第33号2005/12/01


密度のある仕事
―附 豆ランチパーティーの開き方・メモ
 
高島 千晶(たかしま ちあき)


  ロッジ吹上(長野県伊那市)の主・倉田節子さんが、若い頃に内村鑑三を読んで感銘を受けられたことを書きましたが、それは『後世への最大遺物』という本です。短い講演録です。岩波文庫にも入っているとお聞きしました。京都に戻ってきて図書館で全集の一冊を借りて読みました。この本についての節子さんのお話も、伊那から帰って以来、ずっと書きたいなあと思っていたことです。内村鑑三については、また節子さんに話してもらう機会を作るとして、わたしは密度のある仕事について書きたいと思います。というのは、内村鑑三が大事だと強調しているのは、密度のある仕事だと思うからです。

 密度のある仕事、、、この言葉自体は、野口裕之の言葉です。野口裕之は、アメリカ人にとっての理想は若い頃に稼いで40代で引退してあとは浜辺でゆっくりと暮らすというような生活で、つまり、アメリカ人にとっての労働というのはできるだけ早くそこから解放されたい性質のものだけど、日本人にとっては、労働は人生そのもので大切なものであり、そこから解放されたいと願うような性質のものでなかった、というような話をされたことがありました。そうです、西陣に来て、この界隈の商売人や職人には定年など無いことを裕子さんからお聞きしました。

 野口裕之に話を戻すと、自分は「労働」というものが基本的に好きだ、と話されました。しかも密度のある仕事が好きだと。

 それから「癒し」という言葉は嫌いだ、とも。労働して楽しみが得られるのは、それは収穫であって、癒しとは言わないだろう。癒しを求めるということは、労働せずして楽しみを求めるということだと。

 この話と同時にお聞きしたのは、伝統的な着物や木造建築にどれだけの手数、密度ある仕事がこめられているかということ。それに比して、今の工業製品がお手軽であるということ、新聞記事も読む気のしないようなお手軽な文章が多いこと、などなど。

 わたしは、まさにお手軽な仕事のまっただ中にいながらこの話を聞いたので、深く恥じ入りました(野口裕之の整体における仕事の密度を肌で感じたからそう思ったのだと思います)。それが洋服屋を閉めるそもそもの発端でした。今、4歳の息子がお腹にいたときのことで、わたしにとっての密度のある仕事は、まず子育てだと思ったのですが、その子育てを後回しにするほど価値のある(密度ある)仕事を自分が洋服屋でしていると思えなかった。

 その話はともかく、わたしは、今、西陣の外れに住んでいて、精神衛生上すごくいいと思っています。それは、この界隈の人が野口裕之と同様、労働に価値をおいているからだということに最近、気がつきました。骨を折ってなされる仕事に対して価値を見る人に囲まれて暮らすことは、気持ちがいい。

 このところ、東京からの新聞社、テレビ局、それから観光客の方と話をする機会が多くなりました。そして、いつもではないけれど違和感と疲労感を感じることが多くて、なんだろうと思っていました。そして、わかったのは、私を一番にくたびれさせてしまうのは、楽(らく)して手軽に稼ぐ道があると信じられているような空気、苦労せずしてスマートに稼ぐ人が賢いと思われているような空気、労働より情報量を競うような空気ではないかと思えてきました。

 自分たちが当たり前に日々大事にして暮らしている生活(それこそが人生で命であるような)と空気(コミュニティで共有しているもの)、それは守る価値のあるものだとつくづく思います。

 先住民の人が「大地」に対して抱いている価値・信仰を大地と切り離された人々が理解できないで傷つけ損なってしまったと同じことが、今の日本社会で「労働」に対して起こっている気がします。

 それと同じく、人間関係においても、同じようなことが起こっているのでしょう。「骨を折ってなされる仕事に価値を見る人に囲まれて暮らすことは、気持ちがいい」とわたしはさっき書きました。手軽に稼ぐ人が賢いという価値観を持った人に囲まれて暮らすことは、人の心を荒廃させてしまうだろと思います。誰かが骨を折った仕事をしても、そうとわからない人しかそばにいないとしたら、その仕事は続けていくことができないだろう、、、。

 何に価値があるかという共通認識こそが文化なんだと、今さらながら思います。
 今、ありがたいことに、骨を折ってなされた仕事を伝える仕事ができて嬉しい。秋場さんや伊藤さんのお豆を売ることができて嬉しいと思います。ほか、今日先程紹介したみつろうキャンドルにしてもそうだし、フェアトレードの手仕事にしてもそうです。

 密度のある仕事を出発点にしたら、いろんな実体ある共同性が築ける気がします。それこそ新しい文化が。空虚な仕事からはブームしか生まれない。それは一過性で何も残さない、と思います。

〈豆ランチパーティーの開き方・メモ〉 
 ご質問にお答えして改めて書こうとすると、なぜかしら書けないものです。まだ試行錯誤中だからでしょうね。とりとめなく書いてみます。

