第31号2005/06/01


失敗も楽しみのうち
―子どものための豆料理ワークショップを企画して
 
大月 傑(おおつき たかし)


 わからないからこそやる
 ぼくはチルドレンズミュージアムというところで働いて、毎日のように子どもたちと遊んだり話したりしています。ある日ぼくが洗濯物を干そうとしていたら、6才の男の子がやって来て何となく一緒にいたいようなので一緒に洗濯物を干していました。彼は慣れない手つきで干しながらいろんなことを話しかけてきます。彼がテレビ番組の「マジレンジャー」のことを話し始めました。僕は「マジレンジャー」を見たことが無いので、彼の断片的な話をつなぎ合わせ、子どもの頃見た「ゴレンジャー」を思い出しつつ、それがどんなものなのかを想像しながら聞きます。どうやらマジレンジャーたちは兄弟らしい。そう思ったぼくは彼に、「マジレンジャーって兄弟なの?」と聞きました。そうすると彼は「それはよく分からないけど・・・。」と言って口ごもりました。そしてその後にこう付け加えたのです。「分からないから見ているんじゃないか。それが分かっていたら見なくてもいいじゃない。」・・・なるほど!

 私たち大人は知らず知らずに分かっていることを求めます。何か行動するときにはその結果を。やってみないと分からない、ということはやりたがらない。それは失敗したくないという心の裏返しだと思います。そしてつい子どもにも失敗しないことを求めてしまう。

 一方で子どもたちはいつも何かが分かっていない。分かってないくせに何でもかんでもやりたがる。そして失敗する。そこで何かが少し分かって、もう一回やってみる。あとはそれを飽きるまで繰り返している。失敗して悔しいとか恥ずかしいとは思っても、それでやりたくないとはあまり思わないらしい。もうやーめたっ。と思うのはやってもやっても何も分からないか、もうそれに関しては全て分かってしまった時だ。

 分からないからこそやる。それは私たち大人にとっても大事なことではないでしょうか。私たちは未知のことをやってみる機会から遠ざかってしまいがちです。新しいこと、今までやったことのないことをすると、忘れていた感覚が呼び覚まされます。失敗を繰り返すことによって何かが分かっていくという感覚。それは子どもの頃の遊びのように本来楽しいものだと思います。その楽しさを忘れなければ子どもたちが日々繰り広げる失敗の数々にも楽しんで付き合えるような気がします。

味わうことから多様な文化に出合う
 ぼくはこの夏休みにチルドレンズミュージアムで新しい試みをしたいと計画しています。それは、子どもたちが「味わう」ことから多様な文化に出あう場をつくる試みです。

 味わうという言葉に、「食べる」ことや「飲む」ことはもちろん「見る」ことや「装う」こと、「聴く」ことや「読む」こと、暮らしの中のあらゆる場面で物事の美しさや面白さ、背景にある意味を感じ取り、より深く楽しむという意味を込めて。味わうということは私たちの暮らしをより豊かにするだろうと思います。豊かさは、たくさんのモノやコトから得られるのではなく、1つのモノやコトをどのように「味わう」ことができるかにかかっているのではないかと思うからです。大豆を食べるということの豊かさは、たくさん食べられるということも大事なことですが、それが煮豆になり、炒り豆になり、納豆になり、豆腐になり、おからになり、油揚げになり、飛竜頭(がんもどき)になるということではないか、それがこれからの時代により大切なことではないかと思うのです。

 世の中には自分とは違ういろいろな暮らし方をしている人たちがいて、そこに「味わう」ための知恵を学べば自分の暮らしがもっと楽しく豊かになる。子どもたちにそんなことを感じてほしい。

 豆料理はそのためのとてもいい方法だと思います。ぼくは豆料理クラブで世界のいろいろな豆料理に出合って、ひとつひとつつくっては味わっていくうちに「豆ってこんなにいろんな種類があるのか!」と驚き、「豆ってこんな食べ方ができるのか!」と驚き、「豆ってこんなにおいしかったの?」と驚きました。そして、1つの新しい素材に出合うだけで、1つの新しい調理法に出合うだけで、自分の料理がより楽しく、おいしく、豊かになったなぁと感じました。それを子どもたちにどうやって伝えるか、子どもたちがやりたいと思うような遊びゴコロ、理解するために分かりやすい言葉、使いやすい道具と方法・・・そんなことを毎日考えています。

 夏休みには、豆料理のワークショップのほか、世界のいろいろなお茶を味わうことができるオープンカフェや、布一枚で着る民族衣装(サリー、ポンチョ、巻きスカート・・・)を集めて多様な装い方を楽しめたり、世界各地のさまざまな食べものや異文化との出会いをテーマに選んだ絵本が読める企画展を計画しています。

 レシピのない豆料理のワークショップ
 今まで子どもたちと様々な料理のワークショップをしてきて、1つのジレンマを抱えていました。それは、子どもたちにおいしいものを食べてもらおうと思うと、子どもたちが失敗しないような内容になってしまうということ。例えば、塩はあらかじめ量っておいて入れるだけにしておくというようなことです。しかしそれは同時に塩加減をするという機会を奪ってしまいます。

 あるレシピを試してみる、ということはそれを応用するための基本技があってこそ活きてくるのではないでしょうか。水加減や塩加減、煮る、炒める、和えるなどの基本技を心得ていれば、レシピをもとに味つけを変えたり、素材を変えたりして新しい味を楽しむことができると思うのです。

 もし、塩加減をすることでおいしくなったという経験をしていない子が、レシピどおりに料理をするということをしたらどうなるだろう?それがおいしかったなら、次も同じように作ろうとするのでは?そして違うものが食べたいと思ったとき、違うレシピを探し求めるのでは?また、レシピどおりにやっておいしくなかったら、それはレシピが間違っているのだと考えるのではないだろうか。

