第17号2001/09/01


和紙に惹かれて(梅田 剛嗣)


  しなやかで美しく、加工のしやすさはその強さがあればこそ。私も、そんな和紙の魅力の虜になった一人です。
  “和紙”とひとくちに言っても、その原料により、また漉き手により、仕上がる紙は全く違った表情になります。縦糸も横糸も使わず、一枚の簀(す)で、水の中から生み出される和紙。表情が違うのは、漉き手の技と心が生み出す違いなのでしょう。和紙はまた“長寿”です―しかも驚くほどの。原料と管理さえよければ、百年、二百年は当たり前、正倉院に残っている和紙は千年以上も前のものです。和紙の魅力はとても語り尽くせるものではありません。

  ところで、和紙は今でこそ貴重品のような存在ですが、昔は生活の中に溶け込んでいました。紙衣(紙の服)、障子、あんどん(灯り)、傘などなど、、、数えればきりがありません。ただ最近は、和紙を使う機会がめっきり減り、それにつれ和紙を漉く人も減ってしまいました。
  この度、ご縁があって楽天堂で作品展を開くことになりました。頑張って紙漉きの世界に入る若者もいます。私は、紙漉さんと使うお客様の仲介者として、今回の個展を通じて一人でも多くの方が和紙の良さを感じて生活に取り入れて下されば、と思っています。 
【うめだ つよし・プロフィール】
1964年生まれ。表具師であった曾祖父の弟子の元に8年間通い屏風作りを学ぶ。屏風は木枠から伝統に忠実に仕上げ、手漉き和紙を切り張りしている。屏風に貼る和紙は、自ら染めた「柿渋」(渋柿から抽出した茶系統の染料)紙を中心に、1997年より藍染めにも取り組んでいる。

1996年 丸善岡山店 初個展
1997・98年 三越倉敷店 「岡山のクラフト秀作展」
2000年 岡山県総合文化センター 「現代作家の眼展」

現在、岡山市表町で和紙の店「わがみやうめだ」を経営しながら作品作りに励んでいる。
 

おやおや八百屋の本気ィトーク(1) オイシイ話には、訳がある (ほりお みえ)


  私みたいにのほほんとした人間でも、継続的に物事に関わっているお陰で、少しは上達したかなあ、と思える、その最たるものは、料理である。

  十代の頃は、親の手伝いもせず、その上、妙に杓子定規な性格だったので、例えばレシピに書いてある材料の一つでも欠けていたら、その料理は作れない、と本気で思う始末であった。親元を離れ自炊を始めた二十代前半は、料理本をひろげて見ながらの駆け出しの時代であったが、この頃「私ってホンッット料理の才能なーい!」と感じつつ(今思えば、その大きな原因は素材と調味料の質にあったのだが)食事を作ることに虚しさを覚えていた。というのも、もちろん出来栄えがパッとしないというのもあったが、どんなに手間ヒマかけて作っても食べるのはあっという間に終わってしまう、ということに対して大いに不満を抱いていたのだ。例えば、著作やアートなら、手間ヒマかけた分出来上がったモノが作品として残る。それに比べて、料理を作って食べるという行為のなんと虚しいことよ。という訳で学生時代は友と連れ立って焼鳥屋に通うことがしょうちゅう、いや、しょっちゅうであった(すんません、博多だったもんで)

  そんな過去を持つ私が、十数年後にはウチで食事を作って食べることが日々の暮らしの喜びであり活力の源になっているなんて!そのきっかけは、旨い素材(米、野菜、肉、魚などなど)との出会い、そしてそれを作ったり加工したり届けたりしてくれる人々との出会いがあったから。生のままで、ゆでるだけで、焼くだけで、ウマイ。私はその理由を栄養学的にとか科学的に分析する術をもたないけれど、私にとって「生きる力」に溢れていると感じられる、そんな素材たちと接していると、元気をもらえる、工夫して料理するやり甲斐をもらえる、そして、おなかも心も満たされる。こんなオイシイ話はない。

