声、沈黙と測りあえるほどに(
[2024・01・10]




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ゲルニカ in solidarity with GAZA
from twitter of Thoton Akimoto @AkimotoThn 2023/12/08

Manolo De Los Santos @manolo_realengo
BREAKING: The town of Gernika in the Basque Country stands in solidarity with Palestine. This same town was heavily bombed by the Nazis in April 1937 during the Spanish Civil War. #ShutItDown4Palestine

 ゲルニカ in solidarity with GAZA

私にとって神とは
――きのう、テレビで『報道特集』を観てたら、ガザのことをやってて、イスラエルの人たちが出てきたんです。ユダヤ教の、超正統派っていうんですか。この人たちが口々に「ハマスを根絶するために祈ってる」って言うんですよね。ハマスの人も人間でしょ。根絶って、まるで疫病
(えきびょう)みたいに言うのを聞いてたら、こわくて―人を殺すのが、宗教って言えるんでしょうか。
――僕も観ました。何と言ったらいいか・・・。ただ、ユダヤ教徒も、そんな狂信者ばかりじゃないんじゃないですか。僕はユダヤ教のことは何も知らないけれど、SNSでは、イスラエルのジェノサイドに反対するユダヤ教徒の人たち―それこそアメリカでもヨーロッパでも、抗議行動をおこなっているのが報じられているし。中には、イスラエルという国家そのものを認めないユダヤ人もいるようですね。
――宗教って、人を救うものなのに。おかしくありませんか。
――そうですね。そこが宗教というか信仰の持つ、人間のやみ、暗闇の闇でもあれば病気の病みでもあるのでは、と思えます。それは何もユダヤ教に限らず、イスラム教でも、キリスト教や仏教、神道でもあったし―大日本帝国では、天皇が現人神
(あらひとがみ)でしたから―ありえるのではないかな。
――ユダヤの人たちは、ナチスのホロコーストで、何百万人も殺されたんですよね、アウシュビッツで。それなのに、なんで今度は自分たちが加害者になって、同じ事をアラブ人にしてるんですか。
――何故でしょうね。よくわからないけれど、人間は逆の立場にたちたいのか、宗教と国家の一体化とか、西欧近代のもつ矛盾とか、いろいろ考えてしまいます。だけど僕は、一つの要因として、宗教というか信仰がはらんでいる根元的な問題があるように思えます。
――根元的って?
――キリスト教作家の遠藤周作
(えんどう・しゅうさく 1923-1996年)の本、読んだことありますか?
――いいえ、名前しか。
――僕も以前、といっても三、四十年前に、『沈黙』と『おバカさん』という、趣
(おもむき)のちがう小説を二冊、読んだだけですが、最近、彼のエッセーを読み始めたんです。実は彼と心理学者の河合隼雄の対談本を読んでいたら、遠藤周作がすぐれた人間観察者・人間心理の洞察者だったことを知りました。遠藤には狐狸庵(こりあん)というもう一つのペンネンームもあって―
――知ってます、名前だけ。
――おとぼけ作家の、エンターテイナーなんです。それにだまされてはいけない。彼の真面目なクリスチャンとしての目は―例えば、『人生の踏絵』(新潮文庫)という本の中で、こんなことを書いてます。引用してみますね。

 「
だいぶ前のことですが、御殿場にあるハンセン氏病の病院へ小説の取材に行ったことがあります。そこはキリスト教の病院で、もう二十年も看護しているという修道女の方が案内してくれました。
 晚秋の夕暮れ時で、長く寒い廊下を歩いていましたら、おばあさんの患者さんがチラッと現れて、すぐ隠れたんですね。修道女の方が「あ、山田さん、山田さん」と呼んで、私に紹介してくれた。そして、山田さんの手を――病気のために曲がっている手をとって、「神経痛で痛いのに、いつも私たちの包帯巻きを手伝ってくれるんですよ」とさすってあげたのです。その時、ふと山田さんの顔を見ると、ものすごく苦痛の色を浮かべていた。アッと気づいたのですが、山田さんにとって、私のような院外の者の前で自分の曲がった手を晒
(さら)されるなんて、とても恥ずかしくて辛(つら)いことなんですね。私はそういう心の動きがあるのを、恥ずかしながら知らなかった。修道女も知らないでいる。
 
