第16号2001/06/01


“オーガニック&共生”から “骨のあるくらし”へ(編集長)


 癒しという言葉に心ひかれた時代があったけれども今は何だかちがうと思う。

 たしかにくたびれている人にはリラックスが必要なんだけれど今の私たちが必要としているのは、もっときりっとした充足感。ままならない現実に苦々しい思いを抱いて、それでも仕事に向かう日の朝、さりげなくあなたを力づけてくれるのは、たとえば久保さんのガラスのコップ。楽天堂はこれから季節ごとに、つくり手の気配を伝える美しい日用品をご紹介していこうと思います。

 そして私たちの提案する本当に気持ちのいいくらしを「骨のあるくらし」と呼んでみようと思います。

 フェアトレードの商品、オーガニック食品、アロマテラピーやナチュラルな化粧品なども今まで通り扱います。リニューアルした楽天堂とらくてん通信にご期待下さい。

猫々出産記 (久保亜希子)


 この春、同居猫ののらちゃんが仔猫を五匹、産みました。同居猫というのは、べつに飼おうと思って飼ったのではなく、野良が勝手に現れて、我が家の猫になったからです。

 四月に入ってから、いつ産まれてもおかしくないと云いながら、結局、産まれたのは四月二十六日。五匹も入ってたので、たいそう大きなおなかでした。

 五匹、産まれ方も様々でした。私は呼びつけられ、箱の前に座ること三時間。色はみんな白黒で、のらちゃんと同じ模様なので、特徴をよく覚えておこうと思って、よく見ていたけど、四,五匹目は見分けがつかなくなってしまった。のらちゃんは箱の中、五匹を胸に抱いて、何ともいえない観音様のほほえみで、よってたかってお乳をすわれています。ゴロゴロゴロゴロと、のどを鳴らす音が一日中聞こえていました。

 現在は、父猫以外のオス猫がうろつくので、私の梱包の部屋の棚の奥に仔猫をかくしてしまい、そっとのぞくと、細長い箱の中、うなぎの寝床みたいなところで寝ています。のらちゃんのいない隙に、こっそりのぞいて、おまんじゅうみたいに一体になった仔猫に、大きくなったな、とつぶやくのです。

 出産は初めてだったので、少し不安そうで、留守にしなくてよかったな、と。そして、悠々とすらすらと子育てをしているのらちゃんの姿にうっとりとしてしまいます。
 

今日があるさ はじめに―連載の趣旨(田村岳)


 最近「明日があるさ」って歌が流行ったね。それこそ、洗脳されるように、メディアで流れてた。CMの映像を見てると、設定は、サラリーマンらしく、これが、今のニホンの中高年の大多数の思いだとぼくたちは疑いもなく共感してしまう。家族、仕事上の(ムカツキ)も、日々、「明日があるさ」って呪文を唱えれば、全て、あら不思議消えてしまう、それが僕たちの毎日のミレニアムの生活なんだろう。エンドレスに巻き戻しと再生が繰り返される日常生活のなかで、もはや実感できる「時」なんてないことを本心では分かっているボクたちは、明日というコトバに、途切れ途切れの思いをこめて、いつも先送りしているわけだ。子どもから大人まで全て、例えば市場のようなひとつだけの場所と基準、自然と他者とのつながりからはなれた時間、感覚さえもない世界に閉じこめられている。
 
 でも、実際どうなんだろう。このエンドレステープが破断したとき、その外の世界にすでにあった無尽蔵な世界があざやかにみえてくることがある。自然とのつながりもそうだし、他者とのつながりもそうだ。それは希なことかもしれない。しかし、社会生活が破裂して薄いエンドレステープの外側に触れたひと、反対に、自然からの恵みで生きているひとや喜びにつつまれる幼児、病で一日一日が貴重に思えるときをすごすひとは、生死と接するより大きな広義の時間の流れを意識しながら、不安にかられて「明日」なんて矮小化された時間を捏造することなんていらない。むしろ、みな、「今日」という時間を、かけがえのないものとして生きようとする。 
   
    "Imagine there's no heaven
    It's easy if you try
    No hell bellw us
    Above us only sky
      
    Imagine all the people
    Living for today・・・"