 それでは料理がおいしいレシピを知っているかどうかだけの問題になってしまう。子どもたちにはおいしいものを味わってほしいのと同時に、自分で工夫する楽しさや創造する楽しさを味わってほしい。分からないからやってみよう!というところから始まり、失敗をも楽しみつつ、おいしいものができたときにその喜びを分かち合うことができたら。

 千晶さんの協力を得て、そんな豆料理のワークショップを準備しているところです。子どもたちに分かりやすい豆料理の基本技はなんだろう。千晶さんが提案してくれたのは、ゆでる、煮る、スープにする、つぶす、炒める、炒る、和えるというシンプルなものでした。ゆでただけのひよこ豆を味わうところから始まって、見ただけで理解できるようなシンプルな基本技をやってみる。そのあとは野菜と基本的な調味料を使ってどんな料理ができるか試してみる。失敗することがあっても、おいしくないものができたとしても、そこから何かが分かっていく楽しさを味わってもらえたらすばらしい。子どもたちがどんな料理をつくるか今から楽しみです。

【篠山チルドレンズミュージアム】
〒 669-2545 兵庫県篠山市小田中572 TEL 079-554-6000
ホームページ http://www.city.sasayama.hyogo.jp/children/

エチオピア・エッセイ(2)
 
ハチミツ その1 ―シェコの人々と暮らして― 中森 千尋(なかもり ちひろ)


 エチオピア西南部に居住するシェコの人々。エチオピアには86の民族と同じ数だけの言語が存在するといわれ、特にこのエチオピア南部州にはその半数近くがひしめきあい、時に牽制し、戦い、そしてまた時に協力し合いながら生きている。山国エチオピアは国土のほとんどが山で構成され、大きく西南部は標高1000m以下に住む低地牧畜民と1000m以上に住む山岳農耕民に分かれている。シェコの人々は標高1900m近くの深い森の中で暮らし、養蜂やトウモロコシやタロイモを主とした農耕を営んでいる。気温は15℃から27℃前後とすごしやすい。首都からバスで二日、さらにそこからいすゞのトラックの荷台に乗り込み一日、そこから二日、ケモノ道を時には30°もあろうかという急斜面を登ったり降りたりしながら、ようやくバディカというシェコの人々の集落に到着する。

バディカの村の高台より。はるか遠くにかすむスーダンの山 バディカの村の高台より。はるか遠くにかすむスーダンの山

 「外国人でみたのはお前が3人目だ。」(バディコムス村長 55歳)というくらい、外との接触がないこの地域は周辺民族の抗争や接触が極端に少ない。

 「日本はアフリカのどこにあるの?」「日本には車は何台あるんだい?」「日本にはとうもろこしはあるのか?」最初はおとなしかった村人たちも接触を重ねてゆく中で、次々に質問をしてくるからてんてこ舞いだ。顔が幾重にもみえる割れた手鏡、幾重にも縫い直したツギハギTシャツ、削れては研ぎ直し細くなった包丁、木の枝を丁寧に編み込んだカゴ、ほとんどノイズしか聞こえないラジオ、牛糞と泥を練り込んだ壁に藁葺き屋根の丸い家、それを覆い尽くす高い山と深緑りの森。バディカの風景はこんな素朴なものに囲まれている。

ハチミツ採集の風景 ハチミツ採集の風景

 彼らの生業はなんといっても養蜂だ。もともとエチオピア西南部は森林が豊かな高原であり、養蜂に適した土壌と気候のため各地でハチミツが採集されている。丸太を半分に割って中身をくりぬいたカフォと呼ばれるボートのような容器を木の高い位置に置いておく。収穫期にはその木に縄一本でするすると登って行き次々に蜂の巣をそのカフォに入れて行く。襲いくるハチを松明の煙で追い払いながらその作業をするのである。収穫されたハチミツは濃厚でハチの死骸や巣のカスが混じったままでそれを気にすることなく食べてしまう。トウモロコシの粉を水に混ぜてこね上げたキッジョとよばれるパンにこの濃厚なはちみつをつけて食べるのだ。個人的にはそのキッジョを軽く炭火で焼いて外がカリッ、中がモッチリなキッジョにハチミツをつけて食べるのが好みだ。

 でもそんなハチミツ採集にはもちろん危険も伴う。
「そりゃ、ハチにさされたら痛いよぉ。たまに木から落ちて死んでしまう奴もいるしね。あっはっは??!!」(ゴルムサ 80歳)

 ここでは死に対して極めてドライだ。「死は生の一部」どころか「死は生活の一部」といってもよい。薬や医療がまるでないこの村では、「菌が侵入して病気をおこす」という概念すらない。ある日僕が村のブッシュドクターに「どうもお腹をこわしたようだ。」といったときも、「それじゃあ、石の上にあの木の葉っぱを置いとけ。精霊がお前の悪霊をぬいてその葉っぱに移してくれるだろうよ。」(シャラ=グヌバイ 83歳)である。だから動物も人間も隔たりなく簡単に死んでしまうのだ。だけど、彼らと暮らしていると死ぬことへの恐怖感がまるで感じられない。こんなことがあった。隣の村の村長が死んだときのことだ。葬式ではみな親族のもの以外笑って槍を振り回したり、鉄砲の空砲をならしたり、太鼓をたたいたり、楽しそうに大騒ぎしているのである。

とれたての濃厚なハチミツ とれたての濃厚なハチミツ

 「そうかジャパンではみんな泣くのかい?へえーどうして泣くんだい?死んだ個人を讃えたりしないのかい?」(ベンティ 50歳))死に対するドライな感覚は死後讃えられるある種の安堵感から来ているかもしれない。息子の死を悼むというような個人的感情を抜いて、みな死を讃え、笑い、騒ぎ、明るくするという空気が葬式に仕込まれているのである。葬式とは個人の死を悼むよりも、個人の生前の功績を讃える場であるのだ。こうして葬式をおえたバディカの村人はまた村に戻ってハチミツ仕事のつづきに着手して行く。