  自炊駆け出しの頃だって、そりゃあそれなりに努力した。手早くチャチャッ、というのは苦手だったこともあり、じっくり仕上げる煮込み料理に憧れて、すごくシンプルな、豚三枚肉と野菜の煮込みに挑戦したことがある。結果は惨澹たるものだった。臭くて、食べられなかった(今思えばあれは薬品臭だったのだろう)・・・折角時間をかけて煮込んだのに。もう二度と作るまいと思った。今、手に入る材料で作ったならば、目の玉が飛び出るとまではいかずとも、食べてる途中「うーん、ウマイ」と何度かつぶやく位の代物が出来る自信がある。まあ、それは料理の腕というよりは素材の力に負うところ大なのだけど。

  素材の力に助けられつつも、たまには今でもズッコケてアウト、という事もなきにしもあらず。そういう時は大抵、よっぽど疲れてて段取りが悪かったり、何かに気を取られててまともに材料に向き合ってなかったり、慌てすぎてたり気分がグシャグシャで作業を端折りすぎたり、そんな場合だ。まともにやっていればこの上なく幸せなひとときが保証されているというのに・・・・ああ、なんて馬鹿な私。という訳で、同じ轍は踏まないように、と心がけるのが、せめてもの年の功。そんな積み重ねが、日々をつくる。

  野菜の場合、特に四季折々の力をその中に宿していて、感動すら覚える。5月頃、夏の走りを告げるヤングコーンが出た時の興奮。青い皮を手で剥いた時に放つ若々しい香気、つやつやと柔らかく束になった穂は、まるで妖精の流れる髪のよう。夏の盛り、オクラの小口切りはキラ星のように輝き、ピーマンの縦割りはワッハッハと笑いかけているよう。秋から初冬にかけてゴロンと登場する冬瓜(とうがん)に、初めて包丁を入れた時の驚き!まるで霜と氷の結晶の国の精が宿っているような、その美しさ。ビジュアルで、手触りで、饒舌に語り掛けてくる野菜たちを、手で揉み、混ぜ合わせ、水でさらし、火の力を加え・・・・その過程は、エロティックとすら言えるかもしれない。その季節の、一番生命力に満ちたものたちとの交感。このことだけとっても、「料理をする」という悦びを暮らしの中から失いたくない。そんなもったいないこと。ただ、年中なんでもそろっているハズのスーパーでは、この感覚は得にくいだろう。或る程度(少なくとも一年)継続的に一枚の畑なり一つの農家なり、そういうところと付き合っている八百屋なりに関わっていなければ、見えにくい。

  ある本の中に、こんな文章を見つけた。『台所サバイバル』(自然食通信編集部・編 自然食通信社 )

 「食べる」とは元々私たちの命の糧となるために、他の生き物の命をいただくこと。まさにサバイバル(生き残る)するための、私たちと生き物との真剣勝負なのです。


  うーん、野菜はともかく、魚ならなんとか、鶏はちょっとコワイけどいけるか、しかし豚や牛となると負けるかもなあ・・・・あれっ、相撲をとる訳ではないか。しかし、飛びついたり噛み付いたり蹴飛ばしたりはしない食材たちだけど、そのパワーを日々いただいている身としては、このスピリットは伝わってくる。冒頭に、料理が「上達」した、と書いたけれど、あの頃は分からなかった力、「食べ物を調理して食す」という営みの本質をリアルに感じられる力がついた、ということかもしれない。そして、その力を引き出してくれる食材を意識的に選んでお金を出して買うことで、それを作ってくれる、届けてくれる人々の生活を支えている、その行為こそ私にとっての真剣勝負なのだ。そう、タダでオイシイ話はないのである。〈広島市在住・有機野菜とオルタナティブグッズのお店「ひょうたん島」〉



【新刊紹介】
『国策の行方―上関原発計画の20年』(南方新社 1800円)

