第22号2003/03/10


楽天堂・豆料理クラブ 京都へ


楽天堂は3/27より京都市上京区へ移転します

無々々:不動産屋さんとの契約も終えて、後は春休みに入って越すばかり。引っ越しのアレコレ細々したことを考えると頭がいたくなっちゃうけれど、ぼちぼちやりましょう。向こうの家の収納スペースが狭いのは難点だけど、ここは逆ヤドカリズム宣言!必要に応じて広い家、大きな家を求めるのじゃなく、はじめからあるその場にあわせて持ち物を整理する。これは21世紀のライフ―
千晶:ムーさんはいいかもしれないけど、人間には思い出というものがあるのよ。おいそれと捨てられへんわ。
無々々:ヤレヤレ。はじめから夫婦喧嘩じゃ、犬も食わぬ、と。ま、荷物の整理は時間をかけてやりましょ。
千晶:山口になじんできてなんでって聞かれたら、ムーさん、どう答えるの?
無々々:山口ではエコロジーマーケットというか、購買層がどうしても限られてしまう。インターネット通販なら場所を問わないけれど、通販だけではこれまた広がりがもてぬ。楽天堂の発展のためにはお店をもたなければ、お店をもつなら都会へ、都会へ行くなら僕が整体の勉強を続けられる京都へ、というのが説明の流れだね。
千晶:私は自然の残っているところがいいなあ、今でも。
無々々:家の前の溝に蛍が飛ぶ、山口と比べちゃあね。町中も町中、自然といえば神社仏閣、公園か、我が家の坪庭。人の手で管理されたものしかない。そこを突かれると答えに窮すよ。
千晶:山口では近所の人からよく野菜を分けてもらったり本当によくしてもらった。子ども達も可愛がってもらったし。ほんまに離れがたい。
無々々:そうだね。京の町家といえば狭く暗い、が通り相場。玄関や店の間は南に面してお客様のためのもの。物干しや庭は北向き。布団が日に干せないっていうのは、僕にとっても断腸の思いだよ。
千晶:へんな執着。もっと子どものことも考えて下さいよ。お店のことも。
無々々:考えてます、これでも。ところで京都の町中は過疎化(高齢化?)が進んでて、菜芭の通う仁和小学校も1学年1クラス。でも和室の教室があったりビオトープを設けていたり、と面白そうだね。
千晶:私がうれしいのは、北野商店街が目と鼻の先だったこと。『京都人だけが知っている』(洋泉社)の著者の入江さんも、一日だけしか京都にいられない観光客はここへ連れていく、ここの京野菜を買ってお土産にもたせてやる、って言っている。錦町市場が有名だけど、京都一新鮮で安いお野菜は、北野商店街の下の森センターなんだって。
無々々:あなたにとっては、豆と野菜が命、だもんね。
千晶:暮らしやすさもそうだし、そういう個人商店がまだ元気な街って健全だと思う。大きなスーパーでしか買い物できないのは子どもにとっても味気ないなあと思うもん。
無々々:地域力、ひろく言えば文化の力かな。僕が京都へ移りたいのも、商売上の理由もさることながら、奥の深い伝統文化の中で暮らしてみたい、という気持ちが大きいな。家や街の造り、言葉や振る舞い、人間関係の持ち方・・・それらに共通する身体運用に興味シンシンです。
千晶:私は、まあ、しゃあない、心機一転がんばろうって気分。新しい土地で商売するのはドキドキする。でももともと八百屋さんだった古い町家に豆、スパイス、フェアトレードの雑貨を並べるのは楽しみ。豆料理クラブハウスもオープンできるし。ムーさんもメダカをどこで飼おうかなんてことばかり頭を悩まさないで、しっかり働いて下さいよ!!
無々々:小説に整体の勉強にお仕事。がんばります。
千晶:なんやその順番!?