 ハチミツの巣や死骸のカスを、ハチミツがでなくなるまでおおきな布でしぼりながら、そのおから状になったカスを今度はお湯を混ぜて粘土状になるまでコネてコネてコネあげていく。それを引きちぎったボロ布にまきつけ棒状にして点火すると、なんとロウソクが出来上がるのである。また一方で、食べ終わったトウモロコシはその辺に投げ捨てられ、それを放し飼いにされてるニワトリたちがおこぼれにあずかりつつき合い、熱い太陽に照らされて乾燥すると、枯れ木の要領でよい着火材となり人間の煮炊きを手伝った後、灰となって大地に戻って行く。ここでは、ムダなものが一切ない。ゴミも全て生ゴミだから自然に土に帰ってゆく完璧な循環社会だ。

仲良くしていたマムシ(アムハラ語で、男の子のこと)とシェコの女性。後ろは僕が滞在していた家 仲良くしていたマムシ(アムハラ語で、男の子のこと)とシェコの女性。後ろは僕が滞在していた家

 ところが、そんな嬉々とした村人たちの関係はいたってクールだ。子供を含めて人口300人ほどの村ではお互い知らないものなどいない。全員が親族と言ってよいほどみなお互いのことを知っているし、家の場所だって知らぬものはいない。ところがいたってその関係は素っ気ないものなのである。村を歩いて人と出会っても挨拶はするが特に立ち入った話をしない。ハチミツを発酵させたタッジという地酒を男たちが集まって飲んでいるときも、ハチミツの生産量や出荷先のこと、村の運営や畑の手入れなど、現実的な話題が大勢を占める。
 「ものをとったり、悪口をいったり、へたなことを起こすとまわりのみんなと・・・なんていうか・・・うまくいかなくなるだろ?」(ゴルムサ)

 ここではウワサが恐怖の対象となるのだ。いちど「ワルモノ」とレッテルを張られたら、結婚はできにくくなるし、村をでて新たな土地で新たな人間と生活をし直さざるを得なくなるという困難な事態に直面してしまう。街を歩けば出会う人々ほぼ全員が「他人」である社会と比べたら、ここの村では「他人」は存在しない。だから常に互いに監視し合っているような関係になるのだ。もちろん表向きはよく笑い、アホな冗談をかまし、地面をたたいて笑い転げている。でもその深層にはウワサを常に気にし合うような関係がある。シェコの人々の挨拶とは、こうした冷静な関係を象徴しているように思われる。

キッジョ(トウモロコシパン)を炭火でやいてこんがりと キッジョ(トウモロコシパン)を炭火でやいてこんがりと

 「元気かい?なにも悪いことないかい?」
 村を歩いて出会った人々に必ず3、4回は執拗に聞かれる。昨日もおとといも会ってるんだからみれば元気だってわかるだろう?ということではないのだ。かといって、黙って通り過ぎると毎日顔を会わすものとしては気まずい。だからといって特に話題もない。そんなとき、「元気かい?なにも悪いことないかい?」というのが実は一番有効なのだ。だから挨拶はこの社会では、特に波風たてずにその関係を維持する以外に機能を果たさないわけなのである。

 シェコの人々は、当初僕が抱いていた憧憬とは裏腹に、死に対しても、日常にたいしても極めてリアルに現実的に生きている。ハチミツを平等に分けるときも、共同作業に出るときも、ウワサへの配慮を心の底では忘れない。ところが、こうした心の深層の緊張状態を一気に解放し、爆発させる瞬間がやってくる。それが、ハチミツ収穫期に毎晩のように行われる精霊ミャンゴへの感謝の歌だ。子供も大人もおじいちゃんもおばあちゃんも村人全員で大騒ぎする非日常空間だ。ハチミツによってリアルな人間関係とドライな死への感覚が生成され、またハチミツによって村人がひとつになる巨大エンターテイメントが創出される。まさにハチミツによって生きている人々が大声で歌いだしはじめる季節がやってきたのである。
(次号ハチミツその2に続く)


中国茶の魅力(4)
最終回 こじま ゆり


 いよいよシリーズも最後になりました。何を書こうか考えましたがとにかく思うことをそのまま皆様にぶちまけて!?みようかと、冒頭でお許しを請う次第でございます。

 そろそろ梅雨シーズン、それが過ぎると暑い暑い夏がやって来ます。暑い時期に熱いお茶なんて!!!と考える方もおありでしょうが、これは中国茶だけに限らず、体にはやはり冷たいものより温かいものが良いといわれています。そこで暑い夏には体の熱を取り去ってくれるという「白茶」をグラスで頂いてみることにしましょう! 80℃−90℃位のお湯で5−10分蒸らします。そんなに蒸らすと渋くなるのでは?と焦ることなかれ!白茶は白い産毛でびっしりと覆われた新芽で作られるのでお湯が葉の中に浸透するのに時間がかかり、それに新芽ということは葉に含まれる成分も未完成なのでそんなに苦味や渋みは出てこないはずです。さて、5−10分の待つ間に、グラスの中の茶葉を観察してみましょう。ツンツンと尖った茶葉が上から下へと沈み、また上へと登っていく姿を見て取れると思います。お湯を注いで香ってくる甘い香りと青い香りを嗅ぎ、茶葉が浮き沈みする様子を見て、そしてやっと口にするお茶水で喉を潤し、これらすべてで精神がリラックスさせられることでしょう♪(参考:白茶は中国国内でも稀少で3種類、比較的温暖な福建省政和県/福鼎県で作られ、ランク上から言うと清明節の前2−3月に芽の部分のみで作られる「白毫銀針」、少し遅れて1芯(芽)2葉で作られる「白牡丹」、そして大き目の葉のみで作られる「寿眉」の3つ。ただしランクの上下に関係なく、美味しいと感じるものが自分にとって最高のお茶なのは言うまでもありません。ちなみに中国大陸では主流はやはり緑茶、青茶(ウーロン茶)は最近まで産地である福建省や広東省でのみ一般的でした。)