                   John Lennon "Imagine" *1

 そうだ、M・エンデに、『モモ』*2 という童話があったね。僕たちが閉じこめられた「時間の花」をもういちど咲かせるためには、どうしたらよいのか。ひとや自然とかけがえのないものを交換するためのユニークな「生の技法」*3 、それを自分の手元にある材料から自らの手でつくりだしてみるためにはどうしたらよいのか。
今回の連載の趣旨の根底にあるのは、そのような動機だ。

 さて、話を変えて、CMがニホンのことを言うなら、ニホンの経済状況を見てみようか。データの年はバラバラになってしまったが、2000年3月の失業率は4.8%、企業倒産数は2000年度18,787件、失業者数も3,390,000人 1999年一年間の自殺者数33,048人=交通事故死の3.7倍 ,全体の7割が男性。全体の4割が4,50代。理由は経済・生活の問題30.2% そして、「自死」遺児(自殺で親を失った子)は全国で12万人---(副田義也・金城学院大教授推計)*4 となっている。自殺者数だけでいえば、十年ほどで、ニホンの中核都市がひとつ消滅してしまう。静かな内戦のようなものだ。

 すこしの想像力をはたらかせてみよう。子どもから10、20代と、お年寄りまで「明日があるさ」という騒ぐブラウン管の背後で―しかも私たちの傍らで、哀しいことに、力尽きたひとが崖からぽろぽろと転落していってしまっている。今、どことなく世界が狭窄し閉塞しているとしたら、もしかしたらぼくら自身も崖から下へと落ちるかもしれぬといいう不安のなかで、踏み外したら最後、落ちていくじぶんのからだをつなぎとめてくれる手のひらの存在やしくみをかたわらに感じられないことのように思う。だから、こうさ、唯一の手だては、明日をたのんで勝ち組にはいって、お金という永遠の神のご加護を得ること。そうすれば安泰。落ちていったやつは、個人の努力が足りないから神様が助けてくれなかったのさ―つまり個人の責任さ。なにが、相互に平等に助け合う必要があるのさ?これが、今の人のいつわらざる心境なんじゃないのか。(付け加えれば、勝ち組は、機会や財において「収穫逓増の法則」に 負け組は「収穫逓減の法則」にみまわれる。)
 未来の可能性のために、その可能性を話して、うつむいているひとたち(子供達、おんなたち、おとこたち、障害をおわされたひとたち)を励ますことはできる。でも、そのために大切なことは、そのうつむいているひとたちへ/が、そのこわばった灰色の孤立から、ささえあうために、あいだのつながりの水脈をつけていくことが大切ではないのかと思う。
 
 だからこそ、その水脈のために、安易で退屈なカンネンではない、存在のための具体的なオルタナティブ、先の「生きる技法」を相互に交換しあうためオープンスペースをつくりたい。そう、そんなふうに考えてこの連載は「明日があるさ」というコトバに反抗して、「今日があるさ」という題名をつけた。なんかいつづくのか分からないけど、文章を書くことで、私が何かを伝えるというよりは、関係する多数の思いが織り上がる空間が創れればいいなと考えています。 
それでは、これから、よろしくおねがいします。

次回以降の連載のテーマは以下になります。
 
1.地域通貨―私たちのくらしと切り離せない「経済」のオルタナティブ
2.メンズリブ―男性(性)がおかれている役割を考えてみる
3.環境共生住宅―私たちの住(棲)んでいる環境について考えてみる
  エコロジカル・プランニング
  自然エネルギー
4.農業、森―自然という生態系と人間という生態系のリ・デザイン
 ばらばらに感じられるかもしれません。I・イリイチ*5 が言うように、住(棲)まう技術(habitat)、そこで育まれる夢見る技術(art)、愛する技術、苦しむ技術、生活し死にいく技術を、身近なものとし確認していくことが私のやりたいことです。
 
 今回の感想、お叱り、要望等があれば、連絡をいただければ幸いです。

次回のテーマのお知らせ
 次回の「今日があるさ」は「地域通貨はぼくたちのらくてんのためにこそある」です。大体のアウトライン(予定)は以下です。
一、お金って何?
二、ほんの昔、どうもお金は変だと気づいたひとがいた。
三、ちょっと、他で行われている例をみてみようか。
四、やっぱ、やってみるのが一番である。

