100年計画  

2006年3月

[Topics]

27 Jan 〈過去は取り返せないものではなく・・・〉
 楽天堂の高島無々々です。過去は誰にとっても(老若男女を問わず)重いくびきだと思います。
 特に“三つ子の魂百まで”と言われるような乳幼児期の親との関係は。
 でも、それはいつまでもどこまでも担わなければならない負債なのでしょうか?

 フランクルは否、と言います。
 ナチスの強制収容所から奇跡的に生還し、『夜と霧』を著し、ロゴセラピーを創始した精神療法医は次のように語っています。

 「(前略)すべては過ぎ去る、とはどういうことでしょうか。それは、私たちがすべてを救い出して「過去の存在」にするということだからです。「過去の存在」になったものは、失われて二度と取り返せないのではなく、保存されて二度と失われないのです。私たちがなすこと、私たちがつくるもの、私たちが体験すること、私たちがしっかりと苦悩に耐え抜くこと、それらは、とにもかくにも私たちがなしたものです。なんらかの意味の可能性を見出し、その意味を実現することでその可能性を現実のものにするなら、その可能性は救い出されて「過去の存在」になったのです。(中略)一般に人はいつも、過去を、たんなる切り株畑のように考えます。そのとき人は、過去存在という収穫物でいっぱいの穀物倉を見落としています」(『宿命を越えて、自己を越えて』春秋社より引用)

 過去に拘束されるのではなく、自分の人生の課題を過去に探求し、見出した課題に答えるという責任を持つことこそ、人間存在の本質であると語られています。
 問題は、その後です。ある事柄の理解とそのように生きられるかどうかの間には果てしない懸崖がある、というのは日々私(たち)が直面している課題なのですから。
 様々な立場の人が様々な解法を示そうとするでしょう。セラピストはセラピストとしての、宗教家は宗教家としてのetc.。

 私自身は身体知を通して過去生を受け入れること、親との和解がもたらされたので、馬鹿の一つ覚えで、性懲りもなくこのように書いています。
 身体知とは、“勘”や“直感”という言葉で表されるような身体感覚を通して得られる自己理解の体験です。

 私は、この身体感覚こそ“わたしをわたしたらしめているもの”であり、かつ文化や伝統の礎であると考えています。
 そして生まれながらに誰にも備わっているはずの身体感覚が、親によって、学校によって、社会によって「教育」される過程で鈍磨させられているという困難を、現代社会に生きる我々は共通して抱えていると思います。

 整体の創始者・野口晴哉は画家の中川一政との対談で次のように語っています。
 中川:(前略)初めにちゃんとした純粋な勘を持っている人が、勘を鈍らせるということはあるんでしょうか。
野口:こうしなければならない、こうしてはならない、こうしては笑われる、こうしたら褒められるというのは、みんな勘を鈍くします。
中川:そうでしょう。それからまた抜けるということがあるんでしょうか?
野口:抜けるにはそれから三十年かかります。
中川:そう、そうです。抜けるにはそのくらいかかる。
野口:一旦そうなってから抜けたのは見事ですね。(『月刊全生増刊号』整体協会より引用)   

 数年前に初めて読んだとき私は、“三十年”というのは長い時間の喩えかな、と思いました。が、あれだけ精緻な身体観察者の野口晴哉が根拠のない数字を言うはずがない、と思い至りました。
 三十年・・・ここに(野口晴哉のような天才ではなく凡才として生まれた)自分の可能性を賭けています。
 豆料理普及100年計画ならぬ、身体感覚を取り戻す30年計画です。

27 Jan 賭け
 千晶です。みなさま、お騒がせしています。どうも体がまとまらないので、やっぱり続きを書きます。これは、自分のために書いています。
 私が思うに、〈自由は宿命を受け入れるところに生じる〉と思っています。

 ある獣医が言うには、ほとんどの動物は、人間ならば到底そのあと歩いたり食事したりすることができないような大手術を受けても、翌日には歩きもするし食べもするそうです。動物の世界では、弱っている動物は敵にねらわれるから痛くても力を発揮するようになっているのでは、ということ。人間も死という宿命を受け入れるところから、本来持っている体の力を発揮するのだと受けとめています。

