100年計画  

2005年9月

[Topics]

味わいの感覚〉(8/1) 楽天堂の高島無々々です。あんまり素行が悪いもんで、夜、女房に締め出しを食らいました。無々々です。子どもの頃、学校の帰り道にお腹が痛くなりました。何とか家にたどり着いたら、お袋は買い物に行ってて留守でした。玄関の前でそそうをしたとです。無々々です。
 佐野さんの自分の味覚を信じられない、という投稿に関して・・・
 小林秀雄が『表現について』(1950年)で次のように語っています。
 「音楽を聞くとは、その暗示力に酔う事ではありますまい。誰でも酔う事から始めるものだ。やがて、それなら酒に酔う方が早道だと悟るのです。音楽はただ聞えて来るものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、作者の表現せんとする意志に近付いて行く喜びなのです。どういう風に近付いて行くか。これは耳を澄ますより外はない、耳の修練であって、頭ではどうにもならぬ事であります。現代人は、散文の氾濫のなかにあって、頭脳的錯覚にかけては、皆達人になっております。一方強い刺戟を享楽して感覚の陶酔を求めているので、耳を澄ますという事も難かしい事になっている。黙って、どれだけの音を自分の耳は聞き分けているか、自ら自分の耳に問うという様な忍耐強い修練をやる人は少くなっている。併し、そこに一切があるのだ。例えば、私が、梅原龍三郎氏と一緒に同じ絵を黙って見ています。二人とも言葉では、いい絵だと同じ事を言います。併し、恐らく梅原氏の眼玉には、私の眼玉に映る何十倍かの色彩が現に映っている筈であるという事を考えざるを得ない。そこに一切がある。これは恐ろしい事なのであります。耳は馬鹿でも、音楽について、悧巧(りこう)に語る事は出来る。つまり音楽を小説の様に読んでいる人は、意外に多いものであります。
  耳を澄ますとは、音楽の暗示する空想の雲をくぐって、音楽の明示する音を、絶対的な正確さで捕えるという事だ。私達のうちに、一種の無心が生じ、そのなかを秩序整然たる音の運動が充たします。空想の余地はない。音は耳になり耳は精神になる。」
  ここで小林が言っている耳や目の鍛錬というのは、感覚器官としての耳や目(五感)ではなく、(毎度毎度の話で申し訳ありませんが)私が取り組んでいる整体の表現を借りれば、勘=身体感覚としか言えないものではないか、と私は考えています。
 というのも、五感による感覚は個体の内に閉じこめられてしまうけれども(早い話、好き嫌い、きれい汚い、気持ちイイワルイで終わってしまう)、身体感覚は個を越える(=他者との間に感応が起こりうる)からです。
 例えば、コンビニのおにぎりを食べておいしいと感ずるかまずいと思うかは人それぞれ、それこそ千差万別でしょう(一人の人間でも状況によって異なるかもしれません)。
 でも、森のイスキアの佐藤初女さんがにぎるおにぎりが、なぜ食べた人に感動を与えるほどおいしいのか、誰でも(物理的には)にぎれるおにぎりをにぎってみせるだけの料理教室に何故人々が集うのか?
 特別な材料を使うのでもなく、少々の工夫(確かに佐藤流という方法論はありますが)で、誰しもがおいしいと感ずるのは?・・・心をこめているから?ではない、と私は思います。彼女のおにぎりがおいしいのは、身体感覚に則って彼女がご飯をにぎり、そのおいしいという味わいの感覚が、参加者一人一人の身体感覚と結び合う、からだと思います。
 逆に言えば、どんなに佐藤さんの握り方を形だけまねても、そして全く同じ材料を使ったとしても、〈味わう〉という身体感覚に鈍い人がにぎれば、そのおにぎりはまずくなってしまうでしょう。
 小林秀雄が上の文章で梅原龍三郎と対比して卑下してみせたように、同じ絵を何十倍も豊かに味わえるかどうか・・・紙一重の、障子一枚を隔てた世界、恐らく、生きることの意味の全てが――食べ物を味わう、芸術を鑑賞するにとどまらず、人生そのものを味わう、そして身体と不可分のセックスにおいてオーガズムを感じられるかどうか――この一点にあると思われます。
 この身体感覚は、誰しもが身にそなえて生まれながら、(天分を持った人やよほどの教育環境に恵まれた人をのぞいて)誰しもが鈍くしてしまっている(→結果、自分の座標軸を定められずに人生に確信が持てない、自分の身体の外に“判断基準”を求めてしまう)のです。
 なぜなら(またしても整体の話で恐縮すが)野口晴哉は「〜すべきである。〜してはならない。〜したらほめられる。〜したらしかられる。この4つが勘を鈍くします」と語っているからです。
 ということは、普通に育てられたら(親や学校や社会に)我々凡人は身体感覚を失うしか道がないではありませんか。
 そんな殺生やなあ〜。ご安心あれ。野口大先生は「三十年かけたら取り戻せる」(もちろん、喪失に気づいてから鍛錬を続けて、の話ですが)と仰って下さっているのですから。更に!「これを乗り越えたら見事です」とも。私はそこに自分の可能性を賭けていいます。
 豆料理100年計画ならぬ、人生の花30年計画・・・。
 ではどのようにしたら、というのが次なる議論でしょうが、「身体感覚は身体を通してしか養えない」というのが共通認識のようです。頭でアレコレ考えても(僕のこの駄文を読んでも)どうにかなることではない。
 習うものでもなく教わるものでもなく、独り、養うしかないのです(ちなみに昔は“健康”という概念=言葉は無く、“養生”と言ってたそうです)。
 整体にはもちろんその技術があります。肚(はら)の5つの急所の内、第二がこの〈あじわう〉感覚の源なのですが(私はスーパーなどで食品を買う時、左手で持って肚の第二に響くものを選ぶように心がけています)、この身体感覚を養うために脊椎行気(せきついぎょうき)、呼吸法、気合い、活元・・・などなどです。
 他にも、様々な鍛錬の道が先人によって切り開かれているでしょう。
 喪失に気づくのがその第一歩、そして師たる人に巡り会うのが第二歩、師から体験を通して感覚を伝えられるのが第三歩――最初の三歩のあとは、自力独行あるのみ、でしょうか。
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 今日は畑に伸び放題の草を刈りに行って、たまたま下の田んぼの水入れに来ていた地のお百姓さんと雑談になりました。
 楽天堂で借りている畑の脇には何と幸いなことに1年中枯れることのない清水が流れているのですがそのことの話題になった時、七十代と思われるお百姓さんは「水を金で買うようになるとは昔では考えられんかった。時代が変わったんよなあ」と慨嘆されてました。
 〈水〉に対する身体感覚を失ってきた結果としての文化=社会を、今、私たちは生きているのでしょう。
 久しぶりに汗を流してリフレッシュした無々々でした。

