〈起業講座〉受講生による――


私の起業物語




◎以下の文章は、『私の起業物語』バックナンバーから、塾生の了解を得て『らくてん通信』に転載させていただいたものです。

第5期
鈴木 博子(すずき・ひろこ)さん@香川

『私の起業物語』

[T]大学受験を前に、どんな生き方がしたいのか考えた
 そろそろ進路を考えないといけなくなって、思い出したのは、祖父母に連れられ、山の中腹の畑で、朝から日が暮れるまで、野菜のお世話をし、果物を収穫して分け合って食べ、一人で草花や木の実を集め、虫を観察、夕日が沈む瀬戸内の穏やかな海と島々を眺めて過ごした小さな頃のこと。祖父はこの畑で採れた電照菊や野菜を市場に出荷したり、営んでいる遍路旅館で野菜をふんだんに使ったお料理を出していました。あの頃の自然との一体感、ゆったりとした時間の流れ・・・今度は(当時はまだ結婚も想像できなかったのに)子どもたちと共有したいと思い、野菜も果樹も花卉も家畜も学べる「生物生産学科」のある短大(石川県立農業短期大学。現在の石川県立大学)に進学し、とりあえず受けられるものは何でも・・・とミッチリ講義詰めの2年間を過ごしました。

[U] 本当に農業をやるのか、働き方を模索
 卒業後、青年海外協力隊で、2年間セネガルで野菜栽培の指導員をしました。と言っても、兼業農家の家で育ち、短大で農業を勉強しただけ、実際に自分の生活の糧として農業経験なしの私が、日本と土地も環境も人々の食習慣も異なる地で、生きていくための農業を長年やっている村人に伝えられる技術も責任をとる力もなく、「君がいてくれるだけで、僕たちは世界から忘れられていないんだと思える」と言ってくれた同僚の言葉を励みに、野菜の収穫時期を値段が上がる時期に調整する方法と、都市部で食べ始めた新しい野菜の紹介、小学校では運営資金を稼ぐための野菜栽培の指導、日本式の丁寧なモデル農園の運営をしました。プライベートでは、鶏、羊(旅行中に盗難)、豚を(放し飼いで)飼っていました。壊れたら自分の手で直す、ないものは工夫して生み出す、助け合う姿勢など農村の人々の知恵や技術、生き方に触れ、いつかは自分もそんな人間になりたいと思いました。

 帰国後は、どこでやるのか、何を作るのか・・・食べていけるだけ稼ぐ農業のアイデアもなく、いろいろな事務職やセミナーの運営など、生きていくために働き、子どもが小学校に入るのを機に、夫の国セネガルに家族で移住しました。

 現地では、マンゴーやオレンジ、スイカなど、水も肥料も農薬も何も与えなくても、毎年実ってくれます。でも、みんなが作っているので地元では消費しきれず、都市から安く買い付けに来る商人に売るしかありません。商人たちは大型トラックで買い付け、都市に運ぶのですが、大きな穴が開いた道路を長時間運んだり、すごく込んでいる船を何日も待つ間に果物が腐っていくのを何度も目撃し、食べごろに収穫したものを無駄にしない、農民の労働にあったフェアな値段で加工・販売する方法について夫と議論したものです。季節のジュースのパック詰めは設備も技術もないので、網と包丁があればできるドライマンゴーづくりに精を出しました。

[V]ワクワクする仕事を。人生折り返し地点、今しなかったら今世ではしないと思う
 息子の「日本の小学校で勉強したい」の一言で、日本に再移住をすることになり、どうやって生計をたてるか考えました。両親も高齢なので、近い将来、病院や買い物に連れていってあげないといけなくなるでしょう。子どももまだまだ手がかかる・・・自分で時間の調整ができる仕事で、家族を養えるだけ稼げる可能性があって、ワクワクできるものは?

 祝島という小さな島で、島から出る残飯を餌に、休耕地に豚を放し、田畑を再生させている『放牧養豚』を思い出しました。

 セネガルでは犬や猫だけじゃなく、牛もヤギも羊も鶏も豚も放し飼いで、日中は自分たちの意思で餌を探して動き回ってて、幸せそうだと思いました(季節によっては食糧不足で痩せていたけれど)。牛のお乳をいただくと、季節により味や香りが違っていて、とても幸せな気分になります。すごく品薄になると「牛もがんばって暑くて食べ物のない中を生き抜いているんだ」と遠くからエールを送りたくなります。牛肉は固いのですが、おいしい。食べるとパワーをもらえる感じがします。羊は時々家で殺して食べるのですが、頭も尾も手足も全部、せっかくの命を無駄にしてはいけない・・・と自然と感じ、(一家族では大量すぎて冷蔵もできないなか)1週間ほどかけて完食します。やっぱり、幸せに育った(と私は信じている)家畜のお肉を自分の体に取り込むことは、その家畜のパワーもいただくことになるんじゃないかと思うのです。そんな元気な家畜のお肉を日本のみんなに食べてもらえたら、体の細胞が幸せのパワーをもらって、げんきになれると思います。ある程度の広さを確保して放牧されている家畜は、病気にも強く、るけど、2アールに3〜5頭の放牧養豚では、環境への負荷も少なくてすみます。半年から一年間放牧した土地は、同じくらいの期間休ませたり作物を植えて収穫、その後、また放牧地として利用します。

[W]どうやって放牧養豚を進めていくか?
 7月29日、香川県農業試験場から未来の種豚1頭と母豚3頭を譲り受けました。まだまだ小さい(35〜40kg)のですが、秋くらいから日中放牧し、残飯で育てられるように準備していく予定です。

 養豚は学校の実習で体験しただけで、ほぼ素人です。島にある農業試験場の方に「放牧養豚したいんです」と相談に行っても「難しいよ」と厳しい顔。両親や親せきに話しても「やめときー(やめておいたほうがいいよ)」。島で唯一の養豚農家のMさんも「儲からんよ」と、素直に応援してくれる人には出会いません。

 「経験がない」私が「くさい。汚い。環境に悪い。と思われている」豚を飼うために、Mさんの豚舎を間借りして、そこを拠点にすることにしました。Mさんは体調があまり良くなく、餌を購入して肥育しても、1頭あたり1万円も儲からない(人件費はでない)現在の状況の中、種豚1頭・母豚1頭・子豚10頭(肥育)だけを飼育していて、豚舎はガランとしています。Mさんは島のあちらこちらの農家が残飯を餌に縁側養豚をしていた時代から養豚をやっているので、豚の食いつきや肉のつき具合を見ながら残飯中心のエサをやる勘を持っているはず。Mさんの技術を学びながら、自分がしたい「放牧」と「残飯」養豚を進めていくつもりです。

 島には屠畜場がなくなり、往復1万円強のフェリーで出荷しなければいけません。と言うことは、一度に数頭は運んで屠畜。そうすると今度は、一度にそれだけのお肉を販売しなければいけない。毎週の出荷は難しい。それが課題です。

販売するために
◯地産池消を進めている学校給食のお肉として参入(毎回は難しい)。
◯放牧豚の無料試食会を開く。
◯放牧場の草刈・柵づくりなどのワークショップと豚肉料理を食べるイベント、放牧場を開放し自由に残飯を持ってきて豚に餌を与える・・・私が子どもたちと共有したい体験をほかの人たちともシェアしながら、「島での放牧養豚」ファン・理解者を増やす(私もそうだけど、多くの人はお金で何でもすぐに手に入れる生活に違和感を感じていて、自分で何かを作り出す体験を欲していると思います。私が養豚していなくて、上記のような体験できる機会があれば参加したいと思うので、思いつきました)
◯無添加・自然発酵で生ハムを作っている(有)セラーノさんに委託して、小豆島の生ハムを作ってもらい、ホテルでのコースの一品として、お中元やお歳暮商品として販売。
◯共感しあえる島のお肉屋さんを見つけ、カットやソーセージ、ベーコンなどの加工・販売を委託。惣菜屋には、コロッケや餃子の加工・販売を委託。
(可能な限り地産池消のエサで育てる放牧豚は、できるだけ、小豆島周辺や遠くても関係のある人に販売していきたいと思います。お肉も地産池消が一番!)