 
これは批判しているのではないのです。ただ、患者さんの手をさすっているという行為には、いたわる気持ちや優しさと同時に、自己顕示や自己満足や虚栄心みたいなものも混じっている。それは、修道女自身だって気がついていない。決して非難しているんじゃないですよ。人間である以上、いいことを自己満足などなしに、完璧(かんぺき)に無私でやれるとは私は思わない。「いや、私は無私でやっている。自己顕示欲なんか全然ない」という人がいたら、嘘(うそ)つきだと思う。人が素晴らしいことをやる時、エゴイズムは必ず混じるでしょう。これは人間の業(ごう)みたいなもので、仕方がないし、それでも素晴らしいことをやっているのに違いはないし、私は尊敬します。しかし問題は、その修道女が自分のエゴイズムに気づいていないという点です。」(同上書 pp.204-206)
 
 自分のエゴイズムに気づけないという人間のエゴの業
(ごう)深さ―その究極のエゴイズムが、殺人ではないでしょうか。
――でも、無々々さん、パレスチナでは、そんな善意からじゃなくて、悪意のエゴイズムではないですか。
――そうだと思います。悪意に、正義のオブラートをかぶせて。ただ、悪意のエゴイズムについて問われても、今の僕には答えようがありません。いえ、僕にも殺意を覚える、感情がたかぶる瞬間はあったし、これからもあるでしょう。でも実際に手を下すかどうかには、おおきな溝がある気がします。その溝の手前で踏みとどまらせる、あるいは逆に飛び越えさせてしまうものは、何なのか、分からない・・・。
 今は、善意のエゴイズムを問いたいな、という気持ちが強いです。
――わたしは、今も殺されている子どもたちのことを想うと、いたたまれません。
――ええ・・・。圧倒的な暴力の前で、自分たちに何ができるんだろうと思うと、無力感しか感じませんが。それでも「殺すな」の声は、上げつづけたいです。
 善意のエゴイズムに戻りたいんですが。
――はい。わかりました。
――僕はこの文章を読んだ時、俳優の杉良太郎
(すぎ・りょうたろう)さんのエピソードを、思い出しました。彼は刑務所の慰問など、様々な奉仕活動をボランティアで行っていますが、3・11の大震災の際、こんなエピソードがあったそうです。杉さんが避難所で被災者にカレーをよそっていたら、ある新聞記者がこう尋ねたんですって。
 「それって、売名行為じゃないですか」
 杉さんはどう答えた思います? 否定するでしょ、普通は。
 「ええ、そうですよ。でも、楽しいよ。あなたもやってみたら」と切り返したんです。
 いよっ、良太郎、お見事。男前!って、言いたくなりますよねえ。
――(笑)
――少し脱線しましたが、本題に戻ると、『私にとって神とは』(光文社知恵の森文庫)という本の中で、遠藤はこう語っています。

 「
もしあなたが、私がいままで話してきたことを聞いて、キリスト教に興味を持ち、やがて洗礼を受けたとすると、神は直接目に見えるわけではないけれども、私という者を通してあなたに働きかけたことになる。神はいつも、だれか人を通してか何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。あるいはその人の背中を後ろから押してくれていると考えたほうがいいかもしれません。私は目に見えぬものに背中に手を当てられて、こっちに行くようにと押されているなという感じを持つ時があります。その時、神の働きを感じます。(中略)神は存在じゃなく、働きなんです」(同上書 pp.21-23)
 