8月と拡大志向〉(その1)(8/1) 千晶です。
 《前略》
 半月くらい前に書いた通り、京都のこの界隈と東京の男社会の仕事のスタイルは、ずいぶんとちがう。このあたりでは、小さい店だからということで見下されることがない規模を大きくすることに、あまり価値や関心が置かれていない。伝統ある店が、店舗を増やすことなく何百年とひとつの店舗を続けている。
 そこで、わたしは疑問を持っています。一体、規模が大きくなくちゃ話にならないというような考えは、いつどこからやってきたのだろうか。そして、その考えに日本全体が巻き込まれたかに見えたが、十年一日のごとく(百年一日のごとく)仕事の手応えを大事に仕事をしてこられたこのあたりの商売人というのは、なぜ拡大志向に巻き込まれずにやってこられたのだろうか。
 東京の男社会と京都のこの界隈という対比を、わたしはさしあたってしましたが、兵庫県伊丹市に住む父のことを考えると、父はまちがいなく拡大志向を持った男です。太平洋戦争の時、父(大正15年生まれ)は徴兵され戦争に行ったのですが、そのとき怖くなかったかと、子どもの頃、わたしが聞くと、「そんなん全然おもわなんだ。戦争に勝ってマレーシアに工場を建てたろ、おもて、はりきって行ったよ」と父は言ってました。父は戦争の後、祖父の小さい工場を継いで、何度も規模を拡大しては経営のピンチにあい、しかし七転び八起でさらに規模を拡大し、バブルがはじけた時、借金を抱え、それでも破産せず上海で工場を大きくし、今も中国経済の方向転換のたびに大損しつつも拡大を続けています。
 「お父さん、あんまり規模を多きくせん方がいいよ。このへんで商売してはる人は何十年、何百年と同じ規模で商売続けてはるよ。」と先日も電話で言いました。でも、父は自分はそういうスタイルでは仕事できないと言ってました。挑戦というか向上心が、仕事する原動力になってるようだし、あと、一定規模以上にならないと市場で相手にされない、仕事がとれない、というようなことも言ってました。
 父は前世紀の遺物ということで、それでまあいいと思うのですが、わたしたちがこれから分かち合う文化、新しい文化を築くときには、父のスタイルより絶対、京都商法の方が参考になると思うのです。
 でも父の拡大志向は何なんでしょう?男というのはそういうものなんでしょうか?でも京都にも男はいる。(女が強い地域では拡大志向に歯止めがきくのでしょうか?わが家でも母はいつも父の拡大志向にはらはらしていて歯止めをかけようとしていましたが、母にはあまり発言権がなかったのです。)そもそも鎖国をしていた江戸時代の日本は、「マレーシアに工場、建てたろ」という発想とは無縁だったはず。
 黒船が来て力ずくで開国させられ、不平等条約を結び、それをあらためる途中で韓国朝鮮を侵略し、日清戦争、日露戦争と規模を拡大して戦争続きだった時、どの時点で、田舎の元植木屋の息子であった父に拡大志向をうえつけるような思想が形作られたのだろう。これは、私の中にある大きな疑問です。東京の男社会の空気もまた、一体いつごろ作られたんだろうか。
 この素朴な疑問への答えをさがして、いくつか中学生・高校生向けの本を読んでみましたが、なかなか著者と私の問題関心が結びつかない。ところがやっと、これはという本に出会いました。国際政治、東京中心の政治だけでなく、社会の底辺を支えた人の暮らしにも言及されていて、過ぎ去った100年の日本社会全体がダイナミックにとらえられていると思います。『大日本帝国の時代(日本の歴史8)』(由井正臣著・岩波ジュニア新書)、という本です。
 プロローグの中で、「本書執筆の意図」というところがあり、こう書かれています。「このように見てきますと、最初に述べた日本の資本主義化・近代化は、帝国の対外的な膨張・拡大と密接に関連していることがわかります。
  この本で、わたくしは、戦争はなぜ起こったのか、そしてその戦争はどのような性格のものであったのか、を明らかにするとともに、戦争を避ける可能性は存在したのかどうか、またそのために人々はどのような努力をしたのか、を明らかにしたいと思います。
  そして『大日本帝国』の膨張とその結果としての戦争が日本の経済や社会にどのような性格を刻印したか、を明らかにしながらこの時代の歴史から何を学ぶか、そしてまたいったい何が現代を生きるわたくしたちに未解決の問題として残っているのか、を考えてみたいと思います。」
 富国強兵を第一に考え、人権は二の次の政治、その政治が用意したおそまつな税制、その税制のせいで経済的に行き詰まる農民が次々に小作になり、小作ゆえますます絞りとられて貧しくなり、娘を低賃金長時間労働の工場で働かせることになる。そうした低賃金長時間労働があって日本は急速な経済成長をとげる。8月は、100年くらい前の日本について考えてみようと思います。
 先々週はるかさんが企画したアボリジニの人たちとの夕べでも、質疑応答の時、100年前が問題になっていました。(100年前、欧州列強がアフリカ分割を終えた頃です。)アボリジニの人たちも、100年前に欧州の宣教師たちに言葉を奪われたのです。わたしたちは、100年前、何を失ったのだろうか?(京都はその時、どんなだったんだろう。どんな条件があれば、京都の商売人のように人間中心、家族中心に機嫌よく商売が続けていけるのだろうか。)
 ここがわからない、知りたいということを書くばかりだと思います。どなたか、考えるヒントをお持ちでしたら、どうぞ書いて下さいね。
8月と拡大志向(その2)(8/3) 千晶です。
 《前略》
 裕子さん、瀬戸さん、はるかさん、ありがとうございます。それぞれのメールに触発されて、書きたいことがあり、それぞれが長文になりそうです。(いずれ。)
 今日の朝刊には憲法9条の改正案が載っていましたね。よく、憲法9条はアメリカから押しつけられたものだという言い方がされる。日本人のプライドにかけて、一人前の国になるべく、押しつけられたものをはねのけなくてはならない、と言う人がいる。たしかにわたしたちは、たくさんのものを押しつけられてきた。アボリジニの人々が宣教師からヨーロッパの言葉を押しつけられたように、いや、もっとソフィスティケイトされたやり方で明治以来、押しつけられてきたもの。わたしは、それについて考えています。
 たとえば、戦争ができて1人前という考え方は、どこから来たのか。そうした国の格付け、序列意識、対外政策は、一体、どこから来たのか。それこそが押しつけられてきたものだという仮説を私は持っています。
 ヨーロッパの人々が、新大陸を発見し先住民を虐殺し、アフリカを分割して植民地とし、同じようにアジアをも、タイ、中国、朝鮮、日本をのぞいてほぼ植民地化し終えた頃、日本は開国を迫られたのです。そのとき、ヨーロッパの国々からの要求をのむ中で、わたしたち日本人が同化し内面化していった対外政策の方を、何故押しつけられたものとして問題にしないのだろう。憲法9条がわたしたちの文化から生まれたものではないという前に、戦争でよその国を植民地化するという行動様式の方こ、わたしたちの文化から生まれたものではない、と私は確認しておきたいのです。