 たとえば先日来、頭が妙に痛くて無々々に手を当ててくれと頼んだのですが、なかなか当ててくれない。「脳腫瘍があるのかもしれないよ」と私が気弱に言うと、脳腫瘍と共に生きていけばいいんだ、と無々々。文句を言いつつ、私も腹が据わって一人になって、そうこうするうちに自然と体が動いてきて、自分で手を当てる位置も角度も決まりました。こどもがぜんそくで苦しんでいるときも、土壇場になると腹が据わり、自然に手当ができたことが何度かありました。妊娠中一度も病院に行かなかったのは、佐野さんが今は占いに興味がないと言っているのと同じ感じだろうか。病院などに自分の運命を委ねたくなかった、死ぬときは死ぬとしても。前にも書いたけれど、わたしが野口整体から影響を受けた本質は、死ぬときは死ぬという覚悟だったと思う。

 常日頃は、わたしは自分の宿命なんて受け入れていなくて、「なんでこんなマイペースで気むずかしい男と結婚したんだろう」なあんて運命を嘆いている。(無々々も同様。「なんでこんなお調子者と一緒になったんだろう」と運命を嘆いている)けれど、出産の時、あるいは二人して仕事を失ったとき、その宿命を受け入れて自由だった。自由なとき、ひらめきが与えられ、勘が働く。
 宿命を受け入れ自由を得ようとする上での最大の障害は、自己憐憫だと思う。無々々は落ち込んでいるわたしによく言う、「自己憐憫にひたるなよ」。

 身体の解放への旅の最初で出会った本は、前にも書いた真木悠介の『気流の鳴る音』で、これは平賀さんにとっても大事な本だったそうです。この本では、カルロス・カスタネダの呪術師シリーズが取り上げられているのだけれど、その中米の呪術師もカスタネダに再三、自己憐憫におちいるなと注意していた。

 最初の子を産むとき、不完全な自分からは不完全な赤ん坊が生まれてくるであろうと何となくわたしは思っていたのに、生まれてきたのは、信じられないような完璧に美しい赤ん坊だった。こんな完璧な神様みたいな赤ん坊に、わたしという不完全な母親が一人しか与えられていことが、なんとも理不尽だと思われて、一か月ほどは泣けて泣けてしょうがなかった。そして、この子が将来、私に育てられたことを呪ったとしてもそれは当然であると思った。

 その後何年かかけてこの子にはこの母しかいないという宿命を受け入れていったことが、わたしにはわたしの母しかいないという宿命を受け入れることにつながった。
 この子にはこの母しかいないという言葉が自己憐憫に終わるのではなく、宿命として受けとめられたのは、自分を守ってくれると同時に自分をがんじがらめにしていた洋服屋を手放したときだと思う。賭けだった。(自由と宿命を結びつけるのは賭けか。賭けによって人は勘を養うのか。)

 以下はその直前に書いた文章。まだまだ自己憐憫がにじんでいる。父が始めた山口の洋服屋を閉めて、こういう自己憐憫はずいぶん洗い流せた。父母から自立もした。(今も目の前のことに力がうまく発揮できないときは、たいがい自己憐憫のわなにもひっかかっている。)
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2002年1月16日(水)
 10年営んだ洋服屋を手放すことになった。はじめた時はまだ独身だった。10年の間に結婚し、子どもを産み育て、もう一人子供を産んだ。

 一番つらかったこと、上の子ども6か月になるかならない頃、仕入れに広島に行かなければならなかったこと。朝早くから夕方遅くまで、アトピーのひどかった娘は粉ミルクをうけつけず、りんごジュースだけで私の帰りを待った。老いた母が兵庫から子守りのために来てくれて、留守番の間中、思いつくかぎりの童謡を歌ってあやしてくれた。娘は『赤い靴』が好きで、悲しそうな顔をしながらもじっと耳をすませていたらしい。私は私でおっぱいを待つ赤ん坊を思うといてもたってもいられず、新幹線の中でも小郡に向かって走り出しそうになった。小郡駅を降りてタクシーでとんで帰ると、娘を抱いた母がうす暗くなった家の前の路地で近所の人に囲まれて立っていた。その夏の夕暮れの光景が、今もありありと思い出される。

