第18号2001/12/01


木の命を生かす(小野 良夫 )


 「木工の仕事は、木の持っている本来の良さをいかに出してやるかだと思っています。だから自分に出来ることはほんの少しで、木がより良い姿に生まれ変わるのを手伝ってやる程度のことのようです。それに、純粋な木工芸のような木のいい所だけを取って、あとの端切れを捨ててしまうようなことは性に合わず、何とかして端切れの部分も使いたいと思っています。元来が材木屋の出身だからか、そうすることが、木を成仏させてやることになるような気がしています」(談)
【小野 良夫・プロフィール】
 小野さんは昭和20年倉敷市の生まれ。代々、木に関係する仕事をしていた家系で、曾祖父は山師、祖父は当時の倉敷紡績の工場で使われていた織機のアーム部の木製部品の製作を行い、父親は建築用の製材所を営んでいた。大学を出て、家業の製材所の仕事を継いだが、外材や新建材の浸透で、製材所の仕事に見切りをつけ、昭和57年に会社を整理した。
 その2年の間に、父親が趣味でやっていた木彫りをまねて、まず木彫りを習ったのが木工の仕事を始めるきっかけになった。木彫りの後の技術は全て独学で習得した。ただ製材所時代の取引先に家具、建具屋などがあったことから、そこを隠居した職人に、分からないことがあると、教えてもらったそうです。

おやおや八百屋の本気ィトーク(2) 微笑みのかげにあるもの(ほりお みえ)


 幼い頃「大きくなったら何になりたい?」と聞かれたことがあったかどうか既に記憶にないが、「八百屋さんになりたい」と答えた憶えはさらにない。だいたい25歳になるまでそのような選択肢は私の中には全くなかった。

 高校生の時は、公務員にでもなって趣味で絵でも描くか、と考えるような老成した(?)ハイティーンであった。それがその後いろいろあって、24歳の時に熊本の水俣市を訪れたことが人生の大きな転機になった。そこは「水俣病」で否応なしにその名が知られたところだが、一企業の工業廃水が海に垂れ流され続け、それをプランクトンが食べ、魚が食べ、その魚を食べた猫が狂い死にし、そして本当にたくさんの地域住民が、お腹の中の赤ちゃんも含めて、毒に神経を冒されていった(その多くは地元の漁師さん家族である)。そのヘヴィな現実の中から、「じゃなか娑婆」つまり水俣病が起こってしまったことに象徴される、産業の発展の陰でいのちが犠牲にされるような社会の在り方じゃない(=じゃなか)いのちが当たり前に尊重される社会作りを目指した働き方や暮らし方を生み出そうとするムーヴメントが、早くから起こっていた土地である。その流れの一端に触れ、私もどうせ働くならやり甲斐のある仕事を、と思っているうちに(神様のご意志か、受けた公務員試験は全部落ちた)流れ流れて気がついたら広島で有機農業八百屋を営んでいたという訳。人生におけるプランは、いつ何がどう転ぶか分かんないもんである。

 さて、なんで八百屋さんか?食べることが自分にとって身近でリアリティーのあるテーマだったということもあるが、大地と人間の両方の「健康」に配慮した有機農業に取り組む人々の役に立って、おいしくて安全な食べ物を求めている人々の役に立って、そのおすそ分けで自分も口を糊することができれば、素晴らしいことじゃあないか、という発想からである。もちろん、それを選び取ることのできる出会いや機会が重なってのこと。

 さて、中間業者である八百屋は、作る人(生産者)と食べる人(消費者)との間に立ってモノを流すのが役目である。うちの場合従来型の八百屋さんと違って、通常の市場を通ったモノは扱っていなくて、なるべく直接農家やとうふ屋さんやパン屋さんなどとお付き合いしている。いわゆる「顔の見える関係」である。顔が見える、ということは信頼関係を結ぶということでもある。顔の見える間柄ではへんなやりとりはできない、というモラルの作用がそこに働く。店とお客様との関係でもそうだ。そして、間に立っているからこそ、作る人の側の情報を食べる側の人になるべくお伝えしなければ、と思う。原材料や作り方など直接安全性に結びつく情報はもちろんなのだが、お客様にお金を出して買っていただいている「かたちあるモノ」のかげにある、さらなるプラス・アルファの部分、いわば「作ることの背景にあるもの」こそ、私たちの暮らしの根っこにある大事な要素を含んでいると感じるから。

