チッソは私であった
[2010・09・20]




 今年(2010年)の三月、真宗大谷派の僧侶の人たちが中心になって催した〈ナムナム大集会3 非の思想――わがはからいにて行ずるにはあらず〉に参加した。案内のパンフには「親鸞は流罪以降、自分の位置を非僧非俗と名づける。非僧とは、いわば国家から拒否されたということであり、非俗とは、その国家を逆に拒否し返したといっていいのではないだろうか。(中略)親鸞が大事にした『非』という言葉を、身をもって表現してくださっているゲストを迎えての集会です。流罪八○三年の今、『非』について共に考えてみませんか」とあった。実は親鸞の言葉云々よりも、初めてお目にするゲストの二人の方に惹かれて、というのが正直なところであったが。

 まず河野義行(こうの・よしゆき)さんが〈命ある限り〉という演題で話された。ご存じの人も多いと思うが、1994年に起きた松本サリン事件の被害者(第一通報者)でありながら警察とマスメディアによって犯人扱いされ冤罪の苦汁をなめた方である(サリンを吸い込んで心肺停止状態になった奥様を14年間看護した末に喪っている)。

 河野さんへのバッシングはどのようなものであったか。本人は控えめに次のように語っている(以下の引用はすべて当日の発言ではなく、著書『命あるかぎり――松本サリン事件を超えて』第三文明社2008年より)。


 
 『命あるかぎり』
 「脅迫の手紙が『第一発見者会社員』というだけの宛名でわが家に届き、『人殺し』『ここから出て行け!』などという嫌がらせの電話や無言電話が十分と間を置かずにかかってくるようになった」

 このような四面楚歌状態の中で河野さんが踏みとどまれたのは、休職扱いにして経済的な保証をしてくれた勤め先の社長や子どもたちに行き届いた配慮をしてくれた学校の先生、そして最後まで潔白を信じて支援してくれた数人の友人知人たちがいてくれたお陰だという。

 河野さんが犯人視されたのは、園芸用に自宅で保管していた農薬を全く科学的根拠がないにもかかわらず農薬→サリン合成という筋書きに警察が固執して事情聴取を続けたためであるが、さらにいえば、河野さんが“変わった人”であったため、7人も人を殺すような犯罪をやりかねないという疑心暗鬼を生む下地となったのであった。

 では、どのように変人奇人であったのか?単に近所付き合いがない(悪い)というだけでなく、河野さんが「原理原則の人」であったことが、周囲との軋轢を生じ、根拠なき憶測を呼ぶ遠因になったと思われる。

 例えば、後に事件の真相が明らかになってオウム真理教の麻原彰晃被告が起訴され、裁判を傍聴に行った河野さんが「麻原」と呼び捨てにせずに「麻原さん」と呼んだことを奇異に感じたマスメディアの取材者に対して、次のように答えている。

 「第一、当時、彼は『被告』であっても、まだ『犯人』ではなかった。事件の犯人とされるのは、公正な裁判によって有罪が確定したときからであり、それまでは無罪が推定されている。つまり、有罪の判決が出るまでは、被告は推定無罪であるというのが日本の法の原則なのである。そう考えると、よほど親しくないかぎり、他人をむやみに呼び捨てにすることは私にはできない。(中略)

 仮に、麻原被告が検察の起訴事実のとおり罪を犯していたとしても、それに対して罰を与えることができるのは、裁判所のみである。警察やマスコミ、ましてや“世間”などではないのだ」(筆者注 2006年、麻原被告は松本サリン事件など27人の殺人の罪により死刑確定)

 このような姿勢は、1998年に起きた和歌山毒物カレー事件(7人死亡 2009年林眞須美被告の死刑確定)の報道に対しても一貫している。

 「和歌山の毒物混入カレー事件の報道では、林眞須美被告の家がテレビで毎日のように映し出されていた。しばらくすると、その真っ白な壁に『死ね』『ヒ素注意!』などの落書きがされるようになった。テレビは、それを平気で映していた。落書きは器物損壊罪にあたり、れっきとした犯罪行為なのだ。

 本来なら、殺人の捜査とは別に、警察に対して、器物損壊の防止と犯人の捜索になぜ動かないのか、と訴えるのがマスコミの使命ではないかと思う。なのに、落書き行為に対して、マスコミは気にも留めていない。マスメディアのなかでは、こうした原理原則の部分すら、正しく管理できる体制になっていないということなのである」

 ここまで書いてくると、一体、河野さんは妻を殺され自らも社会的リンチに晒された被害者として――同じ立場に置かれた人間なら誰しも抱くであろう――オウム教団や警察、マスメディアに対する怒りや、憎しみ、恨みつらみなどの“被害者意識”を持たなかったのだろうかという疑問が湧く。それに対する返答は以下のようなものだ。

