今、高木仁三郎を想う
[2011・06・20]



 六月も梅雨に入ると、楽しみにしている子には待ち遠しい、嫌いな子には憂鬱な季節が訪れる。小中学校で水泳の授業が始まるのである。その前に、どの学校でも子ども達によるプール清掃が行われる。去年の秋から水を溜めたままのプールの水を抜き、ブラシでヘドロなどを掻き出すのだ。今年は、その年中行事に一つの懸念事項が加わった。3月11日に起きた福島原子力発電所の事故である。

 確かにチェルノブイリのような大規模爆発は起きておらず、私の住む京都への放射性物質の飛散は少ないと思われた。京都市教育委員会でも市内の教育施設で放射線量の測定は全く行っていない(6/20現在)。しかし、チェルノブイリでも福島でも、思わぬ遠隔地にホットスポット(高濃度汚染地域)の存在が確認されている。東京電力や政府の意図的な情報操作(隠蔽)への不信感も手伝って、保護者としては子どもへの被爆の不安が拭えない(放射線被曝には「しきい値」(=絶対に安全な数値)は存在しないと言われている)。息子の通っている学校(京都市立仁和小学校)でも数値を計らずにプール清掃が行われるというので、それならば保護者有志でという話になり、校長の了承のもとプールやグラウンドなどの放射線量を測定してみた。

 結果は現在の空間線量と同じ(ということは放射性物質の堆積はほとんどなかった)で胸をなで下ろしたのだが、その後、学校側と一悶着があった。私のホームページに結果を公表したところ、校長から「管理者である私に無断で公表したのだから削除して下さい」と電話がかかってきたのである。

 私は耳を疑った。管理者うんぬんを言うなら、保護者から不安の声が上がっているのに応えて、本来学校(教育委員会)が主体的に測定すべきではないのか。それを行わずにただ「安全です」と言われても子を持つ親として納得できるものではない。案の定、公表後に、京都はもとより他の地域の方からも、数値を知って安心したという声が寄せられたのである。

 3/11以降、東京電力や保安院、それに“原子力村”に集う学者センセイなどからマスメディアを通じてイヤというほど見せられてきたのと同じものを――むろんスケールは較べようもなく小さいが――私は学校長の対応にみたと思った。それは一言でいえば、生命感覚の鈍磨と常識の欠如である。

 生き物にとって生命感覚(何が命を脅かすものであるかそうでないかを本能的に嗅ぎ分ける感覚)は生存の必須条件であろう。その危機意識が私たち日本人に――多かれ少なかれ――欠けていたのではという認識は大方に共有されると思うが、「常識」と聞いて?を抱かれた方も多いのではないだろうか。しかし私にとって常識とは、何が公(パブリック)で何が私(プライベイト)なのかを区別する際のものさしでもあれば、公を私に優先させる際の判断基準になるものでもある。その点からいって、第一に校長とは教育公務員=公への奉仕者であり、第二に数字を公表することの方が隠蔽するよりも社会的な利益が大きかったのであるから、私的な感情(“教育村”における自身の体面?)を優先させる校長の態度は、私には常識の欠如に映ったのである。

 

 ところで、この「常識」という言葉であるが、高校の英語の授業で common sennse =常識、と習って、何故と思った人も少なくないのでは。かくいう私がその一人であるが、哲学者・中村雄二郎(なかむら・ゆうじろう)氏の『共通感覚論』(岩波書店 1979年)を読んでなるほどそういうことかと理解できた。この本で中村氏が述べている共通感覚とは、私流に言い換えれば昔的に「勘」や「第六感」「虫の知らせ」、今風には「身体感覚」になろうかと思うが、西洋の知の歴史の中で身体感覚と常識がメダルの裏表となってきた、いや個的な“からだの感覚”から社会的な常識が生まれてきたことが詳述されている(以下、同書より引用)。



 『共通感覚論』   


 「コモン・センスには、社会的な常識、つまり社会のなかで人々が共通(コモン)に持つ、まっとうな判断力(センス)という意味があり、現在ではもっぱらこの意味に解されている。けれどももともと〈コモン・センス〉とは、諸感覚(センス)に相わたって共通(コモン)で、しかもそれらを統合する感覚、私たち人間のいわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に相わたりつつそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力(センス)、つまり〈共通感覚〉のことだったのである。