 たとえば、うちの店にパンを卸してくれている、岩国のパンや楽(らく)さんからお客様へのお便りに、こんな思いが綴られている。
 「岩国市のはずれのはずれ伊房の納屋で小さくパンやをやっています。(中略)小さい時は畑も田んぼもみる人がいててきれいなとこだったのに、あれて竹やぶになりかけていた田んぼが気になって小麦とライ麦を育てはじめました・・・・」

 ここ数十年の間、この国が失い続けている美しい田園風景。そこには美しい水と空気があり、食糧生産の源があり、心のやすらぎを与えてくれる包容力がある。その美しさ・豊かさは決して「あるがままの自然」などではなく、その土地に生き野山や田畑に手を入れて暮らしを成り立てている人の存在があってこそ、なのだ。

 「与えるということに意味があれば、それほど自分が減らされるということがない。(中略)与えることに意味があっても、与えただけのものを補う源泉が何かなくてはならなくて、乳がいつも出るためには栄養を取らなければならない」とは『海からの贈物』(アン・モロウ・リンドバーグ著、吉田健一訳、新潮文庫)の一節だが、食べ物を生み出す源である大地とそこに生き働く人々にとって、いのちの泉が涸れないような栄養が届くように配慮していなければ、気がついたら、もう乳は出ませんでした、ということにもなりかねない。そして、その「栄養」って?

 まずは意識して、そんな人達の作ったモノを買うこと。この場合、お金を払う、というのはイコール「あなたの暮らしと活動を支えたい」というメッセージを伝えることでもある。お金とモノとのやりとりが、食べる人の喜びと作る人のやり甲斐との受け渡しであることを祈りつつ、明日も店を開けるのです。〈広島市在住・有機野菜とオルタナティブグッズのお店  「ひょうたん島」〉

樫のむら日記 その2 状況・2001年11月 (ゆら)


 毎朝条理と不条理のしのぎあいに目を覚ます。
 条理と不条理は定義上共通の言語を持たないので、それはひどくやかましい。
 折にふれ、難なく清濁併せのむ友人を見ながら、この人いったいどう生まれついてるんだろうと感心してきたけれど、どう生まれついた人間もとにかくひとまずは清濁併せのまねば清を清といい濁を濁ということも、清と濁との間に会話を育むことも成しようがない状況である。
 私は挑まれている。
 そのことを新たに確認して床を出る。

 しばらく前、条理と不条理のしのぎあいに触発されてだろうか、自分が心の在庫調査をしていることに気づいた。手持ちの時間やお金の使い方。これだけは大切にしたい主義主張。自分の人類の一員としての誇りを尊重した結果副次的に失うことになっても構わない特権。
 一通りの調査が終わって目録ができあがったと思えるようになると、条理と不条理のしのぎあいにうちのめされることなく、今日も私は私のすることをするんだという態度がうまれていた。

 今日私は、意見の相違を、組織的な不公平を、いかにして真の非暴力で和らげていくか?〈アメリカ・ウィスコンシン州在住〉

【連載にあたって―ゆら】
  私はアメリカンインディアンの塚の跡に1940年代に建てられたアパート住んでいます。とり囲む樫の群れは、いにしえに連なり遠くの風景をも同時に覆う霊感をこの場所にくるみこんでいるように感じられます。「樫のむら日記」にはそんなわが家に帰ったとき思い出される日々のできごとを書きとめたいと思います。

本屋で見つけた本『動物たちの不思議な事件簿』 
わたしたち、動物たち!
(乙益 由美子)


  いつも読んでいる本とはちがう種類の本が気になってしょうがないときがある。たいていは、何かおもしろそうなことがいっぱい書いてあるような気がしてたまらなくなって、それでも用心して買わないことも多い。けれどこの本のタイトルと、表紙の絵にあっさり負けてしまった。「動物たちの研究ではなく『物語』」とあることも安心材料になった。もちろん、わたしは動物好きだ。

