第34号2006/04/01


豆農家・秋場和弥さんを囲むくるまざ座談会 (3/12)
 



豆ランチパーティー3/12

三人のゲストを囲んで  都間 ひとみ (つま ひとみ)

 ランチパーティーは珍しく、無々々さんの司会で始まりました。はじまる前から、会場の雰囲気はいつもとなんか違ってた。男性が多かったからだけじゃなく、秋葉さんはじめそこに集まった方達が、自然の厳しさの中で生計をたてている強さというか、深さというか、そんな雰囲気がすでに流れていた。秋葉さんは「生い立ち」、「縁」そして「豆の将来」についてお話してくださった。

 生い立ちについてはもう通信などでもみなさんご存知なので省略。印象に残っているのは秋葉さんが、奥さんの話をされた時だった。世間の農家の3倍は働かないといけないところに嫁にきた、あの女房じゃなかったらやっていけなかったなあ・・・としみじみ。その口調が本当に奥さんを労わっていて、やさしくて涙が込み上げた。

 縁について。2000年、秋葉さんは経営的に無肥料でやっていくのが困難になってしまった。それで、もうやめなきゃいけないのかと思っていた矢先、師と仰いでいた人が亡くなってしまう。その方はご夫婦の仲人までやられた縁の深い人で、秋葉さんの心のよりどころでもあった人だった。どん底にいる時にそんな人に先立たれてしまう。だけど、その方が残した遺言は「無肥料でやれ」。2回目の涙が込み上げた。さっきは、涙が流れるのをなんとか我慢したけど、もうあふれ出て止まらなくなった。

 そして、サンスマイルの松浦さん、楽天堂と出会う。今までの苦労が報われる。
 豆の将来は?「みなさんにお任せします。」と。そう。私達もわかっている。「日本人は頭がいいし、工夫もするから、農薬や化学物質もよく使い、国をだめにしてしまった。でも、大丈夫。頭がいいし、工夫もするから復元する方法も必ず日本人は持っている。それは、同じ志をもった若い農家であり、サンスマイルであり、楽天堂であり、消費者である。」3回目、涙が出そうになったけど、もうあふれることはなく、お話が終わった後は希望に満ちた気持ちだったなあ。

 もう、昨日はいっぱい、いっぱいで眠れなかったくらい。
秋葉さんの大きさや深さ、折笠さんの大らかなユーモアは、会ってみないと伝わらなくて、ほんとうにみなさんも触れられる機会があったらいいな。


Open the door, please. 高島 無々々 (たかしま むー)

 豆ランチパーティーの参加者の皆さんはあの時に語られた言葉、場面の数々を現在進行形で反芻しているところでしょう。僕も折にふれて思い出しては咀嚼しています。

 僕にとって最も印象的だったのは、自己紹介でヒサコさんがガンの闘病体験を語り、その後、抗ガン剤も止め病院にも行かず、自然食にして5年生き延び、こんな体では結婚できないだろうと思っていたけれどカレができて今、一緒にカフェを始めたところだと続けた時――

 秋場さんがあのにこやかな豆顔で「開き直りですね」と言い折笠さんがじゃがいも顔で「よかったね。こう、光がさしてるようだよ」とやさしく冗談めかして語ったときに胸にきました。

 開き直り・・・この言葉の意味するところを改めて教えられたように思います。以前メーリングリストでも言及したフランクルの対談集にも「幸福への扉は、外に向かって開く」というキェルケゴールの言葉が引用されていました。内に向かって、自我へ、自我へ、では生の充足は得られないのでしょう。

 豆ランチパーティーとはどのような場なのだろうかとよく自問自答します。持ち寄りの料理をテーブルに並べる。自己を語る。それは自我の絶対的な世界が相対化されてしまう瞬間です。でも料理が他の参加者によって味わわれ、話が耳を澄ませて聴かれると、ひとつひとつの料理、一人一人の人生が、他とは置き換えのできないかけがえのないものとして共有されるのです。そこでは情報や知識、人脈の多寡が競い合われ優劣がつけられることはありません。

 とは言え30人規模のパーティーの準備と後かたづけの労力、金銭的には常に持ち出しになること(はじめから儲けようとは思っていないのですが)、当日になってキャンセルが続くと残念に感じてしまう自分の気持ちetc.豆ランチパーティーの主催者にとって、“犠牲”無きにしもあらずです。

 そのような群雲が心に浮かぶと、佐藤初女さんの著書に書かれていたカトリックの神父の言葉を思い起こします。「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う」
 豆料理を、人生を味わう、分かち合う、日々の生活では体験することのない(少ない)空間に浸り人間が自分を越えようとする瞬間に立ち会う――犠牲とは美の創造と裏表なのではと思い至りました。


京都への旅  鈴木 宏子 (すずき ひろこ)

 去る3月12日、朝4時半、夫(宣仁)は起きて畑へ、ブロッコリーとカリフラワーの収穫に。聖はまだ夢の途中。私はしばらくぼおっとしたあとようやく体が動きはじめる。

 今回、京都の楽天堂(豆屋さん)主催の豆ランチパーティーへ三人で行けることになりました。北海道から無農薬無肥料の豆の生産者、秋場和弥さん、じゃがいも生産者の折笠秀勝さん、秋場さんの豆の総販売元で埼玉のサンスマイル(自然食品店)の松浦智紀さんが来られます。私と聖は、9月の北海道研修ツアー以来の再会です。