 遠藤はこの文章を、六十五歳の時に書いています。小学生の時によく分からずにカトリックの洗礼を受けて、以来、半世紀。聖書をくりかえし読み、もちろん教会にも通って、自問自答してきたんでしょう―「私にとって神とは?」と。いわば人生の課題へのこたえが、「神は存在ではなく働きである」というワン・フレーズではないか、と僕には思えます。
 もちろん、僕は遠藤周作その人に会ったことはないし、全著作を読んだわけでもありません。間違っているかもしれないし、彼の一面を捉えているにすぎないかもしれない。でも僕には、このフレーズがヒットしたんです。
――神は、存在、働き・・・考えたこともないから、むずかしいな。
――そうかもしれませんね。それでも、難解な哲学用語を使ってるわけでもないのに、深く、重い表現になっているのは、人生を賭けた問いに、彼が真摯
(しんし)にこたえようとした、思索の、探求の、賜物(たまもの)ではないか、と思えるんです。僕も、そんなワン・フレーズを、遺したいなあ、遺したいです。
――わたしも、い・つ・か。
――遠藤の言葉をヒントに、僕も考えたんですが、神を存在と捉えてしまうと、教祖や教典・教義を絶対化、神格化してしまうのではないでしょうか。そこから、ガザのような問題が―シオニズムという、イスラエルは神からユダヤ人に約束された土地だから、そこに祖国を建設しようという運動。ただ聖書に書いてある―存在ですよね、それを根拠にパレスチナ人から土地を暴力的に奪ってきた、そして今、ジェノサイドという無差別殺人を行っている。そこに僕は神の働きなど何もない、と思います。
――そうですよ。神さまがいたら、こんな悪をゆるすはずがありませんよね。
――それから・・・僕は個人的にも、遠藤のこのフレーズに、救われたんです。
――無々々さんは、クリスチャン、でしたっけ?
――ちがいます。でもこの言葉と出会って―偶然であって必然、必然であって偶然というのかな。僕は然然(しかりしかり)と呼びたいんですが、僕の体験とひびきあった。その理由を、少し聞いてもらえませんか。
――はい。