春の楽しみ 縫い物・陶芸・パン作り (佐藤 浩子)


 暖かくなってくると冬眠から出てきた虫のようにもぞもぞと動き出したくなる。外に出かけたり体を動かすのはもちろん、私の場合、無性に縫い物がしたくなりミシンを踏む。手仕事を思い浮かぶようになると春。
 まずは子供服。問屋街などで前から集めておいた布を子供と相談して「春の新作」作り。最近はポケットをつけろだの緑じゃないと駄目と注文がうるさい。電車を模して一緒にデデンとミシンを走らせる。
 事の始まりはズボンを買いにお店に行ったときのこと。よちよち歩きの赤ん坊のズボンがジーンズばかりで驚いた。ポコンと飛び出た信楽のたぬきのようなおなかに堅い生地と金属のボタンやファスナーは何とも辛そう。漏らしたときに着替えにくそうだし…Doorsのジム・モリソンだったか、おしゃれのために汚いジーンズを家の外に隠しておき、濡らしてから履くことで体の線にフィットさせたとか。でも漏らす赤ん坊にジーンズはおしゃれをさせたい大人が履かせたいだけなのでは…一方上着は圧倒的にフリース地が多く、かゆがって全然着てくれなかった。今は平気になったが当時はかゆくてぐずると周りが大騒ぎ。「アトピーでは」「病院に行って薬を塗ったほうが」ものを言えない赤ん坊の訴えはもちろん、周りの不安解消のためにも手を打たなければ。
 最初は本の型紙からおこしていたが、やっているうちに適当に切って合わせればいらないことに気づき、そこら辺にある帽子やシャツなどを真似てたくさん縫った。素材も買うばかりでなく、夏ならサリーを切って帽子やゆるゆるのパンツ。冬は大人のニットやコーデュロイのズボンをじょきじょき。「あっこれ、ママのとおんなじ」…ではなく、着なくなった物をリサイクルすることも。例えば大人の長袖部分を子供の長ズボンにすると縫う距離が短くなる。
 凍らなくなれば陶芸も。かれこれ10年経つが、子供がいて無理とあきらめかけたがそんなことはなかった。休みの日に子供と粘土の再生。泥んこ遊びが思う存分楽しめる。失敗した器を子供が夢中で壊しては水に浸ける。普通なら一度にする行程でも、仕事の後時間がないので今日粘土をこねといたら明日ろくろを引いて、天気がよければあさって削って…という具合(30分陶芸と呼ぶ)。だから多少削りにくい堅さであろうと高台の形が気に入らなくとも時間内でできる範囲でやる。大皿一つだけとか。それでも結構楽しい。
 そして今年始めたパン作り。大学時代、昼間パン屋で働く友達に窯場を覗くと必ず「今度パン焼かせて」と冷やかされ、以来ずっとやってみたかった。偶然まめ料理クラブのレシピにあったパンを見て「千晶さん、オーブンなくてもパン焼ける?」…と紹介してもらったのがお鍋で焼くパン。載ってるレシピは皆美味しく焼けた。めんどくさがりの私でも簡単にでき、パンを買わなくなってしまった。これも子供が「よもぎとバジルを入れて緑にしよう」などとかき混ぜたり協力?してくれる。

[お鍋パンの作り方]

特別に用意するもの:直径18cm、高さ7−8cm程度のふたつき鍋・魚を焼く金網・コーヒーなどの小さい空き缶orトイレットペーパーの芯・アルミホイル
下準備:1.空き缶かトイレットペーパーにアルミホイルを巻き煙突を作る。
2.鍋とふた、そして1の煙突にパンの分量とは別にバターを塗り、鍋の中心に煙突を置く。
パンの焼き方@400−500g程度の小麦粉の量で普通にパン生地を作る。
A@の生地を4つに分け空き缶の周りに敷き詰める。
B金網の上に鍋を置き、弱火で30分程度焼く。
Cひっくり返して5−10分焼く。


 以上すべてに共通していえることは出来上がりの美しさはあまり考慮していない。あくまでもゼロから始め、何が出来上がるかわからない作業を楽しむ。かかった時間をお金に換算しない。「そんなことしなくても綺麗なお皿が100円で買えるじゃないの」という人にあきれられるのだが、やめられない。買い物する楽しさよりエネルギーを使うからか?
 そして子供と一緒にやっていると、とんでもない新たな発想を生み出す。
  作った物を見て子供が「これ買ったの?」を連発するとき、買うのが当たり前と思われているのがちょっとしゃくにさわった。「あのね、買うばっかりじゃなくておうちで作ってみたの」以来、これはどうやったら出来るのだろうかと話し合うことも。子供もガラクタを積み上げて何やらこしらえている。うっかりかたずけると恐ろしい。
 さあ、今日は何をつくろうか?