 その他のつらかったことも、すべてこどもを育てる上でのことだなあと思う。
 仕事の覚え始めに要領を得ず夜ふけにぽろぽろ泣きながら検品したこととか、うまくまとまらないディスプレイをああでもないこうでもないとしていたら夜が明けてしまったことなど、今となっては笑い話だが、まだ小さい子どもにがまんさせたこととなると、今思い出しても昨日のことのようにかわいそうでつらい。一度や二度じゃない、ずっとがまんのさせどおしだった。アトピーがひどくて保育園に預けられず2歳半くらいまでは、ほとんど店で育てた。食事もおそくなりがちで、病気の時さえ満足にそばについてやれない状態だった。
  そうまでしてやってきた店を手ばなすことになり、今までの苦労を思うと残念でならないが、一方で働きながらこどもを育てるという困難から、さしあたってであれ解放されることにほっとしてもいる。

02 Feb つぼみ、自然派クッキングノート、眠り
 千晶です。(前略)前から書こう書こうと思っていたのですが、『自然派クッキングノート』(第三書館)という本、おすすめです。たみさんを含む女性たちが以前にやっていた「たべものや」のレシピ集なのですが、とても役に立ちます。切り干し大根の中華風の酢の物とか、まったくもって実用的なレシピが我が家の定番になりつつあります。娘の誕生日祝いには、ミルクティーケーキを焼きました。おいしかった。(後略)
 この本はSORAが扱っておられるので、楽天堂でも預かることにいたしました。ご連絡頂ければ、次号豆料理セットと一緒にお送りできます。店頭にも置く予定です。1260円です。

03 Feb でんぷんお焼き、サラダ
 千晶です。(前略)〈サラダのこつ〉。たぶん気がついてそうされてる方が多いと思うのですが、塩のタイミングで葉ざわりがまるで変わります。水菜などの青菜のサラダの場合は、最初にオリーブ油をかけて膜をつくってから、酢と塩をふるとシャキシャキ感が楽しいサラダになります。ひじきの時もさっとゆでてすぐに油をまぶし椰子の花蜜糖を少々ふりかけておきます。そして冷めてからお酢と塩をふります。こうするとひじきもいきいきしたまま食べられます。逆に、玉ねぎやかぶ、大根の千切りなど生で食べるより塩をふって水気を外に出し甘みを出した方がおいしいと感じられるのは、塩を先にしてしばらくおき水気をよく切って、それから油や酢を加えます。(後略)

09 Feb 〈活元運動の体験記〉
 静岡の藤田です。先月から時々整体のことが話題になっているので、私の体験を少し書いてみました。

 私が整体を始めた直接のきっかけは、持病の「先天性股関節脱臼」が治らないかという思いからです。小さいときはギプスをはめていて、幼稚園にあがる頃からはふつうに歩いたり走ったりできたので、周囲も自分自身も「治った」と思っていました。それが、40を過ぎた頃、登山の下りで股関節が痛み出し、以来、重いものを持ったり飛び下りたりすると、時々痛むようになりました。
 病院の診察結果は「脱臼していた右足の大たい骨頭が変形しつつある」「左足も将来そのおそれがあり、可動性はこちらの方が悪い」「この病気は加齢とともに症状が出てくるので、農業や登山はやめたほうがいい」でした。

 外仕事派の私は大ショック。「完治」はありえず、高齢になって痛みが増せば人工関節にする人が多い、と聞いて、かなり落ち込みました。で、体操やら水中歩行やら、将来人工関節にしなくてすむ方法はないか、いろいろ情報を集め始めました。そんなとき、友人に「活元会」に誘われたのです。
 ところが、活元会の数日前、(股関節症とは関係ない)あることで精神的にパニックになってしまいました。精神科の医者に電話をしたものの予約が必要と言われ、「薬がないとこわい」と何もする気になれずにいました。で、活元会もすっぽかしてしまおうと思ったのですが、「せっかく誘ってくれたのだから」と夫に半ば無理矢理連れて行かれました。