個人的な体験
――『らくてん通信』第86号に、〈二人の社会学者〉というタイトルで文章を書きましたが、三十三歳の時に社会学者・見田宗介の主催するエチュード合宿に参加して、僕にとって人生の転換点となるような体験をしました。
――読みました。
――その時のことなんですが、野口整体の活元
(かつげん)を皆でして―部屋の電気を消してタオルで目隠しをして、準備運動のあと、稽古会でも使っている和尚・ラジニーシの『クンダリーニ・メディテーション』のCDをBGMに始まったんですが―僕は初めてでしたけど、しばらくしたら、他の参加者の、もう活元慣れしてるのかな、ばたばたと体を動かす音が聞こえてきて、それから悲しい悲鳴のような声も聞こえてきたんです。そうしたら僕も―体が勝手に反応したのか、自分でも分からないうちに息が苦しくなって、過呼吸というんでしょうか。両手で首を押さえて「苦しい、苦しい」とうめいていたんです。そうしたら、誰かが僕の肩に手をあててくれた。その瞬間、僕は宇宙を、星々を見て、
 「おまえはひとりではない」
 という声を聞いたんです。僕は、赦
(ゆる)された、救われた、なにもかもこれでよかったんだ、という想いが満ち潮のように寄せてきて、涙が止まりませんでした。僕は泣きつづけた・・・。
――・・・
――誰が、手を置いたんだろう? 他の参加者とは考えにくい。唯一、見田宗介だけが参加者を見守るために目隠しをしてなかった、だから見田さんだろうと―
――あの、水をさすようですけど、意地悪な質問をしちゃおうかな。それって、幻覚や幻聴じゃないんですか、心を病んだ人が感じるような。
――そうかもしれません。統合失調症と呼ばれる人たちの、ですよね。僕はどんなものかよく知りませんが、ただ、違うのかな、という思いはあります。
――どんな点が?
――幻覚や幻聴は、肉眼で見て、肉体の耳で聞くものじゃないかなあ。先ほども言ったように、僕は目隠ししていたし―いわば、心眼で見て、心耳
(しんじ)で―そんな言葉はないけど―聞いたように思えるんです。それから、大きな違いは、その後と前とで、おおきな断絶があった、百八十度、人生の方向が変わってしまった、ということが言えると思います。
――例えば、どんな?
――まず、起きる時間が早くなった、朝、三時頃に目が覚めて、何をするかというと、二時間ぐらい活元をするんです、毎日。すると、だんだん体のなかから、言葉が生まれてきた。何て言うかな、泉から水が湧きだすように。それを詩にして―いや、詩になったという方が正確かな。それから、童話、小説と、自分では思ってもみなかった事が生まれたんですね。
――クリエイティブになられたんですね、うらやましい。
――そんなことばかりじゃやなく、他には、部屋に―アパートを借りてたんですが、物が多すぎるのが苦しくなって、本は何百冊も図書館に寄贈するし、趣味の写真器材、百万円もかけたのを、友人に、それから車も―
――車に乗ってたんだ。
――あげてしまった。免許証は、四国遍路の後に、捨ててね。
――元祖、断捨離
(だんしゃり)じゃないですか(笑)。
――(苦笑)。自分でも意外というのかな、思ってもみなかったことは、性欲がなくなったんです。三十代の男は、青年―青年の「せい」は、青の字をあてますが、立心偏
(りっしんべん)の「性」のほうがふさわしい、強いんですね。
――へ~え、そうなんですか。わたしは、男の人のことはよく知らないけれど。
――僕も、女の人のことは分かりませんが(笑)。なくなったというより、落ちた―かさぶたが、ポロッと落ちるように、と言った方が正解かな。僕はその時、上人
(しょうにん)や聖人と呼ばれる人たち、人間は性を超越することが可能なんだ、と実感しました。凡人の僕は、そんな状態は半年ぐらいしか続きませんでしたが。
――ふ~ん。
――幻覚や幻聴とは違う、と話しましたが、半面、同じなのかもしれないとも考えます。というのは、ある脳科学者―苫米地英人
(とまべち・ひでと)さんですが、僕のような精神状態を変性意識というそうなんですが、それはある種のドラッグでも起こりえる、交通事故なんかでも、別に特別なものではないんだ、とどこかで書かれていたんですね。だから、神秘体験なんかでは、ない。それが科学的・医学的に観た、客観的な視点でしょうけど、僕は、その視点は忘れてはいけないと思う。と同時に、でも本人としては、特別な、決定的な体験だった、という面も、あるんですね。
――分かります。他の人には何でもない事が、わたしてきには、たいせつな想い出になるのは。
――初めてですね、人に話すのは。三十五年・・・今、六十八歳ですから、三十五年、かかったんです、自らの体験を、言葉にして表現―対象化できるまでに。
――無々々さんが、よく稽古会で、野口晴哉の言葉を引用しますよね、「勘をとりもどすには三十年かかる」って。そんなもんなのかなあ。
――第二の七五三、です。七×五=三十五。
――おやじギャグ!
――真面目な話、飛行機の着陸で、ハード・ランディングとソフト・ランディングという言葉があるでしょ。
――比喩的にも、使われますよね。
――ええ。「遠藤周作氏と比べるなんて、身のほど知らずな」とブーイングを浴びそうですが、僕は自分と彼のケースを、この二つになぞらえて考えたんです。
――というと?
――僕は、彼と共通点があって、お袋が金光教の熱心な信者でね。子どもの頃、よく教会に―金光教にも教会はあるんです、連れていかれました。何か悩み事があるたびに、お袋は教会長に相談してた、僕はその横でじっと座ってただけですけど。長じて僕は、金光教に入信しなかったし、関心もありませんでした。その間、遠藤は、考え続け、問い続けたんでしょうね。僕は、自己抑圧がたまりにたまり―特に性的な―飽和点に達して、自我(エゴ)が砕け散った。それに対して遠藤さんは、一日一日と重ねて、あのフレーズに到達した、そんなふうに思えます。遠藤さんは、お茶の稽古を通して―茶道のお茶の会、出たことあります?
――一度だけ、な~んちゃってお茶会に。
――こんなことを、書いてるんです。『生き上手 死に上手』(文春文庫)から引用しますね。