〈注〉
*1
"imagine"は、次のサイトからMIDIでサウンドが聴ける。ひさしぶりに聞きたい方はどうぞ。
http://www.synapse.ne.jp/~tamari-j/imagine.htm
*2
『モモ : 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』/
M・エンデ [著] ; 大島かおり訳 : 岩波書店, 1996.9
*3 
『生の技法 : 家と施設を出て暮らす障害者の社会学』 / 安積純子 [ほか] 著 : 藤原書店, 1990.10
*4 
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kakusyu-toukei.html
*5
「住まいとガレージ」『生きる思想』I・イリイチ[著] ; 桜井直文監訳 : 藤原書店, 1991.10

【田村岳プロフィール】
 神奈川県藤沢市在住。よわい(齢、弱い?)37歳、シングル、定収なし、しかも笑っちゃうほど低収入にあえぐ毎日(ひぇー)。上にあるように、エコロジカルデザインや地域づくりをテーマにして現在、活動中。―自然に仕えながら自由に生活すること―を模索している。このことが偽りなく着地するよう、農や、メンズリブ(ジェンダー)、連帯経済、オルタナティブビジネスの可能性をひろげようとしている。本来の専門は、建築設計。自然素材、環境共生住宅手法をベースとして、セルフビルドや民家の改修等も視野に入れている。 仕事・活動依頼も受付中。よろしければ、今回の感想等は、メールで。
 E-mail:takeotam@v7.com<転送> tel/fax:0466・47・0382



室野井洋子公演報告 あの世のできごと(室野井洋子)


 身体と私がしっくりいかない、この存在の不快さとでもいうべきもの、これが動きの始まりである。ここではないどこかに向かって歩き、私ではないなにものかに向かって手を差し伸べ、声をあげて呼びかける。そうして広がってゆく世界。
 ふと立ち止まると、身体がどこに在り、私がどこに居るのかわからなくなる。たしかに身体はここに在り、私はここに居る。しかし、あそこにも、そこにも、どこかにも、在るし、在ったし、居るし、居たような気がする。無数の身体と無数の私が勝手に動いている。
 そんなとき風がとおりぬけてゆく。いにしえから、未来から、今を吹く風。
 法界寺のお堂に風がおとづれた。稽古をする人たちの足元に、ろうそくのゆらめきに、人が座り歩き話す畳の上に。
 一度、身体に感じた風は、いつでもまた吹かせることができる。

 一緒に稽古をした方々、そしてソロダンス「あの世のできごと」を見にきてくださった方々、ありがとうございました。
 また新たな風を吹かせましょう。

からだ、万有のできごとが 経過するものとしての器(伊東尚美)


拝啓  室野井洋子様

 外は雨。風を呼ぶ為に細く開けられた戸に知恵の輪のような銀色の輪っかがぶらさがっていて、時折チリーンと澄んだ高音が本堂に響く。

 3本のろうそくが丁寧に運ばれ、それぞれ具合の良い所へ設えられる。大きくなったり小さくなったりするほのおを眺めている内に薄ぼんやりとあたりが見えてくる。シュッ、サー、シュー・・・と足の動きによって畳との間にこすれる音がさまざまに起こり、手はあたりを探るように動き始める。本堂の空間に気を行き届かせつつ前日のワークショップへも思いは飛んで・・・。

 手首と手首の付け根をくっつけたまま、その点を離さないように手首を返して一周させる。――手を上げる。手の先数メートルの所に中心を意識して、あるいは手の付け根に中心を意識して。――歩く。踵から小指の先までの一点一点を順に意識しながら。

 ワークショップの後で着物の話になったのを覚えていらっしゃいますか。着物を着ると腕ひとつ上げるにしても着物をそろりと連れてゆくという風で、体の使い方が洋服を着た時とちがってくるといった話など。
 着物のついでに思い出したことがあります。昔誰かから聞いたのですが、例えば袖の振りの部分や半分に折って腰に巻いた帯の差の部分など、際というか端っこは隙の多いところで、そこから何かが――魔のようなものか・・・――が入ってくると思われていたことがあるらしく、そうならないように色々な工夫をしたらしいのですが、私はその話を聞いて大層興味深く、又、然も有りなんという感じがいたしました。そしてそんな事を思い出しながら公演の時の室野井さんの衣装を見ていました。