放牧について
@まずは知り合いの畑(すでに貸してくださる予定。雑木林に戻りつつある)に肥育用の豚を放し、豚への理解を深めてもらう。
A付近の耕作放棄地(小豆島はここ数年、オリーブがブームで、いたるところにオリーブが植えられています。空いているのは、オリーブ栽培には使いにくいハウスの骨組みが残っているところなど)も借りて広げていく。
◯放牧場の柵については、安価で簡単に設置できる「ソーラーパネルを使った電気柵」を放牧養豚農家は使っているようですが、トラブルで電気が流れない状態ができた場合、豚が脱走して付近の畑を荒らしたり、車と事故を起こしたりという心配と、接触した場合、人間にとってもショックで危険なので、他に良い方法がないか検討中です。

残飯の入手と注意点
◯集めるところ:旅館、ホテル、老人ホーム、製菓店、パン工場・パン屋、豆腐屋、佃煮屋、スーパー、市場、農家、醤油屋、酒蔵、米屋、ジュース工場、魚屋など。
◯注意点:できるだけ農薬のかかっていないもの、爪楊枝やたばこの吸い殻が入っていないもの、近場で手に入るものや育てられたもの、栄養バランスも考える。

その他
◯屠畜場対策:Mさんが利用している屠畜場は屠畜だけでなく、自分たちでデパートなどに販売しマージンを稼ぎたがっているようです。屠畜だけ担当し気持ちよく、お肉を返品してもらうために、肉の値段を決める「背脂の厚さ」・「豚の体重」のうちの体重を標準(110〜120s)からワザとオーバーさせて出荷する。
◯自分が思い描く放牧養豚をイメージし、そのイメージに近づけていくために:養豚農家を見学、今までの道のりや課題の乗り越え方、今現在の課題などを教えてもらう。
 生活できるだけ(実家暮らし、子ども2人で最低100万円くらいは)稼げるようになる可能性はあると信じています。3年は赤字でも続ける覚悟(できる限り設備投資はせず)で、その時点で(その2年後までに)養豚で家族を養える目途がたてれば継続します。

[X]「青年就農給付金」という制度
 国がやっている「青年就農給付金」という制度では、いくつかの条件をクリアすれば、最長5年、毎年150万円の給付を受けることができます。私の場合、試験場の方からは「5年以内に年間純益が250万円以上になる目途が立つ計画書を添えて申請しなければいけない」と言われ、今はまだそんな計画は立てられずにいます。支援していただけるのだったら、いただきたいので、あきらめずに保留にしています。

制度について
http://www.maff.go.jp/j/new_farmer/n_syunou/roudou.html

放牧養豚参考サイト
・氏本農園(ブログ) http://blogs.yahoo.co.jp/farm_ujimoto
・味菜自然村(HP) http://ajisaishizenmura.com/
・えこふぁーむ(HP) http://www.eco-pig.net/
・NPO法人 日本放牧養豚研究会
 http://www.pigjapan.com/houboku/chibaflyingpig.html

豚を飼う上で気を付けたい『動物の5つの自由』 
(参照:日本アニマルウェルネス協会 http://www.j-awa.jp/index.html)
・飢えや渇きからの自由
・痛み、負傷、病気からの自由
・恐怖や抑圧からの自由
・不快からの自由
・自然な行動をする自由
安 道幹(あん・みちまさ)さん@京都

『私がやりたいこと』

■何をやりたいのか

 私がやりたいことは2つあります。ひとつは「相談援助をすること」、もうひとつは「書くこと」です。「相談援助」とは、自立に向けてサポートが必要な方の相談に乗り、一緒に問題を整理したり、必要な社会資源につなげることです。例えば以下のような方々を対象にしたいと思っています。

・事故や病気、自死や災害などで大切な方をなくし生活基盤を失った方。
・病気をお持ちで就労のサポートが必要な方。
・知的障害や精神疾患、発達障害をお持ちで就労のサポートが必要な方。
・不登校やいじめ、ひきこもりなどで学校生活に馴染めない方。
・児童養護施設を退所した若者。

 例えば現在の児童養護施設では入所者は18歳で退所しなければならず、退所した若者は、経済的にも精神的にも自立を迫られることになります。こうした若者たちの相談援助では、個別面談で話を聞きながら、本人が抱えている問題を整理し、就労へつなげるなどのケースワークを行います。また、例えば発達障害を持つ方で就労について困っている方がいれば、本人の特徴や能力を整理しながら、適正就労を目指します。必要であれば、医療や福祉、法律などの専門機関と連携しつつ、次の一歩へとつなげていきたいと思います。すでに行政が運営している支援機関(厚生労働省による「若者サポートステーション」など)のスタッフになるのではなく、私個人で相談援助を始めるのには、公的な制度では十分に支援が行き届かない方々に対して、寄り添い型の支援をしたいという思いがあるからです。そのような方々の「駆け込み寺」のような存在でありたいと考えています。

 また「書くこと」については、相談事例を検討しながら、ウェブサイトなどで記事を書いていきたいと思います。個々人が抱えている問題を個人のレベルに収斂させず、社会全体の問題として提起したいという思いがあります。

■なぜやりたいのか
 ところで、なぜ私はそのような活動をしたいのか?と問うてみれば、おそらく私自身の生い立ちと関係しているかと思います。例えば私は「在日コリアン」であって、大学入学時には日本名から韓国名へ苗字変更を行いました。「日本人」や「朝鮮・韓国人」など、「民族」「国家」によってアイデンティファイできない自分とは何者なのか?ということについて、長く自問自答してきた経緯があります。また「在日コリアン」というテーマだけでなく、家族との関係にも悩んできましたし、友人との摩擦や恋愛などで人間関係の苦しさについて私なりに経験もしてきました。それらの経験から培ってきた人間観ということも、活動の動機として大きな比重を占めているかと思います。

 いろんな葛藤を通して「自分は何者で、どのように生きていくのか?」ということを愚直に問い続けてきた気がします。またその問いかけが、これまでに様々な縁を引き寄せてもくれました。北海道での戦時労働者の遺骨発掘や、プロテスタントの教会で得た感動的な体験、仏教教団で学んだ念仏行による「内観」「自らに気づくこと、自らが変わること」、また長年付き合ってきた友人が、ある日不思議なシャーマンとなり・・・、彼との対話の中で培われてきた死生観ということもありました。さらには沖縄の離島である「久高島」という場所で感じた自然世界に流れているものの感覚、人間と自然との関係性について思ったこと、2年ほど前からは身体障害者たちによるパフォーマー集団「劇団態変」というところで「身体性」ということについても学んでいます。

 「在日コリアン」であることや家族関係などの悩みを出発点として「命とは何か」ということを探求せざるを得ませんでしたし、その探求が様々な縁を引き寄せて、いろんな経験を積むことができ、それらの経験の総体から、今、「相談援助」と「書くこと」という二つの仕事の方向性が出てきたのだと思います。自分の存在価値に悩んでいる方には、自尊心を持って可能性の方へ向かって生きてほしい、そのための支援をしたいという思いがありますし、社会というレベルで考えるなら、相談者を通じて見えてくる社会制度の歪み、社会全体のあらゆる行き詰まり、人間社会や自然との関係性などを問い直していくようなものを書いていきたいと思っています。

 今年の11月にはウェブサイトを立ち上げ、相談援助を開始します。しばらくはフルタイムで別の仕事をしますので、土日を中心に活動を行いたいと思っています。
第4期
岡 聡一(おか・そういち)さん@京都