 参加者は10人ちょっと。先生は優しい声で話す女性で、最初に整体と活元についての説明がありました。その後、準備運動のやり方を教わり、「ボレロ」の曲が流れる中、各自で活元をしました。目を閉じてポカンとしていると先生が廻って来て、私の背中に手を当ててくれました。何となく体がむずむずとしてきて、体の中で何かふつふつ沸いているような感じがしました。その後二人で「相互運動」をしましたが、他の人は「活元」が出ているようで、畳をする音や手足がバタバタする音が聞こえました。でも私や夫は何も動きませんでした。

 で、その日はそれで帰宅し、翌朝炊事をしながら姑と話していたときのことです。「あれ?私何かいつもと違う。何だろう」やがて夫が起きてきて会話を交わして気がつきました。私は大阪弁で話していたのです!

 私は大阪生まれの大阪育ちですが、10代のとき3年間愛知県にいて、高校演劇部で標準語でしゃべる練習をしたので、結婚して静岡県に来てからは標準語モードになっていました。相手が関西の人だと自然と大阪弁が出ますが、そうでないと大体標準語で話す癖がついていたのです。
 ところが、この日は大阪弁しか出てこない。いつもなら無意識に標準語になるのに、意識しないと標準語でしゃべれないのです。静岡県に来てこんなことは初めてだったので、「えー今日は私どうしたんやろ」と考えた挙句、これはひょっとしたら昨日活元をしたせいではないかと思いました。

 それでおもしろくなって翌週も活元会に出かけました。各自で行う活元のあと、相互運動の二人目、男性の方と組みました。横になりたい人はなってもいいと言われたので、途中から畳にごろり。その瞬間、畳に置いた私の手がパタパタっと動きました。私の意志とは関係なく。「え?何これ、今の何?」と思う間もなく、手がどんどん動き出し、あとは畳の上を転げまわっていました。

 これがそうなのか!と驚いた私がさらに驚いたのは、私と組んだ男性が(見た目には)動いていなかったことです。「僕は始めて2年になるけど、みんなのように動きが出ないんですよ。でも気持ちがいいので時々参加してるんです」__この経験で、見た目の動きが出るかどうかではなくポカンとすることの重要性、「互いの気が感応する」ということを知りました。

 これですっかり活元にはまってしまい、気がついたら股関節症のことなどすっかり忘れていました。無理をすると違和感や軽い痛みは出ますが、以前のように「股関節症を治さないとやりたいことができない」とは思わない、一言で言えば股関節症が気にならなくなりました。
 活元をして最初に大阪弁が出たのは、私の潜在意識が刺激されたから?でしょうか。気持ちがゆるんだことの現われかもしれません。

 活元二年目からは、若い頃他人から指摘されて納得できなかった自分の欠点や失敗の原因が、「ああ、そうだったのか」としばしば気づくようになりました。それで活元はすごいとますます夢中になったのですが、三年目に入ると、自分自身が問われだしてきつくなってきました。何と言うか、「いろんなことに気づいた自分」と「それなのに変わろうとしない自分」が、私の中で葛藤しているような感じでした。

 それでも、二年目から会員になって個人指導(操法という)を受けた成果もあってか、腰にだんだん力が入るようになりました。こうなるとうだうだ考えることが少なくなり、やろうと思うとすっと体が動くようになりました。今でも、サボると腰の弾力が落ち、いろんなことが億劫になりがちです。せっせと活元をしていると、骨盤の上にきちんと上体が乗っている感覚があり、こういうときは「面倒くさい」と思う前に体が動きます。体と心はひとつ、ということがだんだん実感できるようになりました。

 四年目、舅の痴呆がいよいよ進み、介護が大変になってきました。整体の生にグチをこぼしたら、「逃げないで面倒見ようと腹を決めたら、きっと伝わるよ」と言われ、頭ではそうだろうと思いましたが心はなかなか納得できずにいました。
 そして秋になり、舅のつきそいで行った病院の待合室でのこと。舅に体温計を渡したけどうまく腋の下にはさめず、手を貸した瞬間、ふっと、「このおじいさんは私を頼りにしてる。よし、最後までつきあおう」という気になりました。なぜあの時そう思ったのか不思議ですが、気が通じたんでしょうか。それから一ヵ月後、舅は自宅で楽に息を引き取りました。