 また、中国人や韓国朝鮮人への激しい蔑視も明治以来のものであり、これは、わたしたちの文化に固有の感覚ではなく、開国と同時に受け入れていったヨーロッパ列国の植民地主義に強く影響されている、私はそう思っています。(そして中国人への激しい蔑視が、太平洋戦争の始まりの軍部の独走を許してしまったと思うのです。)60年というスパンでなく、すくなくとも100年、あるいは150年前に遡らなくては、日本の固有の文化なんて見極められない。民族や国家への過剰な格付けや序列意識がどこからはじまったか考えれば、たかだか6、70年前の太平洋戦争に不必要にプライドを持とうとする若者が増えることもないでしょう。そう、「愛国心」がどこから来たのか?今、しばしば政府が引き合いに出すような「愛国心」が江戸時代にあっただろうか。(これに関連して裕子さんが以前、京都の町が明治期の中央集権的政策でいかに自治と富を奪われたかについての深見茂さんの文章を転送して下さってました。1898年の出来事です。いずれ紹介します。)
 故意に変容させられたものは対外政策にとどまりません。この項つづく。
8月と拡大志向(その3)(8/3) 千晶です。
 《前略》
 先月半ば、はるかさんが企画したイベントでアボリジニの人たちのダンスを見ました。以来、しばらく、みぞおちが固くなっていました。(今はもう大丈夫。みぞおちが固くなると、悲しみに足をすくわれますね。)アボリジニの人たちが言葉を奪われてもなお肚腰を支える身体文化を伝承していることに感銘を受け、と同時に、わたしたち日本人がその場で対照的に何の型も持たずに座っている様子が目に入り、わたしたちは拠って立つ文化(アイデンティティ)を自らの身体の中にもはや持っていないのでは、という思いにおそわれました。
 アボリジニの人たちの肚腰のつかいかたに匹敵するような身体の作法をたとえばご近所の魚鶴さんの大将は持っていて、でも、その作法を受け止め伝承する若者がいない。としたら、なんて現代日本のご老人は孤独なんだろうと思いました。
 非常にスピリチュアルなことが表現されるダンスの場面で、アボリジニの人たちは彼らの文化に固有な身体の型でもって、老いも若きも感応しあい感覚を共有しあっている。その場面を見たならば、日本人はつい100年前なら(いや30年前でも?)そろって正座せずにいられなかったことでしょう。正座することで敬意を表し感覚を共有しえたでしょう。
 ひろと最初に出会ったダライラマの東京講演で自分の身に起こったことを思い出しました。般若心経をダライラマが唱える時、ダライラマはチベット人の型できちっと座したのですが、わたしはその場面で、椅子の上に靴を脱いで上がって正座せずにいられなかったのでした。ダライラマが身を正すその気配に私の身体が確かに感応したのです。かろうじて、でも確かに、私の中にダライラマの肚腰を受け止める肚腰があることに気がつきました。(そう、アボリジニの夕べに集った若者の身体の奥底にも、大地を踏みしめてきた肚腰の記憶があるように。)
 アボリジニの人たちに質問した若者は、アボリジニの人たちが100年前、欧州の宣教師達に言葉を奪われたことを知ったでしょうが、わたしたち日本人が、100年前に奪われたものを知っているでしょうか。意図的に明治政府が学校教育という場を使って、日本文化をどれだけ徹底的に壊していったかを。
 はるかさん、アボリジニの人から聞いたこと、また教えて下さい。わたしたちも奪われ、同時に奪った。100年前に彼らの身に起こったことと私たちの身に起こったことは無縁ではないですね。もちろん身体に残っている誇るべき文化の方も。
8月と拡大志向(その4)(8/4) 千晶です。
 今日はその4です。(毎日とても大風呂敷、目次がいりそうな気配。)
 学校教育について書きたいと思うのですが、その前に以前、裕子さんに送ってもらった祇園祭山鉾連合会理事長の深見 茂氏による「祇園祭を支える町衆(ちょうしゅう)」という文章を紹介します。明治政府がいかに強行に中央集権を推し進めたかが、よく伝わってきます。
 1898年という年が文中に出てきますが、この年にはその後の日本を左右するような重要な改革を行った山県内閣が組閣されています。(この2週間で岩波ジュニア新書で学習したところによると、)山県内閣は、官僚制を強化し、また陸海軍大臣の任用を現役の軍人に限ることにし(このため軍の独立性が強まり、後の軍部の独走につながった)、それから、治安警察法を制定して社会運動を押さえつけたのでした。
 この時期に中央集権が進んだのは、他にもいろんな政策がとられたからみたいです。自然な気持ちの発露として「大日本帝国万歳」、「天皇陛下万歳」となったのでは決してないようです。(たとえば1908年、内務省を中心に展開した地方改良運動。それにもいろいろな施策が盛り込まれていたのですが、たとえば神社を合併して数をうんと減らし、町村民を小さい小さい村落共同体意識から引きはがして、国家への帰属意識を強めようとした、というようなことが書かれています。)
 明日は身近な話題にします。
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 町中(ちょうじゅう)の役割
 祇園祭に山鉾を出す町内は、江戸時代から明治の半ばにかけて町中(ちょうじゅう)と呼ばれる一種の自治組織を形成しておりました。これは上から命じられたものとは言え、多くの行政諸権を代行していたのです。たとえば不動産の所有、売買権は勿論のこと、住民に対する転出入許可権、印鑑証明発行権などであります。つまり、町内の誰かが転出しようとするに際しては、その家土地をいったん買収して押さえます。これを「町中待ち」と称し、私の出身の町内にも、この「町中持ち」と記入された地所が何ヶ所もある古図面が残されております。そして新に転入希望の者が現れますと、その人物の職業、財産状況等を十分吟味したのち、約定を交わして土地家屋を売却したわけです。又、私の家には天保十四年の年号の入った「町衆(ちょうしゅう)判鑑(はんかん)」なるものが残されております。これは印鑑登録簿で、そこには町内の者たち(町衆)の氏名と印鑑(当時は黒印でした)と花押(*1)とが一行に書かれたものが列挙されております。町衆によるこのような行政代行のおかげで明治前半、何十万もの京都市民を治めていた役人の数は、500名に満たなかったと申します。まさしく今でいう「小さな政府」の典型でありましょう。こうして山鉾町は明治5年の改革で、それまで山鉾の新調、補修、巡行等を経済的制度的に支えてきた地之口米、寄町・轅町等のしきたりが廃止されて以来、極めて困難な財政状況にありながら、それでも諸々の法人格的特権を享受して、相当な財力を蓄えていたものと思われます。