本の紹介『わら一本の革命 粘土団子の旅』(福岡正信著 自然樹園)

 「日本人なのに知らないの?」だいぶ前、インドで福岡さんの自然農に取り組むフランス人にあきれられた。灯台下暗し。村の本屋で英語版を買ってから気になり続け、最近自費出版の本を見つけた。たくさんの写真で土地の変化がわかりやすい。団子を作ってみようと子供と種集めを始めたところ。これは何の種かなーと子供が洗いながらわくわくしている。〈東京都多摩市在住〉

『わら一本の革命 粘土団子の旅』

だけど、どうすればよいのだ―教師が音を上げるとき 
(広瀬 かおり)      


 「今の若い奴らときたら。」
 これは20歳の高専の学生が言った言葉である。私は公立の中学校に勤めている。ある日、遊びにきた卒業生が、15歳の新入生に対して「俺たちとは違う」と言うのだ。いわく、指示が出るまで動かない。覇気がない。根気がなくて、すぐあきらめる。うんぬん。その時私は「何、おっさんくさいこと、言ってるん」と笑いながらも、ここ10年ぐらいで大きく変わったなあと心の中では同意していた。
 子供たちだけではない。親たちも変わった。
 例えば、万引きをして、つかまった場合で考えてみる。一般的には、親に生徒を引き取ってもらうのだが、親に連絡がつかない時、または最初から学校に引き取ってもらいたがる店ならば、教師が出かけて学校に連れ帰る。土日であろうが、勤務時間外であろうが、教師の家や携帯には電話が入る。学校に連れ帰って、まさかそのままにはできないので、私たちはこんこんと万引きはなぜ悪いかなどと、説教をたれることになる。そして、親が学校まで迎えにくるのを延々と待つ。
 昔の親に多かったのはこのパターンだ。たとえ、仕事の途中であろうが、慌てて学校にやってきて、子供を叱り飛ばし、教師に頭を下げる。店にもすぐに謝りに行った。子供たちは、親が怒ったり、恥をかいたり、嘆き悲しんだりする姿を見れば、二度とはやらない。
 最近は変な家が多い。「今、出先なんで、迎えにいけません。」と平気で言う。学校まで来た場合でも、「なんで、いちいち学校で指導するんですか。つかまったことで、この子は十分傷ついているんです。」と,教師に食ってかかる。別に私たちだって好きでやっているわけでもないのだが。また、そこまでひどくなくても、何日たとうが全然店に謝罪に行かないので、理由を尋ねると、「たかが万引きでしょ」とか、「恥ずかしいし、私がしたことではないので」などという返事が返ってくる。謝罪に行っても、子供は“かわいそうだから連れて行かない”のである。
 親がきちんと叱れない。子供を愛するあまり、過保護になりすぎる。子供と対決するのを恐れる親もいて,「そんなことを言って、嫌われたらどうしてくれるんです」と言って、叱ることなど損な役回りは、教師に押し付けようとする。そうやって、自分のしたことに責任のもてない子が増え、何度も万引きを繰り返す。
最近の子には、万引きしたことを親に言えなくて、自殺を図る場合もある。万引きは犯罪であるが、自殺よりましで、二度としなければ済む。それが通じない。
 今の中学生は『親の前だけきちんとしてたら、いい』と言う。学校でどんないいかげんなことをしていても、親の前でいい子にしていれば、親は安心しているらしい。確かに百聞は一見にしかずではあるけれど、人はいろいろな顔を持つ。私だって職場での顔、家族といるとき、友達と話すとき、いろいろ違う。生徒たちだって同じだろう。なのに、親たちは言う。『家ではいい子なんですけど』。万引きしても、友達が悪いなどと人のせいにする場合もある。ゲームで育った世代は、命をリセットできるように感じ、軽く考えているから自殺する。そして、それは子供にとっては「小さいときから、親の望むように演じてきたのに、負の部分を見せられるか。」という、親にとっては子供のみっともない部分を見ることのできないという、弱さの現われなのだ。
 親も子も権利を激しく主張する。掃除をサボる権利、授業中に騒ぐ権利。だれだれが嫌いだからといって、しつこく嫌がらせをし、つまはじきにする権利。人に迷惑をかけても平気だし、自分を不愉快にさせた相手が悪いと言う。なんでも学校のせいにして苦情を言ってくる。個性と野性をはきちがえ、自分勝手なことをする。そのくせ、自分が仲間はずれにされたり、自分がやっていること(例えば物をつぶすなどよくないこと)を途中でやめさせられたりしたら、キレルか、つぶれてしまう。失敗を極度に恐れ、人と違うことをする勇気はない。非常に未熟で脆弱な自我しか持たない。
 教師の中にも、「生徒に腹を立てさせることは言ってはならない」とか「子供はすべて善なるもの」とかいうお子様教の信者はいる。生徒と対立することを恐れ、迎合する。マスコミも子供の人権といって後押しする。
 しかし、人間なんて、よいこともするが、うそもついたり、悪いこともしたりする。人の心なんて、太古の昔から、複雑で奇妙なものではなかったか。それに、失敗して初めてわかることも多いのだ。人と対立したり、なじめなかったりすることで、自分と他人との違いを知り、成長する。子供は子供の世界を作る。大人がかばうばかりでは育たない。集団の中で、傷ついたり、傷つけられたりして、優しさを知り、自分の輪郭をつかむのだ。
 マスコミや親に批判され、私たち教師は腹立ち紛れに、「どうせ私たちは3年間のお付き合い。最後に責任をとるのは親だもんね。」などと口走る。生徒の成績は家庭環境と塾に通っているかどうかによって決まるという研究結果もある。でも、あと十何年かすれば、この子達が次の時代を担い、親となっていく。このままでは学校崩壊どころか、日本崩壊になりかねない。
 大人も子供ものびのびと暮らせるような、失敗を許せるようなゆとりがある社会であってほしいと思う。家庭を批判するだけ、学校を批判するだけでは、何も解決はしない。犯人探しをしてもむなしいだけだ。だけど、どうすればよいのだ。
 昔の親が、人間としてそんなに優れていたわけではないだろう。経済的に苦しかったことや、地域の支えがあったことが大きい。現代は、地域の力が弱り、父親は育児に参加しない。仕事が忙しいのか、学校に来ることなどない。母親は一人で奮闘している。そして、自由や人権や子育てについて、多すぎるほどのいろいろな情報が入ってくる。
 すべての人を完全に満足させる教育などはない。昔に帰ることもできない。私たちはどこへ向かっているのだろう。闇夜にほふく前進をしているように先は見えないのだ。〈大阪府在住〉