 ノースリーブからのぞいた両の腕は空気に触れ、広げたら円になりそうな二枚重ねの衣の裾は外からの気配を通わすに充分で、まさに向き合って座している私たちから何かを呼び込み、本堂の空間から何かを呼び込む為の衣のようにも思えました。体は動きが経過してゆく場で、動きは留まらず放たれる、とでも言えばよいのか・・・。
 室野井さんの動きを目で追いつつその実自分も動いている、といった錯覚にとらわれそうでした。――いえ、本当に動いていたのでしょう。あたりの空気がピュウピュウと音を立て、けっこうなスピードで動いていたように感じましたから。そうしてひとつひとつ紡がれてゆく動きを見ていますと、未だ意味づけされていない何ものかが生まれるその場に立ち会っている、そんな感慨も湧いてくるのでした。
 
 時折発せられる声とも音ともつかないもの――意識してのことではない、とおっしゃっていたので音と言うべきか――深々と美しいものが腹の底から起こり、その音は万有の「ある状態」において発せられる音、といった印象で私の中に忘れがたく残っています。それと忘れがたいものがもうひとつ。それぞれが自立した位置を持っている、という風に指と指の間に空間を帯びた手。知人に借りて読んだ良寛の本にいくつか出ていた彼の書に室野井さんの手はよく似ている、とふと思いました。

 そんな事をうっすらと考えている内に「終わります」と小さな声がし、室野井さんはスッと奥へ消えてゆかれた。ほの明るかった外もいつしか暗くなっていて、ふと我に返ろうにもこの出来事をどのように自分にたぐり寄せようかと考えあぐね、しばし立ち上がる事が出来ないでいました。

 ワークショップと公演からひと月近く経ち、日常の些末な事に覆われてゆきつつある日々です。それにしても、くり返しの動作の多い日常生活とはいえ自分の中に無意識に出来上がっている心地良いリズムのようなものはあり、そういうものの許容量を増やしたい、あるいは体のひとつひとつの動きに覚醒していたい、というのは私のかねてからのささやかな願いです。
 例えば川の傍を通りかかり、さわさわと流れてゆく水音を聴いている内にいつしか自らの腹の中にも川が流れ出し、同じようにさわさわといっているような実感を持つ、ということなど、私にとっては大事な事なのです。たとえそれが川からの音が腹に響いているだけのこと、と誰かが言ったとしても・・・。

 ワークショップと公演を通じて私はそのようなものを大事に想う事をとても勇気づけられた気がしています。そして今なお本堂で抱いたさまざまな想いとのやりとりは続いているのです。
 公演のタイトルにあの世のできごと、とありましたね。私は、つまるところあの世のことはこの世のこと、という結論にたどり着きそうな感じです。少々性急でしょうか。

 前日のワークショップも久しぶりに体の隅々にまで気を行き届かすことが出来、嬉しいことでした。最初に、あ、脇の下が開いた、空気が通ったな、という感じがし、その後少しずつ体のあちこちの関節が開いた、という感じがしました。そのせいかどうか、夜中にふと目が覚めると寝たままの状態で腕を上に伸ばし右から左へ、あるいは左から右へとゆっくりと半円を描くように腕を動かしていた、ということが二度ばかりありました。これはなかなか面白い体験でした。 
 この頃は細竹やまだ軟らかい緑が風にゆれているのを見ては、あんな風に気持ちよさそうに体をゆらせないものか、などとためしに体をゆすってみたりして遊んでいます。いずれにせよ、色々なものに感応できる柔らかさが少しずつ身に付きつつあるようで嬉しく思っています。

 いずれ又お会い出来る日を楽しみにしています。
 山口はちらほら螢が飛びそうな季節です。                                   
                               伊東尚美

編集後記

 「久々に美しいものを観させていただきました。それにしても皆さんの集中力はすごいですね」―会場を貸していただいた法界寺(感謝!)のご住職の奥様の言葉が、室野井さんの公演を物語っていると思う。二十数名の参加者だったが、終わった後の余韻に浸されて、しばらくは本堂の薄明かりの中に人影がうずくまったままだった、、、。この秋にも室野井さんを招いてできれば3日間程度のワークショップと公演をもちたいと思う。遠く札幌在住の室野井さんといろいろな方のご縁が結び合わさって山口でこの催しができたことに感謝いたします。(高島無々々)


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