 まず、『ナナムイびと』第2号(風土社)の写真はいつもより10倍おしゃれです。あれを見た会員が心配してくれました。あそこに自分が加われるという気がしなくなってしまうんじゃない?ああ、とんでもない。いつもは全然おしゃれじゃないのです。子連れでやってくる人も多いのです(子育て真っ最中の私が主催してるのですから)。それに料理だって少ない時はパンとディップとスープだけなのです。あの日は、レシピを紹介して下さいとの事で、撮影用にいっぱい料理を作ったのです。

 藤田さん、このあいだも書いたように、料理が上手でなくちゃできないというのだけは違うことがはっきりしています。わたしがうまくできないもんだから、持ち寄りパーティーは盛り上がったのです。そして持ち寄って文化を生み出すという場にとって、主催者はできないことがたくさんある方がいいのだと思っています。できないということを認められる空気が、手を貸そうという人を集める気がします。そして一人では作り出せない豊かな場ができる。

 人数は15人までが理想でしょうか。20人でも30人でも、時によっては集注したいい場はできるけれど。少ないのは少ないなりにいいと思います。5人とか6人でも。

 一人の人が1時間くらいテーマを決めて話す。参加者も自己紹介をする(自己紹介が先の場合が多いかな)。そして食事。大皿で食事を出して、適当に取り分ける。お皿もお椀もありあわせでばらばらです。でも、使い捨てのものは使っていません。場合によっては食器持参。

 料理はスープとパンだけはたくさん用意する。持ち寄り大歓迎(でも、もってこなくても平気!)。和室が理想。椅子に座る時より、くっついて座れ親密な感じがする。自由に席も替われるし。食事しながら、あるいは終わってから今度は自由に話す。

 大事なのは、そのテーマについて一番情報の少ない人を大事にすること(なかなか人数が多くなると難しいのですが)。事情通の人が些末な情報を競い合うような雰囲気だけは避けたいと思っています。はりあう空気が生まれると楽しくないのです。「はりあう」空気をいかに生み出さないかに心を配っています。そのためにも、自分の足りない点を積極的に認めていく。はりあわずにはおられない気持ちでいる人がいたら、その場に安心できないんだなあと思って、あんまり気にせず落ち着くのを待つ。迎え入れるわたしの幅が足りない事でもある。そして、たいがい時間が解決する。一緒においしいものを何度か食べてるうちに、その人の素敵な点がちゃんと見えてきて、そしたらその人もいつのまにか安心している。場になじむ。

 はりあう気持ちと無関係なところでは、遠慮無く思ったところは何でも言っています。当然、「こういう考えもあるんじゃないか」と反対意見だって出てきて、それは楽しい。新しいものの見方ができる。

 ちゃんと聞く事。頭で聞くのではなく、肚で聞くというか、感じるというか(そのために正座して重心を低くして聞くようにしています)。頭でいいとか悪いとか評価する風でなく、肚で聞いて、「聞いている自分の体の中で起こる事を味わう」というか。このことの持つ力には年々、驚かされる。はるかさんは20代半ばでその力を十全に使っているけれど、わたしは最近になって、頭以外が感じとる事の大きさに驚いています。

 ちゃんと聞きちゃんと感じると、そこから思いもよらぬことが生まれる。互いに、相手の力を引き出しあう。共感というのは、ほんとうに大きな力。人は(客観的に)理解されることでなく、共感されることを必要としていると思う。感覚の共有が新しい文化を生み出すと思う。

 千利休がきらびやかな茶碗でなく朽ちたような茶碗に美を見出し、小さい茶室の中で「これいいなあ」とその美の感覚を共有した人が、新しい文化を作っていった。茶碗を作る職人が生まれ、茶室のための新しい建築様式が生まれ、左官という職業が生まれた。感覚の共有が新しい文化をうみだし、職業をうみだす。

 豆料理クラブが試みていることも、質素な食卓に豊かさを見出す人たちの間でおこる感覚の共有、深い満足の共有だと思います。

 藤田さん、メモ程度ですみません。以上はあくまで理想で、今回は私の気持ちが散漫だったなあとか、いろいろ反省もあります。でも、毎回いろんな気づきがあり、とてもいい経験です。25回ほどしましたが、やはり最初の数回は散漫な感じでした。だんだん密度が濃くなってきました。藤田さんも、こうしたらいい感じだったとか、気がつく事があったら、ぜひ教えて下さい。みんなでアイデアを持ち寄って、いい場を重ねていきましょう。(茶の湯の文化みたいに。)これが消費文化の次の文化を用意すると実感しています。

エチオピア・エッセイ (3)
 
ハチミツ その2―祖先霊ミャンゴへの讃歌― 中森 千尋(なかもり ちひろ)


 2004年1月のある日のことだった。その日は隣の集落サマルタからほとんど崖に近い所をツルや木にしがみつきながら、ようやくケモノ道をバディカまで4時間程かけて帰ってきた日であった。夕方に到着してからハチミツ酒タッジやタロイモ、とうもろこしパンキッジョで移動の疲れをねぎらってもらい、滞在させてもらっていたアドマス一家と談笑をしたあと寝袋に筋肉痛の体を滑り込ませようとした時のことである。
 
