グローバリズム&ナショナリズムvs.小さな単位
[2013・10・20]



 数、のことを考えている。豆屋を営んでいるので、日々、売り上げや客数を気にかけてはいるが、そのような具体的な数字ではない。数の「単位」についてである。それも人が何かを為す際の、あるいは人が集ってある共同性を築く(保つ)際に、何か単位のようなものが存在するのではないかということである。 

 例えば、楽天堂が運営している豆料理クラブは、この10年間、平均300人で会員数が推移している。マスメディアにとりあげられた時など一時的に入会者が増加して三百数十人に達するが、波が少しずつ引くように会員数が減って三百を下回り・・・というように、300という数があたかも越えてはいけないボーダーラインのように働いているのではないかと思えてくる。

 また、2011年から私と女房で始めた“身の丈にあった自営業”者を育成する一種の私塾〈小さな仕事塾〉と、私が主宰している整体(内観法)の稽古会〈からだとことばを育む会〉は、ともに塾生(会員)が二十人前後で一定している。

 さらに、『らくてん通信』で「なぜ農業なのか?」を連載していただいた大江広一郎さんは、京都府亀岡市で一人で有機農業を営み週一で会員に野菜を配送しているが、70軒以上は増やせない、と語っている(それが大江さんの規模と形態では限界であると同時に、営農していくうえでのポリシーでもあるようだ)。

 豆料理クラブに関して言えば、私と女房は会員数を300人から少しでも上積みできないかと模索していた時期もあった。会員が百人増えたら、何より自分たちの暮らしに余裕ができるし(子どもたちの教育費が重くのしかかっている!)、従業員を一人でも二人でも雇うことで地域に多少なり貢献できるのでは・・・と思い描いていたのである。

 しかし十数年やってきて、今以上に規模を拡大する必要はないのではないか、ひょっとしたらこれで良いのかもしれない、という気持ちが生まれてきたのも事実なのだ。こう書いたからといって決して現状に満足しているわけではなく(満足できる売上でもない)、新しくコースを新設したり、レシピをリニューアルしたり、何かイベントを催したりと常に努力は怠っていないが。

 

 そんな思いを抱いていた時、一冊の本に出会った。建築家の隈研吾(くま・けんご)氏が書かれた『小さな建築』(岩波新書)である。この書物は、まさに我が意を得たり――自分の言葉にならないもやもやが言語化されている――と感じたのだが、建築という一分野を越えて、今の時代を切り拓く“羅針盤”としての役目を果たしうるのではないかと私には思われる。


『小さな建築』

 「建築をゼロから考え直してみようと思った」という一文で始まるこの本で隈氏は、まず近代建築の概要を追った後、次のように語っている。

 「いまや世界は大きなものから小さなものへと流れはじめている。人間という生物が、自分一人の手を使って世界と対峙しようとしている。大きなシステム(たとえば原発)を受け止めるだけの受動的存在から、自ら巣を作り、自らエネルギーを手に入れる能動的な存在へと変身をとげつつある」

 そして、大事な点は次だ。
 「『大きな建築』をただ縮小しても『小さな建築』にはならない。(中略)『小さな建築』とは僕らにとって、さまざまな意味で身近でとっつきやすく、気楽な存在でなければならない。そんな小さな、いいヤツ、かわいいヤツを探すときにまず考えなくていけないのは、自分が一人で取り扱うことのできる『小さな単位』を見つけることである。『小さな建築』とは、実は『小さな単位』のことなのである。全体の小ささではなく、単位の小ささである。単位が大きすぎたり、重すぎたりしたならば、小さい自分の非力な手には負えない」

 大きくて強い、から小さくて弱いことへの覚醒。
 「『小さい建築』の理想型は、自立した建築である。生物の個体が、自然の恵みを巧みに利用して、オカミに頼ることなく、自立しているように、小さな建築も、小さいからこそ自立できる。小さいからこそ、オカミに依存せずに勝手に生きていける。そこで蓄積された『小さな』知恵を、少しずつより大きな建築にも応用していけばいいのである」

 「主体が小さければ小さいほど、逆に、その主体にとって、世界は大きく、豊かで、多様性に満ち満ちたものとして出現する。頼りになるものとして現れる。自分の小ささとは、世界の豊かさなのである」

 このように語る隈氏には、新たな福音を告げる伝道者か、茶道の祖・千利休の面影をほうふつとさせる(実際に氏は、ドイツのフランクフルトで「ふくらむ茶室」というものを建てている)。

 「建築はいくら強くしようと思って、自分だけできばったところで、その強さはたかがしれている。ならばいっそのこと、弱さを自覚してもたれかかろうというのが、僕の基本的なアプローチである。そのとき、最も大事なことは、もたれかかった相手を痛めつけない、優しさと慎重さである。建築のそんな『弱さ』を忘れないためにも、『もたれかけ構造』は研究に値する。3・11で自然の圧倒的な力を思い知らされ、原子力に代表される人工的システムの脆弱さが身にしみたわれわれは、ますますもって弱さを自覚して、うまくもたれかける技、やさしくもたれかけるパラサイト技術を磨いていかなければならない」