 それでもやはり、時にはクゥッと冷たいお茶を飲みたいと仰る方は、少し時間はかかりますが美味しい冷茶をつくりましょう!お水(ミネラルウォーターや浄水器を通したお水)1Lにお好みの烏龍茶茶葉や緑茶茶葉を約10g入れ、12時間ほど冷蔵庫でおいたあと、茶葉を取り除きます。甘味、旨味の出た美味しい冷茶の出来上がりです。お茶は熱いお湯をさすことで香が立つのですが、冷茶の場合は口の中の熱で香がはなから抜けていきます。ぜひお試し下さい!

 さて、美味しいお茶を頂きながら楽しくお話をする。「飲茶」や「アフタヌーンティー」という言葉はお馴染みでしょう。世界のお茶(定義→茶樹=学術名:カメリア・シネンシスの葉から作られるもの)は中国から広まったとされていますが、中でも広まった先のイギリスでは当時の貴族たちの「ナウな」飲み物となり、奥様方がこれに時間もお金も費やし、茶は家庭破壊の元凶とまで言われる騒動になったこともあるとか。その後たちまち茶は生活必需品となります。当時の中国や日本にはヨーロッパ人に憧れを持たせるほどの食文化や芸術(磁器など)があり、彼らはお茶や磁器、絹などを得るための代価として銀を出していたのですが、茶の需要が高まるにつれ銀の流出が増え、後に銀の代わりにアヘンを代用。中国ではアヘン中毒者が続出し政府が大々的にアヘン取り締まり、没収したことでアヘン戦争へと発展するという歴史事実。皇帝への貢物として、文化としての存在であった「茶」が茶の伝播と普及によって徐々に資本主義的「商品」へと変遷してしまったのです。(少しずれますが、物を世界に広めたい、広まることで需要が増え生産に追われる。労働力が必要で奴隷が生まれ、更には機械化や農薬の大量使用……。時代に関係なく考えさせられるものがあります。)

 この歴史を知って何が言いたかったかというと、上手くつなげることができないのですが、流行りだからとか便利そうだからといってむやみに飛びつくのではなく、身の回りのものなどは妥協せず吟味して手元に置く。そうすることで必然的に長い間もしくは一生付き合えるものになるように、(少し違うかもしれないですが)中国茶も妥協して粗悪なものを選ぶより、きちんと茶葉を見極め試飲で味を確かめ、そして見合う金額を払って買えば消費者にとって、ひいては生産者にとっても無駄がなくなるのではないか…というようなことが言いたかったのですが、何となく分かって頂けますでしょうか?  

 余談になりますが、海外のティーポットが高価な値段で市場に出回っていますが、元をたどれば中国の磁器にあこがれて作られたものだといわれております。食においてはさまざまな海山の食材を使った料理を銘々の皿に取り分け箸を使って食べる。この様子を見たヨーロッパ人は大変感心します。というのも 今でこそかっこよくフランス料理などでナプキンやフィンガーボールなどが用意されますが、当時のヨーロッパは食文化が乏しくとにかくたくさんの量を一山でテーブルの上に出し、それを手で取り分けそして手で食べており、汚れた指や手を洗ったり拭いたりするためにそれらが用意されていたというわけです。ちなみに日本を訪れたかれらは、日本では庶民ですら高貴な家庭で教育を受けたのではないかと言うほど礼儀が正しいと驚きを隠せなかったらしいのです。今の日本はどうなのか、考えてしまうところですね。

 【番外編】 日本では平安時代後期栄西禅師が中国から茶樹を持ち帰り栽培したのが始まりだといわれています。このころ中国は南宋時代で、この時代の飲み方(淹れ方)は「点茶法」と呼ばれ、各茶碗にひき茶を入れ、最初に少量の沸騰状態の湯を注ぎいれて軟膏状にし、さらに湯を注ぎ足し、茶筅で攪拌し表面に白い泡を生じさせた後に飲むという方法。このお茶の飲み方(淹れ方)に伴い中国で木製の茶托や碗托、茶筅、湯瓶が誕生するのです。これはまるで日本のお抹茶の飲み方に通ずると思いませんか?そうなのです。この時期に入ってきたことが影響し、「点前」という言葉がその影響を残しているといわれています。

(参考:宋より前の唐の時代には「煮茶法」といって砕いた茶葉を塩やしょうが、ニッキ、胡椒、かんきつ類の皮などと共に鍋にいれとろみが出るまで煮て各碗に取り分けて飲む方法が主流。そして宋の後清の時代に形成され現在に至るまで主流となっている「泡茶法」。これは点茶法の泡立てるという工程を省略しただ湯を注いで飲む方法「撮泡法」と茶瓶の中に茶葉を入れる「壺泡法」の2つがある。この時代に青茶が登場し、それに伴い蓋碗や紫砂で作られる茶壷などが登場する。この泡茶法は日本の煎茶茶道にもつながる。)

 さぁ、何とか最終回を書上げましたこ。4回書き終わってみてまずは自分の文才のなさにほとほと困り果てたということ(苦笑)。「中国茶の魅力」なんてタイトルつけながら、魅力を伝えるほどの内容がかけたのか一人反省会であります。中国茶を飲むことから入り、今は少しずつですが歴史の本などを解読中で、いやはやこれが学生時代に熱中していたならば間違いなく論文は「世界における中国茶の〜云々による一考察〜」なんてタイトルつけて大陸に留学なんかしたりしていたかもしれませんね。