『やりたいことからの逃走』

 楽天堂の小さな仕事塾の起業講座を4期生として受講したことは、講座で塾長や受講生とセッションしたことを通じて、またその受講期間中に起こった身の回りの出来事を介して、今までの自分を見つめなおす機会となりました。受講生は「私の起業物語」としてそれぞれの考えをまとめることになっていますが、最終的にわたしは基本的な「自分のやりたいことはなんだろう、なんだったんだろう」ということを、考え始めたことを文章にしました。つまりこれまでやってきた多彩な活動がごちゃごちゃと堆積して地層になっているのを、もう一度掘り返す試みです。その結果たどり着いたものは「やりたいこと」を真剣に考えることから逃げてきたこと、「やりたいこと」に拘泥されているということでした。

 さて、起業や経営について、大きくて、でも漠然とした夢は高校時代からあったと記憶しています。当時は目の前のことを享楽していれば過ごせたのでふわふわしていましたが、自分が何かやってしまうんじゃないかという予感と、周りからもそう言われもしていて、得意になっていたと思います。ただ漠然と「経営」というものがかっこいいと思っていました。というのは、経営者の子どもがたくさん通う高校にいたせいもあるのでしょう。表面的ですが、なんとなくサラリーマンにはならないだろうなと、意識していたように思います。その上で、ほかの同級生はほとんどエスカレーターで附属の大学にあがるので大学受験をしないのですが、「自分は違うのだ(=勉強ができる、勉強しかできない)」という妙な自意識によって、よその大学を受験することにしました。大学は「国際」とか「経営」とかわかりやすいキーワードに飛びつくように志望していました。結果として、経営学部には進みませんでしたが、京都にある立命館大学に通うことになりました。

 大学生になって、自分のいた世界とまるで違う人たちと次々出会い、自分の中で徐々に変化が起こっていきます。大きく言うと「世の中はひとつの見方ではない」ということです。楽天堂さんとの出会いも二回生と三回生あいだのころ(2005年)だったと記憶しています。とにかく他者との出会いが楽しくて、いろんな人と出会うため、誘われるイベントや、活動に参加していました。周りは社会問題に関心があった人が多かったのですが、思えばそんな問題そのものよりも、そこにいる人たちに出会うことが大きかったのだと思います。在日韓国人の問題、パレスチナ問題、京都のホームレス、沖縄基地問題、大学生の自治寮闘争、それから香港にWTOの閣僚会議反対デモにも参加しました。

 現在の生計を立てる手段である重度障害者の地域での生活支援(=ヘルパー)の仕事に出会ったのもこのころです。ビジネスとかグローバルとか、そういうコマーンシャルなことばで無機質に理解される世の中の前に、人の生活がある。食事、住居、服の着替え、入浴、排泄などの具体的な行為や暮らしの動作が、たしかに存在して、そこからしかスタートしないのだと、介助の現場で感じていきました。

 さて、大学は卒業したのですが、定職につくこともなく、なんとなく非正規雇用でヘルパーを続けていました。当時シェアしていた貸家には、農業を試みようとしている人、ベンチャー企業を興した人、フリーター、学生、サラリーマン、さまざまな人が集まっていて、彼らと話すことで、人それぞれの価値観に触れることができました。当時は起業や店を持つことは念頭になく、自分のやりたいことは勉強だと言い聞かせ、でも大学院に行くような根性やお金もないので、やってくる人と話をして交流するのが生活のメイン(人づきあい)、というような日々を送っていました。

 その後ヘルパーから介護の事務職に配置が換わるのですが、正規雇用のその仕事を選んだのは、目的もなくいかだで漂流するよりは、「安定」という偽装構造かもしれない泥舟(cf.こだま和文)にのっかりたく思ったからでしょう。毎日楽しかったのですが、先への不安、これがずっと続くのだと思うと生活していけるのかなと思い、それよりはまず生活を安定させて、そこからまた考え直そうという考えがあったと素直に思います。

 2007年10月、ふとしたことで、大学生のときにアルバイトをしていたザ・パレスサイドホテルで週に一回バーを運営することになり、なんとなく「店をやってみたい」「人が集まる場所を作りたい」という思いが出来上がっていたのもあって、スタートすることになりました。それが現在も続いているOKABARです。(3月に閉店予定です。)

 OKABARは人と人が交流するために、それほど利益を生み出さない場所として運営されていました。現在多少の弾力性はあるものの、6年たった現在もそのとおりに運営されており、自分の気持ちや人の変遷はありますが、生活の一部になっています。よく言われるのは、「OKABARを生計を立てる手段(=仕事)にしてはどうか」ということです。もしくはカジュアルに「毎日やったらいいじゃないか。」と言われます。そのたびに言葉を濁してきましたが、ここで少しきちんとこのことについて考えたいと思います。

 OKABARを運営しつつ、2010年に友人と計三人でトリペルというブックカフェをスタートしました。共同経営でしたが、自分のなかではOKABARを生活の手段にするステップとしての位置づけがあったのだと思います。かつて個人経営のマンガ喫茶だった場所を引き継ぐ形で、その店にゆかりのある、そして「何かやりたい」友人(古本屋、野菜づくり、BAR)が集まり店舗の改装から手作業でスタートしました。

 ポジションは面白かったのですが、もちろんこれはうまくいきませんでした(続いていないのが証拠だと思います)。共同経営は長く続けられない業態、それが原因というのもありますが、仕事塾的な言い方をしたら「覚悟ができていなかった」のです。どんなお客さんがどれくらい来て、どういう商品を作って、どれくらいの売り上げ目標があって、どのようにして収入にしてゆくのか、そんな冷静な計算をなおざりにして、「やりたい」という情熱だけではじめたのです。三人いることで意思決定が遅くなること、方向性が違ってくること、全員がオーナーという意識だったので細かいやり方の違いでストレスたまる、といった具合にマイナス面はいくつかありますが、なにより(少なくとも自分は)人に任せていたからだ、と思います。 人に流れを作ってもらうこと、導いてもらうことはとても大事で、わたしはそれで生きてきたようなものです。大学時代から、人と会うことで自分が形成されてきており、その結果、自分が楽しくその場にいることができました。そんな場所に自分がいつもいたからこそ、「場所作り」が自分の特技ではないかと、勘違いしていたのだと思います。そう、勘違いして、うっかりしてOKABARも始めました。その延長でトリペルを始めたのでした。

 仕事塾でのことばで、まず印象的なのが「経営者はひとりひとりが自分の主人である」です。今思えば、自分の「雇われ根性」が確かに、しかも無意識のうちにあったんだと思います。トリペルスタートの当初は体調を崩し、仕事を退職した状態でしたが、生計の手段としての店(仕事=生き方そのもの)という境地にはまるでいたらず、なんとなく場所が続いたらいいやという気持ち、それからいざとなったら同棲していたた当時の彼女に頼ったらいいやという気持ちがあったのだと思います。

 もう少し丁寧に振り返ると、共同経営者や彼女に対するひがみというものが、存在したのかなと思い返せます。まず、共同経営者であるほかの二人に対してのひがみです。彼らはそれぞれ「古本」「野菜」という商品を持っており、それらが「仕事」という意識があったことに対して、自分はどうしたらよいのか混乱しました。自分は商品・商材を持っていないというのが仕事塾に入塾した際にも抱えていた悩みであったのですが、当時、飲食店であるトリペルで自分の商売ができないこと(たとえばBARという発想から商品を考えると、トリペルの商品であるドリンクもしくはフードとバッティングしてしまう)に対するあせりとひがみは、モヤモヤした気持ちと共に、時にはある種の憎悪となっていました。さらに、物件の契約上の責任者が岡であったため、不当に仕事が増えたという意識も芽生え、どこか投げやりな毎日だったと思います。

 一方、彼女に対してのひがみというのは、「正規雇用者」に対するひがみでしょう。「自分は自営業者である」という意識がどこまであったかはさておき、社会保険に入っている、ボーナスがあるなどの守られた立場にいなかった自分を支えるものは、おそらく自分で稼いだお金や自己実現なのでしょうが、そのどちらも存分に満たされていなかったため、身近な存在である彼女に対してきつくあたっていたり、それが時には依存というカタチになったりしたのだと思います。もちろん葛藤はありました。(指摘されるまで無意識でしたが)プライドが高くて頑固者なので、弱音を吐いたり頼ったりすることがなかなかできず、でも深層心理では頼りたいという、非常にめんどくさい葛藤でしたが。