 「
あまりいい弟子ではないから偉そうなことは言えぬが、私が茶道で一番、心をひかれたのは「沈黙の声」を聴くということだった。
 茶室ではすべてのものが緊張した静寂を作りだそうとしている。しかしその静寂は「何もない」ナッシングの空虚な静かさではない(と、私は感じた)。
 その静寂は表面は無言だが、宇宙のひそかな語りかけに接することのできる静かさであり、我々はその語りかけを耳にするために静寂な茶室に坐るのだ(と、私は考えた)。
 そのように考えたのは、私の仕事が小説家であるためだろう。
 小説と何か、と問われると今まで色々な答えかたをしてきた。しかしこの道をまがりなりにも三十年以上も生きてみるとこの年齢なりに私なりの自信をもって、こう答えることができる。
「小説とはこの世界のさまざまな出来事のなかから、宇宙のひそかな声を聞きとることだ」
 この世のさまざまな出来事とは、別に茶室の茶器や諸道具のように清浄にして美しいものだけを言うとは限らない。
 いや、むしろ、その反対である。あまりに醜悪な、よごれきった人間的行為や心情の奥底にも実は宇宙のひそかな囁(ささや)きが聞える、と私は次第に思うようになってきた。
 そしてそうした醜悪な心情や行為や人間ゆえのよごれのなかに深い意味があるのであって、その意味をほり出すことが私の今の大きな関心事である。
 茶室の静寂に宇宙の声をきくのが茶人なら、さしずめ小説家などはパチンコ屋的なやかましさに充ちたこの人間世界のなかに同じひそかな声を聞こうとする人間ではないだろうか
」(同上書 pp.94-95)
 
 僕は、整体や武術の稽古を通して―今は新陰流の木刀振りは休んでいますが―ソフト・ランディングのたいせつさ、宗教や武術、技芸で、なぜあれほど修行や稽古が強調されるのか、分かったような気がするんです。それは、ハード・ランディングでは、一歩間違えると、とてつもなく危険だ、と思うからです。自分の経験に照らしてみて。
――でも無々々さんは、フツーのおじさんですよ。ちょっと変わってるけど。
――まあ、自称、凡才型アスペルガーですからね(笑)。ちょっと、危なかった。