 目を通してくださいました会員の皆様、お付き合いありがとうございました。お豆とも、スローライフ・スローフードとも、100年計画ともかけ離れた内容でも連載させてくださった楽天堂様本当にありがとうございました。豆ランチパーティに参加できる日が参りました時には日本茶と同じように気楽にお茶を御提供さし上げたいと思っております。
 それでは こじまはこの辺りで ホッと一息「お茶の時間」にさせて頂きます。



豆ランチパーティー・春(3月―5月)  会員による報告


助産婦・高槻友子さんを囲んで 3/13 岡田 利栄(おかだ りえ)

 お金で買えない大切なものを高槻さんから学んだ気がします。自然・時間・人・・・。その中から特に印象深かった話を簡単にまとめてみました。

鶏の異常
 養鶏場での鶏の変化:鳥は本来は木に止まって寝る習性があるが、人工孵化した鶏などは、土の上にそのまま寝ていて、きー坊さん(高槻さん夫)が、何度も木にのせてあげても、土の上でそのまま寝ている。又、鶏は自分で卵を孵さなくなっている。⇒鶏の異常の話に危機感を感じるのと共に、きー坊さんの鶏への愛を感じました。そんな鶏は幸せですね。

異常お産と正常お産
 異常出産の増加:出産時出血が止まらなかったり、昔は考えられないような原因不明なことが多々ある。⇒暑いときは冷房をつけ、車でスーパーに買い物に行く。又、ファーストフードや外食の多い便利な世の中、私達の体は様々なストレスを抱えているのかなあと思いました。私は、パン教室の先生に食品添加物が胎児に与える影響について聞いたことがあります。特にソルビン酸カリウムは子宮にたまっていくので、女性はあまり摂らない方がいいと。

 病院では、マニュアル通りの日にちを越えると促進剤を使用し、人工的にお産を早めたり、逆子は帝王切開で出産させる。(全ての病院がそうとは言えないが)高槻さんらのグループは、有名T大学病院に数年働きかけて、やっと数週間長くお産を待っていただけるようになった。⇒現代医学は、枠にはまったお産をさせようとしていると感じました。効率ばかり考え、「待つ」事ができないのか?参加をしていた妊婦の方が、「エコーを撮った際、『指はちゃんと5本あります』と言われたのがなんだか悲しかった。」と言われたのが、胸にじ〜んときました。生まれる前に性別もわかってしまうこの時代、出産時の喜びが半減してしまうのではないでしょうか。性別がわかり、着るものなどの準備を淡々と行い、効率的な世の中があたりまえなのが悲しく思えました。

高槻さんを囲む家族
 4名のお子様とパートナーのきー坊さんが、高槻さんの夢の手助けをしていること。よっぽど理解のある家族ではないと、子供がいて、お金もないのに学校に行き、助産婦になる事を応援してくれないだろう。高槻さんは学校に行くのに、奨学金などをフル活用をし、本はできるだけ買わず、図書館で借りていたそうです。
 他にも内容盛りだくさんで、雪のふる中に愛知から出かけて行った甲斐は十分ありました。これから結婚をし、子育てをすることになると思いますが、パーティーで得たお金では買えないものを大切に温めておこうと思います。 


自分の仕事をつくる! 3/21―豆パートナー・ビブレの前田さん旧宅(大阪・岸和田)にて 岡田 真理(おかだ まり)

 21日、高島さんご一家を含む京都からの参加組7人は、阪急電車、地下鉄御堂筋線、南海電車を乗り継ぐこと約2時間、南海本線岸和田駅に到着、城下町の町屋での豆パーティーにふさわしく、着物姿の前田さんの出迎えを受けました。

 会場となる、前田さんのお祖母様の町屋に行く途中に勇壮なだんじり祭りに使われる、だんじりの格納庫を見たり大名行列の為に整備された紀州街道、所々に残された和風・洋風両様の風格ある建物、少し歩いただけでも京都とは違った歴史と文化の重みを見ることが出来ました。

 昔、質屋を商っておられた名残を残す、細部に日本建築の粋を感じる素晴らしい町屋での豆ランチパーティーテーマは「自分の仕事をはじめる!」今回は、千晶さんがゲストとして自己紹介も兼ね豆料理クラブ設立の経緯や大量消費・販売型への疑問から生まれた商売の話しから始まりました。

 それから各参加者の自己紹介、今やっていること将来の展望など、大きな組織に加わることなく独立を目指している方やすでに着々とビジネス展開されている方がいらっしゃいましたが、皆に共通するこは小さくても自分のペースに合わせた自分の身の丈にあった、仕事をして行きたいと考えている方が多くいると感じました。

 それは個人主義とか利己主義でなくて、自分が気持ちよく納得のいく仕事が出来なければ、他人に対して良いものを提供できないと言うことだと思います。その後、心づくしの豆料理を頂きながらそれぞれがいろいろ語らいながら楽しく時間が過ぎてゆきました。

 前田さん、豆料理の数々とても美味しかったです。そして時間の都合で少ししか廻れませんでしたが岸和田散策も楽しかったです。パーティの場に家を提供して下さり又素敵な記念写真を撮ってくださった前田さんの伯父さん有難うございました。


記念写真 記念写真


共同で仕事をすること―“たべものや”の場合 4/3 瀬戸 淳子(せと じゅんこ)