 「私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、かぎりある自分の人生を無意味にしたくないのである。そういうことをするくらいなら、いっそ無視して、より有意義なことに自分の時間や労力を使っていきたいと思っている」

 これは世に喧伝されているポジティブシンキング的対処法であろうか。確かに講演でも語られていた自画像は、第一に家族との暮らし、第二に自分の趣味を大事にするエピキュリアンであるとのこと。鹿児島に移り住んで、好きな釣り三昧に明け暮れるのが夢であるそうな。しかしそれはあくまでも半面で、犯罪や事故にあった被害者や家族に対して支援活動を行うNPOリカバリー・サポート・センターの理事としも活動されている。このような河野さんの“二面性”は、次のような人間洞察にもとづくのだろう。

 「一人の人間のなかに、他者のために生きようとする気持ちもあれば、マスコミなどに踊らされてしまい、自分を忘れ、被疑者を必要以上に憎む感情もあるということなのだろう。そうした相反する気持ちをあわせもつのが人間という存在なのだとしたら、なおさら意識的に常に見識ある生き方を心がけていかなければならない、と自分に言いきかせている」

 私は河野さんの講演をお聴きして、一体、“みんなで一緒”主義からくる同調プレッシャーの強い日本社会にあって、どのように自己の思想を築きえたのか(親からの教育?)、また、法治国家というシステムそのものには疑問を感じることはなかったのだろうか、という点を尋ねてみたかった。

 

 二人目の登壇者が、緒方正人(おがた・まさと)さんであった。1953年に熊本県水俣市に隣接する芦北町で生まれ、六歳の時に網元であった父親を水俣病で亡くされた漁師さんである。〈私とは何者なのか〉という演題であった。

 緒方さんはまず、狂い死にした“親の仇(かたき)”と身を賭して闘った水俣病闘争について語られた。それは単に有機水銀を水俣湾に垂れ流して水俣病の発生原因をつくったチッソ(新日本窒素肥料株式会社)や市民の生命を守るという行政として役割を放棄した国(厚生省)、熊本県の責任を問うだけでなく、「命の尊さ、命の連なる世界に一緒に生きていこうという呼びかけが、水俣病事件の問いの核心ではないのか」(著書『チッソは私であった』葦書房2001年より引用 以下同)というものであった。

 『チッソは私であった』
 では、熊本県庁へ、東京のチッソ本社や環境庁、また裁判所へのそれこそ何百回も足を運んだ十年以上にわたる体を張った闘いの中で、緒方さん何を感じたのか。

 「私が求めてきた相手、チッソが加害者といいながら、チッソの姿が自分に見えてこない。手の届かないところにいる。当時の運動はまるで迷路を歩まされているように、裁判や認定申請という制度の中での手続き的な運動になっていきました。私自身は非常にまどろっこしい気持ちをいつも持っていたわけです。『チッソはどなたさんですか』と尋ねても、決して『私がチッソです』という人はいないし、国を訪ねて行っても『私が国です』という人はいないわけです。(中略)自分が目に見えないシステムと空回りしてけんかしているような気がしてきました」

 いわばカフカ的な状況の中で、一個の人間としての責任、“魂の詫び”を求める患者たちの思いは、一方で被害者への補償金というカネの問題に、他方で水俣湾のヘドロ埋め立てという土木工事へと、緒方さんのいう「システム」によって回収処理されてしまう。

 ギアは、空転し続けると、逆転現象を生じることがあるという。緒方さんにとってそれは、「チッソの中にいたとしたら」という――被害者として正義&善の立場に安住していた時には思いもしなかった――問いの発生であり、内省の訪れであった。

 「絶対同じことをしていないという根拠がない」

 “チッソは私であった”・・・この自覚は、加害者vs被害者という図式を一挙に崩壊させ、それまで緒方さんが人生の拠り所としてきたものをガラガラポン!にしてしまった。

 三十二歳にして、緒方さんは狂う。テレビを家の外に放り投げ、車の上に乗ってメチャメチャに壊し、かと思うと裏のみかん山に行って草木と話し、家の前の海で両手をついてひれ伏す。三ヶ月の間、狂いに狂った挙げ句、ついに緒方さんに一種の啓示が訪れる。

 「血が出るまで地べたに額をこすりつけたりしていたときに『親父、わかった』と言ったんです。ずっと遠くへ向かって『魂を受け取った』というようなことを言ったんです」
 自縄自縛していた積年の恨みからの解放、親離れ=一人立ちの瞬間であり、自分が生まれ生き死んでゆく魂の原郷(ふるさと)を見出した時でもあった。