 京都市政と町中の崩壊
 しかるに明治31年(1898)京都市政がしかれた時、かの町中は、その保有していた法人格諸権利をことごとく取り上げられたのです。日本中央集権の本格化、政治の近代化、そして官僚体制の肥大化と重税化の始まりであり、京都市民の自治権の喪失と経済的貧困化の始まりであります。少なくとも山鉾町は、この頃を境に懸装品を新調補修する能力を著しく失い、多くの山鉾はそのみすぼらしい姿を晒したまま昭和の敗戦期までなだれ込んでいくこととなります。
 山鉾町と公益法人
 ところで、先程の法人格喪失は、町内に重大な問題をつきつけました。すわなちそれまで町中持ちとして保有していたいわゆる町家(ちょういえ)、町衆の集会の場、又、日頃は山鉾の資材を収蔵し、祇園祭に際しては会所飾りといって、それぞれの山鉾の御神体を中心に、懸装品の数々を飾り付けて宵山の見物客に供覧する場、鉾町にあっては二階囃しを演奏する大切な場所が、もはや町内の所有ではなくなってしまったのです。当時の町衆は止むなく有力者単独、または複数名義で町家を登記しました。以来、昭和初期までの間に、個人所有と化した町家の殆どは、町衆の誠意と、祭を維持しようという強い意志とによって保存されてきましたが、いくつかの町内にあっては、残念なことに不況、戦争、敗戦、財産税等々の時代の試練の中で売却され、失われていったのです。他方、これではならじ、と早くも昭和初期から、山鉾保存の法人化運動も展開され、それは何人かの篤志家の献身的努力によって今日まで推し進められてきました。その間、所有権をめぐって民事訴訟に踏み切った町内もありますが、丁度、村の入会い地に相当するような、自治組織による不動産の共有ないし総有などということが、大都会のど真中で行なわれていた、という現象が、所有権とは独占的にして絶対排他的概念なりとの近代法理論を学んだ判事にはなかなか理解してもらえず大変だったようです。しかし環境問題や地球保護といったことが大切になってきた今、この昔の町衆の思想は、むしろ今日の我々が学ぶべきスーパー現代的英知だったのではないでしょうか。いずれにせよ、こうして今日、32の山鉾町の内23ヶ町が公益法人化され、かつての町中の財産は、熱心な現代の町衆によって守られ、毎年、宵山になると美しく飾られて、皆様にお楽しみ頂いている訳であります。
 注1)花押:かおう。その人のマークのようなもの。
 以上、「財団法人 大学コンソーシアム京都*1」が出している季刊誌「学術コンソーシアム通信Vol.1 2002年盛夏号」より
その5(一休み)(8/6) 千晶です。
 ちょっと前に、専業主婦・100年について佐野さんが考察したことを書いた後で、「今さら何をそんなわかりきったことを、って笑わないでくださいね。私には、今日初めて気がついたことなんですけど。」と書いていて、そうそう、わたしもその気分!と思いました。
 わたしも岩波ジュニア新書を読んできて、いろんな事がわかってきて、朝ごはんの時、大発見したという気分で、明治期日本のことをしゃべったら、無々々曰く、「うーん、それって、知識人の間では常識だけどね。」と言われました。そうなのか。そういえば、わたしはまともに日本史を勉強したことがないのです。それであまり難しい本は読めないのです。そこで岩波ジュニア新書(図書館の絵本コーナーのすぐ側にあるので、光太郎が絵本を見てる間に選べる)に限定して、日本の近代史関係の本をいろいろと借りたのですが、また、そのどれもがとても面白い。(こんどおすすめの本を紹介します。)かつ、わたしの仮説「欧米の植民地主義が日本社会の序列意識・拡大志向の源泉」が次々に立証され、やっぱり、わたしの仮説は仮説というより常識のかな、と思いました。(これについても、こんど書きます。)
 でも、やっぱり、わからないことがいっぱいある。
 イタリア人のベネトン営業マンの話を、いろんなところで私は話したのですが、東京から広島や山口に来たベネトン営業マンの中で、日本人男性とイタリアン人男性の行動様式がすごくちがう!と感じたことがあります。
 東京からくる日本人の営業マンは、アパレル業界といえども霞ヶ関の雰囲気とほとんど違わず、展示会で「来年はこれが流行ります。これとあれとを組み合わせて、このくらいの量を発注しておいてください」ということを一方的に申し渡して、地方の店主の意見など聞くに値しないという態度でした。その点、イタリア人は下っ端の営業マンから上の社長まで、「あなたはどんな店にしたいの?」というかんじで聞いてくれて、「わたしはこんな店にしたい」というと「じゃあ、これをとったら?」と提案してくる。すごく気持ちよくコミュニケーションできるのです。昼ご飯を食べていても、日本人の営業マンどうしの会話は、いかに自分が業界通か、情報をいかに多く持っているかを印象づけようとしてばかりで、話がつまらない。たとえば映画の話になっても、それ見た見た、というばかりで感想は出てこない。客が入っていたとか、宣伝の仕方が効果的だったとか、そんな話ばっかり。昼食中でも、会社の序列にとらわれて、個人の意見なんてなるべく言わないですますという雰囲気でした。その点、イタリアン人と話してたら、自分が何が好きか、何に興味をもってるか、料理、歴史、本の話など、いきいきと話してくれる。楽しいのです。
 そういえば「あなたは僕の母に似てる、はっきりと意見を言う」と言われたりしました。
 それで、とにかく日本人の男はつまらないのかなあと思っていたら、ここ、京都西陣での序列にこだわらないコミュニケーションのあり方は、東京の営業マンとは全然違うなあ、イタリア人の方に似てるなあと思ったのです。おかしいと思ったら黙ってはいられないタイプの女としては、大人の社会はどこでも居心地が悪かったのですが、今度の町は水が合うなあと思った次第です。そして、その京都のおかげで、東京を中心とする序列意識と拡大志向が一体、どこから来たのかという問いが立ちあらわれたわけです。
 この京都西陣の人々は、100年前もあまり違わないメンタリティーで商売をしていたと思うのです。日本のほかの地域はどうだったんだろうか。いつから、一店うまくいったら次々に二店目、三店目と増やして規模を拡大せずにいられないようなメンタリティーがこの国を支配するようになったんだろうかと考えたわけです。
 (イタリアにもファシズムがあり植民地主義があったので、そのことは別に考えなくちゃいけないけど)東京の営業マンが映画の話でさえ、個人的な感想を言えないという空気はとてもたよりなく危険だと思いました。原発や憲法九条の話題になって、そこで意見が言えるわけがない。牽制しあってばかりでパブリックな議論の場ができるわけがない。このMLの1月14日と19日に入っているブラジルからのひろの手紙で指摘されていたこと重なります。