樫のむら日記 その5 (ゆら)
砥石


 ひょんななりゆきで実習生の面倒をみることになった。少し専門の違う大学院生で、私の仕事の活動の一部に関心が重なるということで短期間だけ配属されてきた。私は学生を受け持つのはこれが初めてだ。
 最初の指導ミーティング。何といっても威勢がよい。期待の表明や疑問・質問、実習内容についての要求などをそれこそ鉄砲玉のように飛ばしてくる。私の対応はというと、その場で手短かに説明して解決をつけることもあり、これこれの立場からこういう主題で書かれている本を読んでごらんと勧めることもあり、あるいは尋ねられるままに私の考えや方法論を語りはするものの、何年か試行錯誤をして初めて(私のとは違うであろう)自分のスタイルをうちたてるだろうなあと、一心にノートをとるその学生を見ながら内心思っている瞬間もあった。
 彼女が次の指導ミーティングまでの1週間に調べたいこと、計画・実行したいことでぱんぱんにふくらんで去って行ったあと、私は、学生の面倒をみるという新しい役割をまずは一通りこなしているという事実にはっとした。はて、どこでどう学んだんだろう。
 思いあたったのは、今まで私を指導してきてくれた人々をモデルにして1時間半のミーティングに臨んでいたということだった。質問をどう受けどう応えるか、どのように技術についての助言をするかはもちろん、初心者特有の高揚をいかに方向づけるかに至るまで、ああそういえば、誰かを指導するのはこれが初めてだけど、今までいろんな人に指導してもらってきたなあ。あんなふうに話を聞いてもらったとき目ざしたい方向が見えたっけ、ああ言ってもらったときは次にやりたいことがやれるようになるまでちょいと辛抱する気になれたんだった、あのときあの人が自分のプロジェクトについて情熱をもって話してくれたときには、ひたすらすがすがしくて、あの人のように10年20年と経験を積んだらあんなによい仕事をしていたいものだ、と元気づけられた・・・。そんなさまざまな面倒をみられた経験の中に面倒をみるときの役割モデルが埋もれていたのだった。