 いずれにしても、たとえば今回仕事塾でセッションする中で育んだ「覚悟」や「イメージ」や「具体的な数字」というものにたいする真摯なアティテュードが欠けていました。たとえ表面的にうまくいったとしても、続かなかったでしょう。「雇われ根性」「ひがみ根性」を持つ、そんな自分が状況の被害者であると感じ、責任を引き受けなかったからです。自分が主人であるというメンタリティがなかったからです。OKABARの延長線上でトリペルをやるというのは、今思うと無謀でした。

 さて、そうすると自分のどこに可能性があるのか。トリペルを閉店した2012年春時点の自分は最悪に近い状態でした。根拠なく自分は経営者になる、とぼんやりしていた高校時代のほうがまだましというものです。かといって、漸次雇われのヘルパーとして復職したのですが、それでは先が見えてしまいます。自己実現ということばに惑わされてはいけませんが、5年後、10年後、20年後の自分を想像してみても、だいたいこんなもんだろうなという残念なイメージ(ヘルパーをしながらOKABARもしている、もしかしたらささやかな幸せかもしれませんが)しか持てず、このままじゃいかんな、と思うばかりでした。自分が生き生きとしていくにはどうしたらいいのでしょうか。

 ところで、OKABARを生計の手段にするという話でした。トリペルでの苦い思いから、OKABARは生計の手段にしない、つまり本業としてBARを経営することは「やりたいこと」と違うのではないかと信じていましたが、そのことをあきらめきれてなかったのだとわかった事件が、仕事塾の講座の第一回目のあとに起こりました。

 京都市北区にある某飲食店が年末に閉店するという話を知ったこと、それから「岡くんいつ店やるの?」と知人に言われたこと、その二つが2013年10月はじめにたまたま行ったお祭りの集いで重なり、その某飲食店跡地で、自分が店をやってみようという衝動がふつふつ起こりました。そのことを交際している彼女に話すと(ちょうど二人で住むところをさがしていたため)「そこに住んで商売ができるかもしれない!」とある種の興奮状態に陥りました。 仕事塾で学んでいる最中の出来事ですから、興奮状態にあるとはいえ、その流れでシミュレーションを試みました。今だからこそ、やや客観的に考えて自分が興奮のるつぼにはまっているということがわかりますが、当初は流れに乗っている自分に酔っていました。興奮していたことはわかっていたものの、自分の力量などを冷静に判断できる状態ではなかった。しかしそれでも、ここでシュミレーションを試みることで得たものは大きいと思います。

 まず商材ですが、夜の仕事を毎日続ける億劫さから、モーニングをメインにした喫茶店を思いつきました。モーニングの欠点は、極端な単価の安さです。いわば喫茶店のサービスであるモーニングは、珈琲代にプラス100円程度でトーストとサラダなどがついてくるため原価率も高く、数をこなさないといけません。某飲食店は20席程度なのでうまく回転させれば相当数の売り上げが見込めますが、一人でさばききれないため思い切って半分にし、10席。たとえば日に1万円の利益を出すためには、原価率を3割とすると、約3倍の3万円を売り上げなければなりませんが、それならモーニングのみで500円×60組。

 しかし、これは皮算用なので、10組として、朝の売り上げが5000円。ランチもやって客単価1000円として×10で10000円、計15000円。のこり15000円をどうやって稼ぐかというと、サンドイッチや揚げ物を作って販売するというアイデアが思い浮かびました。

 ちょうど思いついたのが、昔ブルックリンのデリで食べた中東系の人が経営するサンドイッチ。これがふつうのサンドイッチなのですが、記憶の中ではNYのそっけない味付けにあきあきしていた中、ぴかっと輝くおいしさでした。どんな味だったか確認しにもう一度NYまで行こうと思ったぐらいです(何しろ興奮状態ですから)。 

 結局NYの知人に聞いて、ただのアメリカンサンドイッチだと教えてもらったときは少しがっかりしました。味の記憶は記憶のままでいいのだと思いました。それでも、自分の好きなものを、おいしいと思ったものを自信をもって提供するというのは、商いをするうえでかけがえのないものです。

 しかしながらサンドイッチを500円として、15個売ってやっと7500円。やはり具体的に考えるとしんどさがありました。それでも、あと7500円は珈琲やほかの商材で、というところまで考え、同時に、店舗つき住宅の家賃や、自分たちがそこに実際に住むためのイメージ(衣食住の快適さ)や改装費(風呂がなかったため)を計算しつつ、そもそもそこで店舗をやりながら住むことが本当にやりたいことなのかという根本的なところまで考えていました。

 結果出た答え、それは「やらない」でした。なぜ「やらない」と決めたのか、と問われると一言では答えに窮するのですが、「情熱がなくなった」と言えばいいのでしょうか。ともかく計算をして、生活が成り立つギリギリのめどのようなものがあるにもかかわらず、「やらない」選択は、自分に本当に情熱がなかったということなんでしょう。

 自分でもここがいけない、と思っている自分の性質なんですが、「人に言われてなんとなくやる」「請われたら行く」ことが多いです。ついそれでやってしまって続いたOKABARのようなケースはありますが、たいていは時間によって淘汰されていきます。ひとつのことと平行して、別のことをやってしまうことも多く、別のことをやり始めると、もともとやっていたことを忘れているわけではないんですが、身体はひとつ、自分でできることは限られてしまいます。そう、気が多いのです。

 そして、彼女との結婚のようなものが前提となっていたので、「自分ひとりの決断、責任を取るのも自分」という話ではなくなっていたのも、守りに入る原因だったのでしょうか。

 いえ、なにかやりたいという情熱を人に話すときに、あるはずのアウトプットの源泉のようなものが、実はなかったのではないかと思います。後の話ですが、僕の友人が水俣で仕事を得て、周りに知り合いがほとんどいないそこへの移住を決める際に、妊娠中の奥さんを説得するにあたり「おれは情熱があるから、ぶつけるだけ」と、とつとつと語っていたのを思い出します。情熱こそ、自分や周りの人を動かす最初のテコであるということ、そして人を説得するには、自分の内面からでている情熱がないとダメなのだなと思いました。

 さて、それにしてもこれまで歩んできた道にヒントがあるという基本にたちかえると、「OKABARもトリペルも飲食店で、料理や食べることは好き、人と話すことも好き。だから飲食店をやって生きていこう」、大学卒業後、ひがみや鬱屈した感情をもちつつも、そう思って生きてきました。ヘルパーもいつか店を持つための資金作りとして考えていた部分もありました。

なので、今回の北区での飲食店経営話は、自分にとって当然の流れで、待っていた波がようやく来たんだと思いました。しかし、実は自分が波に乗れるかどうか点検する前に、実は服をまだ水着に着替えていなかったことに気づいたのです。これでは、行こう行こうと言っているだけ、準備をしていないのに旅行できるわけがないというものです。

 「やらない」選択をしたものの、シュミレーションをしたことは大きな財産となりました。自営業=どう生きるかということ、さらに言えば、どんな人とどんなことをして生きていくかということを、つとめてゼロから考え直すことになっていきました。

 無々々さんが、一乗寺のパン屋の223さんが、故郷である千葉県に残してきた家族のことが気がかりで、せっかくオープンした店を半年でたたむことを決意したことに関して、印象的なフレーズを言っていました。「大切なのはパン屋をやることでなく、生きていくこと」。彼女はパンを焼くという行為が生きがいで、生き方そのもので、それを仕事にし、仕事にするために冷静に計算し、アイデアをだし、困難を乗り越え、店を切り盛りしていく楽しさより、「大切な人と生きていくこと」を選択したのです。

 そんな223さんのストーリーを鑑みて、自分も「大切な人」と生きていくことを考えていました。まず、親のことが気がかりであるというのはしばらく前(2012年ごろ)からぼんやりと考えていました。故郷の神戸に帰るアイデアです。8年ほどの京都生活にゆきづまりを感じており、せっかくの起業のチャンスも見送り、その先は・・・。