100年の温度変化〉(8/3) たんぽぽはるかです。はるかという名前が好きで、いまだに自分を名前で呼んでいるオバカさんです。
 みなさんから100年というキーワードが出て、もう500通くらいのメールが行き来しているんですね。
 わたしは、仕事柄よく100年というキーワードを使います。
 わたしの仕事は、家庭レベルで、地球温暖化問題を伝え、それの解決に向けて、わたしたちに何ができるか「エコライフ」を伝えることです。
 特に京都では、女性会という地域ごとの女性の集まりが、今もなおそれぞれの地域に残っていて、その地域をある意味統括しているため、そういう場でよく話しをさせていただきます。
 「桜の開花時期が、昔よりだいぶ早くなっていますね。入学式の頃に咲いていたのが最近では、卒業式のときにはもう咲いている。秋の紅葉も遅れて、観光都市では困るときがありますね。また、夏の熱中症患者は年々数が伸びていて、死亡者数も右肩上がりです。冬の霜柱を踏む経験は、昔に比べてぐんと減りました。」こう話すと、みなさん熱心にうなずいてくれます。
 そして、世界で起きている温暖化問題の影響を異常気象や海面上昇、永久凍土の後退など写真を使って説明します。
 「この100年で地球の平均気温は何度上昇したと思いますか?」
 「1000年のスパンでグラフをみると、最後の200年で目に見えてあがっている。1900年くらいからは、くいっとあがっている。」グラフを見せます。
 「これで、平均0.6℃の上昇です。」
 「わたしの短い人生でも実感できるほどの変化です。」
 「これが、今後何度上昇すると言われているでしょうか。」
 「IPCCという世界の科学者の集まりは、警告しています。」
 「一番よいシナリオを書いたとしても、1.4℃の気温上昇。このままこの生活を続ければ、5.8℃の気温上昇です。」ここで予測範囲が赤く塗られたグラフを見せます。みな一様にあっと驚く。
 「地球は、いろんな気温変化を経験してきているけれど、それは何万年もかけて徐々にしていることです。生物特に植物たちは、少しずつ種を飛ばして、北上したり南下したり。」
 「具体的な予測としては、青森がみかんの産地になるとか、大阪のJR環状線が海面下に位置するとか。」
 「しかし、地球も経験したことがない早さでの温度変化。」
 人をビビらせるために話しているわけではないけれど、今ある情報をちょっと話すと恐ろしいことになる。
 1時間以上かけて、その原因がわたし達のライフスタイルにあって、今日からでもできること。続けてできること。楽チンにできること。それを助けるグッズなどを紹介します。
 このMLに入っている人は、みんなそんなこと承知でいろいろ活動されているんだと思って、100年のキーワードに自分の関心ごとのひとつを書いてこなかったけど、最近の千晶さんのメールには、かなり学ぶところ多しで、ちょっと咀嚼に時間がかかるので、お返事代わりにかわしてみました。
 みなさんよい夏の日を。