 少々あせりながら豆ランチパーティの持ちよりの一品に、と入野の田んぼの玄米に炒った大豆(私の畑でやっと収穫できたもの)を入れてごはんを炊き、大根葉をゆでてきざんで、あげとごまを加えてフライパンで炒って混ぜる。(『自然派クッキングノート』からアレンジ)宣仁さんが畑から収穫してきたブロッコリーとカリフラワーは塩蒸しにしてできあがり。

 早々に家を出たのが6時45分。間に合うかしら・・・母を託老所に送り、車を駅の近くの種屋さんに置かせていただいて急ぎ新幹線に乗る。予定より速い。こだまでゆっくり京都への親子三人旅。ほっとする。

 京都駅から山陰線で円町まで行き、地図を頼りに会場につく。パン工房〜農〜の千里さんや、京都でくらすことにした去年のひかり農園の研修生の森君も無事到着。静かな路地のおちついた木のつくりの介護ショップvifという所の二階の板の間で、秋場さんの35年の歩みをうかがったのでした。

 う〜んこの信念の強さ、確かさはどこから来るのでしょう。
 自分のことより周囲の農家の方たちや自然農法の仲間のために走りまわり、身を粉にしつつ、自らは父とともに無肥料栽培を守り続けて苦労の連続、離農の一歩手前まで行かれたとのこと。それでも恩師の教えに従って一筋に歩き続けたとき、人と人との必要な出会いが次々とつながってその絆が深まり、世界が開けたとのこと。

 家族の方(おつれ合いは酒蔵の娘さんだったそうです。こどもたちも4人。)も大変だったでしょうが、そのスクラムがすごいです。生まれた時から将来健康に関わることをやるんだろうなと、運命的なものを感じておられたのですね。

 そして今、花開くことができたのは、キーワードは健康とのこと。
 思ったときにそれがやれるからだと、そのためにたてた経営計画の要は「豆」。豆を輪作体系に入れれば、無肥料でもできるとの確信をもたれたとのこと。そのためには、豆の売り先(食べる人)と豆科の植物を益草として(雑草でなく)を使う方法の確立が必要でした。そして今、無肥料自然農法を父の代から55年夫婦で今年30年目。自然の力をどうやったら引き出せるか実験し続けて、土地を活性化させる方法もわかり、今後は若い(!?)人たちに伝えていくことも使命とされています。

 まだまだ話は続きますが、ひとまず終わりましょう。
 お話の途中での、豆ランチパーティは圧巻でした。銀手亡豆を使った料理はもちろん、金時豆、ひよこ豆、大豆、黒豆、あずき、花豆?大福寺納豆まで、スープやマリネ、お菓子、そして野草や野菜、穀物料理の豊かさ・・・。

 秋場さんたちもとても喜ばれて、「女房にも食べさせてやりたい」とのことでした。私も銀手亡豆のベイクトビーンズやココナツミルク煮、金時豆とひよこ豆のインディアンチリビーンズなどおいしくてびっくりの連続でした。すばらしい豆と野菜と穀物の世界。私も料理上手になってみなさんに食べてほしい。

 毎週水曜日のお昼は、ひかり農園でもささやかな豆ランチをみんなでいただいています(腕はまだまだですが)。収穫や野菜の整理や畑の作業のあとのおいしいランチは最高です。もちよりも大歓迎ですよ。

 旅のあと、私は見るもの感じるもの新鮮で、自然の移り変わりの美しさを感じ、心に何かが満ちてくるようです。私も何かしなければ・・・と気がひきしまる思いです。宣仁さんは逆に緊張つづきの日常からひととき離れて立ち止まり、先人の話に耳を傾け、これからの生き方を見つめる旅の途中、今年最初の風邪を引きました。京都の寒さか(浜松も寒かった!)おかげさまで体も心もゆるんで春にそなえているようです。聖はと言えばこどもたち同士(と森くんも途中から)でずーっと楽しく遊び惚けていました。

エチオピア・エッセイ (4)
 
ストリート チルドレン 中森 千尋(なかもり ちひろ)


 エチオピアの首都アジスアベバには、ピアッサ地区という国内随一の繁華街がある。多くの安宿が立ち並び、エチオピア料理のレストラン、銀行や貴金属店、土産物屋や官庁が立ち並ぶ。こうした表通りから一本入ると、安宿と肩を寄せるように、トタン屋根と土壁の家がたちならぶ。コーヒー豆を煎る煙がのぼり、エチオピア料理に使われる香辛料の匂いがたちこめ、狭い路地で、ぼろ布を丸めたボールでサッカーに興じる子供達の嬉々とした声が聞こえてくる。

 ムルカンは今日も家の軒下で、拾ってきたマットレスを敷いて寝ていた。いわゆるストリートチルドレンである。唯一もっている赤いシャツと黒い綿パンツにぼろぼろのスニーカーという出で立ちで、今日も「チヒロ!元気かい?」と声をかけてくる。そもそもムルカンとは、僕がアジスアベバについて3日目に出会っていた。流暢な英語を話し、「コーヒーをおごるよ」とか「アジスアベバを案内するよ」などといいながら近づいてくるので、彼もまた旅行者相手にお金を騙しとろうとするドリエたち(アムハラ語で不良の意)だと決めつけ、最初は全く相手にしていなかった。