 著者は1947年生まれ。在米の科学ジャーナリスト。動物、特に大型霊長類の知性と言語について、他に3冊の著書が邦訳されている。本書の登場動物は、ゾウ、オランウータン、オオカミ、ヤギ、チンパンジー、ゴリラ、ヒヒ、イルカ、シャチ、ブタ、チーター、インコ、ウマ、イヌ、ネコなどなど。わかる限りその動物の名前と共に、動物たちの種類によって異なる知性をあらわす数多くのエピソードを紹介している。動物園の飼育係や研究者の証言、哲学者や心理学者の見方も交えて、この事件簿の謎を探っている。動物たちが「日常生活でどう反応するかを示す物語」を追って舞台は動物園や水族館、家庭、街角など、人間の暮らしている場所から、最後は人間を見たことのない動物たちのいる中央アフリカの「ンドキの森」にたどり着く。そこで遭遇したチンパンジーの群れに、あらためて知性を観察する著者の記述は淡々と書かれているが、圧巻だ。

 一度読んだところで、わたしは何人かの友人に、一番気に入っている「人間に助けを求めたヒョウ」のハリエットの話をしてみた。すると、皆、ええっ、ほんとに! といって目を丸くした。そうか。この本はまずこれが目的で書かれたにちがいない。読者が今までその動物に持っていた印象を少し変えること、漠然と予想していた動物たちの能力を少し超えるエピソードを明確に伝えること、そうして動物たち全体を見る目をもう一歩踏みこんだものにしてほしいという願いが、込められているのだ。

 「物語」を重ねていくことが科学的ではないことを承知でなおかつ、ここにまとめたのは、何より動物たちへの深い愛情があるせいだろう。動物のことを普段気にしないで暮らしている人間をも、動物たちのほうへふり向かせるようなエネルギーで満ちみちている! そうして思ったとおり、面白いことが盛りだくさん。――大型霊長類は大口を開けて笑う!? 知らなかった。――小鳥の地震予知能力ってほんと? 「多くの鳥はその足首、膝、脚の関節にハーブスト遊離細胞と呼ばれる細胞を持っており、これが非常に鋭敏な振動感知器として働くようである。」――こういうわたし自身が以前から気になっていた謎も解けた。また、動物園から何度も脱走を試みるオランウータンの忍耐強さと、ハンニバル博士のように口の中に針金をかくし持って鍵をあける知恵は仰天! 人間のわたしはもう少し何とかしなくてはと思ってしまう。

 最近よく耳にするアニマル・セラピーは「ひどいけがや心の傷を負った人が人間よりも動物によく反応するという観察がもとになって」始まったそうだ。実際に働いている動物たちが紹介されている。脳障害のある患者から反応を引き出すブタのハーリー。養護施設に入ってひきこもっていた患者の動かなかった掌を開き心に張りを与え、その病院に10年も勤めた(?)ネコのヨーダ。病院でなくともペットの必要な人間はとても多い。

 読みすすんでいくうちに、動物たちの能力に、かつて知らないうちに触れていたのだと思いあたったり、もう少し身近にいる動物の様子をきちんと見ようという気持ちになった。
 外に出て小鳥の声をきこう。その姿を眺めてみよう。近く遠くからきこえるモズの声もかわいらしい。暗闇のなかでコワイくらい光るタヌキの瞳は、明日も生きていくためにあんなにピカピカ光るのだろう。小さくとも活きいきと暮らす動物たちのエッセンスにチラリと触れるだけで受けとめるものがある! これでいいのだ。

『動物たちの不思議な事件簿』


『動物たちの不思議な事件簿』 ユージン・リンデン著 羽田節子訳  紀伊國屋書店2000円

〈おとます ゆみこ・山口市在住・1957年生まれ・主婦・著書に詩集2冊・自分の生活から遠いところで書かれているものから読みとることこそ,読書のすごさと痛感するこのごろ。最近いろんなジャンルの本に意欲を燃やしている〉


子育て真っ最中・近況報告
お金を使わない程、豊かになるなんて。 
(高島 千晶)


 幼稚園から帰ってくると決まって娘はわがままになる。入園した年なんて本当にだだをこねてとまどった。幼稚園で子どもなりに緊張したりがまんしたりということがあるんだろう。3年目の今は仲良しの友だちができて毎日楽しんでいる様子なんだけれど、それでも家に帰ってきた安心感からか、何なりと無理難題をいう日が多い。

 今日はアップルパイを食べたいという。やわらかいりんごのところが食べたいのだという。りんごの甘煮をつくってやりたいけれども、時間がかかるからそれは明日にしようね。そこで待ってて、台所にこないでね、お母ちゃん、即席のアップルパイつくってあげる。パンをスライスして、その上に薄切りのりんごをのせトーストする。メープルシロップをかけて、あたためたミルクといっしょにもっていく。目をつぶって、、、はい、でき上がり。