 氏の言う“パラサイト技術”が具体的にどのようなものであるかは、実際に本書にあたって欲しい。「小さな単位を『積む』、大地に『もたれかかる』、ゆるやかに『織る』、空間を『ふくらます』」という書物の帯に書かれた惹句(じゃっく)のとおりに展開していく隈氏の考察と実践は、門外漢でも楽しく読めるものになっている。

 それ以上に氏の文章から私は、思考を大いにインスパイアー=賦活(ふかつ)された。引用が長くなるが、私の“お気に入り”に登録された次の二文だけは、紹介しておきたい。

 「空間とは社会や親が与えてくれるものではなく、自分の手と足を使って作り出すものだ。人は、世界と戦って、やっとのことで空間を獲得するのである。『大きい建築』の中で『大きい建築』ばかりデザインしていると、その一番大事なことを忘れてしまう。建築を作る大きなシステムに組み込まれて、システムの部分としての仕事に追われ、安住してしまう。人間というやわな存在が、世界という大きなものと格闘して空間を獲得することの喜びにも、その罪深さにも気づくことなく終わってしまう。空間をめぐる戦いのリアリティ、厳しさを身をもって体験させたい。コンピューターの画面上で、すべてがキーボードによって作り出せるという生ぬるい幻想の中を生きている彼らのために(後略)」

 この一節は〈小さな仕事塾〉の塾生に聞かせたいなと思うし、次の文章は、整体(内観法)の身体観そのものでは、と思える。

 「産業革命以降、人間は『機械』を作ることに熱中した。熱狂しただけではなく、機械というメタファーを使って、世界のすべてを理解しようとした。機械の基本は複数の部品が全体を構成し、それぞれの部品は特定の機能を受け持っているという考え方である。この構成を生物に適用すると、臓器論型の身体理解となる。臓器(オルガン)という部品が集合して身体という全体を作るという理解である。臓器(部品)を組み合わせた身体。それぞれの臓器(部品)は、機能――胃なら消化、腸なら吸収という役割――を持っているという足し算的で静的な身体理解である。これはわれわれが学校で習った、今でも一般的な生物の理解法である。

 しかしこの臓器論型の身体理解によって、命というものの最も大事な部分が見落とされてしまった。それは生命が流れ続ける存在だということである。血液やリンパ液、水などが自由に流れ続けているだけではない。解剖という残酷な行為によって人間が勝手に『臓器』を発見、捏造したが、実際の生物は臓器よりもはるかに小さな『細胞』という単位で構成されている。その細胞自体が身体の中を自由に流れ続けるのである。細胞は流れることによって胃や血液や骨になる。細胞は作られ続け、捨てられ排出され続ける。生命とはそのように変幻自在に流れ続ける動的存在であり、部品が固定され、流れることのない機械という静的な存在とは大違いなのである」

 そう、何かが終わり何かが始まるパラダイムシフトの時には、人間観・身体観の変革も迫られるのだろう。

 

 しかし人間の歴史は、一筋縄ではいかない。逆流(反動)もある。昨今、日本(と世界)で声高に叫ばれているグローバリズム(市場経済絶対主義)とナショナリズム(国家絶対主義)は、上に述べてきた「小さな単位」に反する、というよりむしろ押し潰そうとする流れではないだろうか。

 私は今まで、安部晋三首相に代表されるグローバリスト=ナショナリストは、なぜ人格分裂を起こさないのか、不思議でならなかった。筋道を立てて考えれば、両者が相共に立つことなど到底不可能ではないのか。

 それが浅い見方であったことを、新聞のスクラップを整理していた時に出てきた歴史社会学者・小熊英二(おぐま・えいじ 慶応大学教授)のインタビュー記事から知った。以下は、「グローバル化の正体」と題された朝日新聞からの引用である。スクラップに日付を書き忘れているが、内容からみて小泉政権後の2008年頃と推測される。

 ――日本をはじめ世界各国で近年、グローバル化に対抗するようなナショナリズム台頭の動きがみられます。日本のナショナリズムの形成を研究してこられた立場から、グローバル化とナショナリズムの関係をどうみていますか。

 「対立すると言われがちですが、私は仲の悪い双子のようなものと考えています。両方とも、交通通信技術の発達に基づく均質化と資本主義化の産物です。ただ、均質化が国内でなされるとナショナリズムと呼び、国際的になされるとグローバル化と呼ぶ」

 「ナショナリズムが均質化だというのは、『薩摩の武士』も『水戸の農民』も『日本人』となったことを考えればわかります。身分差や地方差をなくして国内を均質化するのがナショナリズムです。日本では明治維新以降に身分制をなくし、ナショナリズムが成立しました。そして均質な『日本人』を作るため、国定教科書や天皇の『御真影』を普及させた。これは、大量複製技術や交通の発達なしには不可能なことです」