 ところが、安宿の前でいつも他の若者とたむろし、毎日あてもなくぶらぶらしている彼と、毎日二言三言会話を交わしているうちに、少しずつ彼に対する疑念が解けてきた。というより、彼を通してストリートチルドレンたちが語る将来の夢を聞いたり、それを叶えうるはずのないどうしようもない厳しい現実への苦悩や運命を見たりしながら、シェコ族とはまた異なる世界の片隅で起きている人間のギリギリの生活に興味を抱くようになっていたのである。彼らの生活に目をつぶりながら避けてエチオピアを過ごすことも可能だったかもしれない。実際お金の貸し借りや、仲間同士の絶えないいざこざなど、面倒なことに首をつっこまなければならないことも多々あった。けれども、それでは、旅行本が繰り返し放つ、「豊かな自然と陽気で屈託のないアフリカ」という筋書きに僕自身の旅が収束してしまう。ストリートチルドレンとの付き合いを通して、決してメディアには登場し得ない領域に踏み込んで、関わっていかなければ、本当のアフリカは理解できないんだと思い直したのである。

 ピアッサ地区の安宿街にたむろして路上で生活するエチオピア人の若者/ストリートチルドレンはおよそ30人ほどいて、そのほとんどが地方出身者である。ムルカンも首都から600キロも離れた南部の街アルバミンチの出身である。彼の人生は二転三転していた。医者を父にもつ彼は富裕な少年時代を過ごしていた。学校まで毎日車で送り迎えしてもらい、「勉強がすきだ」というムルカンは抜群の成績で中学生を過ごしていた。ところが、そこから彼の順調な人生の歯車が狂い始めたのである。高校に入る直前医者の父が急死してしまうのだ。ムルカンの母親は、彼を産んでからすぐに死亡していたので、兄弟のいない彼は文字通り孤児になってしまった。父の遺産は親戚に不当に相続され、彼は裸一貫になったのである。カメラに興味があった彼は将来ジャーナリストになってエチオピアの文化を世界に紹介したいという夢をよく語ってくれた。だが突如として教育をうけるお金はおろか、明日食べるお金すらなくなってしまったのである。

 アルバミンチは、エチオピア南部に住む多様な民族が集まる大きな街で、温暖な気候と、湖からとれる良質な淡水魚や果物の産地で、旅行者がよく訪れる人気スポットだ。ムルカンの生活はこうした旅行者相手に話しかけてガイドをしたり、果物を売りながら日銭を稼ぐというシビアな現実に一変してしまった。アルバミンチにいるムルカンの親族は自分の家族を養うのが手一杯なので、彼を養うほどの経済力はない。たまにご飯を分けてもらったり、雨しのぎに滞在するも、ムルカンが行く度に「いやな顔」をされるので、彼は自主的に親族に関わらないようにしているという。

 クリスチャンである彼は、アルバミンチの生活を振り返りながら、神への信仰が厚いエチオピア人の口からおよそ聞けない言葉をもらした。
 「運良くガイドとして雇ってもらえると、シャワーを浴びてベッドで寝れるんだ。そのときはインジェラ(エチオピアの主食)をたらふく食べてやるんだ。でも、すぐにまた路上で寝なくてはいけない。よく『なんで俺は生まれてきたんだろう。』と考えたこともあったよ。なあ、チヒロ。神は本当にいると思うかい?神に祈ったって何が変わるというんだい?神が何をしてくれるというんだい?祈ってお金が空から降って来るのかい?ここでの生活はミーニングレスさ。こんなことをいうと自分のプライドが傷つくからいいたくないけど、チヒロはとてもラッキーだよ。本当にラッキーさ。俺だって海外に行って、いろんな文化を見たいよ。だけど一生お金を貯めたってそんなこと自力じゃできやしないんだ。」

 ムルカンは5年ほど前に、チャンスを求めて首都アジスアベバにやってきた。ピアッサには旅行者が多く集まるし、仕事にもつけるかもしれない。そしてなによりエチオピア国内で唯一、カメラとビデオの専門学校「Tom」があるからだ。 

 一食4ブル(50円)という物価のアジスアベバで、市場で重い野菜の束をトラックから朝から晩まで運搬するという重労働で得られる日給はたったの8ブル(100円)である。一日二食たべてしまえば、あとは部屋を借りるお金も服を買うお金もない。結局路上で寝ざるをえない。こうした厳しい現実に直面したストリートチルドレンたちは、自分の生活を立てるために、ときには大麻を旅行者に売るという違法な商売にも手を染めることになる。大麻を販売すれば一回で300ブル(4000円)という額が手に入るからだ。もしかしたら、夢の「Tom」の入学金と授業料を払えるかもしれないのである。だがしかし、ピアッサにおける大麻販売はつねに警察が目を光らせている。実際、ムルカンは3年前、大麻販売のカドで投獄されていた。新聞やニュースは、「またストリートチルドレンが違法な商売に手を染めていた」と囃し立て、「彼らには関わるな」というレッテルを貼る。でも自力で生活するにはそうせざるを得ない。なんとも皮肉な悪循環である。