 「遠くから歌が聴こえてくる。」
 
 ふと耳を澄ますとほど遠くない場所で30人は集まっているだろうか。男の声、女の声、子供の声が幾重にも折り重なって、そこにピッピッピと電子音のような音を発する虫、リーンリーンとまるで秋の鈴虫に鳴く虫、キューンキューンとイルカのように啼く虫、ザザザザァと柔らかい夜風に木々がそして葉っぱがこすれ合う音、パチパチッと隣のへやでまだくすぶる炭、いろんな音のツブツブのひとつひとつが遠くなったり、近くなったり、高くなったり、低くなったり、溶けあい、ひしめき合い、それが囲まれた山に木霊して、まるで大きなドームの中にでもいるような錯聴を起こしながら、壮重なハーモニーを奏でている。

 「アドマス!!あの歌はなんだい?」
おもわず興奮してほとんど叫ぶように滞在先の主アドマスに聞いた。
 「あああれかい。ハチミツが無事収穫したことを祝う歌だよ。(シェコの祖先霊)ミャンゴに感謝する歌さ。」
 「そうなんだ!!今から見に行ってもいいかい?」

 もともとエチオピアに渡航する以前から僕は民族音楽に聞き惚れていた。単純に反復するリズム、動物の皮やまわりに生えている木から作った素朴な楽器、そして人の声。ある日CDショップの試聴機で偶然聞いたザイールに住むピグミーの歌声は今まで聴いていた音楽観がすべてひっくり返るような衝撃をもっていた。なんというか、子供の頃によく遊んで作った砂場で土をこね上げた城や、木から伸びでてくる新しい枝葉や、そんなイメージなのだ。土の中から木が生えて来るように形も変えず加工もされず、音楽がそのまま地面からニョキニョキと生えてきた感じとでも言えばいいのだろうか。いままで「音楽」と思っていた、思い込んでいた、いや思わされていた?音楽とは全くかけ離れたものであった。それはむしろ「音の集積」とでも呼ぶべきものであった。「音楽」という独立した観念ではなく、毎日循環する生活に密着していて、それ以上でも以下でもない。先祖から受け継がれてきた小さい時からよく耳にする音を、細胞ひとつひとつに染み込んだ音をそのまま声にし、奏でるだけなのである。それはその土地のもった歴史や文化や生活をそのまま抱え込んだ匿名性の高いものだ。誰しもが歌い手になりえるし、演奏家にもなりえる。ところがコンサートで開かれるような何か高尚なものでものなく、そこから聴こえて来る歌はもっと遊びに近いものに聴こえるのだ。試聴機のまわりに並んでいる膨大なCD郡のほとんどが「ミュージシャン」や「アーティスト」といった個人の才能や名前を全面に押し出しているのと比べるとピグミーの音楽は匿名性という点において非常に対照的といえる。

 実際、シェコには「音楽」に該当する言葉が存在しない。「歌」や「声」という言葉はあっても「音楽」という独立した概念をもたないのだ。「音楽」が個人の才能やセンスに委ねられているとするならば、シェコの「歌」は常に全員が参加を強いられ、匿名性が高く、なお共同性も強い。だから歌が力強くなるのだ。
 
 ふとそんな回顧をしながらアドマスの返事を待っていると、「いいよ。みにいこうか?」
 彼はアムハラ族出身であり、シェコ族の集落に居住しているものの外からの移住者で、こうしたシェコの祭りや行事には参加しない。このときは半分眠気マナコをさすりながら親切にも僕のわがままを聞き入れてくれたのだ。

 幻想的な夜だった。午後9時をまわった頃だったか。家の外に出ると思わず「おぉ??」と嘆息してしまった。茅葺きと土壁の素朴な家が建ち並ぶ集落にホタルが乱舞して、夜空には星が埋め尽くすようにきらめいているではないか。今日は新月の夜である。電気もガスも水道もない小さな村を懐中電灯ひとつでアドマスが道を案内してくれる。歌声がどんどんと大きくなってくる。山道をおりヤブをかきわけ、とある広場にでたときのことだった。シェコの人びとが老若男女問わず円形を描きながらハチミツ酒タッジをのみ、手を叩きながら踊り歌っているではないか。これが見たかったのだ!これが聞きたかったのだ!もう僕は大興奮である。

 じっと聞いていると4つのパートに別れている。子供パート、男性パート、女性パート、老人パートが円形を描いてグルグルと走り回りながら、互いに掛け合い、囃し合い、和音を重ねてものすごい迫力をもったポリフォニーを奏でている。そのシェコの踊りと歌に加えて、満天の星空、乱舞するホタル、そばでゆらゆらと揺れている焚き火が合わさって、同じ地球上にいることが疑わしくなるほど異様な、それゆえ感動的な光景であった。