〈圧力鍋 推薦品〉(8/7) 初めまして 京都市内在住の細井さおりと申します。
《前略》
 圧力鍋ですが、私は、パーフェクトプラスというドイツ製の物(ステンレス製)を2年前に買って、フル活用しています。使いやすいです。「フライパン倶楽部」で検索すると 調理道具屋さんのHPがあり、そこでは、各社の圧力鍋の比較を事細かにしてくれています。そして、利用者の声もたくさん投稿されていて参考になると思います。
 シラルガンというドイツのお鍋があります。そのお鍋は、ステンレスに 強化ガラスセラミックがコーティングされていて、より安心素材です。残ったお料理をお鍋に入れたまま保存可能。このメーカーを知る前に私は、パーフェクトプラスの圧力鍋を買いました。シラルガンの「シングルセット」という普通のお鍋は、購入してこちらもフル活用しています。

宮島百合さんからねんどについて質問(8/23) たみさんがMLで紹介されていたねんどを洗濯の柔軟剤につかう〉というのは、どのくらいの割合で水に溶かして1回の洗濯に使えばいいのでしょうか。私は最初は10倍くらいに薄めたらあまり効果が感じられず、次に3倍に薄めたらねんどがねっとりしすぎて使いにくかったです。流しすすぎの最後に小さじ2杯くらい入れて水を流さずに使ってみましたが、どういうやり方が効果的なのか教えて下さい。
Re: ねんどを柔軟剤として使う。(8/23) 川内 たみです。宮島百合さんのご質問に。
 うちでは、入浴剤をいれたお風呂の残り湯を洗濯に使っています。お風呂に入れる量は一回に30gくらいなので、かなり薄い粘土水です。(片手に受けられる程度)
 量は、かなり少なくてもOKだと思います。
 私は、洗濯石鹸を使用、洗濯時だけ残り湯で、濯ぎは水道水でやっていますが、バスタオルやタオルなどが硬くなることはありません。
 吸水力も上がるから、布ナプキンなんかには最適だと思います。まず しみ抜きにねんどをなすりつけておき、しばらくして普通に洗濯したら、一石二鳥かも。ナプキンに限って言えば、最後に、わりと濃いめの(といっても30倍くらい?)粘土水につけて軽く絞り そのまま干したらどうでしょうか。次回に洗う時に 汚れも落ちやすいし、吸水力も上がるはず。
 むかし、オーガニックコットンの吸水力をあげる実験を粘土水でやったことがあります。工業化はできませんでしたけど、効果はありました。
 『粘土の世界』(日本粘土学会編)によると、「スメクタイト(ボディクレイのモンモリロナイトもスメクタイト属です)と呼ばれる粘土鉱物は、すすぎおよび乾燥過程でその威力を発揮。綿布は洗濯を繰り返すと 徐々にその柔らかさが失われ、硬くなる。これは繊維そのものの硬化ではなく、最後の濯ぎ水に残留した不純物が、乾燥の結果、繊維間に析出して、これが糊のように繊維を固めるから。
 粘土水で濯ぐと、残留水のなかに不純物といっしょにねんども残り、乾燥するとき、繊維ではなく、ねんどがこの不純物を受け止めるので、綿布は硬くならず、吸 水性も落ちない。」ということらしいです。
 「綿布の硬化現象とそれに対するスメクタイトの防止効果が明らかになったのは、つい最近のことですが、ヨーロッパでは既に20年も前から洗剤中にスメクタイトを配合して、柔軟洗剤として利用している」とのこと。
 濯ぎだけでなく、洗う時でも粘土が入っていると同じ効果があるみたい。かなり薄まっても粘土が残っているということですね。
 この本を読む前から、綿布に限らず、洗うと硬くなる皮なんかもあまり硬くな らないので、わたし自身は 実践的にこの効果はわかっていました。
 でも、普通の柔軟剤は、どのような効果があるのか、どの程度ふわふわ感があるのか、実はよく知らないので比べられないのですが。