 「一方で明治維新の契機は黒船の来航でした。これは、蒸気船や電信などの交通通信技術の革新の結果で、一種のグローバル化です。それによってナショナリズムが喚起され、同じ技術を使ってナショナリズムが作られたのです。また、ナショナリズムの作り方はどこも同じです。明治政府も西欧から文化財保護政策などを学んでナショナリズムを形成した。どの国の国立博物館も独自の文化や歴史があると主張しますが、展示の仕方は同じです。ナショナリズムの形成そのものが、グローバル化の結果ともいえます」

――仲が悪い理由は?

 「一つは国家関係。黒船が日本のナショナリズム形成を促したように、大国のグローバルな展開に、劣位の国が対抗手段としてナショナリズムを作る例が多いためです」

 「もう一つは、グローバル化とナショナリズムでは、利益を得る階層が違うこと。ナショナリズムは国内を均質化しますから、身分制廃止や福祉政策、格差の解消などに結びつきます。『同じ日本人なのに貧しい人を放置していいのか』というわけですね。だから中の下くらいの階層、具体的には保護貿易や補助金や外資規制で守られる農民や商店主、あるいは日本型経営のもとで終身雇用が保障されてきた会社員などがナショナリズムの受益層になります」

 「一方、グローバル化の受益者は上層です。大きな資本を持ち、投資先を探している人は外資規制撤廃を望みます。また外国語を話せる教養や資格のある人、国外でも高収入を得られる特殊技能をもつ技術者やスポーツ選手も受益層です。もう一つの受益層は移民労働者になる下層の人ですが、日本の場合はあまり問題になる数ではない」

――最近の日本で中下層の人がナショナリズムに引きつけられるのは、なぜですか。

 「理由の一つは、1992年以降の経済の停滞でしょう。日本のナショナリズムは明治以降いろいろな形で存在してきました。戦前は天皇と軍隊がナショナリズムのシンボルだった。それが戦後は通用しなくなり、高度成長期以降は経済がシンボルになった。80年代には日本型経営をもてはやす日本人論や『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などの本が売れましたが、あれはあの時代のナショナリズムの表現形態だったと思います。それが90年代に挫折し、代わって歴史問題がシンボルになり、『新しい歴史教科書をつくる会』ができたりしたと考えています」

 「しかし経済成長が止まり、産業が空洞化し、若年失業が増え、新自由主義政策が導入され、貧富の格差が開いて移民排斥運動やネオナチが支持を集めるという現象は、西欧や米国が70年代から経験してきたことです。日本は30年遅れでそれを経験しているだけともいえますね」

――ナショナリズムはつねに反グローバル化のスローガンを掲げるのですか。

 「とは限りません。グローバルスタンダードをうたって新自由主義政策を進めたサッチャーやレーガンは、同時にポピュリズム的なナショナリストでした。日本でも小泉元首相は新自由主義改革を進める一方、靖国参拝をした。よく聞く論調として、『アメリカでは国旗に敬礼しているから日本でも』とか、『日本人としてのアイデンティティーをしっかり持たないと国際人として通用しない』といったものがあります。これはナショナリズムとグローバル化が混交した論調ですが、やはり双子の兄弟ならではです」

――ねじれた関係ですね。

 「むしろこの双子の共通の敵はローカリズムでしょう。交通通信技術と資本主義の発達でローカリズムを破壊し、地域共同体を崩壊させてこそ、人々に国家という想像の共同体に愛着を持たせることができる。また貨幣経済を浸透させたいグローバル企業にとっても、自給自足のローカル共同体は最大の敵です」

 「今の日本では、地域や親族の共同体が衰えているのが、ポピュリズム的なナショナリズムが台頭する一つの要因でしょう。町内会や商工会も形骸化し、自民党の集票マシンも機能しなくなり、刺客と呼ばれた落下傘候補がたやすく当選する状況ですから」

――日本のナショナリズムはさらに強まるでしょうか。

 「予測は難しい。不安定な人が増えてもナショナリズムに走るとは限らない。犯罪や麻薬に走る人が増え治安が悪化する恐れの方が大きいかもしれない。先進諸国をみても極右政党の得票率は1割が限界です。例えばフランスから移民を全員排除して国を運営するなど不可能だというのは少し考えればわかることで、多数派の支持は得にくい。日本も中国の食品を全部排除したら生活できない。でも先のことはわからないですから」  




 ローカリズムとは通常、「地域主義」などと訳されているが、「小さな単位主義」と言い換えてもよいだろう。人間がほんとうに生きる喜びや悲しみを感じられて「共に分かち合う」小さな空間=共同性を、わたし(達)が生きて暮らす己(おのれ)の家庭や地域、職場で創り出していけるかどうか――戦いは、これからである。

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