 こうして、四年目までは多少の波はあったものの、おおむね健康で元気に過ごしてきました。舅の介護もやれるだけのことはやった、という達成感があり、葬儀もすったもんだはあったものの、夫と私の希望をかなり通すことができました。このまま活元を続けていれば、ずっと健康ですべてがうまく廻る、そう確信していましたね。

 しかし、人生はそう甘くない。五年目に入り、春を過ぎる頃から、股関節以外は自信のあった体力とテンションが、徐々に落ちてきました。何となく根気が続かない、物忘れが多い、いろんなことがてきぱきとやれない、等々。この傾向は夏に実家の父が亡くなったことで加速し、秋に入ってからは交通事故に合いました(ただし車が壊れただけでかすり傷ひとつなし)。

 そして稲刈りの日、夜9時までかかって刈った後、すきっ腹にポテトチップスを食べながら車を運転して帰り、翌日から急に食欲がなくなったのです。
 これは私には大事件でした。これまでも、無茶食いをしておなかの調子が悪くなったことは何度かありましたが、二、三日するといつしか治っていました。それが、今回は何日たってもおかしい。ずっと消化不良状態が続く感じなのです。

 これまで、何があっても食欲がまったくなくなる、ということはなかった、時に一日二日食べなくても、そのうち自然とおなかがすいてきていました。それが、気持ちや口では食べたいのに、おなかが受けつけない。いや、茶碗に少ししか食べてないのに、ちっともおなかがすいてきません。
 一体私の体はどうなったんだろう。食べたいものを前にしても食べられず、ストレスは募るばかり。ここのところ仕事や活動が忙しくて活元をサボってたせいだろうか。あわてて個人指導を受けに行った私に、先生は一言「更年期ですね」「・・・・・」

 そうなんです。私、思い違いをしてたみたい。活元を続けていれば、ずっといつまでも「元気な藤田さん」でいられると思ってた。仕事をがんがんやって、ご飯をもりもり食べて、ぐっすり寝れば翌朝は疲れなどさっぱりなくなって、まるで年を取ることなどありえないかのように。
 でも、そうではないんですね。誰でも必ず年を取る。変わらないものなど何一つない。私の体も確実に変わりつつあるのに、頭はいつまでも「今」のまま。だから食べられなくなった自分が不安になってた。

 それがわかり、整体六年目に入った私は、すべてのペースをスローダウンし、少しずつ生活を軌道修正することにしました。まず、あれもこれも手を広げすぎてアップアップしている状態を整理し、自分は何がやりたいのか絞っていくことに(それで習い事をやめました)。次に、これまで姑に遠慮してさわらなかった台所に手をつけ、私の使いやすいように大改造しました。ついでに大量の不用品も処分しました。

 ここまでが、去年の三月頃の話です。この月、整体の先生が車にはねられて重傷を負い、入院されるという出来事が起こりました(この件も実に興味深い話がいっぱいあるのですが、それを書き出すと終わらなくなるので省略)。
 先生が全快されるまで、浜松の教室の先生が、週1回、活元会や個人指導をして下さることになりました。この先生は男性で、私の教室の先生とはやり方が少しずつ違っていました。

 最初の活元会のとき、音楽が始まって活元をしていた私に、後ろに廻った先生の「頭だけ動かさない。横になりなさい」と言う声が。「え?何で。活元って自分の内から出る動きなのに」これまでそんなことを言われたことのなかった私は戸惑いました。
 それ以後も、「手や足だけ動いてて体幹が動いてない」「鬱散にはなるけど本当の活元とは言えない」「寝るのに楽な姿勢をしてごらんと言うと、どんどん動いて実に野性的なのに、どうしてあんな活元しかで出ないの?」「それじゃいつまでたっても頭がゆるまないよ」「あなた座ってるとなかなかゆるまないから、目を閉じたらとすぐ横になりなさい」等々言われ放題。

