からだノート




(一)内観技法の基本 (二)日々の養生法 (三)内観技法の理 (四)“いのちのもえ”と表現 (五)手間(真にふれる手)

(一)内観技法の基本


【内観技法とは】

 人間の身体を、肉体(物質)ととらえるか、からだ(空・殻+強調の「だ」 例)「ダメだ」)ととらえるか、あるいはどちらに比重をおくかで、身体観・人間観、ひいては世界観がおおきく異なってくるでしょう。肉体は、あくまで個体としての生命活動を行っているのに対して、からだは、個を超えて、“いのち”(「いの」は強調 例)「いの一番」+ち「地・血・乳・父」=根元的な存在)をつなぐ、いわば“いのちのもえ”とでも呼ぶべき生命感覚の働きがあります。

 人間をなぜ“人の間”と書くのかと考えた時、人が物理的な間
(あいだ)という以上に、感覚的で関係的な時間・空間・世間(せけん)の間(ま)を生きている存在だからではないでしょうか。何よりも、からだが一つの間(ま)なのです。この間は、伝統的な身体運用・身体用語では、「はら・こし」に象徴されています。

 私たちが真面目
(まじめ)に、手間(てま)をかけて生きれば――語呂合わせではありませんが――間は真(ま)にかわりうるのではないでしょうか。真面目とは、真に面する目を持つこと=真理・真実から目をそむけない事であり、手間とは、真にふれる手を持つこと=もの「者・物・霊」と一体になる事です。

 “いのちのもえ”(生命感覚)を生活に活かし、与えられた命を生き切るために、整体を礎(いしずえ)に生まれたのが、内観技法です。この身体技法は、心眼(みずすましの目)・呼吸(ひょうたんの息)・気力(まわるまるの腹)の三位一体で生命感覚を視覚的にとらえる
(わざ)と(ことわり)です。

【心眼(みずすましの目)】技法&資料
(pdfファイル)

 心眼とは、からだの内の感覚を観る内観の目であり、外に向けては、もの「者・物・霊」の本質を見抜く心の目でもあります。

 一方、肉眼は、ものの表面を、外から、形で、物質的に把握しようとする目です。

 水棲昆虫のみずすましは、目を四つ!持っています。実際には左右の目がそれぞれ上下に分かれ、上の目で空中の敵や餌を、下の目で水中のそれをとらえるそうです。

 稽古会では、集注を深めるために肉眼を閉じて稽古をしますが、心眼が鍛えられれば――日常生活において、肉眼を開けている時でも――真面目に生きられるのではないかと思います。

【呼吸(ひょうたんの息)】技法&資料(pdfファイル)

 臨済宗
(りんざいしゅう)・中興の祖といわれる江戸時代の禅僧・白隠(はくいん)は、若くして禅病にかかり(おそらく公案の解を考え続けて頭に血がのぼり、心身のバランスをくずした状態ではないかと思われます)、京都・白川の仙人に教えをこいて、丹田を意識した呼吸で病を克服し、84歳まで長寿を全うしました。

 白隠はこの呼吸法を、「瓢(ひさご=ひょうたんのこと)呼吸」と名づけました。ただ残念ながら、その経緯を記した著作『夜船閑話
(やせんかんな)』には、イマイチわかりやすく書かれているとはいえません(腹式呼吸で丹田を活性化させる息づかいだと思われます)。

 稽古会では、心眼を丹田に向けながら息を吸い、息を吐く、一種の腹式呼吸法を実践しています。

【まわるまるの腹】技法&資料(pdfファイル)

 からだの腹を球(○)ととらえ、意識的に回転させることによって肉体の筋力を越えた力を産むことは、中国武術の意拳でも行われています。生命感覚としてのはら・こしという間(ま)は、気力の母胎なのです。

 気力の気は、〈虚〉=情報であり、力(ち「地・血・乳・父」+起源・由来の「から」)は、〈実〉=実体です。気と力は、一体となって“いのちのもえ”(生命感覚)を担っています。

 内観技法では、はらの間和(まわ)り(回転)の違いによって、二つの根元的な生命感覚が産み出されるととらえています。一つは、内回りから生まれる受容する力/つながる関係性としての〈裏〉であり、もう一つは外回りから生まれる表出する力/わかれる関係性としての〈表〉です。

 私たち現代人が、日常的には〈表〉の感覚で生活しているので、稽古会では、〈裏〉を鍛えることに主眼をおいています。ですが、人が時間・空間・世間という間(ま)を――客体であり主体として――生きるためには、どちらの感覚も欠かすことはできないでしょう。