 ピアッサでたむろしているストリートチルドレンたちは、最初みな冗談をいいあい、気心おける友人にみえた。が、ムルカンが「ピアッサでたまっている奴らに本当の友達はいない」と漏らしていたのは印象的であった。旅行者のガイドとなれるかどうか、大麻を販売できるかどうかは、ストリートチルドレンひとりひとりの力量にかかっている。だから彼らは互いに牽制し合いながらテリトリーをもつ競合関係にある。「結局人が助けてくれるのを待っていたら自分は生きていけないんだ。信じることができるのは自分だけなんだよ。ほかのストリートチルドレンをだましてでも現金を得なければいけないんだ」とムルカンはいう。それでも、本当にどうしようもない時、彼は申し訳なさそうに「いや、今日は旅行者もいなくてさんざんだったよ。」とはにかみながら僕の投宿先にやってくる。そんなときは部屋に招いて床の上で寝袋を渡し寝てもらっていた。アルバミンチ時代の旅行者がつかまらない失敗談や、フランス人の女の子に恋をしてしまった顛末、警察につかまりそうになりパトカーに追われながら10キロも走って逃げた武勇伝など、彼は身振り手振りでモノマネを交え実演しながら話す姿に僕はいつも爆笑させられた。彼の話の中には、生々しいむき出しのエチオピアが含まれている。市役所の役人や、アジスアベバ大学の教授の口からは決してもれることのない、すっぱだかのエチオピアを教えてくれるのだ。

ムルカンと筆者

 「チヒロ、いま俺はとても幸せだ。いままで部屋にまで入れてくれる外国人なんて会ったことがないよ。おまえは特別さ。こうして飯までおごってくれて寝床も用意してくれてるんだ。でも嬉しいのはお金じゃなくて今、チヒロは俺のことを信頼してくれたから部屋に入れてくれたんだろう?その信頼が嬉しいんだ。」

 僕はエチオピアを発つ直前に彼に一年間の「Tom」の授業料を払った。ムルカンは今も路上で寝ながら昼はカメラマンを夢見て学校に通っている。「かわいそうなストリートチルドレンを助けてあげて」と同情を誘うような世界メディアの文句にたいして僕がムルカンと付き合って得たストリートチルドレンのイメージは、「生きる」ということに対してシビアに向き合う姿と、でもその気苦労をすべて肯定し笑い飛ばすような懐の深さ、という人間の根源的な強さみたいなものを見せつけられた気がした。そして彼らが本当に欲しかったのは、お金ではなくて、案外他愛のない気心しれた友達なのかもしれないなとも思ったのである。

『波照間、今ここパラダイス』 (3)
照る波の間にまに PooL オガワ知子(おがわ ともこ)



 2005年6月14日、梅雨の真っただ中、石垣島からジェットコースターのように揺れる船で1時間半、波照間島に到着しました。素泊まり一泊2千円のドミトリーの宿に泊まり、波照間での生活がはじまりました。

 波照間に来る旅行者は、たいてい自転車で島を一周したり、海へ出かけたり、星空観測センターへ出かけたりするのですが、私は「波照間に旅行に来たのではない、暮らす為に来たのだから、さぁ暮らしましょう。」と毎日、宿の自炊室で料理をしたり、洗濯や掃除をしたり、自分に割り当てられた1.5畳ほどのスペースをしつらえたりしながら、淡々と暮らすことをただ純粋に楽しんでいました。

 もちろん、いくら一泊2千円とはいえ、ずっと宿で暮らせる程の経済的余裕はありませんから、長期滞在で安く借りれる家を、翌日からさっそく探しに出かけました。

 波照間に行こうと決めたときから「アトリエも兼ねれるようなフローリング付きで、和室もあって、キッチン付きの小さめのお部屋がいいな」とか「エーゲ海の島々によくある白壁にブルーの扉の付いた小屋のような家」とか好き勝手なイメージを克明に描いて、お空にリクエストを飛ばしていたのでした。

 まず役場の出張所に出かけて聞いてみたところ「借りれる家はまずないと思いますよ。」と言われ、何件かの飲食店でも尋ねてみましたが、「島の人でも家がなくて困ってるくらいなのに、そんなふらっと来た旅行者が借りれるわけないだろう」と言われ、どこへいっても「あはは、無理無理」という感じでした。延泊延泊で、あっという間に5日間が過ぎ、「このまま見つからなかったら、後2週間程でお金も無くなるし帰らないといけなくなるなぁ。家を借りてアルバイトしながら3〜4ヶ月は滞在しよう!と思い描いて来たのに・・・甘かったのかなぁ。」とだんだん心細くなってきました。

 でもどこか静かな気持ちで「きっと見つかる」と信じているところもありました。家を探していることを島の人にせっせと伝えつつ、宿での「生活」を楽しみながら、朝に夕にお空に向かって「素敵な家が見つかりまして、ありがとうございます!」と先取り感謝を毎日つづけておりました。

 そうしたらですね、ナント滞在6日目の夜に、貸してもらえる家が見つかったのです。着いて3日目に友達になった加那ちゃん(奈良から波照間にお嫁に来たという女の子)から連絡があり、「隣の家のおじいさんの離れがどうも空いているようだったから、ちょっと聞いてみたら、『いいよ連れておいで』って!」さっそく行ってみたら、驚いた事に「4.5畳のフローリングにベッド付き、3畳の和室と2畳のキッチン、そして専用のトイレとシャワールームまでついた新築の小さな離れ」だったのでした。しかも外壁は白くて木戸がブルー…。普段から結構、不思議体験に馴れている私も、このときばかりは余りのことにクラクラきました。