  今年6月に政府の電源開発基本計画に組み込まれてしまった上関原発。計画が持ち上がってからこれまでの流れを朝日新聞山口支局が過去の新聞記事で跡づけた本。推進・反対両派の専門家24人へのインタビューも再録されている。
  諸外国では原発ストップのうねりが大きくなる中で、何故日本は建設を続けるのか?私は最近ある雑誌で「日本には社会的にブレーキをかける機能が無い」という指摘を読んだ。そこでは第二次世界大戦やバブル経済が挙がっていたけれど、原発こそその最たる例ではないかと思う。(千晶)

樫のむら日記 その1 何てみずみずしい― 共振して生きてみると (ゆら)


  エルロイは30代半ば。落ちている鍵を拾っては集め続けて数年、鍵はポケットに秘蔵の2つのキーホルダーに鈴なりである。しかしエルロイの楽しみは鍵の数を増やすことにはない。かさばる鍵束をポケットからとりだしては、最初に目についた鍵を、こう、はずすのはちょっとコツがいるんだなあ、もうひとつの鍵束に移しかえることにある。そう、この手応え。わかる?鍵、ドアを明けたり閉めたりする魔法の小もの、それをだよ、こう、ぐいっとひっぱって、ほらね、そしたらこっちのキーホルダーにだね、こつんとするまで、こんなふうに、ね、ねじこむわけ。ちゃんと見てた?エルロイはこの過程が愉快で、一日中繰り返す。観客に選ばれる人には、時に不可解、時にはた迷惑、わかったわかった、そんなことくり返して何が楽しいの?そろそろ他の人のところへ行ってやってくれる?もうちょっとセイサン的なこと、できない?

  エルロイの喜びは、主として、キーホルダーの手応えと、ひっきりなしに手先を使うことと、それを媒介として行われる人々とのやりとりにある。エルロイの喜びを損なうことなく、作業所の彼を含めた従業員の生産性を犠牲にすることもなく、他の従業員及びエルロイの作業所と自宅のスタッフのストレスをいかに軽減するか ―― これが、知的障害のある人にカウンセリングや心理療法を提供し、またはその家族や衣食住を手伝うスタッフを含む環境の方をその人に適応させるような助言をする公僕としての私の、この場合の課題である。

  「あらゆる舞台芸術の根本にあるのは、舞台で起こっていることを自分のことのように(=vicariousに)経験する人間の能力だ。」と私のモダンダンスの師エレンがある日言った。ああその通り、と思ったクラスの後で考えた、舞台芸術についてのみでなく、この能力こそが、人間の社会生活全般の根本ではないだろうか。

  誰かの表情を感じとったり身体の動きを見まもるとき、私たちは単なるビデオカメラではない。私たちの身体は、今つぶさに目撃しているその表情、その動きを、目や耳では触れられぬところで起こっているわくわくやしくしくやふるふると合わせて憶えている。経験したことのない動きすら、自分の身体に想像上のりうつらせることによって、それをともなう内的な感覚も一緒に味わうことができる。これがエレンの言ったvicariousにものを経験する人間の能力である。

  口の達者な者の言い分が通りがちな世の中である。作業所の生産性さえ確保されれば(註)、こんなに楽しいのにどうしてやめなくちゃいけないの、一体誰かの迷惑になってるの、とは決して言い立てないエルロイの快さがvicariousに伝わるとき、エルロイと彼のスタッフの間に生まれるのは軋轢ではなく、強者と弱者の力関係やその悪用誤用でもなく、理屈抜きに共有された人間としての仲間意識である。ははは、エルロイは本当に鍵のはめはずしが楽しいんだよねえ。〈アメリカ・ウィスコンシン州在住)

註:具体的には、例えば、鍵をポケットからとりだすのを作業所の休憩時間に限ることをエルロイと合意する、エルロイが鍵をいじっているときでなく作業に専心しているときにエルロイの好む種類のやりとりをスタッフが起こす、鍵のはめはずしと似た作業をエルロイが担当する、などを試してみることが考えられる。

【連載にあたって―ゆら】
  私はアメリカンインディアンの塚の跡に1940年代に建てられたアパート住んでいます。とり囲む樫の群れは、いにしえに連なり遠くの風景をも同時に覆う霊感をこの場所にくるみこんでいるように感じられます。「樫のむら日記」にはそんなわが家に帰ったとき思い出される日々のできごとを書きとめたいと思います。