 娘はひどいふくれっつら。「こんなのが欲しいんじゃない!」そんなこと言わないで食べてごらんよ、りんご、やわらかくなってるよ。娘はもんくを言いながらりんごをひとつまみ口に入れる。ねっ、ちょっとやわらかくなってるでしょう?娘の表情がすこしやわらぐ。パンはふわふわした白いものではなくて固いから、耳のところをナイフで切りとってやる。食べてごらんよ、おいしいでしょ?うんうん。隣で私は切りとった耳のところをあたたかいミルクに浸してふやかし、まだ小さい下の子どもの口に入れてやる。もぐもぐもぐ、2人ともおいしそうに食べている。娘はパンの耳にも手をだしてきてあたたかいミルクに浸しては食べる。「おかわり!」私は嬉しくなって台所に行って同じものをつくり耳を切ってよけてもっていくと、娘は耳の方から食べたいという。そう、おいしいでしょ?もう娘はニコニコしている。

 あとで台所に行った時、りんごの下のパンのところがいつもは嫌ってる固いパンだったと知って、娘は意外そうにしている。「これだったの?もうあとちょっとしかないねえ、、、。」と惜しそうに言う。
 翌日、りんごとさつまいもを角切りにして黒砂糖を少し入れことこと煮たのをつくってやると、本当においしそうに食べ、お父ちゃんのをとっとくと言って、別皿をもってきて父ちゃん分とし、お鍋の残りはおかわりしてきれいに食べていた。「これはりんごでしょう、さつまいもでしょう?」と何度もクイズを出しながら。

 すぐ近くにコンビニエンスストアがある。娘が2,3歳の頃、割合頻繁に菓子パンを買ってやっていた。シュタイナー教育を勉強しているベビーシッターの友人が気安くものを買い与えない方がいいと、私をたしなめてくれたことがあった。あれから3年たって私も本当に変わった。
 200円もってコンビニに行けば、アップルパイの一切れはすぐ買えてしまう。友だちに冗談めかして言う、うちは余分には一銭たりともつかいませんよ!という気迫なしにはこどもを育てられない時代になっちゃったよ。

 娘と私あてに家庭教育用教材のセールDMが頻繁に届く。驚きだ、こんなこと私の子どもの時にはなかった。来春小学校に入っての学校の勉強だけじゃあ不十分だから、ということらしい。まだ小学校に入ってもいない今から親に心配させようとやっきになるなんて、あきれてしまう。予約した人に目覚まし時計がもらえる。友だちの何人かがかわいい目覚まし時計をもらったというので、娘も入会したがる。勉強は学校でするものよ、家では遊んだりお手伝いしたりするのよ。「いや、ちがうよ。家でもするんだよ」あのね、なはちゃん、知ってる?学校に行ったら一日3時間も4時間もずーっと勉強するのよ。「えーっ、おしっこに行きたくなったらどうしよう」大丈夫、休み時間はあるから。それでね、本ももらえるの。そして、よーく先生の話、聞いてごらん。なはちゃんわかるから。お母ちゃんもわかったよ。娘の顔が明るく変わる。期待がふくらんでいるのが伝わってくる。

 育児休業で家でいるようになって、必要最小限の買い物をしようと思いたった。そう心がけていると、消費で気ばらししてきた面がずいぶんあるんだなあと気づかされる。私の母はそんなことはなかった。たとえばお月見の時、お月さんの一番よく見える部屋にすすきや萩を飾り、形よくこしらえた団子、里芋の煮たの、「ん」の2つつく食べ物7品をお供えした。そんな風に手間をかけて楽しむ季節の行事が一年に何回かあった。買い物して気ばらしというようなお手軽さとは無縁の暮らしだった。少しずつお金を使うのを減らしていくと、私の暮らしの中に母の持っていた豊かさがもどってきた。お金をつかわなければつかわない程、豊かになっていくなんて変だなあとあきれながら、、、。 

 肉をあんまり買わなくなって豆・乾物の料理が増えた。口さみしく思うので、だしをとったあとのおかかや昆布をふりかけにする。娘もそのふりかけを大事に食べる。ゴミが多く出ることに対しての不愉快な気持ちも手伝って加工食品はほとんど買わなくなった。朝市で買ったり近所の人にいただいた旬の野菜をあれこれ工夫して食べる。料理の腕前も少しはあがってきただろう。大豆カレーって、どうやってつくるのかなあ、玉ねぎをいためてトマトジュースとゆでた豆を加えスパイスを加えて煮る、あらおいしいじゃないの。