 2ヶ月の約束でさっそく翌日から入居。ガス水道電気代込みで月2万円でいいとのこと。その家は、一人暮らしのおじいさんの家の離れで、「冷蔵庫は母屋の台所にあるから一緒に使ったらいいし、中にある食材も好きに使っていいよ。ご飯も炊飯器に炊いているから自由に食べたらいいさぁね。」とのこと。 「それって、つまりご飯付きで2万円???もう、わけがわからないよ〜」と思いながらもひたすら「ありがとうございます」とおじいさんとお空に感謝して、いよいよ波照間暮らしが本格的に始まりました。

 波照間の空気はさわやかで柔らかです。日中は日差しが強いけれど、日陰にさえいれば、風がさーっと吹き抜けて、京都の夏より過ごし易いと感じる程でした。

 波照間の人は誰も家に鍵をかけないそうです。「島に泥棒なんていないからねぇ〜」と。家は開けっ放し、車は鍵付けっぱなし。こんなに安心して暮らせるっていいですね。

 また、島の人はみんな、毎日かならず午後のお昼寝をするのです。その時間は島に数軒ある集落ごとの何でも屋さん(パン屋さんとか電気屋さんとかいう専門店はありません)も食堂も、しーんと閉まっています。大人がみんな毎日お昼寝してるなんて、とても素敵なことだと思います。私は「おひるねカフェ」など創って、大人のお昼寝時間を提案したりしていたけれど、ここでは当たり前の暮らしの中にそれがある・・・。柔らかな衝撃でした。

 ところでお昼寝といえば、波照間に着いてはじめて海に行った日、浜の木陰でお昼寝をしようとしたのに、どうも気持ちがわさわさして落ち着かず、全然眠れないということがありました。

 静かな浜辺に私一人、お天気もいいし、お昼寝には最高のシチュエーションなのにどうして・・・?と思った時、ふと自分のからだに緊張があることに気づき、はっとしました。

 以前『乳母車カフェ』で子守歌のコースをしていた時、受けられた男の方が「今日、子守歌を聴きいて、自分のカラダの緊張に気づきました」と言われた事を思い出し、「あれと同じだ!」と思いました。

 波照間の浜辺の柔らかく溶けるような緩やかな空気に包まれて、普段気づいていない自分の緊張に気づけたのでした。そのことを受けとめたら、不思議な事にすぅーっと深く眠れました。目が覚めた時、カラダの緊張は消えていて、波照間の空気とチューニングが合っていました。その日から、風が吹いただけでしあわせを感じるようになりました。

 さて、家が見つかったので「次は仕事を探しましょう」と、また役場の出張所や、デイサービスセンター、飲食店と回りましたが、どこも仕事はないとのこと。5〜6軒ほど回って断られた時、パチンと頭の中でチャンネルが切り替わる音がして、ふいに愉快な気持ちがこみ上げてきたのでした。「ははーん。これは安易にアルバイトを捜すな、ということなのかも。私は常々『自分の持っている能力で仕事を創り出して食べていけるようになりたい!』と思いながら、街に暮らしていれば、いくらでもアルバイトなんてあるものだから、ついつい安易に(?)働いてしまっていた。けれど、ここではそうはいかない。これはもしかしたら今までの自分を越えるチャンスかも!」

 さっそく家に戻り、この島で何を創り出して収入を得る事が出来るだろうか?誰を対象に?と考え始めました。まず「観光」そして「おみやげ」が浮かび、そういえば「波照間」と書いてあるTシャツやポストカードはあるけど、それって言ってみれば、ただの文字、もっと波照間らしさが感じられるような何かを創れないかな?と考え、「じゃあ、いったい波照間らしさって何だろう?波照間ってこれといって観光名所があるわけでも無い。日本最南端ということのほかは、海がきれいで星がきれいというぐらい。それなのに結構人気があって旅行者が年間通して訪れるらしい。皆何に惹かれて来るんだろう?私は何に惹かれて来たんだろう?みんなは、そして私はこの島に来て何を感じているんだろう?」と自分自身に問いかけたら、この島には『これ』と言葉ではっきりと伝えにくい魅力が確かにあるな、と思ったのです。その目に見えない、言葉にしにくい『何か』をカタチにして、波照間を訪ねて来た人々に提供できないだろうか・・・。その夜はその想いを胸に眠りました。

 次の朝、目が覚めたら、何かココロに「!」と感じるものがあり、さっそく絵の具とポストカードサイズの画用紙を持ち、浜に出かけました。

 波照間の私の一番お気に入りの場所は、浜の一番奥にある『神様みたいな木の下』です。そして浜に出かけると必ずそこに自分のお部屋を作っていました。浜でのお部屋の作り方は、砂浜に打ち上げられた海藻や貝殻、流木やゴミをきれいに取り除き、白い砂だけにして、木陰にお昼寝用の布を広げて出来上がりです。海岸はお掃除するだけで「庭」になります。そこに布を広げると「お部屋」になります。

 木陰のお部屋が出来上がると、水筒に入れて来たお水をグラスに注ぎ、持って来たお菓子やおにぎりを並べてお供えをし、神様の木に向かって「今日もここで素敵な時間と空間を過ごさせていただき、ありがとうございます」とお礼を言います。そうしてから「いただきます」をしてお水をいただき、おにぎりやお菓子をいただきます。これは波照間に来てから、私の中で自然と生まれた儀式のようなものでした。別に誰に見られる事もなく、いつも私がただ感じる島の自然の神様と一緒にそれを楽しんでいたというだけの、おままごとみたいな儀式です。