余はいかにしてミニ麻原彰晃とならざりしか
――麻原彰晃
(あさはら・しょうこう 1955-2018)、ご存知ですよね、オウム真理教の教祖。東京オリンピックの前に、処刑された。彼は、僕と同い年なんですよ。
――そうなんですか。
――麻原やオウムについては、いろいろな人が、いろいろなことを―グロテスクなカルトだと語ってきましたが、僕もそのとおりだと思いますが、意識的に避けてきたところがあります。一歩間違えれば、自分も彼のようになったのではないか、と思うと。
――今の無々々さんを見てて、麻原彰晃と同じとは思えませんが。
――ヒゲもはやしてないし、あんなに太ってないからね(笑)。正直に打ち明けると、僕にも、オレは啓示を受けた特別な人間だ、高級人間だ、という意識が、ぬぐいがたくありました。豆屋・楽天堂のような、百円、二百円の小銭をかせいで日々を暮らしている、市井の人々を見下すような、小馬鹿にするような意識が。それでも、崇拝者に囲まれた“教祖”にならなかった、なれなかったのは、二つ、いや三つの要因があると自分では分析しています。
――どんな理由ですか。聞いてみたいです。
――一つは、女房の存在(笑)。縁あって結婚した女性(ひと)が気が強くて、僕が地上1メートルをふらふら歩こうとするたびに、地べたに引きずり下ろされたんです。
――そんなこと言っちゃって、いいんですか。今ごろ、千晶さん、くしゃみしてますよ(笑)。
――他者の存在による、自己相対化、ですね。二つ目が、経済。要するに、お金。一緒に働き始めた洋服店が、赤字続きで、おまけに子どもも生まれて。三十代後半から、十数年は―今もです―金儲けに必死でした。食えてナンボ、これが第二の自己相対化。そして三つめが、僕の心の中では、これが一番おおきかったかな、小説家になれなかった挫折です。
――詩や小説を、本に書かれたんですよね。
――皆、自費出版です。今はインターネットとか、多様な自己表現の場がありますが、三十年前は、本にするしかなかった、それも認められた―ある意味、特権的な立場の―人たちだけに許された。僕は、無名の人間ですから、何度も懸賞小説に応募しましたが、ダメでした。それでも諦めきれずに、自費で出した本を、出版社に、何の“つて”もなく、送りつけたりしていました。即、ゴミ箱行きでしょう。僕の書いたものはブツブツ独り言を言ってるだけで、言葉が自己絶対化にとどまっていた、だから、何の共感も呼ばなかったんです。逆にいえば、僕は、自己相対化の洗礼を受けたんです、言語によって。
――今のお話を聞いてると、若者が夢をあきらめる、“あるあるパターン”に思えますが。
――そうですね、そうかもしれない。ただ、もう一つ、これは心にひっかかっていて、なかなか言えなかったんですが―見田宗介が、僕のいわばイニシエーションを導いてくれた。このことが、なかなか整理できませんでした。何人もの女性に―後
(のち)の妻も含まれますが、心の傷を与えて、トラウマになってしまったものも・・・。そんなハレンチ社会学者から手をあてられて、人生の決定的な体験を得た、というのが長い間、受け入れられませんでした。これが、例えば、ある時、滝行(たきぎょう)で水に打たれていたら、滝壺から瀕死の青い蝶が舞い上がるのを見て大悟(たいご)した、悟りを開いた、という物語なら、世間に吹聴(ふいちょう)できるんですけど、ね。
 三十五年後、遠藤周作のさっきの言葉を読んで僕が救われた、と感じたのは、このことだったんです。そうだ、見田宗介という存在が問題なのではない。彼をとおして―彼の手がふれて、神が―「神」という言葉は僕はあまりつかいたくないので―おおいなるもの、語りえぬもの、あるいは生命力(いのちのちから)、大気といってもいいかな、何かが現れた、働いた、と捉えればいいんじゃないか、と思えました。逆にいえば、僕が為すこと、為しうることも、僕―高柳無々々をとおして、目に見えない何かが現れている、働いている。改めて、人間というのは、人間の身体は、楽器なんだな、器にすぎない、と感じました。誰もが、ボチボチの弦楽器ではないのでしょうか。人生という、かけがえのない音を、奏
(かな)でている。
――ふう。
――ところで、Yさん、お酒は飲みますか?
――何ですか、いきなり?! 時々、飲みに行きますよ、友だちと。
――ある漂泊の歌人が―名前は忘れました―こんな歌を詠んでいるんです。聞いてください。
 「
酔い覚(ざ)めに見る星空」 
 僕は、はじめ、二日酔いの一首かな、と思っていました。
――違うんですか。
――「覚醒
(かくせい)」という言葉がありますよね。「覚」は、さとる・さめる、「醒」の字は、お酒に星って書くでしょ。僕らは、人生に酔っている。自己絶対化で、ふらついている。ろれつがまわらず、足元、おぼつかず――麻原彰晃の最期の姿、覚えていますか。法廷で、意味のない言葉を吐いていた、自己絶対化の成れの果てを。そうなる前に、そうならないように、はっと我に返る自己相対化が、星空ではないか、と思えてきたんです。肉体的にも、僕らの細胞は、日々、生まれ変わっている。同じではない。それを同じと思ってしまうのが、自己絶対化―武術で嫌う、「居着き」だと思うんです。