 「それ以前は自分で生きていると思っていたのが、それ以後は“生かされて生きている”という感覚を持つようになったんです。それ以前は、油断すれば敵にやられる、権力や加害者たちからやられる、警察からやられる、だから闘って勝たねば、みたいなところがあったわけです。それ以後は、不知火(しらぬい)の海山や女島(めしま)の自然の世界の中に生かされて生きているという感覚」

 この感覚に導かれるように、緒方さんはシステム=国家と決別すべく、自ら水俣病患者としての認定申請を取り下げ、運動体からも離れてしまう。がそれは、患者たちの闘いを無意味なものとして相対化するのではなく(加害者は加害者としての責任を問いつつ)、社会的な運動ではすくいきれないものに向き合う――緒方さんの言葉を借りるならば――「命の本籍を探す旅」への旅立ちであったのだ。

 緒方さんは仲間たちと〈本願の会〉を創り、水俣湾の水銀にまみれたヘドロの埋め立て地の上に野仏を刻んで魂石を置く。お地蔵さんへの祈りは、不知火海を魂の原郷とする者として水俣病で殺された生きとし生けるもの(人間に限らず、数え切れない魚や鳥たちetc.)への詫びであり、「人としての責任はみずからも負う」という覚悟でもあり、追及する対象から呼びかける対象に変わったチッソの人たちへの“ラブコール”でもあった。

 緒方さんは国家の擬制を見抜いてしまったのだろう、こんな面白いことも言っている。

 「魂というのを平仮名で書きますと、少し濁って点々を付けますと、『だまし』になるんですね。かつて、日本が軍国主義化し、侵略戦争に突入していくという時に、大和魂という言葉がとりわけ使われたし、戦後も時々出てきたと思いますけれども、『やまとたましい』と言わずに『やまとだましい』というふうに魂が濁ってくるとどうも、“だまし”の状態になってくるとじゃないかなあと思います」

 水俣病の発生原因となったチッソは、戦前、日本の韓国植民地化と軌を一にして朝鮮半島でコンビナートなどを建設し、新興財閥となった企業である。水俣病には、このような歴史的背景がある。

 ともあれ、緒方さんの生き様には頷きつつも、現代の国民国家からは誰も逃れようはないではないか、という疑問/反論も生まれよう。緒方さんもその点は重々承知で次のように語っている。

 「狂って間もないころは、自分がプラスティックの船に乗るのがものすごく嫌だったです。それで漁をしてプラスティックの箱に魚を入れて市場にあげてカネもらうときなんか、おれ、何やっとっとかなと思って、自分で嫌悪感に襲われるとです。(中略)おれが実現したいのはもっと違うことなんだと思いながらも、日常はそのようにしか流れない」

 そんな自己矛盾を認めたうえで、緒方さんは言う。
 「がんじがらめの世の中で人間が解放される可能性がどういうふうにありうるのか、それがおれはずっと気になっているんです」

 “もう一つの別な世界”を創造するために、緒方さんの旅は続く・・・。 

 

 お二人の講演を聴いた後、私の頭から離れなかったのは、「近代に未だ至らず。而(しか)して近代以前の感覚を失えり」という言葉・想いだった。私たちは、今、二つの課題に直面しているのではないか。一方で河野さんのように市民として「見識ある生き方を心がけ」つつ、他方で緒方さんのように「“生かされて生きている”という感覚を持つ」こと。それは〈見識〉と〈感覚〉を、一個の人格として生きることは可能であるか、という問いでもある。

 そんな折り、哲学者の鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)さんが書いた『思い出袋』(岩波新書 2010年)を読んだ。〈書ききれなかったこと〉の章で、アメリカ留学中に受講した「カール・ヨーキム・フリードリッヒの政治学は心に残った」と書いたあと、次のように語っている。

 「フリードリッヒは(中略)民主主義を支える柱はなにかという段に進み、この柱として普通人(コモン・マン)をあげる。普通人は、まちがうこともあるが、長い年月をかけて持続する状態でみると、まちがわない。このことは、ドイツに生まれて、一九三九年現在、ナチスの支配を逃れて米国にきて、ハーヴァード大学で講義をしている彼が言うと、その確信が伝わる。この考え方は私に根を下ろして、今も私の中にある」

 普通人(コモン・マン)という言葉は、私の胸に響いた。件の政治学者をまったく知らないので何をかいわんやであるが、common(普通の)sense(感覚)、つまり常識を持ちつつ、common(共通の)sense(感覚)、すなわち共感を失わない人間、それこそ私の求める理想像ではないか、と。



堂守随想・INDEX

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