 今回のゲスト、川内たみさんについては、今更ご説明の必要はないと思います。若草色のベレー帽をかぶられて楽天堂さんに入ってこられたたみさんからは、まぶしいくらいのオーラが発せられていて、私は気後れするものを感じきちんとご挨拶できませんでした。この最初の出会いである豆ランチパーティの前夜祭を含め、私はたみさんと3日間もご一緒させていただきまだ興奮状態が続いているため、今回の報告については今まで以上にうまくまとまっていないと思いますので、参加された皆様には、私の足りない点を是非とも補足いただきますようお願いいたします。なお、いろいろなお話を伺ったのですが、独断でワーカーズ・コレクティヴに限定して報告させていただきます。

 「“たべものや”をやっていてよかったことは、大抵の人とは何とかやっていける、ということを学んだこと、女性が好きになったこと」。たみさんのご感想から、ちょうど今の私の年齢から、ワーカーズ・コレクティヴという形で始められた“たべものや”での12年間が非常に充実した素晴しいものだったことが伺えます。「女性が好きになった」とおっしゃられた後、この話をすると必ず涙が、とあふれるものを抑えられなかったことから、その12年間の重みを感じました。一番年上だから何かあったときの責任は取らなければらないと覚悟はできていたものの頼りないからみんなががんばってくれた、などとお話されましたが、たみさんとお会いして感じる包容力、何かあったときには頼れるという安心感がきっと当時からおありであって、『たべものや』の皆さんが母親に甘えるような感じで言いたいことをおっしゃられ、やりたいように振舞うことができたのではないでしょうか。

  “たべものや”での運営などについては詳細を『たべものやの台所から』(柴田書店、絶版です)に譲りますが、玄米や無農薬野菜などを中心としたメニューをその日に届けられたものから考えるというのは、家で1人で台所を切り盛りするのとは異なり他の人のアイデアを参考にできてとても楽しそうです。皆さん専門は他におありで食についてのプロがいらっしゃらないのに飲食店を始められたのは、「食」というのは生活に直結していて誰もが同じ程度にできるから、とか、「食」のプロの人がお客様としてやってこられ何か言われたらどうしようなどと思っていらっしゃった、など裏の話もお伺いできて得した感じです。

  ところで、『たべものやの台所から』を拝読してから、私は2つの疑問を抱いていました。1つはお金に関することです。「無利息、2年で返済」の債券の発行などというやり方でどうして多くの人から資金調達ができたのか、1ヶ月お休みのときは本当に無給だったのか、資金的に苦しかったことはないのか、など現在の職業柄どうしてもこういういやらしい部分に目が行ってしまいます。以前楽天堂さんからMLにご転送いただいたメールの中で〈お金の問題〉について色々お考えでいらっしゃるという記述があったことより、それとも絡めて色々お話を伺いました。税務署の方(税理士ではない!!)にお金のやりくりについてアドバイスをもらわれたり、雑誌への掲載などを通じて応援してくれる人が多く資金集めができたことなど、時代も味方してくれ(たのだろうとおっしゃってました。)るというかそういう流れを引き寄せるものをお持ちなのだと感心してしまいました。(そんなんじゃないから←たみさんコメントです)

  2つ目の疑問は、なぜこの“たべものや”をおやめになられたのかということです。「うれしいこと、楽しいことを経験できた」という“たべものや”が閉店になったのは、ワーカーズ・コレクティヴがうまく機能しなくなった何かがあったのではないか、と失礼なことを思ってしまったのです。この疑問については、「立ち退きを言い渡された」のが直接の原因であり、「別の場所で続けていくことを考えられなかったのか」と更なる質問に「そろそろみんながほかのことをやりたいと思っていた時期の話であり、立ち退きというのは渡りに船だった」という回答でした。“たべものや”らしい終わり方だな、と思います。クロワッサン(という雑誌)に掲載された記事を拝見しましたが、そのときはもう閉店することが決まっていて(取材を受けた2年後に閉店)取材を受けるのがつらかったとおっしゃっていました。閉店するまでに相当な期間があったということになりますが、クロワッサンに取材された当時切り盛りされていらっしゃった4人の方々は(含むたみさん)どのような思いで過ごされたのでしょうか。

  たみさんのお人柄に参加された皆さん魅了されて、時間となっても席をたたれずお開きとなったのは18時を回っていました。会場を提供してくださったヒサコさん、ありがとうございました。今回の豆ランチパーティの場所としてはまさにうってつけだったと思います。このような機会を設けた下さった楽天堂さんにも感謝申し上げます。それから、今回参加された皆様、お会いできて嬉しく存じます。食いしん坊の私は皆さんがおつくりになられたものを一通り頂きましたが、いずれもおいしくてかなりおかわりしたのではないかと思います。


豆パーティー&田植え at 伊那 5/14・15 小俣 恵津子(おまた えつこ)

1日目
  いつものランチパーティより、少し緊張した面持ちで、いつもの様に直感で旅行に単独で参加しました。これから私はどこに行くのだろう?伊那ってどこ?誰が来るのだろう…心細かった中から始まった旅行でした。でも心細かったわりには参加することに躊躇はなかったんです。今は自分の直感に感謝してます。

  高速バスで伊那に近づいていくにつれ、大きな日本では見たことがなかったでっかいでっかい雪をかぶった山が目の前に現れました。ここは日本!?と世間知らずの私は感じました。目的地の伊那市は南アルプス、中央アルプスが一望できる場所でした。言葉にならない感覚です。広大な畑、自然、そこに住む人々。自然と共に生存しているということが感じれる所でした。

宿舎・ロッジ吹上
  絵に描いたような建物でアッチャッパーといった感じでした。素敵でした。経営している節子さんもとても深みのある女性でもっとお話してみたいなぁと感じました。内装は木で出来ておりとても居心地のよい空間です。お風呂は独り占めしたのですが、これまた木で出来ている落ち着くお風呂でした。もう一度訪れたい、また来ます!と節子さんに宣言してかえってきました。

