履歴書

                     
 
 10−20代 
 父はアメリカ海軍横須賀基地の工員(長野出身)、母は主婦。自我に目覚めた中学生時代、お茶の間のテレビでは、ベトナム戦争が映し出されていた。「ベトナムの人の血で、自分は生かされているのか」と思い悩む。高校生の時、完黙症に陥る。「なぜ学ぶのか」――本の中に、必死に答えを探す。二浪して東京都立大学フランス文学科へ。

 20−30代
 卒業後、水俣での支援活動を経て、地元横須賀で反基地平和の市民運動に打ち込む。民族差別がテーマの日教組の教研活動にも取り組む。工業高校の悩める英語の教師として、次第にからだの問題に気づきはじめる。教育演劇やフィリピンの民衆演劇、竹内(敏晴)レッスンなどを体験していく。自己抑圧が強かったために破綻、離職。

 30−40代
 四国遍路。「これからは歩いて生きていこう」と、免許証を捨てる。熊野に引かれるようにして、紀伊田辺の山中に移り住む。人里離れた廃屋で米を作り、小説を書き続ける(退職金で生活)。懸賞小説に何度も応募するも、落選。芽が出ず。成人性のアトピー性皮膚炎に襲われ、体がボロボロになる。横須賀の実家に“出戻り息子”になる。

 奈良の大倭紫陽花村で開かれた野草塾で今の女房に再会、拾われて結婚。山口に移り住む。縫製業を営む義父の子会社(洋服店)の社長におさまり、商売の世界へ。子どもも生まれ、必死に働くも、バブル期に建てられた初期投資の負担に耐えきれずに倒産。自己破産。京都に移り住み、町家を借りて身の丈起業で女房と豆屋になる。

 40−50代
 子どものころから“新しもの好き”で、何事も三日坊主だった自分。それが山口時代に出会った整体の稽古と同時期に始めた新陰流の木刀振りだけは、なぜか十数年続いている。五十代半ばにして、生業は豆屋、からだとことばをライフワークに、と思い定める。2011年3月、からだとことばを育む会で整体の稽古会をスタートさせる。

 2015年春
 胸を患い、一ヶ月半入院して手術を受ける。整体の限界と可能性について、思い知らされる。ベッドの上で、東洋(的手当)と西洋(的医療)の調和について、思いを巡らす。
 2016年春
 久々に小さな市民運動に関わる(公園の廃止反対運動)。生物(ナマもの)としての身体と、社会的存在としての人間の調和について、思いを巡らす。

 2016年秋
 整体の稽古会を発展させ、表現教室を始める。



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