 『身体感覚を取り戻す』(日本放送出版協会)という著書の中で齋藤孝は、磨く、研ぐ、といった作業が現代日本の日常生活の中に少なくなってきたことにともなって、「技を磨く」「研鑽を積む」「切磋琢磨する」などの言語表現も廃れつつあると述べている。裏を返して言うならばこれらの表現するイメージが生活において想起されることが少なくなってきていることにほかならない、という。にもかかわらず、研ぐという行為は生きる姿勢の原型であり、齋藤は、砥石が研ぐという行為に不可欠であることを手がかりとして、人間が社会生活や芸術、武術、スポーツなどの分野における探求において「砥石」を設定することで技や自分という人を錬磨している例を挙げている。

 毎週の指導ミーティングのあとで、面倒をみられた経験、「砥石」と関わってきた経験、そしてそれらが単に技術の研鑽のみならず、もっと深いところで私に影響を与えている事実にあらためてむかいあうたびに、自分が(この場合職業において)よい砥石に出会ってきたことを幸運と思う。いかに学生の面倒をみるかという新たな課題のもと、経験を再訪するとき、それらの砥石はその時点にはなかった新たな役割モデルを担ってすらいる。
 ちなみに、その学生の矢継ぎ早の質問や意見表明は今のところ勢いおとろえる気配もない。現時点での彼女に伝わるように応えるのが私の目下の課題であるという意味において、彼女もまた私の砥石であることに間違いはない。〈アメリカ・ウイスコンシン州在住〉


本屋で見つけた本(6) 忘れてはいけないこと
『黄色い本―ジャック・チボーという名の友人』
(乙益 由美子)


 どうして最近漫画を読まなくなったんだっけ。本屋の棚に久しぶりに『ユリイカ』を見つけたと思ったら「特集高野文子」。ずいぶん長いことこの人の漫画を読んでいない。『ユリイカ』を立ち読みしていると『黄色い本』という知らない本の紹介が出ている。気になる。しかしこの山口でどうしたら読めるのかしらん。ご近所のHさんにその話をしたら、それならウチにありますよ、と言われた。遠くの本屋さんより、ともだちだ。わくわくして借りて読むと、すっかり忘れていたものが、ありありと思い出されてくるのだった。
 
 高野文子は、漫画家だ。『ユリイカ』の特集号をあちこち読んだが生年不明。けれど対談などの様子からわたしと同じ位の年齢らしい。『絶対安全剃刀』『おともだち』『棒がいっぽん』などの作品集がある。中でも、「田辺のつる」という作品は老女つるさんが自分を小さな女の子だと思い込んでいるその姿のまま漫画に登場している話題作だった。「田辺のつる」の載った『漫金超』を飯田橋の文鳥堂で買ったのは、もう20年以上も昔になった。

 『黄色い本――ジャック・チボーという名の友人』と題されたこの本は、実際に黄色いカバーに覆われた黄色い本だ。主人公の実ッコちゃんは、雪の地方に住む高校生で、『チボー家の人々』を夢中で読みつつ暮らしている。主人公が全5巻を読了し、図書館に返却し就職していくまでが描かれている。
 実ッコちゃんは、あまり表情がなく、カワイクもない。瞳に星もとばないし、キラキラする場面もない。わたしには、実ッコちゃんそのものが『チボー家の人々』のジャックの幻と同じように線が細く描かれているように思われてならない。
 それでも、わたしはこの漫画を読んで、わっと泣いてしまった。本に夢中になっては今日のいまにふりむき、今の今から本をふりむき、しながら暮らす時間。物語と読む人との関係がここまでつぶさに描かれているものを、はじめて見たので。十代の頃はとくに、物語の世界に入り戻ってくることが難しく、めまいや微熱を伴い、どこか知らないところをさまよっているような感覚があった。そこには同時にひどい孤独が渦巻いていた。それが静かに漫画の中にうつしとられているのを感じたからだ。わたしがそのようにして読んだ本は、『チボー家の人々』ではなかったけれど。
 もう一つはっきりと描かれているのは、実ッコちゃんの周囲のこまごまとした人や家の様子だ。本を夢中になって読んでいた時、きちんと見ていなかったかもしれないもの、母親の寝巻の形や柄、畳だけの部屋、父の被っている帽子の型。そういったものがしっかり描きこまれていて面白い。笑われそうだけれど、母親の寝巻姿は小倉遊亀風に描かれ、実ッコちゃんのネグリジェ横向きのポーズはマチス風に描きわけてあるようにさえ、見える。
 実ッコちゃんのうしろに、すっかり忘れていた少し年上の近所のお姉さんを思い浮かべたし、漫画の背景のはるかかなたで、雨降りの日、踏切を渡ったすぐ左側に、ドレメの看板を見て、ああここにも学校があるのだと眺めた自分を思いだした。