――自己相対化って、過去の自分を捨てることなんですか。ムズカシそう。
――いいえ、捨てることはない、捨てることなどできません。ただ、過去の自分にもたれかからない―良い意味でも、悪い意味でも、過去を絶対視しない事が、たいせつなのではないでしょうか。遠藤は「運命を生きる」と言っていますが、己(おのれ)の人生を全うするには、「一日一生」、日々、“覚醒”が、必要ではないのかな。その作業を怠ると、本人はもとより、周りの人間にも、勘違いが生じてしまうと思います。
 彼、麻原彰晃は、決してあなどれない存在だった―確かに、何かの力というか技
(わざ)を持っていたんだと思います。エチュード合宿で僕の身に起きたような体験を、信者の人に与えていたのでは、と思えます。具体的には知りませんよ、手を当てたか、何かの薬物を使ったか、ヘッドギアによるのか。言葉だけ、説法だけでは、あれほど多くの人が“尊師(そんし)”と奉るとは考えにくい。
 でも彼の間違いは、文字どおり、間
(ま)が真実の真(ま)ではなく悪魔の魔(ま)になってしまったこと。日々の更新を怠ってね。その勘違い男を、周囲の人間も持ち上げて、共犯関係ができあがってしまったのではないでしょうか。
 坂本九
(さかもと・きゅう 1941-1985年)のヒット曲「上を向いて、歩こう♪」じゃないけど―古いか―「星空を見て、生きよう♪」。
――ハハハ。ということは、教祖と信者の共犯関係って、オウムだけに限らない?
――鋭い! そうだと思います。人間が集団生活を営むいじょう、どんな組織や団体にも、起こりうる問題ではないでしょうか。それこそ、小は家族から大は国家に至るまで。耳にしたことはありませんか。ナニナニ界のドンとかカリスマ、“天皇”と呼ばれる人のことを。女性週刊誌を開けば、トップ記事はいつも皇室報道でしょ。そういう権威・権力の礎
(いしずえ)になっている“もたれあい”を生まないためには、よほど意識的にならないと。例えば、僕の―
――あ~、もう時間だわ。ごめんなさい。今日は、無々々さんの知られざる一面を、伺
(うかが)うことができました。次回は?
――今日は、体験を経験へつなげる、僕なりのプロセスをお話しできたかなと思います。次回は、そうですね、宗教と国家の一体化とか、罪や悪も神の働きなのかとか、加害者とは何者なのか、ハンセン病の人たちの自己実現とは、などなど、考えるべきことが、宿題が、てんこ盛りだな。
――今日は、どうもありがとうございました。次回も、楽しみにしています。
――こちらこそ、ありがとうございました。それでは、また。

Can you hear me?
from twitter of Middle East Monitor 2023/11/10

Doctor to @POTUS : Can you hear the screams of innocent Palestinians? Norwegian doctor Mads Gilbert, who has previously worked at Al-Shifa Hospital, says the West, including US President Biden and Antony Blinken, are all complicit in the crimes Israel is committing in Gaza.

 Can you hear me?

President Biden, President Biden, President Biden, Mr. Blinken, Mr. Blinken, can you hear me? Primeministers and presidents of European countries, can you hear me? Can you hear the screams from Shifa Hospital? From Al-Awda Hospital? Can you hear the screams from innocent people? Refugees sheltering, trying to find a safe place being bombed by the Israeli attack forces this morinng inside the hospital. Hospitals that are the temples of humanity and protection. When are you going to stop this? You're all complicit.


Yes, I've heard “共犯者”. How about you?


堂守随想・INDEX

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