ロッジ吹上 ロッジ吹上

ワイルドツリー・平賀邸
 これは、人の住む家!?!?これが最初の印象です。これまた絵に描いたような建物でロッジ風でした。お庭には子供が四人乗れる、大人が一人寝れるハンモック、木にくくりつけているブランコ子供も大人もみなおんなじにはしゃぎました。バーベキューも楽しめるお庭です。最終日、温泉のあとお庭で豚汁、おにぎりをいただきました。おいしかった!そして、どなたかが言われていましたが、平賀邸の敷地内か?と思わせるほどの至近距離に誰でも乗れる乗馬広場、ダチョウ広場がありました。こんなに身近に動物を毎日見れるってこれどうよ!?といった感じでした。

豆料理パーティ
 さて、だれが来るのだろう…どうなるかしら?と不安もありましたが、正直豆ランチが大好きな私にとってこれから出てくるお料理の方が気になっていたというのが本音です(笑)お料理、私が心に残ってるものを紹介してみようかと思います。トマトとお豆のスープ(正式名称じゃなくてすみません(涙))、豆ご飯(これがうまい!)、酵素玄米(これまたうまい!!)、お豆を使ったグリーンカレー(辛すぎた!)お豆腐を使った郷土料理(寒天を使ったもの)きなこクッキーと、それはそれはみなさん現地の方で集まられた方が一家庭につき一品というくらいの勢いで持ってこられ、机はほっこりあったかいお料理がずら〜っとならんで、蜜蝋のろうそくに照らされきらきらしてました。ひとりずつ自己紹介をしました。初めて会うはずなのに初めて会った気がしないというのは、類は友を呼ぶといいますか、楽天堂さんの醸し出す雰囲気に同調した方々が吸い寄せられるように集まったからだろうと思っています。共通の何かをお互いが感じあっていて調和がとれた空間だったように思います。料理もひとしきり終わり、パーティも終盤、美恵(よしえ)さんというプロの歌い手さんがご自分の曲を披露してくださいました。美恵さんはある日突然頭にメロディーが入ってきてそれ以来ギター片手に歌い手さんになったという素敵な女性です。みんなの気がひとつになったようなそんな気がしました。広がりのある包み込むような清涼感、声量のある声でした。伊那に住む参加者はそれぞれに自立しており、まっすぐに裏表なく生きていました。夢、思いを実現し、志をもって前に向いて進んでいるんですね。とてもうらやましく思うと同時に、安心感、充足感も沸きました。

豆ランチパーティー 豆料理パーティー

 酵素玄米について少しお話します。節子さんが大きな炊飯釜で炊いて下さった、酵素玄米。酵素玄米は玄米を醗酵させて消化吸収しやすい状態にしたものだそうです。小豆と一緒に炊くのですが、これがうまいっ!!!ぜひチャレンジしてみたいなぁと思いました。節子さんありがとうございました。

2日目
 ロッジ吹上で昨日の宴の残りとルバーブという植物のジャム、瀬戸さんの作ってこられたイチゴと甘夏のジャムをパンにつけ食べました。あいにくの雨模様にも関わらず、田植えやる気満々の私でした。それは平賀さんも同じでした。当初、伊那旅行の目的は三つあって@豆料理を食べることA田植えをすることB温泉に入ることだった私にとって田植えは譲れませんでした。かっぱを着て、子供も大人も手作業でなんともいえない渓谷での田植え。とても気持ちが良かったですよ。雨は降っていましたが、だんだんにあがって、雨降りのあとはいろんなものが洗い流されたようで自然がいきいきときらきら見えました。なんともきれいでした。

  農作業後近くのみはらしの湯という温泉にいったんです。これまた気持ちよかった。天気がよければ南アルプスを一望できるようです。はぁ〜、もう一度入りたい…

  京都から高速で4時間ほどでこんなすてきな場所にこれるのだと感動しました。多くの出会いもありました。大自然と触れ合うことによって気付くこともありました。次は稲刈りですね。みなさんとまた楽しめたらと思います。あと、ひとつ私的考えですが、京都に戻って感じたことがあります。排気ガスがくさい、車がうるさいなど伊那にいるときには感じなかったことを多く感じていることに気付かされます。こんな話があります。お水に「ありがとう」といい続けると水の結晶がきれいになる。「ばか」と言い続けると水の結晶が歪になるという話…少なくとも私は伊那にいる時、「きたない」「くさい」などという言葉は心の中に持ちませんでした。自然に香る臭さや汚さというものは感じることはあってもとてもごくごく自然だったのです。車だらけの中で、排気ガスまみれになって、みんなが急いでて…その中で抱く「汚い」「臭い」という心持ちでいるのと伊那で「きれい」「すてき」って感じて生きるのとでは体の90%以上を水が占める人間の細胞レベルで考えればだいぶ違うのではないか、とよくよく考えています。何か構えなくても伊那では自然にそれが体感、共感できてしまうんですね。ただ、気の持ちようということもあるのでその人次第だとは思うのですがいつも心の中に「きれい」や「気持ちいい」や「美しい」という感覚、言葉をとめて置きたいな、と感じる今日この頃です。


【ロッジ吹上】 〒 399-4501
長野県伊那市西箕輪吹上905−3 TEL 0265-72-2788
一泊 朝食付き5000円 朝食&夕食付き7000円
*バリアフリー&食事は無農薬野菜を使用しています。主の倉田節子さんは伊那市の市民派市会議員でもあります。
【ワイルドツリー】
オーストラリアから輸入したみつろうキャンドルを販売
長野県伊那市西箕輪3883−3  TEL 0265-73-0638
ホームページ http://www.wildtree.com.au/


もっとオーガニックコットン! 5/26 小倉 直美(おぐら なおみ)