 奇しくも彼女の故郷は神戸でした。短絡的ですが、ぼくはこれはチャンスだと思い、一緒に神戸に帰ることを提案しました。神戸は海と山が近い街です。新神戸駅の裏の布引山を15分ほど登ると、もう神戸の街、そして神戸の海が見えます。海が見えた瞬間、風が通ったように感じ、当然の流れのように神戸に帰ることにしました。何をするのかは決めず、ひとまず故郷に帰って考えよう、と。

 ところが、です。その彼女と2014年2月に別れてしまうという事態になりました。結婚まで考え、むしろ結婚を考えていたからこそ、自分のこれからの生き方について点検することができたのにもかかわらず、それは違えられてしまいました。

 今、人に説明するときに毎回困ります。「これから何するの?」といわれるとことばに窮します。最初に神戸に戻ろうとしていたのは自分ひとりの決断である、というには、あまりにも言い訳じみた、ナイーブな、小説のような展開です。

 さて、こうして自分と起業にまつわる物語を振り返ってみると、いかに人に(特に女性に)振り回されていると感じてしまいます。おそらくあたっていますが、でも、すぐ人のせいにするにはあまりにもひどい。ぼくはおそらく、自分にやってきたものを大概全部よい波ととらえてそれにのっかってしまう傾向にあります。

 だから大切なモノや人が本当に多い。それでもどこか自分自身が静かに求めるものがあるんじゃないかと思ってしまいます。「やりたいこと」はでも、探しようがありません。仕事塾を受けて、シュミレーションを経て、彼女と別れて、神戸に帰って、「やりたいこと」はなく、単に波にのっかていることに気づきました。本当に「やりたいこと」はないんです。

 きっとこれからも気が多く、いろいろと手広くやってしまうと思います。気が多いのは性質だと開き直ってやるしかないのでしょう。この「人たらし」な性質を変えようとするから苦しいのであって、そんな自分の呪われし部分を、そのままにして「生きていくこと」が決意できたときは、すでに起業していると思います。いいかげん「やりたいこと」を探すことから逃走します。反省しても苦しくてもなぜかやってしまうのは、もうしょうがないですね。
第3期
百日紅・平井 多美子(ひらい・たみこ)さん@山口

『私の起業物語』

 今年の3月末で仕事を辞め、以前から思っていた「いろいろな人が出会い・交流する自由な空間を作りたい。また有機農業をする人との出会いがきっかけでお付き合いを続けているうちに、すっかり農業にはまってしまい、有機農家さんが作ってくださる農産物を使って加工品を作ってみたい」という、妄想ばかりが広がっていたとき、ほんとに偶然だったのですが、楽天堂さんのホームページをみつけ、ここだ!と思い起業塾に応募しました。

 同時期に商工会議所でも、起業のためのセミナーを募集していました。昨年、友人がそれに参加していて、少し様子を聞いていたのですが、何か自分のやってみたいこととは違う、違和感を覚えました。たぶん自分の考えていることは、甘い・実現不可能と一喝されると思ったのかもしれません。

 じゃあなぜ楽天堂さんならよかったのか。山口県から娘と参加しようと思ったのか。私の住んでいる山口市に『わっか屋』さんという店長が納得した商品しか置かないすてきなお店があります。そこで楽天堂さんの商品をみていたことや、一度そこで千晶さんが来てくださった豆ランチパーティに参加したことがありました。そのぐらいのご縁しかなかったのですが、なにか同じにおいがしたのでしょうか。戯言、夢物語をおもしろがって聞いてくれそうな予感がしたのかもしれません。

 初回の起業塾では、実に気持ちよく想像していたことをすべて覆していただきました。結構緊張しながら京都駅に降り立ち、小さな間口の家が立ち並ぶ中に探し当てた楽天堂。塾もいわゆる講義スタイルではまったくなく、和室の部屋の真ん中に机を置いて囲んで話が始まる。資料もいろいろいただいたけど、読んでわからないことは聞いてくださいと言われる。レジメもあってないような感じ。昼食は持ち寄りなので品数が多く、美味しくて珍しいおかずが机いっぱいに並ぶ。こんな起業塾、どこを探してもないだろうと思います。頭でっかちで、驕っている自分、飾っている自分を無々々さんに見透かされました気がした第1回目でした。

 第2回の講座では、働くということはどういうことなのかを改めて考えさせられました。参加者から、自分が信念を持ってやりたいと思う仕事ができないし、本音と建て前の違う職場を辞めるべきなのか、あるいは自分のやりたいと思っていることと違ってもお金のために人間関係の悪さも目をつぶって働き続けるのよいのかという話が出ました。

 その場にいる人たちは、そんな職場は辞めたほうがいいというのが大方の考えでした。そんなとき、千晶さんが『そんな風に白黒つけていいのか』と疑問を投げかけました。その後、白熱した話し合いが続きました。この話し合いの中で印象に残ったことは、私が正しいと思うことが、必ずしも相手にとっても正しいと受け入れられるものではないこと。お客さまに対してリスペクトをもっているのか。うまくいかないときは、自分が変わればいい。自分の芯の部分はしっかり持ちつつ、相手を受けいれる。

 また無々々さんが、内田樹さんの言われた『自分探しをするという人がいるが、自分など探してもどこにもいない。それより職場に最低3年はとどまり、自分の気づかなかった才能を見つけたほうがいい。』というお話もこころに残りました。

 帰ってから第2回で紹介された本『利他のすすめ』(大山泰弘 WAVE出版)を読みました。著者の大山さんは、初めからしっかりした考えがあって現在のような立派な会社を作ったのではなく、本当は違う仕事がしたかったけど、仕方なく親の仕事を継いだそうです。彼がすばらしかったのは、いろんな課題が目の前にきたとき、きちんと向き合い、より多くの人が喜ぶことを考えながら工夫していったこと。その積み重ねの結果が、個性ある会社を作り上げていったというお話に、天性の職場などない、自分で作り出すものなのだなと気づきました。改めて、近江商人の「三方によし」が腑に落ちた2回目の起業塾でした。自分も心地よく、お客様も喜び、周りの人にも幸せが波及すること。

 第2回目の起業塾の後で、高島さんご夫婦と夫とのことを話すスペシャルな機会をいただきました。二人の間が数年前からしっくりいっていませんでした。自分でもわかっているのに、腹をくくって向かい合うことができなかった。ずるくて、かっこつけしいの自分がそこにいて、見ないように、考えないように、仕事にかこつけて、外へ目をやっていました。千晶さんとの会話で、今度こそ、腰と腹をしっかり据えて、開かれた体で向かい合ってみようと考え帰ると、ちょうどいいタイミングで彼も話そうと思ってくれていました。まず身近な関係のたてなおしからスタートです。決して順調にことが運ぶとは思いません。何度も行きつ戻りつするでしょうけど、起業と同じ、時間をかけて、後半の人生を彼と共に楽しんでいけたらいいなと考えています。これから。

 空き家のがらくたを娘とやっと片付け、地元で起業している30代の女性に改装を依頼しました。彼女や娘と相談しながら春には自由な空間『百日紅』をオープンする予定です。来てくださる方々とつくり、進化していく心地よい場にできればと考えています。加工品もまわりの方々に助けていただきながら、小さな成功例をつくっていこうと計画中です。

 高島さんご夫婦、起業塾のみなさん、ありがとうございました。そしてこれからもよろしくおねがいします!
ロカンダきだや ・木田 雅之(きだ・まさゆき)さん@京都

『私の起業物語』 

 「起業」というと、自分には何か、先鋭的というか、ベンチャー企業のような勢いのある人が始める会社、というイメージがありました。

 私が今店を始めたのも、自分が働きたいと思う料理店が少なく、その働きたいお店も、年齢などのことを考えると、難しいので、なら、自分でやるか・・・と、資金も無いまま始めたのでした。