 ミャンゴの歌は基本的に歌詞は全くない。ただ「アーオーウー」とか「イエーイエイエー」と意味ともとれない擬音語を発するのみである。

 「ミャンゴはみえないんだ。雨が降るのも、太陽が照るのも、風が吹くのも、とうもろこしがなるのも、そしてハチミツが採れるのもすべてミャンゴのおかげさ。ミャンゴはみえない。でもミャンゴは歌うんだ。鳥が美しく鳴くだろう。そんな歌を歌うんだ。ミャンゴへの歌はその声をみなで真似するんだ。いつまでも豊穣をもたらしてくれるように、自分たちがここにいるよって伝えるためにミャンゴの歌を真似するのさ。」(シャラ=グヌバイ)

 初めて間近にきいたシェコの歌は日本のライブハウスやコンサートホールで聞いた音楽とは、音の流れそのものが全く異質なものであった。シェコの人びとは4つのパートが互いに和音を形成しながらグルグルと回りながら歌うため、傍らで聞いてる僕の耳には各パートの歌が近くなっては遠ざかり、高くなっては低くなって聴こえてくる。歌詞のない単純な母音の発声はもはや歌というよりも、ひとつの巨大な「音の塊」となって次から次へとこちらの耳に体に激しくぶつかって来る感じがする。一つのパートが合唱する「音の塊」は、男性パートが通りすぎると女性パートが現れ、それが過ぎると子供、そして老人、また男性パートと終わりのない円環を描きながら、それゆえ音に奥行きが生まれる。立体感を持った歌の回転はまるで螺旋形を描いて空を登ってすらいくようだ。どこかで見守るミャンゴへ届け、とばかりに。それまで日本で当然のごとく聞いていたステージから観客席へと直線的な音が流れるのに対して、この夜聞いたシェコのライブはすさまじい耳の体験だったのである。 

 普段素っ気ない村人どうしのつきあいも、もくもくと働く子供たちのストレスも、家父長制の強い家で耐え忍ぶシェコの女性たちの気苦労も、こうして新月の夜に爆発するのだ。特に子供たちは普段大人たちからの言いつけを守るよう育てられているので、歌の夜には我れさきにとリーダーシップを発揮したがる。ひとつの歌が終わると、年長者のおばあちゃんたちが選曲し歌いだすと、みながそれに歌をのせていくという段取りで展開して行くのだが、子供の一人がそのおばあちゃんのマネをして歌いだしては大人に叱咤され、みなが大爆笑する。男も女も子供も普段の責務から解放され、酒を飲みヒザを叩いて笑い、のびのびと和やかにいつまでも時を過ごす。この日の夜はハチミツ酒タッジと歌と笑い声がいつまでもバディカの盆地に響き渡っていた。

シェコの人々
シェコの人々 シェコの人々
シェコの人々 シェコの人々


『波照間、今ここパラダイス』 (2)
PooL 今ここへ向かう PooL オガワ知子(おがわ ともこ)


波照間の光る(照る)波 波照間の光る(照る)波

 秋から年の暮れにかけて、植木屋はとても忙しいのですが、正月が明けると手入れの仕事がなくなり、造園仕事(石組みや土掘り等の力仕事)が中心となるため、非力な私は長い冬休みに入ります。

 庭仕事が冬休みの間、PooLの活動も寒いのでお休みしていました。そしてこの休んでいる間に内面での大きな変化がありました。それまでほとんど休みなく、ずっと何かを企画しては、忙しく常に「どこか」に向かって走り続けてきたのでしたが、「ちょっと冬休み」とふと立ち止まった瞬間に、しずかな満たされた感覚が内側にひたひたひたーと広がり、ずわーーんと時空が逆転して、「今ここ」のこの瞬間の私の中に果てしなく広がる時間と空間が存在していることを体感したのでした。発信状態(注1)から受信状態(注2)に切り替わった、というとわかりやすいでしょうか。

 そうしたら途端に「いつか」や「どこか」に向かって走ることに対しての興味がさぁーっと消えて行きました。「何かをする」ことから「ただ在る」ことへと「何かになる」ことから「ただ今この瞬間ありのままの私でいる」ことへと、私の興味はすーっと変化したのでした。

 そうして2004年に行ってきた、PooLの主な活動であった「乳母車カフェ」や「おひるねカフェ」や「アイデアの工場」を、2005年の1月〜2月にかけて、次々と終了宣言いたしました。乳母車もすぐさま売ってしまって、周囲の人々から「おおお」とかなり驚かれましたが、私自身はとても静かで満ち足りた気持ちでした。

 「さてと、今の自分をクリアにするために、まずは自分の外側のおそうじからはじめよう」と、とりあえず「今の自分」にピッタリこない持ち物を全て処分するという作業を毎日淡々と行ってゆきました。

 自分の外側にあった不必要なものをはずしていくことで、自分の内側にあった不必要なものがどんどん消え去ってゆきました。(軽やか〜〜〜〜。)

 また、片付けるという作業も「目標に向かう」という時間とエネルギーの使い方ではなくて、ただ淡々と、今この目の前にあるものを片付けている、その状態で在る、そんな感じでいるとそこには「時間」という概念が存在していないため、作業によってエネルギーが消耗することがない(どちらかというと増すぐらい)。また少しもいそいでやっていないのに、とても多くの仕事があっという間に楽々とできてしまったりするのです。

