100年計画  

2005年1月

[Topics]

〈保温用鍋カバー〉(12/1) 千晶です。
《前略》
 とりあえず、急ぐことを書きます。フェアトレードです。以前から、佐藤浩子にフェアトレードは小規模でダイレクトなものの方が、働く人の気持ちがつかめていいと言われていたのですが、(彼女はネパールやインドで、フェアートレードなのに働いている人が仕事に多くの不満を持っている現場を見たのです)モーラさんの帰国でそのチャンスがめぐってきました。I'm proud of you と惜しみなく、わたしたちの豆料理クラブをほめてくれるモーラさんに、これまでもどれだけ励まされたことでしょう。彼女と一緒に仕事ができたら、すばらしい。
 モーラさんは最初、洋服をつくろうと提案したのですが、1型で100枚売るのは難しい。そこで、わたしは「豆料理クラブ」のオリジナル台所用品を考えようと思ったのです。その一案が、スパイスホルダーです。
 他にもないかなあと、会う会員に相談していたところ、千葉さんから、こんなメールが入りました。
 「ちあきさん、鍋つかみ関連で思いついたのですが、保温(調理)用の鍋カバーはいかがでしょうか。最近ルクルーゼをすっぽり包むようなおうちのようなキルティングのカバー、よく見ます。あれって作れそうだなぁと思っていたところです。うちは圧力鍋以外は、ルクルーゼでなく、小さい土鍋やゆきひら鍋ですが、応用の利くものができそうではありませんか?千葉」
 すばらしい!これは名案です。ルクルーゼって何?とにかく、豆愛好者に「保温用鍋カバー」って、ふさわしいではありませんか。
 この案は、ぜひともモーラさんが帰国する前に、詰めます。モーラさんがお店に来たら、千葉さんも呼ぼう。ぼうやがお昼寝中だったり出られないときは、二人でうかがってもいいですか。
 そして、豆のモチーフ、(キャラクター?)、公募いたします。12月号2ページのイラスト(かわいいでしょう!会員の小寺さんが書いてくれました)のような線書きで、刺しゅうに向くようなシンプルなもの。
 そしてそして、モーラさんが誘ってくださってるのですが、来年か再来年、カルカッタの生産者に会いに行くツアーをくみましょうよ。(今はお金がないけど、貯めます)
 そういえば、モーラさんのお別れ会で、彼女の好きなイマジンをみんなで歌いました。やっぱり思いうかべることがスタートですね。みなさんも、こんなものあったら便利だろうなあと思うもの、思いついたらお知らせ下さい。(ミシン仕事と手刺しゅうの仕事を用いるものがベスト。)

〈町家の保存について〉(12/6) 井上 裕子です。
 町家の保存について、思うことをすこし。
 現在、建築基準法によって新築の町家が建てられないこともあり、それぞれの地域の人々の共通の財産であると思います。こと、京都に限定して言えば、洛中における町家、すなわち京町家は、他の地域の町家にはない特性をもっていることは確かです。千晶さんにも話したのですが、わたしは、前々から京都洛中旧市街構想というのをもっていて、スペインやイタリアのように旧市街が整備され、観光資源であると同時に、住民の誇りとなるといいと考えています。
 ただ、ここで誤解をしていただきたくないことは、「京都を明治村にしたいわけではない」ということです。よって、現在の杉本家の在り方には疑問を持っています。
 うちは、京町家専門の不動産屋をしています。夫は京町家再生研究会の下部組織の京町家情報センターの設立メンバーであり幹事でもあります。京都市景観まちづくりセンターのセミナー講師にもちょくちょくお呼びがかかります。本来ならば、「町家の保存運動」を率先垂範すべき立場なのかもしれません。しかし、です。わたくし共は、「町家」という「ハコ」の「保存」だけを目指しても仕方ないと考えています。その町家を活かせる人がそのお家の住人になってこその真の「町家の再生」だと思うのです。
 町家の仲介という仕事をしていて、このごろつくづく思うのは、今こそ次代へきちんと京都の有形無形の文化を継承していかんとあかんなぁ…ということです。もちろん、京町家もその中の重要な一つであることには違いないのですが…。ある意味、形のあるものは保存したり再生したりしやすいと思います(自然物を除く)。ですが、形のないもの、つまり、技術(職人技)やしきたり・慣習、ことばなんかは意識して繋(つな)いでいかねばならないものの類だと思います。京町家というハコを保存することよりも、京都が誇るべき「職住一致」という生活文化を継承することのほうがよっぽど肝腎で、却って町家の保存に一番の近道ではないでしょうか。