 それと、第一回起業塾セミナーの講師、川内たみさんの「店を持つというより、自分の空間を持つ」という言葉に、何か希望を与えられ、後押しされた気がします。そして、楽天堂さんはじめ、色々な方々からの応援で、店(空間)も少しずつ、成長しているかと思います。

 こんな自分ですから、さらさら起業した、などという自覚は薄いです。これから、料理人と経営者(マネージする身)としての自覚はしっかり根付かせていきます。

 今現在、始めて4ヶ月が経とうとしています(5月8日が開店日)。やはり、色々と大変で、精神的不安はいつもどこか無意識的にあります。最初の2ヶ月は、ほとんど3日に1組ぐらいのペースでした。3ヶ月目に入り、ようやく倍の21組、65名のお客様。売り上げは21万円。これから、原材料費、経費、光熱費、など引くと残りは5万円くらい。そこから、家賃や個人の保険料を引くと、赤字です。これだけ働いて・・・。初めてなので、色々と経費がかさむことも多かったのですが。

 少なくとも倍の40万円が売り上げ目標として見えてきました。25日働いたとして、原材料費、光熱費、経費を20万円に抑えると、1日8千円の日給(千晶さんが仰る、1日1万円には売り上げ50万円が必要)。全てを一人でやっているわけで、お客様が単純に2倍になれば、それだけの対応が出来るかと問うと、難しい・・。
 
 それで見えてきた課題への取り組みとして、以下の4つのことを考えています。

(その1・コースの多様化)
→客単価を上げる&原価を下げる→月3万円の売り上げ増見込み

 色々な方が、楽天堂さんのメーリングリストで、「ロカンダきだや」の感想を書いてくださいました。それと、来て頂いた色々なお客様に共通しているのは 「安い」「安過ぎる」「量が多いね」←(もっと色々な意見がありますが) でした。

 ここで直ぐに値段設定を上げるのではなく、値段設定(コースの種類)のバリエーションを増やそうかと思っています。

 例えば夜は¥3000で2種類のコースがあるのですが、¥3000のコースを1種類にして、もうひとつは¥4000か¥5000のコースを設定する。お昼も現在でしたら、¥1500と¥2000のコースがあります。¥1500もメイン料理をお付けしていたのですが、思い切って、メインを外し、パスタの量を少し増やす程度にします。 

(その2・飲み物の充実)
→客単価を上げる&買い物時間の短縮&原価を下げる→月2万円の売り上げ増見込み

 飲み物は値段を上げ、種類は増やさないまでも、美味しいワインなど絞って、提供していきます。今までは近くの量販店で買っていた飲み物も、ネット注文に変更し、低価格でいいものを届けてもらい、買い物時間の短縮を同時に図る。

(その3・企画を立てる)
→客単価を上げる&客数を増やす&効率的な売り上げ→月10万円の売り上げ増見込み

 それと、今私が本当に広めていきたいことは、美味しい料理を提供することはもちろんそうなのですが、イタリアの各地方のマイナーな料理を食べて、知って欲しいと思っています。

 それを、家庭でも再現して欲しいというのではなく、イタリアのマンマの知恵と工夫を取り入れてもらえたら、と。そういう、イタリアの「郷土料理を食べる会」を定期的に催します。そしてまとまった集客が出来れば、効率的な売り上げに繋がると考えます。

 【例】
 ・1月 ピエモンテ州 (玉葱の詰め物 ボッリートミスト(イタリア風おでん) ポレンタ  そば粉のニョッキ)
 ・2月 バッレ・ダオスタ州 (チーズ・フォンデュ 栗のリゾット 鹿肉の赤ワイン煮込み 米のタルト)
 ・3月 ロンバルディア州  (きのこのミネストラ かぼちゃのトルテッリ パネットーネ)
 ・4月 リグーリア州 (トルタ・パスクワリーナ インゲン豆とひよこ豆と麦のスープ  フォカッチャ・ジェノベーゼ)
 ・5月 べネト州 (アスパラガス・卵ソース パスタとインゲン豆 いわしのサオール ザレッティ(トウモロコシの菓子))
 ・6月 マルケ州 (ムール貝のズッパ(スープ) オリーブの実のフリット  チャンベッラ(ドーナツ状の菓子))
 ・・・・・・・・・・

 とその地方のまだまだ知られていない料理をお客様と分かち合いたいと思います。お一人様¥4000 その地方のグラスワイン 別途料金

(その4・出張料理&物販)
→月5万円の売り上げ増見込み

 出張料理を、まだご存知ないお客様にも、お伝えし、需要を増やす。好評だった焼き菓子、ピクルスなどの保存性のある物販に取り組みます。

 以上の取り組みが成功すると、月20万円増の売り上げが確保できます。これらを年内に達成されれば、なんとかやっていけそうです。

 今回、この小さな仕事塾で自分が足りないところがいくつか発見できました。千晶さんはじめ、女性の方は、小商い的な緩やかなネットワーク、コミュニケーションが身についていらっしゃること。この感覚は自分に欠けてると思います。

 無々々さんからは、経営を続ける為の見えない大切な仕事や、経営する覚悟、心構えを教えていただきました。

 まだ身についていない自分には、すぐに忘れたり、軸がぶれる可能性を孕んでいることを自覚して、新たに取り組んでいきます。
第2期
相沢 恭行(あいざわ・やすゆき)さん@京都

『私の起業物語』

 なぜ私は起業塾の門を叩いたのだろう。気が付くとそこにいたのです。そう、気が付くと楽天堂で千晶さんとおしゃべりをしていたように。気が付くと豆料理クラブの会員になっていたように。そして気が付くと無々々さんの整体稽古会「からだとことばを育む会」に参加していたように。これを縁と言ってしまえばそれまでかもしれません。しかしその縁を惹きよせた妙なる力に思いを馳せれば、やはり千晶さん無々々さん夫妻、そして楽天堂の場から放たれるなにものかが浮かび上がります。それは目に見えないし、言葉ではなんと言っていいのかわかりませんが、間違いなく自分のからだが感じるものです。ここにいるとこれこれこういう利点がある云々頭で考えた理屈以前に感じるものです。先日お話にもでた、「開かれたからだ」とはこうしたものを言うのかもしれません。とにかく自然体で、気が付くとそこにいたとしか言いようがありません。

 では今の自分は起業を考えているわけではないのかと問われれば、もちろん考えてはいます。ただ、今具体的にこれこれこういう起業を考えていてそのために参加したというわけではありません。まだ機が熟していないのは十分承知の上ですが、どうしても今ここにいたいと、からだが感じてしまったのです。

 これまでの人生で起業の経験はあります。しかしどれもどこか腑に落ちず、二年半ほど前に東京から京都に居を移してから、もっと身の丈にあった生き方ができる仕事がしたいと思うようになりました。さあではどうしようという時でしたので、「身の丈にあった自営業」という言葉はすんなりと入ってきました。そして昨年初めての子を授かってからは特に、いつか千晶さんが話されていた「子どもに親が希望を持って働いている姿を見せることが親の責任」という言葉に強く共感しました。まさにその責任を果たされている千晶さんだからこそ、その言葉が活き活きと私の中に入ってきたのでしょう。

 ここでざあっと自らの歩みをふりかえります。1971年宮城県気仙沼市で画家の父のもとに生まれ、子ども時代は漫画や釣りに夢中でした。中学ではサッカーに燃え、高校からギター片手にバンドのまねごとに寝食を忘れ、そのまま音楽で飯を食いたいと上京。バンドを組み自作の歌を引っ提げて、都内のライブハウスを中心に年に数回は関西ツアーも敢行するなど精力的に活動しました。しかしメンバーの方向性の違いで結成からおよそ5年後にあえなく解散。あてのない旅への憧れから、その後ヒッピー気取りでアメリカをグレイハウンドバスで放浪。あまりに英語が話せないことに打ちのめされて帰国。独学で猛勉強しているうちに、学問そのものの面白さに開眼し、大学の社会人入試に挑戦するも付け焼刃ではどうにもならず不合格。前世紀末の1999年、気を取り直してアイルランドの語学学校に短期留学。ヨーロッパの友人と世界情勢について議論し、いつか自分も国際的な仕事がしたいという夢を抱きました。