 これについて一つの具体的な体験をお話しましょう。もともと私は部屋に物がない状態が好き(目につく情報が少なければ少ない方がいい)だったので、部屋の目に見える空間自体は以前からシンプルだったのですが、押入れの中では、「机の上がいろんな書類が層になっては、ばさっと紙袋に入れ、棚のすき間につっこみ、そんな紙袋がいくつもたまっては、ダンボールに入れ“未整理”と書かれて積み上げられる」という世界が繰り広げられていたのでした。

 しかし、この『自分をクリアにするためのおそうじ』をはじめるにあたって、「こんなことではいけない。見えないところも全てクリアにしよう!」と押入れや引き出しの中のモノをとりあえず全部部屋の床に広げてみました。足の踏み場もない程広がった「モノの海」を眺め、「今日、寝る場所あるのかな・・・」と途方に暮れかけましたが、「よし!1時間半でこれら全てを片付けよう!」とこれまでもよくやってきた「目標をたてて気合いを入れる!」というやり方で始めようとしたところ、ふと「何よ1時間半って?、1時間半という時間に何の意味があるって言うんだろ?全く意味ないやんねぇ」と自分で可笑しくなって、時間の目標をたてるのも、きれいに片付いた状態(結果)を目指すのもやめて、「ただ淡々と目の前にあるものを片付けていく」ことにしたのでした。なんとそうしたらアラ不思議!?たった1時間ちょっとで見事に片付いてしまったのでした。しかもその間ずっと「今ここ」にいて、静かでしあわせな満ち足りた気分で過ごしながら・・・。面白かったのは、以前からよくうちに遊びに来ていた友人何人かが、この大そうじの後遊びに来て、部屋の見た目は以前と何も変わらないのに、部屋に入った瞬間、「わぁ、きれいだね」とか「あれ?空気が変わったね」とか「何か明るくなった」「軽くなった」と言うのです。そうじをした私はもちろん空気の変化を感じていましたが、“見えないところのそうじ”をしたことを知らない友人達が口を揃えて「あれ?何か違うね」と言うのには驚きました。おそうじってすごいなと思いました。

 こんな風に物や空間がどんどん整理され、シンプルになってゆくにつれて、自分の内側もどんどん整理され、シンプルになってゆくのが感じられました。そうしてある程度「おかたづけ」が終わった頃、私の中心の底の方から、すぅーっとしずかに次に向かいたいところが浮かび上がってきたのでした。

 それは、私の中を「ただ在ること」で満たして暮らすことであり、そこから生まれる時間と空間を人々と分かち合うことでした。それを具体的に実現する方法として、『暮らしの宿』がピッタリきました。『暮らしの宿』とは私の中で二年程前に出てきていたアイデアなのですが、まず私が日々心地よいと感じる暮らしをしている。暮らしの中で必要なものを愉しみながら手づくりしながら、心地よく感じる空間と時間の中で、静かで穏やかな気持ちで淡々と暮らしている。そこへ人が時々やってきては滞在して去ってゆく。私の暮らしの中を人々が通り抜けてゆくトンネルとしての宿。そのトンネルを通り抜けた人が、日々の発信状態から少しでも受信状態に切り替わるといいな、そのきっかけになれるといいな。私が「カフェ」や「宿」という方法が好きなのは、私の想いが空間や時間となって、空気のようにふわふわとただそこら辺に在れるから。思えば私はいつも『空気』というメディア(媒体)を通して、「言葉にできない何か」「カタチにならない何か」を伝えようとしてきた気がします。

 ところで、このように『暮らしの宿』というヴィジョンがこれから向かいたいところとして出てきたわけですが、そこへ向かうために今を生きてしまっては、おっとどっこい、また「いつか、どこかの何か」に向かって走ることになります。大切なのは、私が日々心地よく暮らし、一瞬一瞬ただ「今ここ」に在ることで、『暮らしの宿』は、その延長線上に生まれてくるかも知れないもの。自分自身が、その空気に満たされてあふれるほどになった時にはじめて、人と分かち合うことができるのです。

 そんなわけで、「ただ淡々と毎日をていねいに暮らす」ということが、「おそうじ」の次のテーマとして日常に始まりました。忙しく動き回っていた時には体験し得なかった新鮮なことごとが、日々のそこここにちりばまってきます。

 例えば、朝起きて窓を開け、外の空気のいいにおいを吸い込む。フトンを上げて、天気がいいと陽に干して、着替え、部屋をホーキで掃いてふきそうじをする。部屋の空気が浄化されるのが肌で感じられる。この1つ1つの作業によって自分の内側もまた浄化されていくのを感じる。私はこれを「生活神事」と名付けることにしました。1つ1つの動作や、瞬間瞬間の場の空気を味わいながら暮らすことで感覚が静かに研ぎ澄まされていく。「ただ、生きている喜び」に満たされる。自分の中に「新しい豊かさ」が花開いていく感じがしました。