 挙句の果ては、「したいことがあっても、周りに気兼ねしてセーブしている」ともらした私に、「何でしないんですか。したいことをしないで、いくら活元なんかやっても意味ないよ」とズバリ言われてしまいました。
 この一言はこたえましたね。でもそれで、自分が積み残してきた課題「いろんなことに気づいた自分」と「それなのに変わろうとしない自分」の葛藤にもう一度向き合おうという気になりました。このMLに参加したのもその頃です。そして皆さんのやり取りを読むうち、「したいことをセーブさせているのは周りではなくて、自分を変えるのを恐れている自分自身だ」ということに気づきました。

 そして活元も少しずつ変わってきました。今まで、部分的に頭や手や足がバタバタしていたのが、だんだん全体が動くようになってきました。また、ドスンドスンとたいへん騒がしい動きが多かったのに、静かに、滑らかな動きが出るようになりました。二人で組む相互運動も、相手によって随分違いがあったのに、今では誰でもオッケーという感じ。

 年末、事故に合われた先生がめでたく退院され、以前よりも元気になって教室に復帰されました。今年一月の私は、正月の食欲不振やその後の激しい下痢、パソコンの故障、車の接触事故、風邪と、いろいろ続いたので先日個人指導を受けたところ、「今までで一番整ってますよ。」とのこと。うーん、そうなんだ、病気や怪我や事故や、マイナスと思えるようなときこそ、自分を壊して変わるときなんだ、としみじみ思いました。整体七年目の今年のテーマは「壊して新たに創る」でしょうか。

 私も中村美紀さんが書いたように「場」を作りたいと感じています。そのために今せっせと自分を壊しているような気がする、また、ようやくそれができる程度に体がなってきたみたい。六年前、最初の活元会で「体が整っているとはどういう状態を言うのですか」と質問し、「病気がないということではありません。臍下丹田に気が満ち、腰椎三番に力が集まる、全力で生きられる体と心です」と先生が答えたことを、いつも忘れないように年を重ねていきたいです。

16 Feb Re: 豆ランチパーティーに参加して
 八木です。(前略)〈味噌の漬け方〉は下記の通りです。
【材料】
 大豆(無農薬、北海道産) 2kg・米糀(有機米) 3kg・鰹節 1本・塩(完全天日干塩 高知産) 900g(塩は注文してから1ヶ月前後かかります)
【作り方】
 大豆を一昼一夜水漬けし親指と小指でつぶせるくらいまで茹でる。茹であがったら、ある程度熱いうちにつぶす(我が家では食品用ビニールに入れてみんなで踏みます)。米糀は塩(分量の4/5)と混ぜ(塩切)握った形が残るくらいまで塩とあわせる。大豆が人肌に覚めたら、塩きりした糀と混ぜる(これもビニールの中で踏んだりします)。焼酎などで消毒した容器(陶器の瓶がおいしく出来るようです)に空気が入らないように投げ入れ(押し込んでもかまいません)、途中であらかじめ割っておいた鰹節も入れていきます。最後に残りの塩をまんべんなく上に振って(カビ防止のため)ポリラップをしておもしをしてふたをします。蓋の上から新聞紙で巻き、2月に仕込みなら10月には食べられます。開けたとき、上にカビがあるのは当たり前なので、カビをしっかり取り除き、食べてください。

19 Feb 〈(外国)人を家に招こう〉
 千晶です。 おはようございます。うちには5歳の子どもがいるので、ふたりの5歳の子どもが近所のともだちのお母さんの手によって命を奪われた事件を知って、お腹がいたくなりました。
 新聞で報道される内容では詳細は分からないから、あくまで直感的な思いだけれども、近所にあるいは幼稚園に、家に招いてくれごはんを一緒に食べる人がいたら事情はずいぶん違ったものになったのでは、と思います。わたしは、それくらい家で一緒に御飯を食べることには力があると思っています。