 前者、つまり社会的に人々に共通な判断力という方の意味は、十八世紀のイギリスで自覚的に使われてから一般化したものだ。が、この方も淵源を遡ればキケロなどのローマ古典にまで至ることができる。それに対して後者、つまり五感を貫き統合するもの、共通感覚という方の意味は、近代世界では底流として残ったにすぎない。けれども、その淵源は古代ギリシアのアリストテレスにあり、中世世界でもむしろこの方の意味が主であったのである」

 では、何故、共通感覚は、伏流水となってしまったのか。中村氏は続けて書く。

 「ヨーロッパの中世世界では、もっとも精練された感覚、すぐれて知的な感覚、世界とのもっとも豊かな接触をうち立てる感覚とは、なにかといえば、それは聴覚であった。そこでは視覚は、触覚のあとに第三番目の位置を占めていたにすぎない。つまり五感の序列は、聴覚、触覚、そして視覚の順であった。ところが近代のはじめになって、そこに転倒が起こり、眼が知覚の最大の器官になった。(中略)

 ルネサンスの〈五感の階層秩序〉のなかで聴覚と視覚の位置が逆転し、視覚が優位化したことは、たしかに自然的な感性としての官能が解放されたことと結びついている。ところが、近代文明は、触覚と結びついたかたちでの視覚優位の方向では発展せずに、むしろ触覚と切りはなされたかたちでの視覚優位の方向で展開された。近代文明にあっては、ものや自然との間に距離がとられ、視覚が優位に立ってそれらを対象化する方向を歩んだのである。近代透視画法の幾何学的遠近法や近代物理学の機械論的自然観、それに近代印刷術は、その方向の代表的な産物である。と同時に、その方向を強力に推しすすめたものであると言えるだろう。そうしたなかで、時間も空間もすべて量的に計りうるものだと考えられるようになり、その結果、人間の時間も空間も宇宙論的な意味を奪われ、非聖化された」

 『共通感覚論』から三十年、電脳社会に生きる“近代人”の私たちは、ますます視覚絶対化の中で暮らさざるをえなくなっている。しかし、中村氏の論考を首肯するならば、触覚を現在の貶められた地位から引き上げて視覚を相対化できるなら、人間が再び生の豊かさをとりもどせるのではないか、という希望が湧いてくる。

 私が整体を学んでいるからというわけではないが、触れる、というのはつくづく根元的/全体的だと思う。他の四覚が頭部の感覚器官に特化したのに対して、触覚は主に手で行われるだけでなく、体のどこでも他者(他の存在)に触れることができる。そして、皮膚は皮一枚で私と世界とを隔てつつ呼吸を行うことによって自他の壁をスルーしているのである。

 聖書の創世記に書かれているように、神の声(言葉)を「聞く」ことから始まり常に「聴く」ことを求められてきたキリスト教世界とは異なり、日本の文化にあってはからだで「触れる」ことがもっとも大事とされてきたのではないか。神は人格神にあらず、山川草木に遍く存在し、その神々との触れ合い――一種の共同作業――が、例えば稲作りであり、例えば手工のなせる技ではなかったのだろうか。

 

 核兵器とその“平和利用”である原発に結実した核技術は、近代文明の突出した科学技術であると言われている。早くからその危険性を指摘し、のみならず原子力資料情報室を設立して反核反原発運動を実践してきた市民の科学者・高木仁三郎(たかぎ・じんざぶろう 1938−2000)は、その著書『核の世紀末――来るべき世界への構想力』(農文協 1991年)において、中村氏が指摘したヨーロッパ中世から近代にかけての転換を、科学者の立場から「アクティビズム(能動主義)の思想」となづけて次のようにあとづけている。

 『核の世紀末――来るべき世界への構想力』  

 そもそもアクティビズムとは、18世紀のイギリスの思想家フランシス・ベーコンに典型的な「人間が自然に対して非常に積極的に能動的に働きかけ、自然を征服し利用の対象にしていく、そういう思想」であり、デカルトに代表されるフランス啓蒙主義を経てマルクス主義へと展開していった。その過程で、「デカルトの切断」と呼ばれる決定的な選択が行われたと高木は言う。

 「近代の自然科学というのは物質現象を解明する、いわば物質の探求の学として進んできたわけだけれど、その物質の探求の学を今日のようなかたちで可能にしたのは、人間の精神と物質を切り離したところにある。(中略)物質が精神とか霊とかに支配されているのではなくて、物質に固有の、いわば自然が自然に固有の原理を持っているということをはっきりさせた。(中略)そのことによって急速に近代の科学が開き、近代の物質文明が開化するわけです」