[レシピ]

Re: 豆と野菜のマリネ(7/30) たみです。
《前略》
ピーマンの納豆のせ 昔「たべものや」で出していたメニューですが、今回はあるものでアレンジ。
 ピーマンは生のまま、舟形に半分に切って種をのぞく。納豆はカンホアの焼き塩少々、洋辛子、ミョウガのみじん切りを加えよく混ぜあわせてピーマンに載せる。(お店ではごま油少々、芥子少々、醤油、酢少々、でだしていました。)
ブロッコリーのサラダ これは、なぜか、いつも好評なのですが、あまりに当たり前で、どうってことなし。でも、みんなが美味しいといって食べてくれます。
 ブロッコリーを堅めに茹でること。茹でたら、房を振ってよくお湯を切る(水で洗わない)。房を細くさいてドレッシングがよくしみ込むようにして、ドレッシングであえる。
 ドレッシングは、擂りニンニク、塩(両方ともたっぷりめ)穀物酢、サラダオイル。他の野菜を加えたり、ドレッシングもオリーブオイルやバルサミコなど入れる こともあるが基本は上記。
 ついでに 今回つくってないけれど、簡単でおいしいトマトサラダ 冷やしてテーブルにだしてください。トマトの種の部分は使いません。トマトをころころに切ります。青じそをたっぷり刻み、それにごま油とお醤油 をかけて混ぜる。お終い。--