 そんな風に日々を暮らしはじめたある日、友人主催のイベントに出かけ、帰ってからふと「自分があとどれくらい生きるかなんて本当にわからないな。今日イベントでなつかしい大切な友達に思いがけずたくさん会えたけど、彼らと会うのは、今日で最後だったかも。」というアイデアがとても自然に明るく軽やかに自分の中にコトンと入ってきたのでした。そしてそのアイデアは、その明るさと軽やかさ故に、その瞬間から私の日常となりました。その日から日々のなにげない一瞬一瞬が「かけがえのないもの」として、輝きをぐぐぐっと増したのです。

 特に何をするというわけでなくても、「ただ生きている喜び」に満たされることが以前にまして多くなり、自分の中に新しい豊かな感覚が光いっぱいに広がっていきました。

 こうして、日常のきらめきの中で暮らしはじめたら、今度はふと沖縄の光と風の中にいる自分がパッと浮かびました。「沖縄か」と思うと、なぜかドキドキしてきます。沖縄にはまだ一度も行ったことがないので地図を見てみました。離島の中の「波照間島」という小さな島の西側に「ペー浜」という名前の浜があるのが目にとまりました。「何これ、ペー浜やって、あはははは。プー(PooL)な私は、ペー(浜)に行かねば」と、急にそれまで全然知らなかった波照間島が気になりだしました。波照間島は日本の最南端に位置し、台湾がすぐ隣にあるほどの遠い遠い南の島です。大きさは自転車でも半日あれば一周できるくらいの小さな島だそうです。人口は約600人。山がなく、なだらかで、砂浜も海も美しくて、女性的なおだやかでやわらかな印象のある島だと、波照間島に行ったことのある友人が一緒に地図を見ながら教えてくれました。

波照間で住むことになったお家の庭にて 波照間で住むことになったお家の庭にて
(日本で二番目に南の家です)


 たったこれだけのことですっかり波照間島に行く気になった私は、次の日またボーッと波照間島のことを考えておりました。そうしたら突然ピカッとひらめいたのです。「波照間島・・・波・照・間・島って漢字を英語にしたら、バイブレーション・シャイニング・スペース・アイランド・・・すごい、なんて宇宙的な名前・・・。この島はただものではないな、きっと」。ますます「これはもう波照間島に行くしかない」と思っていたら、さらに次の日・・・。ふと夜に思い立って、本棚を整理していたら、あるイベント注3で配られた冊子が出てきて、そのイベントでもらったチラシが数枚入っていました。ちょっとチェックしてから処分しようとパラパラと見ていたらその中からはらりと1枚のチラシが床に落ちました。ひろってみると『HATERUMA―波照間:南琉球の島嶼文化における社会=宗教的諸相』(コルネリウス・アウエハント著)というオランダの文化人類学者の人が書いた本の紹介のチラシだったのです。「ひぇ〜?!!!」もうビックリです。何かが私に「行け、行け」と言ってきているような気がしてなりません。

 思えばいつも私は、こんな風に何かに導かれるように、ピカーンと光った方へ進むようにして生きてきました。自分の内面で求めるものが明らかになると、必ず具体的な「お誘い」がピカーンとやってくるのです。そういうとき、私はたいてい何の迷いもなくその誘いをチョイスして、移住したり、新しい仕事に就いたりしてきました。そろそろまた動く時が来たのかもしれません。(続く)

(注1) 発信状態 何かを外に向かってやる、未来に向かって動く、という風にエネルギーが外側に向けられている状態。「今ここ」にいられることが少なく、ストレスが多い。感覚よりも思考をよりどころとしているため、五感で世界を味わうことが少ない。
(注2) 受信状態「今ここ」にいて、エネルギーが内側に向けられているためストレスが少ない。自分の中心とつながっているので、エネルギーやポジティブなアイデアが内側から泉のように湧いてくる。五感を通じて世界を味わっているので、満たされた感覚、守られている安心感に包まれやすい状態。
(注3) あるイベント龍村仁監督のドキュメンタリー映画「ガイアシンフォニー第5番」関連のイベント。出演者のアーヴィン・ラズロー博士(最先端物理学者であり未来学者でもある)が来日し東京で講演するというので出かけました。

会員エッセー 娘のセクシャリティって 何ダ?
 
宮島 百合 (みやじま ゆり)


 「おしらさま」という昔話がある。馬と娘の悲恋から、養蚕の始まりを語るものだ。私も以前、丸木俊の絵による、美しくも幻想的な絵本を持っていた。

 先日、おざわとしおの再話でこの話を読んだら(『日本の昔話@』福音館書店)、「こんな話だったか」と愕然とした。馬と娘の悲恋物語、そして養蚕の始まりのいわれ、という部分は記憶どおりだが、この娘の父親の描写にある事件を連想し、ぞっとしたのだ。

 「おしらさま」に登場する娘の父親は、こんなふうに描かれている。−−やがて女の子は年ごろとなり、たいそう美しい娘になりました。ところが娘は、いつも馬屋に行き、柱によりかかりながら、馬と話したり、わらったりしています。父さんは、それをみるたび、「あの子は、どうしていつも、馬と話をしたり、わらったりばかりしているのだろう」と思いました。それで、あるとき、娘に聞いてみました。「これ、娘よ。おまえはもう年ごろだというのに、どうしていつまでも、馬なんかとばかり話をしているのだ」