 高木によれば、産業革命と市民革命をへたヨーロッパにおいて基礎科学は発達したが――ドイツのレントゲンがX線を発見したように――20世紀に入ると広大な資源(特にエネルギーとしての石油)を背景にアメリカにおいて「科学を技術として展開する」、すなわち科学技術が発展し、その究極がマンハッタン計画にもとづき開発された核兵器である、という。

 近代以前の手工業(手による直接的なモノとの触れ合い)はもとより産業革命の技術(機械を通した手とモノとの間接的な触れ合い)は自然界の模倣に過ぎなかったが、「核技術は人間が頭脳の中から導き出した」ものであり――後に核融合が天界の現象だと知られるようになる――この地の上には存在しないという特異性を帯びている。にもかかわらず、核というパンドラの箱を人類が開けてしまって以降、「ポジの部分だけで開発が進行していく現代の科学技術プロジェクトの、ネガの部分をきちっと専門的力量を備えて分析し、評価し、予測する作業が現代の科学技術社会にはどうしても必要です。社会がそういう能力を育て、保持していかなくてはならない」

 と、高木はその著作と行動を通じて警鐘を鳴らし続ける。『核の世紀末』の執筆と前後して湾岸戦争が勃発したが、アメリカがイラクで稼働中の原子力施設を史上初めて攻撃し原子炉を破壊したことに高木は衝撃を受ける。なぜ戦争終結に全く不必要な爆撃をアメリカは行ったのか――その理由を考え続けた高木は、アメリカが広島・長崎に原爆を投下したのと同じ動機を見出して次のように結論づける。

 「一度開発された兵器は、必ず実戦で使われようとする」

 〈歴史の教訓は生かされない〉・・・何という苦い認識であろうか。私たちはヒロシマ・ナガサキにおいて、一瞬の核爆発で夥しい生命が殺されるという悲劇を経験した。それから半世紀後、イラクで核攻撃にも等しい原子炉爆撃が行われたのである。

 核の“平和利用”である原子力発電に関しても、同じことが言えよう。チェルノブイリ、スリーマイルにつづいて福島で、私たちは放射能による環境汚染と緩慢な死(十年、二十年後に顕在化するであろう甲状腺障害など)の恐怖におびえている。

 核技術というのは、一言でいえば人工的な原子核の分裂によってエネルギーをとりだす技術である。言い換えれば、“関係性の破壊”から生まれた鬼子のようなものだ。原発をみてみれば、その禍々しいまでの性格がよく分かる。計画段階からの賛成派と反対派の対立からはじまって、電力を供給される都市と過疎地である現地との反目、建設・発電にともない利益を享受する人々と使い捨てられる現場の下請け作業員・・・いったん事故が起こったあかつきには、生産者である農民・漁師と消費者との利益の相反、避難する者と留まる者との間の目に見えぬ懸隔、悲しみや怒りを押し殺している者達の目に映る経済至上主義者の姿、諸外国との軋轢等々。

 パンドラの箱を再び閉じるためには、科学技術のバックボーンである能動主義(アクティビズム)思想そのものを裁ち切らなければなるまい。高木が対抗思想として掲げるのは、パッシビズム(受容主義)である。

 パッシビズムとは何か?高木は語っている。
 「荒々しく自然や物事に働きかけるのではなく、自然と人間との間の相互的な関係を重視しながら、おのずから自然と折り合いをつけ、共生しながら、よりよく生きる。そしてそこに文化を発酵させていく。そういう文化のあり方を追求していくためには、人間は多くの面においてより高度に生きる術、賢さを身につける必要があるし、より柔軟な感性と、より高度な知性と、そして身体を獲得していかないといけない」

 その具体例として、高木は――若き日の三里塚闘争への参加体験から得たものか――米作りを挙げている。

 「たとえば、田を作るというときには、むしろそれは田をこしらえるという表現をよく使います。こしらえるというイメージです。では、こしらえるというイメージは何かというと、人間が一方的に、ある自然に能動的に働きかけて、自然を作り変えることによって、田を作るというのではなくて、田ができる。田が田として成り立っている自然の条件をうまく成立させるように、人間が田の土とか、泥とか、水とかとやり取りをやっていく。しかもこれは、一年や二年でできることではなく、何年、何十年というなかで、本当に豊かな田ができ上がってくる、そういうイメージです。その時に、人間の働きはそれほど能動的ではない」