 以前、どこかに書いたかもしれないけれど、山口に住んでいるときに、バングラディシュから来た親子をお茶に家に招き入れたとき、家に入るなりお母さんが小躍りして、「夫が帰ってきたら、今日、日本人の家にはじめて入ったと自慢できる」というようなことを言ったことがあります。2年、日本に住んでいて日本人の家に招かれたのはそれが初めてだった、とのこと。道で出会って立ち話していて、立ち話も何だからと、家に上がってもらったときのことでした。彼女は料理上手で、以来、ことあるごとく、私たちにごちそうをしてくれた。洋服屋でいそがしくて豆料理も知らなかった私は彼女にごちそうすることはほとんどなかったのだけど。彼女の家族とつきあうようになって、いろんな事に気がついた。外国人への差別が保育園にもあって、市会議員にも相談して市にかけあってもらったこともありました。それはともかく、カルカッタ出身の彼女の育った文化では人を家に招いてもてなすのは当たり前のことのようで、そういう文化で育った彼女が日本に来て誰にも家に招かれないのはとても寂しく感じられることだったと思います。

 京都に来てからもエジプトから来た親子を家に招いていっしょに御飯を食べたとき、やはり畳の上に座ったのが初めてだとお母さんが言ってました。もう帰国寸前という時に知り合ったので、それが最初で最後だったけれど。彼女の育った文化でもまた人を家に招き招かれるというのがさかんなようで、たいしたもてないはできなかったのに、私が招いたことをとても喜んでくれていました。

 たぶん、日本もこれほど消費文化に染まる以前は、家に人を招く招かれるということがひんぱんにあったのだと思います。それは人間がコミュニティで仲良くやっていくユニバーサルな知恵の一つで(たぶん)、そういう知恵を失いつつある日本社会は日本人にとっても住みにくい。
 補足ですが(ほとんどの方がご存知でしょうが)、事件は中国から7年前に来日し結婚出産した子育て中の女性が犯人だと報道されています。それで、わたしは子育て中だったふたりの外国人を思い浮かべたわけです。二人とも一生懸命だった。

 わたしが家に招いたバングラディシュの友人シオリさんには当時5歳の子どもがいました。エジプトの友人サミアさんには3歳と6歳の子どもがいました。子育て中の母親というのは、いわば緊急事態で、コミュニティの助けが必要です。生まれ育った文化を離れて外国でする子育ては、文字通り緊急事態だったと思います。お茶に誘うと、うちにも小さい子どもがいるので、すぐに仲良くなれた。サミアさんからは豆料理を教わった。一緒に台所で料理すると言葉はあまり通じなくてもよくわかった。

22 Feb 常の手、足湯
 千晶です。(前略) 〈足湯〉は毎日やるものではなく、風邪のひきはじめや生理の初日、お産がはじまるときなど体を温めたいとき、ゆるめたいときににします。(毎日すると、体が慣れて効果はない。)

 バケツなどに、やけどしない程度に熱いお湯をくるぶしが浸かる深さ、入れます。そばに熱湯を用意します。両足を入れて5分。冷めてきたら熱湯を足して熱さをキープします。5分したら両足を一度出して、きれいにふきます。足の指と指の間まできれいにふく。どちらかの足がより赤く、どちらかの足がより白いので、白い方をさらに2分お湯に入れます。やはり冷めてきたら、熱湯をたします。2分したら出してよくふく。

 誰かにやってもらうとなお気持ちがいい。体が乾いているときは、飲む水をそばにおいておいて、水を飲みながら足湯する。終わったら、また水を飲む。
 風邪のひきかけだと、足湯をするとその後熱が出てうまく経過していくことが多い。熱が出たらば、足湯はもう必要ない。熱が今ひとつ出きらないときは、蒸しタオルで後頭部を温める。マッチ箱くらいの面積に蒸しタオルをたたんで、あてる。こうすると、熱が上がりきって、そのあと下がっていきます。

[レシピ]

30 Jan ―宮島さんのお便りから―
(前略)それから、はるかさんや細井さんが白菜のおいしい食べ方を書いて下さったので、私も1つ紹介します。豆ショップにもなった、長野・飯田の「てくてく」の通信で紹介されていたものです。(11月にてくてくに寄ったら、豆キットが目立つところに並んでましたヨ)