書評『夢見つつ深く植えよ』 40代からはじまる夢(乙益 由美子)


  ちょっと良さそう、お弁当にぎっしり詰まったごはんのように字が並んでいて、ほんとにずっしり重い。―― わたしは久しぶりに本屋で一個いくらのトマトを買うようにこの本を買ってしまった。そのうち読もう。そう思って2ヶ月ほど経った或る日、親友が亡くなった。突然の死に気持ちの持って行き場のなかったわたしは、何の考えもなくこの本を開いた。夜中、この本のなかで何回も泣くことができた。まるでわたしの親友に励まされているように、根源的な夢のことを語っていたから。

  著者メイ・サートンは、1912年にベルギーで生まれ4歳の時アメリカへ家族で亡命。小説家で詩人、エッセイスト。日記や回想録も出版されている。1958年に両親の死をきっかけに46歳でマサチューセッツ州ネルソンに一人移り住む。その生活のなかから書かれたのがこの本だ。実際の写真が数枚モノクロで楚々と入っているのが美しい。

  この地を探し出す前に彼女は、こう書いている。「もしも『わが家』がどこにあってもよいものなら、人はどうやって、またどこにそれを探せばよいのだろう。」
  こういう問いを発する人のさみしさというものもあるだろう。ぜんたいこれに答えられるほどの理由でわたし自身住んでいるわけではない。実際「わが家」というもののイメージさえ持たない自分に気がついた。わたしに移民という体験がないせいか。家族の顔を見るだけで満足しているせいか。

  ところが彼女はこの疑問を、夢に変えていく。
  36エーカーの敷地と古い農家と納屋を購入し改装が終わると、家具が配置された。受け継いだフランドルの家具、日本の二枚の版画(広重と北斎)、三枚の中国の皿、中には弘法大師の日本画の複製もある。これらが「まるで昔からそこにあったように」置かれていく。不思議な世界だ。庭に亡き母の趣味を再現する。古くからの家族同様の人物に「お母さんがどこにでもいるのが見えるわ!」と言わせてしまう。きっとそれも彼女が母から受け継いだものの一つなのだ。そして「わが家」のスタイルだけが夢なのではない。

  古い家で育った英国人の友人が新しい自宅に「この家では誰ひとり亡くなっていないでしょう、だからどうしてもここでは落ち着けないのよ。」と言う。これには驚かされた。魔女みたい。でも、そういえば古い古い祖父の家へ行くととても落ち着いた気持ちになる、あれかしらとも思う。そう考えると「家が生によってと同じく、死によっても暖められる」という著者の発見もすっと理解できる。この本の魅力といってもいいかもしれない。ヨーロッパ、アメリカを越えて、遠くアジアのこちら側まで伝わってくるものがある。

  個性的な友人たちの章は、読者にとってはまるで実際に出会ったような幸いがある。 パーリー・コールというおじいさんの働きぶりは、すごい。じっくり読まされてしまう。どこの国でも尊敬すべき働き者は老人だ。そして、画家のクイッグの生き方。彼の死をとおして彼女は自分が変わったと思う。そう、自分が変わることもまた、夢だったのだ。

  ネルソンという場所の気候、井戸、集会場や教会のコンサート、小さな図書館。その中で、実は辛いことの方が多かったと彼女は回想している。しかしそういう土地で、まさに夢にも思わなかった「故郷」に出会えた。

  原題『PLANT DREAMING DEEP』の文字をじっと見ていたら ―― 夢見る想いはふわふわと舞い上がってしまいそうだけれど、その夢は地中深く埋めなさい。眠らせてそれから芽を出すのを待つの。―― 亡くなった親友の声が重なって優しくきっぱりとそう言われている気がした。

『夢見つつ深く植えよ』


『夢見つつ深く植えよ』  PLANT DREAMING DEEP (原題) みすず書房 2500円  メイ・サートン著  武田尚子訳

〈おとます ゆみこ・山口市在住・1957年生まれ・主婦・著書に詩集2冊・自分の生活から遠いところで書かれているものから読みとることこそ,読書のすごさと痛感するこのごろ。最近いろんなジャンルの本に意欲を燃やしている〉