 すると娘は、「だって、わたし、この馬と夫婦になるんだもの」といいました。

 さあ、父さんがおこったのなんの。「親をばかにするにもほどがある。人と馬が夫婦になるなんてことがあってたまるか」と、どなりました。「おまえもおまえだが、馬も馬だ」というなり、父さんは馬屋へとびこみ、馬をひっぱりだして、うらの大きな桑の木にずるずるとひきずりあげてつるしました。それから家の中へかけこみ、鉈だの鎌だのもってきて、馬の生皮をはぎはじめました。娘は、「ひどい、ひどい。父さん、やめて」と、泣きさけびました。けれども、父さんの耳にははいりません。ぐいぐい皮をはぎつづけ、とうとう馬は死んでしまいました。−−

 たまたま、この話を読む直前に、「娘のセクシャリティは父親のものか」という北原みのりの文章を読んでいて、そこに出てくる父親の行動(逆上ぶり!)が、この昔話の父親とそっくり、と思ったのだ。(北原みのりの本が手元にないので、例によって記憶だけで引用する。だから細かいところはちがっているかもしれない)−−高校生の少女が、同級生の少年と、少女の家で、少女の父親がいない時に、父親の部屋で父親のビデオデッキを借りてビデオを見ていた(この日、二人は学校を早退したか何かしたかもしれない)。外から帰ってきた父親は、そのことを少女の母親から聞くと、逆上して二人のいた部屋へ怒鳴りこみ、少年を竹刀かなにかでめちゃくちゃに叩いて外へ追い出した。少女は、「次は自分が殺される」と思い、包丁を持ち出して父親を刺してしまった−−という事件を紹介しつつ、北原みのりは、父親が逆上した理由を、自分のモノ(ビデオと、娘)を他の男に侵されたと感じたから、と分析している。

 私は、現代の親子関係についての香山リカの分析などを読んできて、娘にとっては、「母−娘」関係が問題なのか(課題とも言えるか)と思ってきたけれど、こういう父親の話を読むと、「父−娘」の関係にも深い問題があると思わずにはいられない。

 「母−娘」に比べ「父−娘」の関係には距離があると思う、が、自分の意に添わない男(「おしらさま」では馬と表されている)を選んだ娘に、あのように逆上する父、そんな父の下で育つ娘のセクシャリティは、どのようなものになる(なっている)のか、と思ってしまう。

 そして、よく見ると、いや「よく」見るまでもなく、そんな父親を容認する言説は、この日本の社会にありふれて散らばっている。

 曰く「花嫁の父」「結婚式で泣く父」「○○ちゃんがお嫁に行くとき、お父さんは悲しいでしょうねー」等々。

 娘は生まれたときからず〜っと、「父の小さな恋人」であるというのは、日本では「当たりまえ」であるらしい。だれも疑問に思わない。
 ほほえましい、と言っていられるのか?

 くり返すが、そういう父親に育てられる娘のセクシャリティはどうなるのか。(そういえば、私の父も、へんなこと言ってたっけ。私の結婚のことを、破綻して離婚した後で、「勝手に人を好きになって」って言ってた。はぁ〜?)

 ここで、私自身のことをふり返って書いてみよう。「父の娘」のセクシャリティとは、と言ってみても、私には何も思いうかばないので。

 いや、父親という異性に対して、思うところはあるのだけれど、今まではっきり考えることを避けてきた、ということなのだろう。そして、今ここで、はっきり言語化する−−向き合って考えていくことも、やはり避けたい、したくない。なぜだろう?

 私は、自分が性的な存在であるということに気づいた頃、(思春期の頃)父が異性であり、父もまた性的な存在でもある、と気づいて、心のどこかで父が怖かったのだと思う。

 それは、父の蔵書の中に官能小説を数冊見つけ、私自身もドキドキコーフンしながらそれを盗み読んだ頃と重なる。その中の一冊が、父と娘の近親相かんの話だった。私は、その本は手に取れなかった。父がその本を手に入れて読んだのがいつのことか知らないが、そういう話が父の頭の中に一度でも入りこんだと考えるのが怖かった。

 今の父のペニスは、排泄用にしか用を足せないと思うが(失礼な言い方?ハハハ)、娘の私が排泄の介助をするのはやはり恥ずかしいようだ。まあそうだろうなと思う。

 父と母の家を離れて、数年してからまた戻ってみると、父はすっかり「老人」になっていて、私に(どのような意味でも)脅威を感じさせる存在ではなくなっていた。

 こう書いてきて、一応断っておくと、父が私に何か性的なことを匂わせたとか、そんなことは一切なくて、私たち子どもにとって、サバサバしてて干渉することもほとんどない、そんな父だった。それでも娘として私は、父を性的なものも持つ存在として考えるのを避けようとしてきた。しかし、「見えないように」と意識するということは、結局その存在を意識しつづけるということでもある。