糸紡ぎワークショップ
 豆料理を堪能してお腹いっぱいになった後、メイドインアースの前田さん指導のもと、ワークショップは始まりました。

 まず最初、まだ種の付いているフワフワの棉から種をとる作業からスタート。(ちなみに、種のついているのは「棉」で、種がとれると「綿」になります。)種が繊維にしっかりとくっついていて、思ったよりも大変な作業です。そこで、「綿繰り機」なるものが登場! ハンドルを回すと二つのローラーがクルクルと回り、その間に種つきの棉をはさむと、種は手前に落ち、綿のみが向こう側へ。「すご〜い!」と皆さんの歓声が。昔の洗濯機(脱水?)のしくみと同じだそうです。

 さて、やっとの思いで種を手作業でとりのぞいたら、絡み合った繊維をほぐし、うすーく四角の形に伸ばします。それを端からクルクルと巻いてチクワのような形に、これを「篠(しの)」といいます。左手に篠をもって、右手で篠から繊維を少しずつ捻じりだし、撚りをかけていくと、不思議なことに繊維同士が絡まりあいながら一本のヒモになっていくのです。

 こうやって糸はできていくんだ!ということがわかったところで、「スピンドル」が登場しました。スピンドルはコマのような形をしていて、糸を紡ぐ道具としてはおそらく最も古いもの。不思議なことに世界各地に似たような道具が見られます。このスピンドルを使って撚りをかけると、手だけのときよりはずっと楽でうまくいきました。

 スピンドルを使い始めると、皆さん最初は悪戦苦闘していましたが、しばらくするとシ〜ン…としてしまうほど、夢中に。そして、個人差はあるものの、だんだんと紡げるようになってきました。

 以前に羊毛を紡ぐワークショップに参加したときに感じたことなのですが、同じリズムに乗って集中しはじめると、フッと無心になる瞬間があるのです。それがとても心地よくて、ガンジーが糸紡ぎを提唱したのも単に衣類を自給するという目的だけではなくて、糸を紡いでいると穏やかな気持ちになれるからかも、と思いました。

 そのガンジーが作った「チャルカ」という糸車も、前田さんはもってこられてました。チャルカはガンジーのインド独立運動の象徴となった糸車で、コンパクトで簡単に持ち運べ、価格も15,000円くらいとお手ごろです。興味津々の参加者の方もおられました。

 スピンドルで撚りをかけていたものを、さらに道具は進化して、このチャルカが撚りをかけてくれます。左手で篠を持つということは最初から変わらないのですが、撚りをかける右手は、手→スピンドル→チャルカと進化してきました。最初、手だけで紡いでいたことを考えると、このチャルカはすごい回転の速さでスルスルと篠から糸を紡ぎだし、まるで魔法のようです。

チャルカを操る チャルカを操る

 そして、自分で紡いだ糸をいただき、ワークショップは終了しました。子供たちも頑張って紡いでいましたね。山田さんの息子さんが、最後まで粘っていたのが印象的でした。よっぽど気に入ったのでしょうね。ほほえましかった。

 モノを作ることの大変さ、楽しさ、が体験できました。前田さん、お一人でたくさんのご指導、大変だったと思いますが、ありがとうございました。個人的にはハンドカードの使い方と、綿打ちについてお聞きしたかったのに、すっかり忘れていました。

 豆ランチパーティーで、「丹波布」という織物が、ちょっと話題になりました。そのことについて。

 数ヶ月前、よく染織関係の本でみかける格子柄の素朴な「丹波布」という木綿布が気になった私は、「丹波布伝承館」というところへ足をはこびました。
 丹波布はもともとは佐治木綿といって、兵庫県北部の佐治地方で明治末期まで農家によって盛んに織られていた布だそうです。京都方面にも佐治木綿として売られ、多くの人に親しまれていたそうです。

 一度その技は途絶えたのですが、昭和25年頃、京都の市で柳宗悦の目に留まり、産地を探し出して復興させ、「丹波布」と命名したそうです。手紡ぎ糸のふくよかな風合いと、地元で採れる植物(栗の皮・こぶな草・山楊・榛など)で染められた色、美しい格子柄、そして緯糸に絹糸が入っているのが特徴です。

 「丹波布伝承館」では、伝承生の育成をされていて、糸紡ぎ体験や、綿繰り体験、簡単な織り体験もできます。道の駅の敷地内にあるので、車以外だとかなり不便なのが難点ですが。

 私は糸紡ぎ体験というのに行ってきました。地元のかわいらしいおばさんに教えていただいたのですが、「一度途絶えているから、本当のところは分からないけれど」とおっしゃってました。そのおばさんのお友達のお婆さんは、途絶える前の丹波布(その頃は佐治木綿ですね)を織っておられたそうです。また、古い蔵から出てきた昔の人が紡いだ糸をお友達からもらったところ、それはそれは、素晴らしく細く美しく紡がれた糸だったと話してくださいました。そのおばさんも、十分美しい糸を紡がれるのですが。ほんの数世代前まであたりまえのように家庭で布が織られていたことが実感できるお話でした。

 伝承館には、新しいものから古いものまで、いろいろな丹波布が展示されていましたが、やはり途絶える前の、使い古されてクタクタになった色あせた古丹波布がいちばん素敵でした。

 時代を経た古い道具や衣類などは、それを使っていた昔の人の暮らしを垣間見られるような気がして私は好きなのですが、今の時代、私たちが使っている生活道具が100年経ったら味わいのあるものになるんだろうか?なんてことを考えてみたりします。

 最後になってしまいましたが、会場を提供してくださったひさこさん、ありがとうございました。噂にきいて想像していたよりもすっごい町屋で、びっくりしました。でもどっしりとした安心感があって、心地よかったです。家は住人に似る?住人は家に似る?そんなことを考えながら、帰り道、自転車をこいでました。


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