だし〉(8/4) 夏本番になりましたね。小林まどかです。皆さんの活気あるメーリングリストを読み、「男社会」にいながらもとても励まされています。
 夏を過ぎるともったいない、特別レシピがあるのでお伝えしたいと思い、メールしました。
[だし]わたしの故郷・山形の家庭料理です。
【材料】 なす1個 、きゅうり1個 、大葉 数枚、 おくら 数本、 みょうが1〜2個 長ネギ(白い部分)数cm
【作り方】材料をひたすら細かくみじん切りして、混ぜるだけです。これだけの材料ですが、みじん切りするとボウル1個丸々の量になります。また、最後にかつおぶしをふりかけて、食べるときにお好みでしょうゆをたらしてみてください。
 これだけで、ご飯が何杯でもいけます。お酒のつまみにも大好評です。 ぜひ、試してみて下さいね。


Re: 夏の料理(8/5) まだうちでは7月号を味わいきっていないのに早くも8月号のおいしい噂が。昨日、初めて椰子の花蜜糖で、バニラプディングを作りました。佐野仙子です。
 《前略》
 それから、ごまの夏料理で思い出したので作ってみたものがあります、別にわざわざタヒニを使わなくてもいいのですが、宮崎県の友人に作ってもらったことがあるひやじるというやはり夏の料理です。
 すりばちでゴマと味噌をよくすりあわせ、すりばちの内側に薄くのばし、そのすりばちをガスの火の上にひっくりかえして置き、あぶって焼き味噌にする。これを冷たい水かダシでのばし、冷やしておく。塩もみしたきゅうり、みょうが、大葉などの薬味をたっぷり入れ、これを冷たい麺のつけだれにしたり、または炊き立てのあつあつごはんにかけて、いただきます。ごま、みそ、薬味、だけの精進版でもよし、焼き味噌にする前の段階で、焼いた魚(アジとかカマスとか)をほぐしたものを入れたり、煮干しをあぶってくだいたものを入れたもの等も、おいしい。それから、水でのばしたものに、豆腐〈つぶしたり、小さな賽の目に切ったり〉を入れたものもあります。いずれも、見た目は灰色っぽくて、きれいかといわれると〈?〉です。でも私は大好きです。

Re: 豆料理クラブの反省点(8/7) 安曇野のおおはまえつこです。
《前略》
タヒニの大瓶のことですが、昨年10月に入会してから3本目を消化中です。先月号が届いた時には、たまたま注文していたので一気に2本届き驚きました。よく使うものなので困っていませんが。使い方は、もちろんハモス、それに和えもの、一番多いのはバター代わりにです。そのままパンに塗るのも好き、蜂蜜と混ぜると付け過ぎに注意です。タヒニ入りパイやタルト生地も作れます。江島雅歌さんのレシピでご紹介します。
【材料】21cmのパイ皿1枚分小麦粉  150g練りゴマ 70cc冷水  100cc塩  2g
【作り方】@小麦粉をふるってボウルに入れる。
A練りゴマを加えて、手で粉に混ぜ込んでいく。すり合わせるようにもんでいくと、サラサラの状態になる。
Bここにくぼみをつくって中に冷水と塩を入れ、まわりから粉を少しずつくずしながら混ぜていく。粉と水が全部混ざったところで(このときは少し粉っぽさが残っているが水は足さないこと)手で四角く形づくり、押しかためる。C強力粉を薄くふった台に取り出し、スケッパーで生地を半分に切って重ねる。手でぎゅっと押さえて最初の大きさに広げる。これを7〜8回繰り返す。
D出来たパイ生地をラップに包んで冷蔵庫で30分寝かせる。
Eパイ皿の大きさに合わせて伸ばす。
Fフォークで穴を開ける。
Gフィリング詰める前に200℃のオーブンで約15分空焼きする。
 『みうたさんのノンシュガーおやつ』(江島雅歌 著)より簡略して抜粋しました
 リッチさはバターを使ったものにはかないませんが、フィリングの味が生きる生地です。
これを書きながら思ったのですが銀手亡のつぶしあんを詰めてパイを作ってみたいですね。

原さんから(夏向き豆料理)(8・12) こんにちは。左京区の原恭子です。
 夏向き豆料理の話があったので、最近の私のお気に入りを。
銀手亡とズッキーニのポタージュ(風?)
@銀手亡をゆでる。
A玉ねぎとズッキーニを薄切りにし、炒めて塩コショウする。
B@(ゆで汁も)とAを合わせて柔らかくなるまでことこと煮る。味を見て足りないようなら塩コショウを足す。
Cミキサーにかけて、よーく冷やす。
 これだけです。要はスープを作ってミキサーにかけて冷やしただけなんですが…
 本当のポタージュは牛乳を入れるのかもしれませんが、私は入れないほうがおいしいと思いました。あとにんにくも入れないほうがよいような。もちろんBの状態で食べてもおいしかったです。
 ただ、私は白いズッキーニで作ったので、一番手に入りやすい緑のズッキーニでは?たぶん味は一緒だと思うのですが。

 料理上手な方が多いし私が書くのは…なんてことも思ったのですが、参考までに。やっぱり銀手亡はえらい!という感動もあったので。
 それでは失礼します。

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