目を細めて、「いえいえ、しっかりしてはりますよ。なんやったかなあって、言いはるの。かわいいわあ」

 こうやって見守って下さっているご近所の人たちの中で、娘が少しずつ成長していくのを感じる。娘が小さかったとき、どうしたら育てられるかなあと不安に思った疑問について、娘が大きくなっていってある日ぽつんと(わたしでなく娘が)答を出しているのを見つける。 


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