〈ひよこのはなし〉(12/12) ヒサコです。
 秋の運動会シーズンに、和歌山にいる弟のところへ姪っ子の運動会を見に行く為に父親と行ってきたのですが、そこでの父と弟の会話に、私はガッカリさせられました。
 私の弟は水道工事屋さんをしているのですが、裏方の仕事ですから、よくいろんな場所へ仕事に行くらしいのです。ある日、ひよこの選別所へ仕事に行ったところ、大量の生きたひよこが、良い・悪いでどんどんと選別されていき、その悪いとみなされたひよこは、生きているにもかかわらず廃棄処分をされるという実態を目の当たりにしてきて彼は、「社会と言うのはこのように成り立っているんだ」と思ったと言いました。父はお前も世の中の事がわかってきたな・・というようなことを言っており、私は驚いて言葉も出ませんでした。人間が大量に肉や卵を食べる為に、育てやすい、丈夫できれいなひよこを選び、狭いゲージに入れられていろんな物を食べさせられて挙句には病気になって少し前に大騒ぎしたところだと言うのに、どうしてそんな生き物が物のように扱われている現場を見て人間が生きていくためにはこのような仕事も必要と言うような考えに至るのか・・・こんな事も言っていました。無農薬の野菜と言うけれど、やっぱり土のついている野菜は汚いし手間がかかるし、食べたくないと。野菜は土に植えてできるんだから土がついているのは当たり前じゃないのかな?その農薬によって栄養価が下がったり、味が落ちていたり土が駄目になっていたりしている事を知っているのかな?知っていてそんなことを言っているんだったら怖いと思います。
 私は千葉さんの文を読んでふとこのことを思い出していました。男の人というのは社会に出て働き、経済を担っているという思いがどこかにあるのでしょうか?日本の利益ってなんでしょう?今までの人間の利益ばかりを求めすぎて来ている事が地球の自然を壊していってるのではないでしょうか?戦争も然り。経済大国が何もえらいわけではない。
 私はアメリカにそっぽを向かれたら、そこからまた新たな社会作りをしていけるのではないかと思います。今、日本には必要以上に物が溢れかえっています。新潟の台風の時にテレビに写っていた、水浸しになってどうしようもなくなった自然に返らない大量のスーパーなどの商品はどこへ行くのでしょう?伝統産業が廃れ、いまや外国に頼らないと生きていけない社会になってしまっているというのに経済制裁などとえらそうな事を言っている。もう少し自分の足元を見つめるべき時なのではないでしょうか?町家の保存もそうですが、日本の伝統文化である米作りや織物などお金をかけるべきところは他にいくらでもあるはずです。その国にはその国の、その国らしい暮らし方をする事が人にとって、地球にとって一番自然なことではないかと思います。