この不況である。不況でお金を使わなくなるというのも、いいことかもしれないなあ、と考える。それは若くて健康だから持てるのんきな考えではあるだろう。にしても、少なくとも、幼い子どもがいる家で、使えるお金の少ないということは、いいことなんじゃなかろうか、、、。やがて私は苦手なミシンを出してきて、子どもの洋服をつくてやるようになるだろう。庭の一角ですこしばかりの野菜をつくるようにもなるかもしれない、それこそ、母のように、、、。

 私たちの消費は、何重にも許容量を超えてしまったんじゃないかと思う。個人の身体の自然にとってもそうだし(車を使うことで歩く機会を失うetc.)、家族のあり方にとっても手軽な消費は許容量を超えてしまっている。街の景観にとっても二酸化炭素の排出量という観点からでも、そうだろう。そして国際的な規模の富(資源)の配分という点からも、とっくに許容量を超えている。食べものさえこと欠く国があって、毎日膨大なゴミを出してしまう私たちの文明がある。(ゼリーを一つ食べるごとに素敵なプラスチックの器一つがゴミになるなんて、どういうことだろう。)そのことに対して、私たちは動物としても人間としても何重にも違和感を持っていて、不自然に過剰な消費が実のところ負担になっているんだろう。つかうお金を減らすことでほっとしてくるのは、当然なのかもしれない。

 ある日娘が夕食を一切自分でつくりたいと言った。何をつくるかも任せて欲しいと言う。結局そぼろご飯としらす入りの玉子焼きにわかめと玉ねぎのおみそ汁をつくった。わからないところを聞きながらではあったけれど、お米をとぐところから始まって味付けまで全部自分でやってのけ満足そうだった。(途中、にんじんを使ったら、などと口を出しても今日は自分で決めると宣言。玉子はひとつだけしかつかわず量が少なくなってしまい、それを家族4人で分けることになった。)夫が日頃から調味料は少しずつ入れるんだよ、と言い聞かせていたからだろう、味つけはうす味でおいしくできていた。そぼろにも玉子焼きにも少しミルクが入っていて、ふんわりやさしい味だった。〈ベネトン山口・楽天堂マネジャー〉

 (追記)9月11日のテロ事件のあとではなおさら、お金をつかわない安らぎを思う。
 アフガニスタンの人々が干ばつと飢餓で追いつめられてきたこと、暴力もやむをえないと思う程に絶望する人が増えれば増える程、世界の平和は損なわれていくだろうことを知る。ペシャワール会の中村医師が空爆下のカブールで食料を配給する計画を立てたことを知って感動した。私もペシャワール会に入会し、店でも寄付を呼びかけている。共感した人が多かったのだろう、半月もしないうちにペシャワール会の目標としていた1億円を越す寄付が集まったと新聞で読んだ。会は食糧配給計画を拡大するという。
 アフガニスタンの昨年の干ばつは、未曾有の厳しさで、地球の温暖化との関連を指摘する人は多い。私たち「豊かな」国々の浪費が何を犠牲にしているかを思い知らされる。テロが許されないことははっきりしているけれども、テロを招く程に公平を欠く現実が存在することもまたはっきりしている。


編集後記

  テロであぶり出されたこの世界の不条理にうちのめされないためにか、料理にせいを出す勢いに拍車がかかっているよね、とアメリカに住むゆらと話すことひとしきり、、、。ゆらの紹介するレシピ、皆さん、だまされたと思って作ってみて下さい。簡単かつあっと驚くおいしさです。(前回のレンティルのスープも作ってみて、レモンの皮のマジックに驚嘆しました。)みえさんの文章も、やっぱり食べることとお金にまつわることで、なるべくお金を使わんとくらしてみようという私の決意に、ちがう光をあててくれた。そうだ、気持ちのいい買いものをしよう。鈴木さんは泰然と消費に無縁な楽しみを書いてくださった。ありがたし。年が明け子育てが一段落したら、料理と平和と適切な消費を愛する人々で、一品もちよりのパーティーを開きたいものです。(千晶)
 1年でこの季節だけ出回るじゅくじゅく柿。娘も大好き、7時起きで自転車に乗って近くの朝市に買いに行ってます。(無々々) 


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