 帰国後は旧友の誘いでロックミュージシャン向けのシルバーアクセサリーのデザイン、製造の仕事を手伝うことに。自営業でしたが、あまりに経理がずさんで税務署の調査が入り多額の追加徴税に苦しんだことをきっかけに有限会社に法人化。その際取締役として未経験ながら経理を担当し、税理士の指導で複式簿記を学びました。2002年には直営店もオープンしますが、国際的な仕事に関わりたいという夢は膨らむ一方でした。

 そして2003年2月、あるNGOのスタディーツアーに参加して戦争の危機が迫るイラクを訪問。もてなし好きのアラブの人々と、初めて触れる文化に感動し、何とか戦争を止めたいと「人間の盾」に参加。開戦後も市民インフラを守ろうとバグダードの浄水場に滞在しました。そこで死の恐怖も生の喜びも共にしたイラク人の友人と、2003年10月小さなNGOを結成。障がい児福祉施設への通学バスサービスの提供などささやかな支援活動から、イラク現代アートを日本に紹介する文化交流活動などを行い、2004年4月には任意団体からNPO法人になりました。

 シルバーアクセの会社は辞めて、NPO一本でやっていくつもりでした。しかし現実は厳しく、イラクへの関心低下とともに仕事も寄付金も減っていきます。イベント会場でのアラブ雑貨などの販売事業も展開しましたが、やはりそれだけでは食べていくことはできません。法人とはいえ基本は夫婦で切り盛りする小規模な運営形態でしたので、慣れない法人組織の事務作業に疲れ果て、これはとても身の丈に合っていないなと反省し、2010年NPO法人は解散し任意団体に戻しました。

 およそ6年間実際に法人としてやってみて、様々なことを学びました。イラクとつながる喜びも大きいのですが、起業してもそれを継続させていくことの困難がいかに大きいことか。その間、始めは仕事の同僚だった今の妻と結婚し、これまでずっと公私共にパートナーとして歩んできました。どうしてこんな失敗続きの食えない自分と結婚したのという問いに「わたしNPOの人やし」と軽やかにかわす彼女ですが、公私両面にわたり多大な負担と心労をかけてしまったと深く反省しています。

 起業塾に入塾しこれまで基礎講座2回の講義を受けて、かつての自分の幾多の失敗と重ねあわせて話を聞きました。千晶さん無々々さんも数々の失敗を経験されながらなんともしなやかに乗り越えてこられたのだなあと、同じく夫婦で切り盛りしてきた私は感心することしきりです。やはりパートナーの重要性は痛すぎるほどよくわかります。私もパートナーからの耳の痛い批判や苦言がなかったら、ただの見栄っ張りでしかなかったことでしょう。確かに自分一人では自分の見栄と誇りの判別は難しいのです。

 つまらぬ見栄を捨てて本物の誇りを持つためには、やはり身の丈に合ったことを一つひとつ積み上げていくしかないということは、無々々さんが作られた今回の起業塾の大変丁寧で詳細な資料を読めば明らかです。昔のような師弟関係が持ちにくい時代ですが、いつも心のどこかに師を求めている私は、この起業塾ではひとりのしがない弟子として学んでいくつもりです。

 そして私がこの起業塾から最も学びたいことは、実践的な起業の勘所と一緒に、いわゆる「経営」戦略ではない「商い」のこころです。人と人とのつながりに重きを置く商売の心意気は、アラブの商人にも通じる心地よさがあります。今日の社会の息苦しさは、商売人の多くが商いの心を忘れ、経営戦略ばかりを考えているからではないでしょうか。私も一人でも多くの人が自営業者になれば社会は変わると信じて、まずは自らも一介の自営業者として、こりずに再出発したいと思うのです。

 では今度は一体何で起業するのか?もちろんこれまでの活動で培ってきたものが基本になるのでしょうが、まだこれだという具体的なものは見えていません。パートナーとも時期尚早だと話しています。現在私はふるさと気仙沼で3・11津波を生き延びた焼きのりを友人から直接仕入れ、被災地の物産を売って応援したいという楽天堂などに卸すというささやかな取引も行っていますが、こうした離れた土地にいる人々の想いをつなげるような仕事に関わることがひとつのヒントかもしれません。イラクでも、友人たちは支援や文化交流だけではなく、お互い仕事を通してつながっていきたいと願っています。治安が回復すれば現地のナツメヤシ農家とつながりたいという希望もずっと抱いてきました。イラク、気仙沼、その他世界の友人たちの場と、私たちの場を、中央など大きな力を介さず、その想いと共に直接つなげるような仕事をつくりだせたらと思います。

 起業塾は人生塾でもあるという話がありましたが、確かに業(ごう――仏教用語でカルマ――行為、行動、またその行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき)を起こすと読めばなおのことそうだなと納得します。この世に生を受けて今を生きているのなら、誰もがすでに起業家なんだと思います。問題は、自らの業に気づき、それを仕事につなげていけるかどうかなのでしょう。私は今日も私の起業物語を生きているのです。
長谷川 みか(はせがわ・みか)さん@兵庫

『私の起業物語』

 私、8年間WEBデザインの仕事をしています。ずっとパソコンをしていたら目は悪くなるし、肩こり、腰痛はひどくなり、おまけに性格も悪くなってきました。もうそろそろパソコンを使わない生活がしたいなと思い始めた頃、私はバリ島に住むヨガの先生と出会いました。その先生の指導の元でヨガ、瞑想、呼吸法、断食などを学びました。

 それから、自分の生活がかわりました。まず毎日の食事ですが、肉は食べなくなり、代わりにお味噌汁、玄米を食べるようになりました。豆料理をつくり、野菜だけの料理も作れるようになりました。そうすることで体調もよくなってきました。ヨガや瞑想をすることによりココロが強くなってきて、日々感謝出来るようになり、毎日が楽しくなりました。更に私の20年来の夢まで叶い、その恩返しにこれからの人生は、他の方のお役に立てる様な事がしたいと強く思いました。

 震災をきっかけに自分は何ができるのかを考え、得意とすることを被災者の方に支援したいと思いました。私は昔から人を繋げたりするのが好きで、企画調整が得意なのでチャリティイベントでマルシェを企画しました。このマルシェでは、私の周りにいる自営業や個人で副業している人に出店してもらい、売上金や募金を集めて福島県に寄付をするのです。このイベントをきっかけにいろんな方と知り合い、仲良くなり、自分の世界が更に広がりました。

 そして、この自分の体験をまわりの人に伝えたいと思うようになってきました。これが起業したいと思うきっかけです。

 まず今、会社員生活をしながら何が出来るのかを考えました。

 ・ヨガ教室(自宅の8畳の和室を使用する)
 ・ヨガ哲学の勉強会(ヨガの考え方=幸せな考え方を広める)
 ・住み開き/会員制の宿(知り合いの関西のヨガの先生のご紹介を受けて会員になってもらい宿泊してもらう数日から数ヶ月可能)
 ・ゆっくりごはん(自宅で平日の夜や土日にお豆と野菜料理を出す小さな予約制食堂)
 ・家庭菜園をする会(小さい庭があるので、希望者と一緒に食物を植えて育て料理して食べる)

 まずこの5つを2012年の春からゆっくり始めます。そして人が楽しく繋がるイベントを時々やって、ワールドを広くしていきたいと思います。

 更に賛同してくれる方が増えてきたら、熊本県の阿蘇で2泊3日から一週間程度のリトリートも開催したいと思います。現地で温泉、農業体験、野菜料理を食べて、ヨガ哲学の勉強、ヨガと瞑想を行い、心身ともにリフレッシュすることで、参加者に新しい何かを見つけてもらうことのお手伝いがしたいのです。