(二)日々の養生法(からだの鍛錬法)

【三つの養生法】行気[技法&資料]・活元[技法&資料]・気合[技法&資料(pdfファイル)

 整体協会の創始者・野口晴哉
(のぐち・はるちか)は、お弟子さんから「一人でできる稽古法には、どんなものがありますか」と尋ねられたときに、「一に行気(ぎょうき)、二に活元(かつげん)、三に気合(きあい)」と答えたそうです。

 内観技法の観点からいえば、行気と気合はからだに清らかな気を入れる→〈裏〉の感覚にあたり、活元はからだから邪
(よこしま)な気を出す→〈表〉の感覚にあたります。ですから、この三つの養生法は、ワンセットでとらえる必要があるといえます。

 日常的に実践するうえでは、行気は朝起きたときに行うのがよく(布団に寝たままでも、トイレで腰掛けているときでも、通勤電車のなかで吊革につかまりながら)、活元は夜、寝る前に行うのがよいでしょう。気合は、ここぞという時に、自分に活・喝!を入れます。

 続けるための秘訣は、文字どおり続けることです。ぜひ、この身体技法を、日々の養生(からだとこころを調えること)にとどまらず、自らの生命感覚を鍛えるものとしてご活用下さい。

【個人的な体験】

 2015年春に、膿胸
(のうきょう)という病を患い、一カ月半、入院・手術をしました。口の中のナントカという常在菌が肺に入ってしまい――普段なら、免疫がはたらいてなんともないそうなんですが、体調がすぐれずに抵抗力が弱まっていると――化膿して、レントゲン写真では左肺が真っ白になっていました。

 内科的処置では治療できなかったため、医師が内視鏡を見ながら耳かきのようなのもので膿をかきだし、4Lの水で肺を洗い流す手術を受けました。手術そのものは支障なく終わったのですが、実はその数日後、肺が空気漏れをおこしていることが分かったのです。

 医者からは、このままでは第二の手術が必要になる、と告げられましたが、それが何ともおぞましいものでした。体網
(たいもう)という腸をおおっている膜――要するに、脂肪の塊――が免疫力に優れているため、それを横隔膜を突き抜けて胸まで引き上げ、肺の穴をふさぐと同時に、膿胸でできた空洞を埋める、という内容でした。

 聞いてるだけで、げんなりしてしまいました。第一の手術はともかく、第二のそれはいかにも不自然に感じられて、何としても避けたい。ただ、自然に治癒する確率は10%だと宣告され、次の手術日がすでに1週間後に設定されている・・・。

 不安と焦りにさいなまれながら、自分にできることはこれしかない――ベッドのうえで一人、活元と行気、愉気(ゆき=手をあてること)を続けていました。季節は、桜からつつじに代わっていました。すると、四、五日して、空気漏れが治まったのです。医者からは、「奇跡だ」と言われました。

 もちろん、入院してから一日三回、点滴で抗生剤を受け続けていましたから、この身体技法のおかげで治ったとは断言できません。ただ、オールタナティブなものを持ち合わせていないと、近代医療のまえでは“まないたの上の鯉”よろしく、受け身でしかない己の無力さを痛感するだけではないでしょうか。この時ほど、十年近く整体を学んできてよかったと思えたことはありません。

 このように書いたからといって、私は決して医療システムを否定するものではなく、整体などの東洋的な、代替療法と補い合えばよいのでは、と考えています。二者にある大本の違いは、「西洋」が病気を健康に対置して克服すべきものとしている一方、「東洋」では養生(生を養う)を旨とする点でしょうか。

 整体を稽古していながら病気になったのでは説得力がない、と言われるのを覚悟のうえで、私はこの入院・手術の体験をへて――大仰
(おおぎょう)なようですが――病気は運命ではないか、と思うようになりました。

 釈迦が、〈生老病死〉を人間の根元的な「四苦」と捉えたように、誰にも避けて通れない道ではないか、と。

 そして、野口晴哉も語っていますが、整体(やその他の東洋的な身体技法)は、予防接種でもなければ万病に効く特効薬でもない、と今では考えています。

 それでは、何のために? 私なりの回答が、「からだを耕す」ということでもあれば、“現れる”を“表わす”表現活動でもあります。(高柳無々々)

(三)内観技法の理

(四)“いのちのもえ”と表現

(五)手間(真にふれる手)



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