〈祈りの有効性、あるいは人間の悪と向き合うこと〉(12/13) 楽天堂の高島無々々です。
 このところのヒサコさんと千葉ゆうじさんの投稿を読んで私の感想を駄文にしたためました。
 ヒサコさんほどの大病ではありませんが、私は十数年前に人生の壁にぶつかって粉々になり、勤めも辞め、それまでの縁を断ちきり、周囲の人間からは「気がちがった」と言われながら歩いて四国をお遍路したことがあります。
 今ほどブームにはなっていませんでしたが、それでも歩き遍路のために保存会で道標などが整備されてきたころでした。
 山道を歩いて行くと、ところどころ木の枝にお札が吊り下がっています。「同行二人」(いつも御大師様と一緒である)「山川草木悉有仏性」(生きとし生けるものすべてに仏が宿っている)・・・などなど。
 私も、生かされている、という想いを強くしました。不思議なご縁も数々あり、自我というかエゴイズムがピュアになっていくんですね。
 そんな旅でも車には閉口しました。雨の中とぼとぼと歩いていると、泥を跳ね上げながら脇をかすめて行く。排ガスをまき散らし、たいてい一人しか乗っていない・・・。
 深く考えさせられました。私には車というものが二十世紀文明の人間の欲望の象徴に見えました。私一人が快適ならそれでよい、という。現在のフォード型生産様式がアメリカに発祥しているのも宜なるかな、です。
 ただ、私は車という存在を全否定したわけではありません。四国にはお接待という慣習があり、お遍路さんを車に乗せてあげるというのもその一つです。
 最初、私は歩き通すことにこだわっていたので断っていましたが、道々歩いて回ろうが観光バスではしょろうが、本質は同じ事なのだ、という認識に至ってからはお接待を受けていました。
 そしていろいろな人生の道行きはあるだろうけれど、自分は歩く生き方をしたいと思い、免許証を捨てました(それまでは私も車に乗っていたのですよ。無々々ではなく無々でした)。
 実際のところ、身体が車を運転することに耐えられなくなっていた(リズムといいましょうか、全く合わない)のですが、今から思えば欲望の塊ともいえる車を醜く感じ、できるだけ離れていたい――それだけ自我が純粋or脆弱になっていたのだと思われます。
 その後、私は熊野の山中に引き籠もり、仙人のような生活に入ったのですが・・・人生はままならぬもの。結婚と同時に俗世に引き戻され、中小企業の社長としてカネに追われる(儲かって、ではありません)生活に浸かっていました。
 そんな変転の人生を送りながらも、私は四国遍路以来の「本来仏である人間がなぜ悪を為すのか?人間にとって悪とは何か?祈りは悪を止めうるのか?」という問いを考え続けていました。
 それは、文学や宗教のテーマ、いえ人類の根源的な課題であるとともに、私たち一人一人が人生において解答を迫られている問題でもあると私は思います
 現時点での私の結論はこうです。
 人間を、便宜的に生命存在と社会存在に分けて考えます(あくまで便宜的に、です)。欲望そのものは生命存在に根ざすが故に(生きたい、という欲求そのものが人間の本質的な欲望でしょう)、まずは等価なものとして肯定します(形式的には殺人というような最悪も含めて)。
 その上で、社会存在として様々な発現をする人間の欲望には上下がある、どのような欲望を生きるかによって人間としての品位(上品であるか、中品であるか、下品であるか)が定まる、と私は信じています(さらにいえば、個人だけではなく地域や国家、民族、文化、文明にも同じことが言えると思います)。
 ですから、私は悪を退け善を施す生き方がしたい。ここで私の言う悪とは、一言で言えばいのちを殺すこと、善は逆に、いのちを生かすことです。楽天堂のモットー「Yes! to Life」は人生や生活、生命にYes!です(悪にはNo!を)。
 が実際のところ、私は全ての生命存在を慈しみたいという祈りと、日々耳目にする夥しい死への悲しみや悪をなす人間への憤りとの間で引き裂かれ、揺れ動いているというのが実情です。
 さらに私の欲望そのものがこれらの悪を産みだしている、とも言えるのです。この圧倒的な現実を前にして、平凡な生活を送る一市民の私に何ができるのか?――日々自問自答の繰り返しですが、とりあえず次のよう戒めを私は自分に課しています。
 1)生命存在への畏敬を欠いて、世界の事象を語らないこと。
 これは私も含めて男性に見られがちなのですが、理知的に世界を理解しようとして大所高所に立とうとするのはいいのですが、「それがいのちを生かすという観点からどのような意味を持つのか?」という本質を見失ってしまい、結果として足をすくわれてしまうのです。
 いわゆる現実主義の陥穽です。
 私は全ての判断基準に、〈いのちを生かすかそれとも殺すか〉を最上位に置きたいと思います。
 2)一方で、社会的政治的に行動しないことの逃げ場として祈りを持ち出さないこと。
 これはおうおうにして女性にありがちなのですが、感覚的に現実が受け入れがたい時、人は社会存在という一面を意識的無意識的に捨象して“魂”へと後退してしまう傾向があるようです。
 私はいわゆる精神世界の人々にこの危惧を感じます。
 私は祈りとは、社会的政治的に有効かどうかを問うものではない、それは生命存在の深奥からの声だ、と考えています。
 このように書いたからといって、私は祈るという行為がすべて現実的に意味を持たないなどとは思いません。例えばガンジーやキング牧師の非暴力抵抗運動のような例を歴史は持っています。要は、どこに身を置いて(身を曝して)、何を祈るか、という問題だと思います。
 日本の京都の自分の家の部屋の中で世界平和を祈る閑話休題、私が12/13に「祈りの有効性」と題してメーリングリストに投稿しましたが、ある方から私の言う「善悪は誰にとっての善悪ですか」というご質問を受けました。
 私にとって善悪とは、例えば私の家族でも通行人でもドライバーでもいい、目の前で交通事故があった時に、「死ぬな」「生きろ」(殺すな)と私の身体のなかから躍り上がってくる力のことです。
 誰にとってとか、何のためとかを問わない(問えない)もの――それが私にとっての(唯一の)倫理であり行動規範です。
 私の武術(新陰流)の師・前田英樹さん(立教大学教授)は『倫理という力』(講談社新書)という本のなかでこのようなことを書いていられます。
 「人はなぜ人を殺してはいけないの?」――こういう質問を高校生がトンカツやの親父(日々お客さんにおいしいトンカツを出そうと精進している、トンカツやの親父)に尋ねたら、黙って殴られるだけだろう、と。
 武術では身体(特に丹田)を錬(ね)る、という表現をよく用います。鍛錬の錬、です。私などまだまだですが、正月の餅よろしく、粘り強く、人生をねりたいものだと思っています。
粘るが勝ち(12/19) 楽天堂・高島無々々です。
《前略》
閑話休題、私が12/13に「祈りの有効性」と題してメーリングリストに投稿しましたが、ある方から私の言う「善悪は誰にとっての善悪ですか」というご質問を受けました。
 私にとって善悪とは、例えば私の家族でも通行人でもドライバーでもいい、目の前で交通事故があった時に、「死ぬな」「生きろ」(殺すな)と私の身体のなかから躍り上がってくる力のことです。
 誰にとってとか、何のためとかを問わない(問えない)もの――それが私にとっての(唯一の)倫理であり行動規範です。
 私の武術(新陰流)の師・前田英樹さん(立教大学教授)は『倫理という力』(講談社新書)という本のなかでこのようなことを書いていられます。
 「人はなぜ人を殺してはいけないの?」――こういう質問を高校生がトンカツやの親父(日々お客さんにおいしいトンカツを出そうと精進している、トンカツやの親父)に尋ねたら、黙って殴られるだけだろう、と。
 武術では身体(特に丹田)を錬(ね)る、という表現をよく用います。鍛錬の錬、です。私などまだまだですが、正月の餅よろしく、粘り強く、人生をねりたいものだと思っています。