 「向き合えない」と書いてしまったことで今、限定的ではあるが、父のことを書いてみた。

 そして、もっと広く私自身のセクシャリティを考えてみると−−まあなんという貧しさよ、と思ってしまう。性的な存在としてどう生きたいのか、という問いを自分に立てたのも、ほんのここ数年のことだ。結婚中でさえ、そんな問いはうかばなかったのだ!セックスする相手と同居する状態を離れて初めて、そういう問いがうかんだ。

 他の人はどうなのかなあーと考えると、「似たり寄ったりかな?」なんて思う。フェミニストは別だろうが……。
 セクシャリティという言葉自体、フェミニストが使い始めたのでは。私に教えてくれたのも、上野千鶴子さんだった。

 離婚して得たものはいろいろあるが(失ったものより多いかも!)、フェミニズムを意識的に学ぶきっかけになったことは、大収穫だったと思う。

 自分のセクシャリティについて考える、という、ほんの入口に、私は立って、歩き始めたばっかりなんだ。この先何が見つかるか、それはまたの機会に報告したいと思う。(聞きたい?それとも聞きたくない?)

豆ランチパーティー・秋(9月―11月)  会員による報告


豆パーティー&稲刈り at 伊那 10/8-10 細井 さおり (ほそい さおり)

 京都の細井です。伊那の旅では、千晶さんムーさん始め皆さま大変お世話になりありがとうございました!

 私は、今回初めて楽天堂旅行に参加しましたが、北海道旅行の参加者が得るものが大きすぎて中々報告できないと言われていたことがよくわかる旅でした。でも参加できなかった方は、中身が気になると思うので、報告します。

 行きのバスでは、岩井さんの義理のお母さん八重子さんと隣になり、聞き上手の八重子さんのお陰で、とても楽しいお話ができ、これだけでも来てよかったと思いました。本当に素敵なお母さんで、誰もが羨む嫁姑関係でした。

 いつも豆ランチパーティーは、おいしいのですが、1日目の夕食の豆料理パーティーのお料理は、いつもにも増しておいしかったです。銀手亡のスープに様々なおかずに、デザートまでの創作豆料理は、どれも見事で最高においしく、食べ過ぎました。持ち寄りだったのに、私は、お料理を持って行かなくてすいませんでしたー。この場を借りてお詫びします。ごめんなさい。11月のパーティーには、その分持参します。

 時計の針がびゅんびゅん進み、3時過ぎまで 話の輪が出来ていました。

 ロッジ吹上の倉田節子さんが、自分の気持ちに正直に生きること。損得で働くのではなく、本当に納得のいく仕事をすることが本当に生きること。という趣旨の事を言われ、心が揺さぶられました。

 1日目は、しっかり雨がふっていましたが、稲刈りの2日目は、青空がきれいなお天気になりました。有り難い。

稲刈りの光景 稲刈りの光景

 念願の稲刈りも初体験でき、よしえさんとワイルドツリーの平賀裕子さんのこれまたおいしいおにぎりとすいとん汁を頂き風が何とも心地よくサイコーでした。その後、山にきのこ狩りに行き 平賀さんに毒きのこと食べられるきのこを教えてもらいながら、本物のきのこを採りました(私は、車で昼ねをしました)。

 近くの温泉に行った後、採ったきのこと自家野菜を使った倉田さんの夕食を頂きました。倉田さんのお食事もおいしくてお替わりをしました。パンの朝食も2回頂きましたが、朝食もとてもおいしかったです。毎日どれもおいしくて、伊那で1キロ以上、体重が増えました。

 最終日の午前中は、倉田さんに畑の案内を受けました。近くに建ったボーダフォンの鉄柱で、野菜やたんぽぽの奇形が発生し、電波が直撃の家では、健康被害が出て、アルミで家を覆う工事をされました。倉田さんのロッジも 影響はあります。衝撃の事実。また、くるみを食べられる所までにする作業の大変さを聞き、外国産と国産の値段の違いがわかりました。くるみ料理など作りたいけれど、倉田さんは、忙しくて、くるみにまで手が回らないそうです(分けてもらったくるみは、早速夜に洗いましたが、本当に手間がかかります。)。

 その後、豆ショップ中村美紀さんの酒屋さん「酒文化いたや」に行きました。とても大きくて立派だけれど、温かみのあるお店でした。豆料理キットがとても目立ついい場所にどーんと置いてあって、千晶さんが感激されていました。私も嬉しかったです。古紙のトイレットペーパーからフェアトレードの商品、自然食品も充実していました。私は、お酒が飲めないので、残念ですが、お酒、ワインの品揃えも多くて、きれいに並んでいて、お酒好きの方は、とても楽しめると思います。

 その前に 地元でも評判のグリーンファームという公設市場のような所に行きました。とにかく野菜、果物、きのこなどが安くてびっくりしました。国産の雑穀、お豆も安かったです。満足な買物ができました。

 現地では、八重子さんの双子の妹さんの中村百合さんがドライバーになって下さり、お礼の言い様がない程よくして下さって、そのお陰で、充実した旅が出来ました。ありがとうございました。


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