 『黄色い本』の時代設定は、この話の最後の方に『チボー家の人々』の奥付が拡大された一コマがヒントになっている。「一九五六年九月五日初版、一九六六年五月十三日三八版発行」。学生運動の活動家らしい男が、雪の日に不意にあらわれて呟く。「田舎は静かってことだ」。都市部では、学生運動が盛んだったころ、実ッコちゃんは物語の中のジャックと約束する。「革命とはやや離れますが、気持ちは持ち続けます」。
 ここで、もう一度この『黄色い本』を外から眺める。確かに『チボー家の人々』は実際に黄色い本の装丁だった。わたしも実際にそれを読んだ。けれどもしサブタイトルがなければ、わたしならまず黄表紙を連想してしまう(黄表紙とは江戸時代の風刺や皮肉が書かれた本のことだ)。そして思った。この本が郷愁で気持ちがいっぱいになるためだけに描かれた筈がない、と。
 やわらかくしなやかな線のお話の中に皮肉を含んでいる。そう捉えると、ほっとした。三年もかかり、身体を悪くしてまでもこの本を書き上げなければならなかった高野文子を支えたものは、その辺りから発せられたのではないか、と。深読みすぎるといわれても構わない。やっぱり、わたしは、この人の漫画が大好きだ。

黄色い本

『黄色い本―ジャック・チボーという名の友人』
高野文子著  講談社 800円


〈おとますみこ・山口市在住・1957年生まれ・主婦・著書に詩集2冊・自分の生活から遠いところで書かれているものから読みとることこそ,読書のすごさと痛感するこのごろ。最近いろんなジャンルの本に意欲を燃やしている〉
 

町家で暮らすということ エピローグ (高島 無々々)