 後はごろんと横になって、きらきらと光る波を眺めます。仰向けになると神様の木の葉っぱがお日様の光で黄緑色に透けて風に揺れています。梅雨の明けた波照間の風は本当に爽やかです。あんまり気持ちが良くて、ついうとうとしてしまいます。浜辺には見渡す限り誰もいません。しずかです。このしあわせな空気の中で、2枚のカードが生まれました。

 「ひかるなみのまにまに」というタイトルの光る波の絵のカードと、「神様みたいな木の下で うたうたと うたたねをいたしました」という言葉を添えた、木漏れ日の絵のカード。その日その後、続けて3枚のカードを制作しました。「さわさわと さとうきびが ただ風にゆれている」「あの海の向こうに あの空の向こうに」「てんてんてんと まんてんのほし 月に座りましょう ぽし」

 出来上がった5枚のカードを眺めながら、さぁこれをどうやって商品にしたらいいものか、どこで売ったらいいものか、悩んだ末、波照間にとてもお洒落な感じで手作りのアイスクリームを出したり、素敵な雑貨も扱っているお店があるので、そこの奥さんに相談してみようと持って行ってみました。

 そうしたらナント「これウチから出さない?」とおっしゃるではありませんか。つまり、私には最初にデザイン料をくださり、お店の方で印刷をかけ、商品化して販売していただけるというのです。私は在庫を抱えずともよく、商品が欲しければ原価で分けていただけ、お店の方で増刷する時にはその度にデザイン料をくださるという、好条件で・・・。

 あまりの展開の速さと有り難さに、またもや狐につままれたような気持ちになりながら、奥さんとお空に向かって「ありがとうございます」と深く感謝したのでした。

           「ひかるなみのまにまに」

        波照間のなにげない 日常の中に
        やわらかな やさしい空気の中に
       私たちを コトンと シンプルなところに
       戻してくれる何かがあるような気がして
            耳を澄ますように
         カラダとココロを澄ましてみる
       揺れる音の波間に 照る波の間にまに

PooLポストカードその1 PooLポストカードその2 PooLポストカードその1


編集部より:POOL「ひかるなみのまにまに」ポストカード1枚150円・5枚セット(封筒入り)600円 楽天堂で扱っています。

はるかのセックス考
 
大関 はるか (おおぜき はるか)


 人生で他者と交わるという意味でのセックスを経験してからは、まだ8年ちょいのはるかが、セックスについて、まだ女性としてはぺーぺーですが、現時点での考えを記しておきます。これは、はるかの○○考がいつもそうであるように、いろんな人の影響や自分の体験に基づくものであって、つながっているすべてに感謝しています。

 今回は私のセックスに対する考え方を大きく三つだけあげることにします。1:避妊をする 2:両性の合意の元で行われる行為 3:性交つまり生きた心が交わっていること

1:避妊をする
 1)まず、相手が誰であれ、赤ちゃんを産む支度ができていないうちは、(100%の避妊方法なんてないってわかっているけれど)とにかく避妊はしようと考えています。その理由は、セックスは生殖行為としての役目も果たすわけだから、両親(あるいは母親)になる支度ができていないなら、それの回避。2)それから性病や感染病の防止。3)それに、女の子にとっては、彼が自分をどれだけ想っているかを量るバロメーターのようなもの。

 1)親になる支度ができているかどうかを書いたけど、もう少し突っ込んで書けば、産む意思はある。母子に縁があれば、産むことを選択するだろうと思う。(夫婦やパートナーに縁がなかったとしても、それが赤ちゃんを産まないという理由にはならない。)母親になるための準備なんて、終わりがないに等しいんだろうから、縁があれば、それは「この存在(その子)でもって、自分は成長させてもらうのだ」位の心構えはすでにある。むしろ、わたしは今、まだおかーさんになるための準備期間を過ごしていたいの。(自分を高めることを貪欲にしていたい)だから、余計に避妊をする必要があるの。

 2)旅に出るときは、必ずコンドームを持つ。それはバンソウコウを持っていくのと同じ感覚で。使わないことも多いにあろうが、自分自身と時に自分の友達を守るのにどうしたって必要不可欠なもの。あれば楽しくなり得るもの。

 何年か前に大嫌いな注射(採血)をする機会があって、その時に先生に「お願いだからついでにエイズ検査もして」と言いました。「保険所ですればタダですよ。」と言われたけれど、大嫌いな注射をしにわざわざ自分から足を運ぶはずがないと、お願いしました。外国人とセックスをしたときに、最初に「僕はエイズはマイナスですよ。」と言われた。「えっ?」と思ったけど、それに対して「私はどうか」を答えられないのは変な感じがした。以来、検査をする必要があると思った。エイズについての知識を得れば得るほどそう思っていた。「これで若いカップルに『一緒にエイズ検査に行っておいでー』と言える様になった!」と、その時喜んだのを覚えている。

 3) 世には、ナチュラルという言葉を履き違えたヤツもいて、「自然志向」の人間の中にたまに見られる。「セックスに避妊なんて不自然だよ。」って??「ふざけるなぁ!」ガクッと思います。後先考えずに避妊をしない(自分中心)のか、それとも「避妊をしなかったせいで(生理が遅れたときとか)不安に思う瞬間を後に彼女に与えるかもしれない」という想像力があるかという、この違いは大きい。

