花は匂へど・・・
[2010/03/20]



 国学の四大人の一人とされる本居宣長(もとおり・のりなが)が、1790年(寛政二年)六十一歳の折りに描いた自画像には、古文献の研究と共に数多くの和歌を詠んだ宣長の代表歌として知られる次のような自讃が附されている。

 しき嶋のやまとごころを人とはば
 朝日ににほふ山さくら花

 “大和心”の象徴としての山桜をうたったこの歌(以下、敷島歌と略記)が一般に広く知られるようになったのは、幕末維新と十五年戦争という日本の近現代史における二つの歴史的な転換点であった。田中康二(たなか・こうじ)『本居宣長の大東亜戦争』(ぺりかん社 2009年)は、敷島歌が時代の奔流にながされるように誤読曲解されつつ広く受容されるに至った過程を、丁寧に跡づけている。以下、同書の記述に即して、私見を交えながら述べてみたい。 

『本居宣長の大東亜戦争』


 まず幕末の最初の危機において、桜はその麗しさよりも(宣長が触れてはいない)散り際の潔さを称揚されるようになる。例えば本居宣長の継承者である平田篤胤(ひらた・あつたね)の門人の一人は、敷島歌を本歌取りして次のような歌を詠んでいる。

 しきしまのやまと心を人問はば 
 わが君のため身をばおもわじ

 しきしまのやまと心を人問はば
 とつくに人のきもをひしがん

 この両歌の背景には、漢意(からごころ)を排し仏教や儒教がもたらされる以前の古の日本を理想とした国学が、黒船来航という国難に際して本来は水と油の関係であった水戸学(儒教の朱子学の一派で名分論に基づき「国体」を唱えた)や陽明学(同じく儒教の一派で知行合一を理念とした)と一体となり、皇統を尊び夷敵を攘(う)つ「尊皇攘夷」思想のバックボーンとなって倒幕運動を担っていった歴史がある。しかし圧倒的な西洋文明の力をまえに攘夷は開国へと転換を余儀なくされ、大政奉還―明治維新(1867年)を迎える。

 列強によるアジアの植民地化というグローバルな状況の下に誕生した国民国家日本は、国家神道を規範とし天皇が統帥権を持つ絶対主義国家として「和魂洋才」による欧化啓蒙・富国強兵策を押し進め、アジアにおける唯一の近代的な独立国家としての体制を整えてゆく。それは一方で朝鮮・中国への侵略=植民地化を不可避にした帝国主義への過程であると同時に、他方でその構成員である国民一人一人(特に知識人)に、“(進んだ)西洋人でもなく(遅れた)東洋人でもない”日本人としてのアイデンティティーの確立を迫る契機ともなった。

 キリスト者の新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)が1900年(明治33年=大日本帝国が初めて体験した対外戦争である日清戦争の5年後)にアメリカで出版した『武士道』は、西欧文化に深く触れえた日本の知識人による当時の代表的な思想的スナップショットとなっている(邦訳は1908年=日露戦争の3年後に出版)。桜の花を表紙にあしらった『武士道』は、次のような一節で始まる。(以下の引用は、1938年刊行の矢内原忠雄訳・岩波文庫版による)

 「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」

 さらに新渡戸は、武士道なる概念を本居宣長のいう「やまとごころ」=大和魂と同定して次のように述べる。

 「武士道は最初は選良(エリート)の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。(中略)『大和魂』は遂に島帝国の民族精神(フォルクスガイスト)を表現するに至った。(中略)本居宣長が(引用者注 ここで敷島歌を挿入)と詠じた時、彼は我が国民の無言の言をば表現したのである。

 しかり、桜は古来我が国民の愛花であり、我が国民性の表章であった。特に歌人が用いたる『朝日に匂ふ山桜花』という語に注意せよ。」

 では新渡戸が注意を喚起させようとしている桜の香りには、どんな含意がこめられているというのだろうか。

 「大和魂は柔弱なる培養植物ではなくして、自然的という意味において野生の産である。それは我が国の土地に固有である。その偶然的なる性質については他の国土の花とこれを等しくするかもしれぬが、その本質においてはあくまで我が風土に固有なる自然的発生である。(中略)薔薇に対するヨーロッパ人の賛美を、我々は分かつことをえない。薔薇は桜の単純さを欠いている。さらにまた、薔薇が甘美の下に棘を隠せること、その生命に執着すること強靱にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽つるを選び、あたかも死を嫌い恐るるがごとくであること、その華美なる色彩、濃厚なる香気――すべてこれらは桜と著しく異なる特質である。我が桜花はその美の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を棄て、その色は華麗ならず、その香りは淡くして人を飽かしめない。およそ色彩形態の美は外観に限られる、それは存在の固定せる性質である。これに反し香気は浮動し、生命の気息(いき)のごとく天にのぼる。この故にすべての宗教上の儀式において、香(こう)と没薬(もつやく)は重要なる役割をもつのである。香には霊的なる或る物がある。太陽東より昇ってまず極東の島嶼を照らし、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき日の気息(いき)そのものを吸い入るるにまさる清澄爽快の感覚はない。

桜花

 (中略)しからばかく美しくして散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型(タイプ)であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか。」

 新渡戸は日本人のいわば民族的な精神性を表す桜と西欧の文化的な象徴である薔薇に本質的な優劣はないと言いつつ、“絶対”への帰依という点において、生に執着しない桜花の優位を暗に語っている。そこには、新渡戸のようなアメリカに留学しアメリカ人を妻にした“東と西”の文化を相対的に見る立場にたてた人間でさえも逃れられなかった「明治人のナショナリズム」が――古い地層から――顔をのぞかせていないだろうか。