豆に必要な水のことで(12/16) 澤田いづみです。
 本の紹介です。『水は答えを知っている』 江本 勝著 サンマーク出版 (Aもあります。)水と宇宙、地球、ひととのつながり、声は振動、波動、水の結晶写真がいろんな事を教えてくれます。 お豆さんをつける水にも家族にも、周りの人にもいい振動、言葉かけをしようと思います。

中山守美さんからのお便り紹介(12/18)
 いくつかお便りが届いています。宮島百合さんのたのしいインド旅行記は豆料理クラブ通信で紹介することにします。まず、三重県の中山守美さんのお便りとベビーマッサージの会の紹介を、ここに転載します。(千晶)
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《前略》
 ベビーマッサージ「なでなでの会へようこそ!」
 赤ちゃんは見ているだけでもかわいい・・・抱っこすればもっとかわいい・・・
 触れれば触れるほどかわいくてたまらなくなり、いつまでも触れていたくなります。赤ちゃんにとって生まれたその瞬間から触れる、触れられるということが大切なコミュニケーションであり、それが母親によって十分に行われることは、赤ちゃんをとてもリラックスさせ、母と子の信頼関係をずっと強くさせます。触れる部分としての皮膚は畳1枚分はあり、重さは体重の16%もある、私たちの目に見える最大の感覚器官です。なでなでの会では、母も子もなでなでし合って、この宝の時をじゅうぶんに楽しみたいと思っています。マッサージだけでなく、わらべうた、あそびうたなども盛り込み、育児書、絵本、おもちゃの紹介、子育てのいい話、助産婦さんからのアドバイスなど。今すぐ役立つことから、赤ちゃんがハイハイしたり、おすわりするようになり、自分の世界を広げるようになってからも、子どもとの暮らしが楽しく幸せに過ごしていけるような情報をお伝えしていきたいと思います。なお、この会は営利を目的としたものではありません。紹介する絵本、おもちゃなどはぜひ、出会っていただきたいものばかりですが、これがなければ子育てができないというものでもありません。物も情報もたくさんあふれるほどある中で、ご自身の子育てを考えたとき、ここで出会った本やおもちゃたちを手にとっていただくことができれば、とても嬉しく思います。
             なでなでの会 代表 中山守美

[レシピ]

〈小豆のフラン〉(12/10) 宮下真理です。
 小豆を使って、簡単にフランが焼けました。先日、千晶さんが「おいしい!」と子供のような声を上げてくれたので気をよくして、作り方を書いちゃいます。
 
[材料]
小豆 (やわらかめにゆでて) 2カップ
きび砂糖 1カップ
牛乳 1カップ
卵 2個
はちみつ 大さじ2
バター 1/2箱(100g)・・レンジに1分ほどかけて溶かしておく
[作り方]
材料を水分の多いものから順にブレンダー(ミキサー)に入れて、スイッチオンして15秒。中身を耐熱容器(大き目のグラタン皿など)に移して170度のオーブン中段で35分くらい。焦げ目がつきそうだったら途中で下段に移します。
 焼きたてのあつあつに、アイスクリームをちょっとのっけて一緒に食べるととってもおいしい。冷蔵庫で冷やして食べてもおいしい。


 おいしい、おいしい、と自分で書くのもなんですが、なにしろあっという間にできて、おいしいんです。(まだいってる。)《後略》

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