 ちなみに性の先進国と言われているデンマークでは、日本より避妊に対してオープンで、当然とされていました。コンドームが学校の自販機で、ビールやチョコレートと同じ列に並んで売られていました。スーパーではレジの横の一番手に取りやすいところに置いてあった。(スウェーデンや他の国でコンドームを探すのが大変なくらいだった。)また、外国人と付き合ったとき、彼はコンドームをお父さんから送ってもらっていた。ドイツのこの会社のは確かな製品だからと。それはお父さんの息子に対してする当然の役目だと、彼の国ではそういうことらしい。他の国では聞かないかなりめずらしいケースだと思うけど。(ちなみにその国では婚前交渉がいまだに不純だとされているため、20歳になるときに、お父さんが連れて行ってくれるのは娼婦のいる店だと言っていた。そうして教えてもらっておく必要があるのだと。大人に実際行為を教えてもらうという意味で昔の日本人と似ていると思った。)

 避妊の知識や必要性や付き合い方を、もっとオープンに早い段階で知るきっかけがあってもいいと思う。

 2:両性の合意の下で行われる行為
 「やったし付き合う」とか、「付き合ってるし当然やる」とか、日本人の若者には結構ありがち。セックスは両性の合意(お互いが求める気持ち)の下に展開されるべきもの。それに気づいたのは、付き合ってた人からその都度、「よいか?」と聞かれてから。

 付き合っていても、そのたびそのたび、お互いが求め合って行き着いているのか、暗黙の了解でこのパターンではそういうことになっていると相場が決まっているのか。

 極論を言えば、お互いが求め合っていれば、それぞれに別の相手がいようがいまいが、それでもいいではないかということになる。乱暴な言い方になるのを承知で言うと、法的に犯罪扱いとなる強姦行為も、長い付き合いでその気もないのに相手の処理(失礼)につき合わされている場合も、構造としては、あるいはエネルギーの流れ方で言ったら、同じ構造ではないか。精神的肉体的苦痛を伴う無理強いという意味で。

 誤解を招くのを恐れずに、まだ乱暴な言い方を続ければ、性産業においても、客と店員(?)が、お互いを求めているならいい。逆に言えば、金のためと言えどもイヤなヤツとするのは苦しい。(断る権利があればいいのにと思ってしまう。)一方、「私の実力で、このひどく肩に力の入ったストレスフルな男が、あるいは感情が引きこもった男が、解放されていることに、私は自分の役割として喜びを感じる」くらいのスタンスで金を稼いでいるなら、それはそれでいいのかもしれないと思うわけ。

 これまでに経験した中で極端な例をあげると、その日初めて知り合った人と友達と川の字になって寝たときに、その初めて知り合った人が、夜中に突然私を求めてきた。普通だったら「襲われた」という風に解釈して、「きゃぁ〜っ」となるところだろうけれど、私はむしろ「今彼氏いないし。昼間全然そんな気を感じなかったし、真面目の塊にみえたけど、そっちがその気ならまぁ受けて立とう!」と、他の人が寝ている中で無言で行為が始まった。それで途中で「はるかゴムないと無理やし」って言ったら、その人は「えっ?これ現実??」と驚いて飛び起きた。ひどくショックなようだった。その人は、夢のできごとだと思っていたらしい。翌朝、私は彼が何かに押さえつけられて日常を送っているように感じたこと。それが出てきたがってるのじゃないかと思うこと。を話した。しばらく事象を共有した。これも両性の合意の極端な例です。

 私も以前は、「こういう関係になったし付き合うかもなー」と考えたりしたことがあったけど、その後、デンマーク人の恋愛観の影響を結構受けた。デンマークの友人たちは、とても魅力的なのに「ホンモノに出会わない限りは恋人同士にならない」と、フリーの人が多い。フリーの人だって、おいしいものを食べるように、楽しいセックスもしたい。週末のパーティでいい人がいたらそうなる。もちろん避妊はして。お互いが求めたらの話。その代わりホンモノを見つけた日には、他には目もくれない。加えて、これはホンモノじゃないと気づいたら、その気持ちに従う。

 セックスは両性の合意(別に性別は一種類でもいいんだけど、慣れ親しんだ言葉を拝借)の下で行われるのであれば、存分に楽しめるだろうし、深みも厚さも奥行きも濃さも高さも果てがない可能性があるだろうと思っています。ついでに言うと、しばしば女に生まれてよかったと思う。自分を解放することができる相手とであれば、男よりも女の方が快感が多様で複雑でおもしろいものになるんじゃないかと思うわけ。男になったことないから、これは予測でしかないんだけど。

 3:性交つまり生きた心が交わっていること
 セックスって、大きく分けると3分類にできると解釈してきた。英語でしか表現できないけれど、1) To have sex2) To make love 3) To share energy 1) セックスする。は、どちらかというと動物的。欲求的。物理的な行為そのもの。2)メイクラブは、そこ(二人の間)に愛があって、愛を表現する究極な方法のひとつ。3) エネルギーの交流は、そういうのを体験したときに、こういう言葉で表現するしかない!と思った。お互いのからだをエネルギーがぐるぐる回る状態と言おうか。そこに究極の愛がなくても可能。もちろんあっても可能。初めて経験したときは、びっくりしたけれど、経験してからは、別にセックスという形をとらなくても、エネルギーの交流は可能だし、日常的に起きていることが理解できた。(そういえば、この経験を初めてしたときは、その人は瞑想やヨガをしている人だったんだけれど、精子をすごく大事にしていた。なるべく出さないようにしていて、出した時は、それを大事に土に還していた。)