 日清戦争に関して、新渡戸は次のように述べている。

 「或いは言う、日本が中国との最近の戦争に勝ったのは村田銃とクルップ銃によりてであると。また言う、この勝利は近代的なる学校制度の働きであると。しかしながらこれらは真理の半面たるにも当たらない。(中略)否!鴨緑江において、朝鮮および満州において戦勝したるものは、我々の手を導き我々の心臓に摶(う)ちつつある我らが父祖の威霊である。これらの霊、我が武勇なる祖先の魂は死せず、見る目有る者には明らかに見える。最も進んだ思想の日本人にてもその皮に掻痕(そうこん)を付けて見れば、一人の武士が下から現れる。」

 圧倒的な彼我の“文明力”の差を突きつけられて、「それでもぼくはこんなに宝物をもってるよ」とポケットをひっくりかえしてみせる少年のように、新渡戸は自己の拠り所を主張している。彼は何を、強調したかったのだろうか。それは私には(彼が生涯を捧げたキリスト教の教理というヴェールに装われたその奥に確かに在ると感じられる)桜の花を佳(よ)し美(うるわ)しと愛(め)でる日本人の“からだの感覚”そのもの、そしてそのような感覚の共有から生まれ育まれてきた人々の暮らしの在りようや生きざま――すなわち日本という風土に根ざした文化の唯一性(ユニークネス)だったのではないかと思われる。

 翻って本居宣長も、(中国文化に対して)同じような態度をとっていたのではないだろうか。何よりも伊勢松坂で漢方の町医者を生業(なりわい)とし、荻生徂徠(おぎゅう・そらい 儒学者。後世の注釈に拠らず、古代中国の聖典を直接読み解いて儒教の本義を究めようとした古文献学を提唱)に『古事記』や『源氏物語』の研究に際しての学問的方法論を学んだとされる宣長。漢字や仏教に代表される中国文明の圧倒的な影響なくして日本の文化はありえなかったことを知悉していたからこそ、“やまとごころ”の優位性を――漢意との対比のうえであくまで相対的に――語ることができたのではないだろうか。

 この点において、小林秀雄(こばやし・ひでお)が評伝『本居宣長』(新潮社)を、彼の遺書から書き起こしているのは示唆深い。本居宣長は当時の両墓制にならって、公に認められた仏式の葬儀・墓とは別に、松坂の山ふところふかく塚を築いて墓とし、山桜を植えるよう遺された者たちに事細かく指示している。小林はそこに、「常識人」宣長の姿を見ている。 

 『武士道』から30年後の1930年(昭和5年)に日本は満州事変を暴発し、十五年にわたる長い戦争の時代に入っていく。その3年後には国際連盟脱退、7年後には廬溝橋事件へと続く第二の国難である。

 すでに1922年(大正11年)から小学校の教科書『尋常小学国語読本』には本居宣長と師・賀茂真淵(かもの・まぶち)との一期一会の出会いを物語った『松坂の一夜』(佐々木信綱作)が掲載されていたが、総力戦としての太平洋戦争(1941年=昭和15年開戦)を遂行するために国学者・宣長が“臣民の在るべき規範”として称揚されるようになると、1943年には国民学校初等科六年生用の国定教科書『初等科国語』七に敷島歌が掲載されたのだった。

 「(引用者註 敷島歌を引用)さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわが大和魂をよく表してゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人にふさわしい歌であります。」 

 田中康二によれば、この教師用指導書には次のような解説が載っている。

 「(敷島歌は)本居宣長が寛政二年八月、自画像に賛をした有名な歌で、日本精神を、朝日に照り映える山桜の象徴によって歌ひ出して余蘊のないものである。随って、『いかにもわが大和魂をよく表してゐます』といふ文のことばを生かして指導する必要がある。『朝日ににほふ』の『にほふ』は照り映える意で、『朝日の光に輝いて、らんまんと咲にほふ山桜の花』と説明されてゐる通りである。また『本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました』とあるところは、初等科修身四『松坂の一夜』と連絡して取扱ふべきである。」

 本居宣長が「にほふ」という言葉でしか表わしえなかったある“からだの感覚”、『武士道』において新渡戸が宗教的な霊性をみとめた山桜の香りが、この指導書では「照り映える」という視覚表現だけに――恣意的にか無意識的にか――限定されている。

 その背景には、江戸時代末に江戸彼岸と山桜をかけあわせてつくられたクローン桜のソメイヨシノ(種では生えず、接ぎ木でしか殖やせない。また香りもない)が、日清戦争直後から日本の津々浦々にまで植樹され、桜といえばソメイヨシノをさすようになっていった事と――あるいは――関係があるのかもしれない。

 ともあれ、桜が日本精神=武士道=大和魂の象徴とされ、“天皇のために死ぬことを厭わない”散華(さんげ)の思想を美化する舞台装置として天皇制絶対主義国家によって用いられた究極のスタイルが、特攻――航空機や潜水艦で自爆攻撃を行う“カミカゼ”であった。軍事的には無意味な「外道の戦法」にもかかわらず、皇民化教育によって郷土愛(パトリオティズム)を天皇制イデオロギー(ナショナリズム)に換骨奪胎されてしまった理想主義的な学徒動員兵や年少の飛行兵たちが、大日本帝国の崩壊前夜、桜の花を胸にさし、桜の枝を振る少女たちに見送られながら、死地に飛び立ったのである(大貫恵美子(おおぬき・えみこ)『ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義』(岩波書店)は、日本文化における桜の美的な価値と、なぜ、このような悲劇が起こったのかを、特攻隊員の手記を分析して究明している)。

 その第一陣・神風特別攻撃隊には、本居宣長の自讃からとられた敷島・大和・朝日・山桜という隊名が附されていたのだった・・・。



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