 2月下旬、楽天堂の借家の契約を済ませた足で、京町家情報センターの事務局長をされている松井さんに会いに行く。松井さんは脱サラして〈住まいの工房〉という設計事務所を営みながら、NPOを母体に生まれたこの会の運営に携わっていられる。
 事務所の1.3m四方のテーブルに対座して(この数字には意味がある。松井さんによると、1.5mが人間が「自分の範囲」と感じられる距離だという。四畳半の茶室に二人が向かい合うとちょうど1.5mの半円が重なるが六畳ではこうはいかない。これ以上離れると隣の人と話すようになり、また満員電車のように密着しすぎていても不快になるという。工房のテーブルは8人が座って誰とでも親しく話ができる大きさだそうだ。書斎や個室を設計する際も、松井さんはこの数字を念頭に置いているという)。いろいろお話を伺った。テーブルの中央には炉が切ってある。町家を改修して使っている事務所の中で、炭火がほっこりと温かい。
 町家に住むことの意味は突きつめれば次の二つに集約されるのではないかと、私は松井さんのお話を聞きながら思った。
 一つは世界を感じられることである。この〈世界〉には自然と人が含まれる。町家は基本的に夏の暑い盛りをどのようにやり過ごすかというポリシーで設計されているそうだが、じっとりと汗がにじみ出る盆地の夏に、坪庭から吹き込む一陣の風に涼味を感じる。集積された都市生活の中に高密度で人間が暮らすこの街には、野生の自然はない。であるからこそ(逆説的だが)人間の感応力が研ぎ澄まされ、文化としての自然が生まれるのではないか(松井さんは「宇宙に開かれる」という表現を使われていたが)。〈世界〉と交感する身体は、他者という自然とも微妙な距離を保つ(言葉で、身振りで、日々の暮らしのありよう全般で)術を磨いていったのではないだろうか。
 これは日々私(たち)が整体の稽古を通して追究している課題である。お茶を習われているという松井さんは、お茶を点てている時に、茶筅と練り茶と自分が渾然一体となって「ありがたい」という思いに包まれる体験を語られていた。私(たち)が求めるのも、手を当てる――当てられる、感じる――感じられる、という彼我の境界(バウンダリー)を越えた〈世界〉である。
 もう一つの意味は、受け継ぐということである。町家は基本的に木や土という還元され再生されるもので造られている。柱の一部が腐れば新しい木を当て、壁がへたれば塗り直す。そうやって代々、何年も何年も住み継がれてきた。修繕の思想である。枠組みは既に決まっていて、それを継いでいくというなかでしか“自分”を出せない。これは制約だろうか、それとも可能性たりうるのだろうか?
 何年か前のまだ整体と機縁がなかった頃の私だったら、この狭くて暗くて暑くて寒い町家に住むことなどノーサンキューだっただろうし、駅から望める京都の町並みに発展というものから取り残された前時代の遺物を、いわばひねもすばあさんの世迷い言を感じて近づきなどしなかった(でも正直に告白すれば、何か得体の知れない魔物――伝統という言葉で言い表しうるような――が潜んでいるような気がして何か惹かれるものを感じていたのも事実なのだ)。
 松井さんは「町家に住むには作法がある」とおっしゃってられた。整体も然り。型である。型なき身体技法はいかなる感応も生み出し得ない。そしてこの型というのは、(広い意味での)師弟関係の中でしか継承しえないものではないかと私は思う。
 私は整体を野口裕之先生に師事している。裕之先生の師は整体の創始者・野口晴哉である。この歴史上不世出の偉人といえども私は(私のようなつまらぬ人間の言うことは、ダンゴムシの糞と、聞き流して下さい)継承者に過ぎぬのではないかと思える。あるいは、私が敬愛する捨て聖・一遍上人や仏陀といえども、ある受けとったものを、渡していく存在・・・。それでは、何を?――生命、ということなのだろうか。
  「その人の身体には人生が刻みこまれている。腰が痛いのは、人生が腰痛を病んでいるのである」とは裕之先生の碧眼であるが、その伝で言えば、私は懐古趣味でもなければ建築フリークでもない。数十年の人生の選択として、創造するためにここに来た。私の期待したものは得られないかもしれない。期待してなかったものと出会えるかもしれない。肚をすえ、腰を入れて、せいのお、春だ、ヤッホー!

【京町家とは?】
 楽天堂がお世話になった不動産屋・エステイト信さんでは京町家を次のように定義している。(以下同社ホームページより引用させていただきます)。
 
 京町家は平安時代中期に起源を持ち、現在の形の基礎は江戸時代中期に形成された。その後、マイナーチェンジを重ねて、大正末期から昭和初期に完成された。特徴としては、以下のことが挙げられる。
★伝統的軸組(じくぐみ)構造。柱や梁など、木造の構造部材が化粧材として内部空間にも現れている。特に、通り庭といわれる、表から裏の庭まで細長く続く土間部分を見上げたときに見える木組や平入りの軒を支える木組に特長がある。柱は石の上にのっている。
★外壁が表通りに面し、隣の建物と近接して軒を連ねている。これは、都市住民が都市の中で高密に住まい、商いあるいは生産する職住一致の建物であることによる。
★外観の特徴としては、瓦屋根・大戸(おおど)・格子(または出格子)・虫籠窓・土壁などが見られるが、商売の内容によってはこれを満たさないものもあるので、全てが必須とはいえない。基本的には2階建であるが、古い建物は平屋や厨子(つし)ニ階のものが多い。
★内部は通り庭に沿って部屋が細長く続き、奥に庭がある(敷地面積の関係から庭とはとうてい呼べないほどの小エリアのものもある)。比較的大きな商家では、坪庭や離れ、蔵があったりする。織屋建では、別棟の作業場がある場合も。
★建築年代は、建築基準法や消防法他の関係から昭和25年以降のものは上記の条件を満たすことができなくなってしまっている関係から、それ以前のものとなる。


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