 〈3歳からの性教育〉というセミナーを受けたときに、講師の先生が「日本語の性交という字は、りっしんべん(心)に生きる。そして交わる。だから、心が生きて交わる/生きた心が交わる行為と捉えることができます。」と言っていた。さすが日本語!英語で3分類にして考えてきたけれど、なんや日本語がめっちゃいいやんけ。

 大学生の男の子に「めっちゃ好きな彼女とのセックスが、マンネリ化してるせいかなかなか気が進みません。どうしたらいいでしょう?」等と聞かれることがある。私は「セックスは布団の中で始まるのではないよ。」と答える。昼間どこかに行ったり、ごはんを食べたりしているときから、もうセックスのようなものは始まっていると思うわけ。友達といる時にさんざんコケにされてて(冗談であっても)、布団に入っていきなりセックスするなんて、特に女は無理だと思うの。自分がどれだけ愛されているかとか、一緒にいて本当に楽しいとか、やきもちをやくとかやかれるとか、一緒に食べるとおいしいとか、そういうたくさんの方法で心の交流をして、それでもなお求めてセックスするから、相手にもっと快感を味わってほしいとか、身体が邪魔だと思うほどひとつになる方法はないかとか、そういう欲求が強くなるのだと思う。たった一回きりのセックスなら、to have sexでもいいかもしれないけれど、だいすきな人とするなら、その人との一日が始まるときから、ケンカの後の仲直りのときから、電話での会話から、もう心の交わり(性交)は始まっていると捉えられるわけ。だから逆に、心が通わなくなっているのに、セックスをするのは、とってもとってもつらいんだよね。セックスがしんどいなら、心があまり通ってないとも考えられる。心と身体がつながっていると考えるから、これはよいサインだと思う。相手や自分自身と向き合うためのサインでもある。

 私にはなかなかできないことですが、セックスのほかに音楽もわかりやすい。私がマネージャーをしているSOUTHという民族楽器の即興音楽をするユニットは、同じ音楽は二度とできません。それは、その場やそこにいる人やそこの空気から受けるものを音に変えて還していく作業をするからです。だから、ライブをする場所は、幼稚園でもお寺でもクラブハウスでもオーガニックレストランでもいいわけです。そして、子どもにもお年寄りにもテクノ好きの若者にも自然志向の若い夫婦にも喜ばれるわけです。

 京都に来て毎週末の様に通っていたレゲエバーは、流行の曲を流す若いDJの時は、それを知ってる若者はおおはしゃぎをするけれど、それに疎い私はピンとこない。いかにもジャマイカンな外国人が外国語を叫ぶとレゲエな風貌の若者は喜ぶけれど、仕事帰りの私はうるさいなーと思う。レゲエをよく知らない私が、そこに通っていたのは、あるDJの時は、なぜかいつも気持ちイイと気づいたから。その人は、いつも同じ種類の音を選んでいるわけじゃないのに、でもなぜかいつも心地よい。それは、そのDJが本来のDJの役割を果たせていたからなんだろうと思う。その場の雰囲気を受け取って、次の曲を決める。

 本来は、ごはんを作る側と食べる側、何かを教える側と教えられる側など、相手が欲しているものや、そこに存在しているリズム(波動という方がわかりやすい人もいるのかしら。)の様なものを感じられると、お互いが気持ちのよいやりとりをできるのだろうな。と思います。セックスそのものから話がそれてしまったけれど、私にはまったく同じことに思えるのです。経験や理論は、重要なことだけれど、同じくらい感覚(生きた心)が要になっているんです。

 最後に、性についてオープンになる素地を作ったのはなんだろうと思った。ひとつあげるなら、『そのまんまの自分がいい』(タイトル定かじゃない)という本が、思春期に置かれていたことかな。これは母が買って見えるところに置いておいてくれたもので、これについて直接の会話は今まで何もないけれど、私は興味深々で、学校では習わない方法で性について学んだと思ってる。「みんな顔が違うように、身体つきも性格も考え方も違う」そんなこと言っても、だいぶ長いこと、自分の背が高いことや、顔が長いことや、目が一重なことや、胸が小さいことや・・・のコンプレックスの塊で、自分なんて大嫌いだと思ってた。19歳のときに、私は生きているだけですばらしい!と思う瞬間を得て以来、アップダウンしながらも、少しずつそう思う瞬間が増えてきたと思う。今もしばしば自己嫌悪に陥るけれど、それでもトータル的には、「そのまんまの自分でまぁいいよ」と。「私もあなたもそのまんまでいいよ、それ以外できないやんか」と思ってる。中身については、いろんな人に支えられながら、まだまだ高めよう!と思ってるとこ。

 記:2年半ほど彼氏がいない状態で、ひとりを謳歌してきたけれど、ごく最近、「これを私にとってのホンモノと言うのではないか!?」と思う人に出逢いました。おかげで私自身大きな変化をしている最中なので、変わらない考えの部分と、多少変化している部分とが混在した形のはるかのセックス考になりました。ほとんどは、25歳までの間にメモしていたことです。


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