〈ピェンロー〉(中国広西省の田舎料理。素朴な白菜鍋です。)
【材料】(5人分)
白菜1株、ざく切りにし、白いところと緑のところに分けておく。干し椎茸50g、もどしておく。豚肉500g、バラ薄切りを食べやすい大きさに切る。鶏肉500g、モモ肉を1口大に。手羽先も可。春雨1袋、もどして適当な長さに切る。ごま油。塩。一味唐辛子。
【作り方】
@大きい鍋に白菜の白い部分を入れ、水をたっぷり注ぐ(椎茸のもどし汁も入れる)。沸騰したら豚肉・鶏肉・椎茸を入れ、ごま油を大さじ4杯ほどたらす。
Aしばらく煮て、残しておいた白菜の緑の部分を入れ、最後に白菜を入れる(煮すぎないように)。B食べる直前にもう1度ごま油をタラタラ「の」の字を書くようにたっぷりたらして出来上がり。
【食べ方】
各自おわんに塩と一味唐辛子を入れ、鍋の汁をすくってとかし、それをつけ汁にして食べる。しょっぱめがおいしい。間違ってもねぎや春菊などを入れない。 


  どうぞ試してみて下さい。まだやったことないけど、ベジタリアンになったから、肉なしでコンブと干し椎茸だけで作ってみようかな。

01 Feb でんぷん料理 
 千晶です。(前略)先日から、でんぷんをつかった料理を教えほしいというリクエストに応えねばと思っておりました。昨日つくった高野豆腐の料理がおいしかったので、お知らせします。(会員の清水千佳さんが紹介して下さったご縁で知り合った鈴木順子さんという料理研究家の方が、お送り下さったレシピです。)「片栗粉」というところで、「でんぷん」をつかっています。

〈高野豆腐のつるるん煮〉
【材料】
高野豆腐 3枚、片栗粉 適量、油 約大さじ3、だし 2.5カップ、酒 大さじ2、砂糖 大さじ1、塩 小さじ4分の1、しょうゆ 大さじ1.5、しょうが 少々
【作り方】
@高野豆腐はたっぷりの水、または油でもどす。(もどし方はパッケージを参考に)
Aやわらかく戻ったら、ボールの中で水のにごりがなくなるまで、軽く絞るように洗う。
B水気をしっかり絞り、6等分に切って片栗粉をまぶす。
C厚手の鍋に油を熱し、両面を焦がさないように焼く。油をたくさん吸うので、手早くひっくり返すとよい。
D次にだしを加えて煮る。鍋に分量のだしを入れ、沸騰したら酒を加え、落としぶたをして10分くらい煮る。
E砂糖、塩、しょうゆを加え、さらに15分くらい煮る。
F器に盛り、好みでおろし生姜をのせる。


06 Feb ヒサコさんを囲む豆ランチパーティ
 千晶です。(前略)

今夜は、蒸した〈白菜の小豆くずあんかけ〉。これにもおろし生姜があいます。小豆をゆでてみりんとしょうゆで味をつけ、水溶きでんぷんを入れてあんを作りました。銀手亡でやってもおいしいと思います。白菜をたくさんもらったので、蒸した白菜にかに入りホワイトソースをかけたり、大豆入りの中華風ソース(醤油、ごま油、ラー油、酢)をかけたり、アレンジして楽しんでいます。

24 Feb あちゃちゃ!
 いやはや、すっかり楽天堂及び会員の方々におんぶに抱っこちゃんな陀里でございます。
(前略)

先週ご高評いただいた〈花豆と大福豆の柚子味噌和え〉は、精進料理の本に載っていた「花豆の白味噌和え」をみて適当に作ったしろものです。簡単なのでぜひ作ってみてください!
【本当のレシピ】
*紫花豆と白花豆は別々に一晩水に浸して柔らかくゆがく。
*白味噌を清酒でとき、砂糖で好みの甘さに整え火にかける。
*木しゃもじで鍋底をこすりながら練り、アルコール分を飛ばす。
*味噌につやが出たら2色の花豆をからめて火を止める。
【私が作った物】
 *花豆(紫)とりんごちゃんの大福豆を一晩水に浸して柔らかくゆがく。
*去年作った自家製の普通の味噌に、酒、砂糖、みりんを入れて混ぜる。*そこにゆがいた豆を入れる。
*味を見て、柚子を入れたらいいかも!と思って柚子酢を入れてみたらうまかった♪
 できあがり。

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