 この能動主義から受容主義への価値転換を、高木は、別の言葉で〈生産的価値から相互的価値へ〉と表している。生産的価値とは、「道具を用いた行為、すなわち現代の科学技術を用いた生産につながる行為、そういうことに価値を見出し、それに優位をおいて、文明を発展させてきた」ものであり、一方、相互的価値とは、「人と人、人と自然の相互のやりとりの価値を重視する」「恋愛や、友人どうしの愛などは、もちろんもっとも直接的な相互行為ですが、人間の間にはさまざまなコミュニケーションがあります。そして、それらは人間が生きていくうえでの大きな要素であり、価値であり、豊かさである」と。 

 関係性の中にこそ人は生きる意味や価値があるという認識に達した高木にとって、20世紀後半に入って科学技術が新たにターゲットとしてきた生命科学は、核技術に劣らず危ういものに映ったであろう。脳死と臓器移植の問題に関して、高木は次のように述べている。

 「私は、脳死を人の死とすることに反対です。脳の働きをもって人間の生と考えるのは、先ほどから言っているデカルト的切断の思想そのものであり、身心二元論です。心臓が動き、まだ体温のぬくもりがある人を、どうして『死人』としてしまうことができるのでしょうか。人間どうしの相互行為(交換)はたとえば肌をさわり合い、そのぬくもりを感じることによっても成立するでしょう。だから、生産性重視の価値観では、脳死=人の死であっても、相互性重視の価値観では、脳死は人の死ではあり得ず、脳が機能を停止したからといって、自然な死が訪れたわけではないというべきでしょう」

 「現在の生命論争のブーム的現象は、生命そのものが今や科学技術的に『作る』対象となりつつあるということからきているのです。臓器移植、遺伝子組み換え、試験管ベビーや代理母の問題など、すべてこの文脈です。しかし、そんな状況だからこそ、生産という合目的性に解消されない最後の砦として、生命を守っていかなくてはならないでしょう。

 それでは、守るべき生命概念とは何なのか(中略)私は、私の生命がそれに先立つ多くの生命、これから生まれてくる多くの生命と有機的につながっていることを、たんなる自然科学的事実として以上に重視し、物の価値を考える際の基準にしているつもりです。また、私の生が生態系の全体の調和の中に初めて可能となることも、人間相互の社会的関係の中で初めて可能になることも、重視しなくてはならないと思います。その意味で『生きる』ということは、幾重にも『共に生きる』ということに他ならないでしょう」

 高木はこの「共に生きる」在り方を、エコロジー的共生・社会的共生・通時的共生という三つの概念でくくっている。
 生命(わたしのいのち、わたしたちのいのち、いきとしいけるもののいのち)をゆずることのできない唯一の価値基準とすること――それは整体の稽古を通して私自身が培ってきたからだの感覚でもあれば、そうありたいと努めている生き方=思想でもある。願わくは、この身体感覚がグローバル・コモン・センスとして受容されんことを。 

 

 思い返せば1980年代、私が横須賀で様々な平和運動に携わっていたころ、高木仁三郎さんというのは権威をかさにきない身近な知恵袋とでもいうべき存在だった。何度か講演に来ていただいたことがある。フクシマを体験した今、その著作を読み返してみると、当時の私は彼の思想を――その拡がり、深さにおいて――何も理解していなかったのだなという痛切な思いがよぎる。

 そうではあっても、私が『核の世紀末』にある不満を覚えるのも事実なのだ。それは、共生の文化への手がかりとして、高木が次のように述べている点である。

 「異種の民族、とくに少数民族が(中略)もっている固有の文化的伝統や価値観のなかに、西洋文明を受け入れて私たちが失ってしまった多くの貴重な文化的価値が見出されます。そのことを掘り下げていく時に、今陥っている危険から私たちを救い出す、さまざまなヒントがあるのではないか」

 高木は日本にあってはアイヌや沖縄人を例にあげているが、では少数民族でない我々ヤマトは、未来に繋いでゆくなにものも持ち得ていないのであろうか。他から借用するしかないのであろうか――それは私自身への問いであり、これからの課題でもある。


堂守随想・INDEX

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