80年代前半、私は何故か東京にいた(原田 俊一)


  80年代前半、私は何故か東京にいた。ボランティアで子どもの施設で働いていたのだ。当時は若さ(バカさも)溢れるティーンエイジャーで昼間は英語教師、夜は寮で子どもと遊び、それが終わると夜な夜な六本木あたりのクラブに踊りに行っていた。 当時は音楽は、トーキング・ヘッズとかパティ・スミスが大好きだった。私には全てが新鮮だった。その頃の六本木はカッコイイ奴が沢山いてみんな違った個性をそれぞれに出していて話すととても面白かった。2、3のクラブでかかっていたのは、アフロではフェラ・クティや、マヌ・ディバンゴ、レゲエではブラック・ウフルーとか大御所のボブ・マーリィー、ジミー・クリフ、トゥーツ&メイタルズ、サルサではセリア・クルーズやティト・プエンテ、ヘクター・ラボー、ウィリー・コローン、、ブラジル音楽ではサンバ・カンソンやMPB等、みんな貧民地区というか、パブリック・プレッシャーの強力な(しかも差別もハンパじゃない)地区から生まれてきた音楽だ。そんな音楽に身をゆだね、夜はいつまでも終わらなかった。

  日本もパブリック・プレッシャーという観点から見ると相当なお国だ。ほとんど無菌状態というか、ふたがあくまで放っておくお国かな。感じるか、感じないかは別にして、うわべだけは整頓され過ぎている。私のいた施設も実は不登校の子どもを預かるところで、当時は不登校と言わず、登校拒否として、教育現場でのエポックメイキングな現象だった。今は、もっと問題は深刻で教育界に限らずいろんな奇怪な現象が沢山出現してきている。

  ということで音楽。抑圧された、差別された人々は世界中に溢れ出さんばかり。IT革命でそうした南北の格差はもっと拡がるだろうな。そうした人々の生み出す音楽には、全てを忘れさせ、心を癒し、笑顔を生み出してくれる豊かな愛とパワーを持っている。知らず知らずのうちに脳の深い所まで届いて、プロレスでいう延髄切りを食らったような感じで体が自然に動いて笑顔になってしまう。

  特にフェラ・クティ(アフロビート)は強力だった。ちなみに一曲30分ぐらいある。当時はCDなどでその手の音楽は出てなくてみんなレコードだった。フランスプレス(フランスはこの手のパブリッシングが得意)とかジャマイカプレス、アフリカ現地プレスなんてのもあった。DJは、私達が自由に踊るのを見ながらブースの中でニンマリしていたに違いない。空気がタバコと音楽と熱気でとっても濃くて、でも酸素は薄いようなクラクラするような空間だった。当時の六本木にはそうしたクラブが密かにというか地下に3軒位あった。残念ながら今はもうない。フェラ・クティも、3年前ぐらいに死んでしまった。今の六本木にはサルサ・バーが3軒ぐらいあるが、どこもランバータ以来、ダンスが流行して一種のカルチャーセンターみたいになってしまっている。六本木は今や子どもの遊び場になってしまった。あー私もオヤジになったのだと実感。

  フェラ・クティの一曲30分のグルーヴというかそうした時間のスパンでという音楽もなくなってしまった。息子のフェミ・クティも父の死後最近デビューしたが、こうした時間の使い方はしていない。そしてやはり、音楽の振幅の大きさとか、音楽の持つ深みが父に比べるとかなり劣る。父フェラ・クティの偉大さを改めて認識した。フェラ・クティはアフリカの誇りだ。 ということで時間の話。アフロミュージックに限らず、クラブ系のこの手の音楽は曲の時間が5−6分位と、だんだん短くなってきている。サルサ・ブラジルも同様だ。一方では、内容はあんまりない(失礼)テクノ、ハウス系は、長い時間の曲が多い。テクノの中には、スティーブ・ライヒという現代音楽の作曲家を教祖(グールー)としている人もいる。でもそういう風に言ってカッコつけている様な気がする。ホントに。でも実はスティーブ・ライヒやフィリップ・グラスのミニマル・ミュージックは、アフロビートや、ナイジェリアの現地の音楽(ジュジュミュージック)や、モロッコのジュジューカ等のパクリなのだ。お行儀よく言えば、民族音楽の西洋人的解釈に基づく発展型、とでも言うべきか。音楽まで搾取するなよなと言いたくもなる。