 そして時期がきたら退職して、田舎の大きなお家を借りて、“ゆっくりごはん”をメインにヨガなどいろいろと活動していきたいと思います。
第1期
I・Hさん@東京

『私の起業物語』

◇はじめに
 毎日の服にとって、大切なこと。心地よさと暖かさと涼しさ。動きやすさと歩きやすさ。気持ちが上向きになる、とりどりの色。もちろん、手入れのしやすさも大切。普段着は洗濯機で、おしゃれ着は丁寧な手洗いで、できれば気持ちのいい風のなかで干してあげたい。そして、一番大切なこと。体にちょうどよく寄り添ってくれて、今日の自分をちょっと好きになれたら、本当にうれしい。部屋にある箪笥やクローゼットに、季節にあわせたそんな服が待ってくれていたら、きっと毎日が楽しくなる。だから、はじめます。13号からの服と雑貨のセレクト&オーダーショップ。

◇起業の動機
 個人的な必要性から発想しました。ユニクロや無印のファストファッションブランドも便利だけれど(サイズも揃っているし)、プレーンすぎるデザインやカラーバリエーションだけだと、どうしても物足りない。デパートの大きなサイズコーナーに行っても、ブランドごとの着こなしはあるけれど、いかにも既製品!という感じで、おしゃれを楽しむことからは遠ざかってしまう。かといって、おしゃれなセレクトショップには着れるものもあるけれど、着れないものも数多く置いてあって、なかなか勇気がいる。海外ブランドは結構サイズ展開が豊富だけれど、個人輸入するのはハードルが高い。

 そんな、小心者かつ欲深い13号体型の人間にとって、もしこんな洋服のお店があったら天国だなあ・・・と妄想しました。もちろん、痩せたほうがいいのです。健康のためにも。でも、痩せてからおしゃれを楽しもうという考えは、今の幸せを後回しにしているとも言えますよね。好きな服を着て、毎日を楽しむことに焦点をあてていったほうが、結果として健康的な体型になっていた・・・なんていうこともあるんじゃないでしょうか。

 毎日、好きな服を着たい。でも、太っているから・・・と溜息をついている人たちが、お店で出会った商品と一緒に楽しい毎日を過ごしてくれたら。笑顔が増えていったら。世界がすこし、明るく平和になるのではと信じています。

◇取り扱いたい商品
 国内ブランド:国内で高品質な生産を行っている作り手で、サイズ展開に幅があったり、ゆったりとしたデザインを多用しているところ。ナチュラル系からデザイン系まで。(たとえば・・・ホームスパン、エヴァム・エヴァ、グランマママドーター、nisica、UNIVERSAL TISSU、而今禾、ao、CANVAS&CLOTH、37、jujudhau、Filmelangeなど)

 海外ブランド:高品質な製品作りをしているところは多いが、日本国内には中々入ってこないサイズを展開していきたい。(たとえば…セントジェームス、ジョン・スメドレー、パタゴニア、ハンロなど)

 オーダーメイドの紹介と仲介:パターンオーダーからフルオーダーまで。シャツ、スーツ、パンツ、靴、アクセサリー、かばん、日傘。ベテランから若手まで、さまざまな作り手を紹介・仲介するサービスも行います。通常はカタログを使ったご紹介ですが、定期的に店舗をつかったオーダー会を開きます。

◇展開方法
 小規模な店舗とネット販売の両方を行います。ネット販売では、お客様にとって着こなしの参考になるよう、モデルさんもちゃんと13号前後の人にお願いをします。

◇課題
 洋服販売経験が皆無なので、仕入れ方法をはじめ、分からないことばかりです。経験を積むためにまずは飛び込む?あるいは、タッグを組めるパートナーを探す?



 『起業物語』を提出したあと、もう一度、読み直していたときに本当にやりたいのか?と疑問が湧いてきてしまいました。原因はきっと、この二つです。
・雑誌の企画会議に出す感覚で書いてしまったこと
・自分が本当に本気で、今からお店を出す覚悟はないこと

 提出の形ばかり整えようとして、その本質を見失っていたと思います。起業物語というのは、今ここを基点として、どこへ向かうのかを考えるものだと思いますが、肝心の「今ここ」があやふやになっていたなあと。そこで、もう一度、番外編としてまとめてみます。個人的すぎますが、ご容赦ください。

◇小さな仕事塾〈起業講座〉第一回目以降にはじめたこと
・豆料理クラブの会員に
・味噌作り・展覧会、ギャラリーへ足を運ぶ
・音楽(同時代の音楽を聴く、耳をふさがない)
・ワークショップへの参加
・日常に少し負荷をかける月間(人と会う、仕事での取材や出張を積極的にスケジュールに組み込んでいく、仕事以外の本を読む、行きたかったけど行けずにいた場所へ恐々足を運んでみる)
・できるだけ早起き
・グリーンスムージー(食生活を変える)→30代になり、仕事も生活も、なんとなく手癖がついてしまっていた。
 そこから一歩踏み出してみると、結構楽しい。怖くて楽しい。

◇その次の一歩
 来年は、昔からのコンプレックスと向き合う一年に。○○から動かない理由を取り除く。
・自動車免許をとる
・日常レベルでの英語力を身につける
・意識的に今の仕事に向き合う(編集担当として納得できる本をあと5冊出す)
・お米作り(知人の紹介で自然農の稲作ワークショップに参加する予定です)

◇さらに次の一歩
 ○○を離れて、会社を離れて、個人事業主として起業する
竹内 滋郎(たけうち・じろう)さん@兵庫

『私の起業物語』

 いちおう自営業者の端くれである。「いちおう」と但し書きを付けたのは、現在、働いていない、という理由からだけではない。この数年、鬱を患い休職中であるため、失業者というカテゴリーに属するかもしれないとも思う。が、敢えてそう書いたのは、これまではぼ人から雇われていない生き方をしてきたし、これからもその方向で進んでいきたいなどと漠然とながら頭の中に描いているという点で、自分を自営という言葉で括ることができる、とも考えているからだ。

 しかし振り返ってみると、果たして自営、つまり「自ら営む」という行為を全うできていたかと問われれば、必ずしも胸を張ってそうだ、とは言い切れない。自分の中に、100%肯定できない割り切れない気持ちがあるのもまた事実なのである。

 過去、フリーライターとして、取材対象者に会い、伺った話を元に記事を書くことで主に生計を立ててきた。だが、これまで順風満帆だったと他人に大手を振って自慢できるわけもなく、「常に自分はこれで食っていけるのだろうか?」とか、それ以前に「この仕事を生業に生きていこうという気概はあるのか?」と絶えず問い続けてきたように思う。

 実際に、これまで食えない時期もけっこうあり、アルバイトをして食いつないだり、畑違いの契約仕事を請け負ったりしたりと、低空飛行を続けながらもなんとかやってきた。ところが、とうとう過労やストレスなどから体調を崩し、休養せざるを得なくなってしまったが・・・。

 最近、病状も快方に向かい、ようやく働くことを視野に活動を再開し始めたのだが、まず頭に浮かんだのは、何をしようか、という漠然とした問いだった。もちろん、できればこれまでのようなスタンスで働いていければという気持ちはある。しかし、鬱で働けなくなったことによって今の日本社会が抱えるセーフティーネットの貧弱さも痛感した。

 幸いにして、今回は家族の理解と援助によりここまでなんとか無事に療養生活を送ることができたが、また同じような働き方=生活を続けた場合、同様のリスクを背負い続けなければならないということだけははっきりしたように思う。

 ではどうするか?今の自分にとって、起業して新たな事業を興すということは、2ステップも3ステップも先の段階である。ただ今回、小さな仕事塾に参加して感じたのは、自分自身がどう生きるか、どのように生きていきたいかということが問われているということだった。

 まずは自分がどうしたいか、そしてそれを実現するためには何が必要でどうすればいいのか、ゆっくりとでいいから考え続けようと思う。

 そういう者味では、私の起業物語はすでに幕が開いているのだ。しかし焦る必要はない。「何かを始めるのに遅すぎるということはない」という格言を肝に銘じ、歩き続けたい。




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