  当然そういう訳なんでテクノ系の音楽の内容は薄っぺらだ。シンセ(アナログ)が気持ちいいけど、残念ながら延髄まで到達する音ではない。どうせやるなら、マイルス・デイビスの70年代みたいに正々堂々とホンモノを目指して欲しいもんだ。でも今を生きている以上、マッタリしたテクノ、トランスに染まるのも悪くはない。東京、日本ってテクノが似合うんだよね、悪しからず、、、。

追伸:この間クロノスカルテットのコンサートで、スティーヴ・ライヒの「トリプルカルテット」という曲を聴いた。メチャカッコよくて、感動!ソニック・ユースも良かったです。もっと節操なくたくさんいいコンサート、ライヴに行きたい。〈はらだ しゅんいち・山口市在住〉


風は後ろから吹いてきた (伊東 尚美)


   少しまとまった雨が降り、季節は夏から秋へクルッと変わった。子供達はまだ夏休み。秋が来たのも知らずに一生懸命遊んでいるのだろう・・・。

  子供時代へ帰りたいとは思わないけれど、昔の記憶に風をあてるのは悪くない。今の自分を客観的に見るヒントは案外そういう事の中にもある気がする。
 私は部屋の片付けをするように昔の記憶を引っぱり出し、日の光にあて、整理し、頭の中へ戻してやる事にした。

  私は6歳になる春から1年間だけ少し離れた所にある保育園へ通った。行きは父と一緒に、帰りは一人で。まだ国鉄時代の事、私が乗り降りする小さな駅にも何人もの人が働いていた。
  入園してわりとすぐ、親に「今日から一人で帰ってごらん。」と言われた。ああ、親すらも頼りに出来ないのか・・・。その時を機に私は親からほぼ自立したように思う。もちろん経済的には無理だが精神的に。

  子供には、一瞬で大人にならざるをえないような事が時としてある。私にとって一人で帰るという事は、つまりそういう事だった。そして今から思えばそれ以降、ほとんど親に甘えた事がないのだから随分と損をしたものだ。

  保育園を出るのは決まって紙芝居の時間で(今は紙芝居なんてやらないんだろうか・・・)、丁度話が盛り上がってきた頃にいつも「はい、なおみちゃん、帰る準備しようね。」と言われ、現実に引き戻された。そうして私はささやかな無常感を身につけてしまった。

  一人で乗る電車は落ち着かなかったが、まくら木の上をゴトンゴトンと進んでゆくその音はいつも一定で、私は訳もなくなぐさめられた。
  電車に乗ると、どうして小さな子が一人で乗ってくるんだ?としげしげと眺められるのがお決まりのパターンだった。私は緊張し、乗ると同時にドアの方へ向き、忙しいですからこっちを見たり話しかけたりしないで下さい、という風を装っていた。

  当時はまだ身も知らずの人に親切に世話を焼くような人がけっこういて、そういう人達(今から思えば有難いと思うけれど)と運悪く目が合うと、ここへ座んなさい、と手招きされた。そしてしぶしぶ隣へ座るとアメやかりんとを出されたりした。手招きするのはおじいさんだったり高校生のお姉さん達だったりした。私はどのようにしてその人達を喜ばせていいのかさっぱりわからず、とても緊張した。手招きをされるのは、非常な有り難迷惑だった。

  有り難う、と言ってただ大人しく隣に座っていればいいとわかりかけた頃、私の短い保育園生活は終わってしまった。

  同じく電車の中の事。ガランとした車内に皆が等間隔くらい空けて静かに座っている。私も適当に離れ、かつあまり離れすぎない位置に座る。時々そういう事におかまいなく、あちこち空いているのにすぐ隣に座ってくる人がいたりして、私は混乱した。そして人と人の間には物理的に必要な距離がある事を知った。これは小学生の頃のこと。

  エメラルドグリーンという色を好きになったのも同じ頃。
  授業参観日、母はいつもよりおしゃれだった。手描きの花をあしらったベージュの麻のツーピース、菖蒲の花が、これも手描きで描いてあるトロンとしたブラウス。そのブラウスにいつも合わせていたのがエメラルドグリーンのスカートだ。裾の方に少しプリーツがとってあり、タイトなシルエットだった。車に乗らない彼女が少しこぎにくそうにして自転車をこぐ、その後ろに乗ってプリーツがゆれるのを眺めているのが好きだった。 

  まんなかっ子だった私が親を独占出来るのはそんな日くらいで、とても嬉しかったのを憶えている。そのせいか、エメラルドグリーンは今も幸せな感情と結びついている。

  まんなかっ子の不安、という事を意識しだしたのも小学生の頃だろうか。何故か手がかからないものと思われ、家族の関心から抜け落ち、時として恨めしい思いをした。そのかわり、よそでピタリとこちらへ関心を向けてくれる人には敏感に反応し、自分の居場所を少しずつ見つけていったような気がする。

  パーッと明るい姉と人当たりの良い弟の間にあって私は同じようにすこやかな方へ伸びる事が出来ず、何となく周りが盛り上がっている時に水を差すような事を言い、天の邪鬼にふるまった。どうも物事は一方向に勢いがつきすぎると危険な気がして、水を差す事によってバランスを取ろうとしていたようだ。そのように周りが右と言えば左と言い、上と言えば下と言わないと安定していられない、本当に変てこな子供だった。

  変てこと言えば我が家も変てこだった。「子供より、大人が大事と思いたい」と言った人がいたけれど、私の両親も子供になびかない人達だった。もちろんいろいろな事をしてもらったし、そのような生き方をいいなと思ってもいたけれど、子供がちやほやされない環境は少し寂しくもあった。時折よその家での子供の扱われ方を見ては、羨ましいな、と思ったりもした。それでも、その内自分も人の親になれば「大人が大事」の人になるだろうか、と思えば苦笑いがもれる。

  広げてみれば秩序のない切れ切れの記憶たち。でもその断片の寄せ集めが自分だと思えば意味はなくとも大事にしたい。
  思えばその人の物の感じ方、考え方、好みなど、小さい頃にけっこう決まっているような・・・。後は少し複雑な思考が出来るようになり、理屈をつけて自分の感情を納得させる事が出来るようになるというだけで。昔の事を思い出し、そんな風に思ったのだった。
  私は日の光をあてただけで、整理する事なく記憶を頭の中へ戻してやった。

  生きていれば時に振り子は大きく振れ、常ならざる心地がする事もあるけれど、又いつの間にやら平常心。その繰り返し、とはいいつつも前よりは大きな平常心と思いたい。
  振り子が振れるとき、いつも風は後ろから吹いてきた気がする。迷う事があれば立ち止まり、昔の事を思い出し、何かに後押しされて前へ進んできた。これからもきっとそのように進んでゆく。

  ’01・8・15 大分へ向かう電車の中で〈いとう なおみ・楽天堂スタッフ〉


編集後記

   「わがみやうめだ」の梅田さんは朝5時に起きて開店までの3時間ほどを創作に当てているという。「道」に志す人の気概を感じる。ウーン、見習わなければ。(無々々)
  何人かの方から手書きのらくてん通信の方が良かった、との声を寄せていただきました。(正直うれしかったです。)自前のパソコンとプリンターで印刷することを選んで生まれ変わりました。新生らくてん通信は、個々人の生活と意見を伝えるメディアを目指しています。(情報を羅列するカタログのような雑誌でなく。)ご意見をお待ちしています。
  ギャラリー楽天堂冬の催し物は、倉敷市の木工作家・小野良夫さんの椅子展を予定しています。どうぞお楽しみに。(編集長)


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