[からことっち、事始め]  
2015/03/05  by 高柳無々々
                                                                   

1)哲学カフェへの疑問

 私は以前から、楽天堂で行ってきた豆ランチパーティー(※1)と、自分が主宰する整体の稽古会(※2)を一つにしたものができないかどうか、模索してきました。

 (※1)豆ランチパーティーは、10年以上にわたって、80回ちかくひらいています。

 (※2)現在のスタイルの稽古会は2011年3月から始めましたが、それ以前も自由参加で少人数の稽古会(1人来たり来なかったり)を月一で数年間ひらいていました。

 それは、豆ランチパーティーの場では、いきなり自己紹介やゲストの話に入るよりも、参加者どうしでからだをふれあった方がよい場が創れるのではないか、と感じていたのと、逆に整体の稽古が終わった後に、それを〈社会〉(=生活の場)につなげていくものが欲しいな、と常々感じていたからです。

 そこで、昨年から今年にかけて、カフェフィロのメンバーが主宰している哲学カフェ(@京都&大阪)に三度ほど、学びに行ってきました。

 結果は・・・それなりに楽しめましたが、疑問というか不満が残ったのも事実です。

 一つは、参加者が名前をなのらずに会がスタートしたこと。私は、居酒屋談義ならいざしらず、哲学カフェというパブリックな場で、一人一人が名前(本名であれ、ニックネームであれ、その場で思いついた名前であれ)をなのらずに〈対話〉がなりたつのだろうか、という根元的な疑問を感じました。

 おそらく誰もが発言しやすいように(あるいは黙っていても気づまりにならない)という“配慮”からではと思うのですが、「〜さん」と呼びかけられない対象に、少なくとも私は心からの言葉を投げかける気持ちにはなれません(三回とも、私自身は「京都から参加した高島です」と始めに名乗ってから発言しましたが)。

 さらに言えば、匿名どうしのあいだで、参加者の“横の繋がり”が生まれるとは、どうしても考えにくいです。哲学カフェとは、畢竟、ある共同性を生み出すための試み、ではなかと私は思うのですが。

 二つめは、やはり“身体への視点”が欠けていたこと。これははじめから望むべくもないことだったのかもしれませんが・・・。

 ならば自分で理想とする場を創ってみよう、と始めたのがカフェからことっちです。現在、2回行って微修正を行いつつ、全般的には手応えを感じています。


2)整体と比較して

 それでは、大学で哲学を専攻したわけでもない私が、なぜ哲学カフェのような場を持とうとしたのか、それを自分のライフワークである整体と比較して述べたいと思います。 

 私は師から、「整体とは健康術でも何でもない。深く喜び、深く悲しみ、深く怒るための探求だ」と常々言われてきました。人生・世界をその上澄みだけなぞって死にたくない、野口晴哉の言葉を借りれば「全生」=生き切りたい、というのが整体を学び続けるパッション(情熱)の源です。

 そのためには、自分の日常感覚を突き破るものとしての稽古が必須となり、さらに自分の感覚を鍛えてくれもすれば検証してもくれる他者=稽古仲間の存在が不可欠です。ここに、稽古会・稽古場がかけがえのないものとして思える根拠があります。

 では、哲学とは自分にとってどういう存在なのか?

 私にとって哲学(=ひろい意味で、考えること)とは、自分の人生を(意識的に)かたちづくっていく際の骨組み、型のようなものです。

 上に書いた整体になぞらえて言えば、「認識をとおして人生・世界の本質に迫りたい」ということです。

 その時に、やはり他者(主に生きている人たちでしょうが、死者の場合もありうる)が、不可欠な存在として立ち現れてくるのです。なぜなら、自分の慣れ親しんだ思考の枠組みを打ち破ってくれるのは、他者しかいないのですから。他者との言葉をとおした対話によって、私たちは、深い、あるいは広い、または別の角度からの、時によっては複眼的な視野を、与えられるのではないでしょうか。

 単にインターネットで得られる情報や知識を自分の思考・思想のように切り貼りするのではなく、生身の人間として、日々の苦闘の中から必死に考えて紡ぎ出された言葉を語りたい、同じようにして産み出された「人間の声」を、私は他者からも聴きたい。

 ですから、からことっちは、私にとって整体の稽古場のような位置づけです。ただ、豆料理を食べ、お茶を飲みながらフランクに、という点が大いに異なりますが(笑)。

 それでは、はじめに“からだ遊び”を行ってから対話に入るのはなぜでしょうか。

 それは、人は無条件に言葉を語らない、他者に心を開かない、と私は思うからです。自分が受け容れられている、という環境(場)でなければ、本心からしゃべれないのではないでしょうか。

 もちろん、理想的な場つくりは小一時間の触れ合いでは難しいでしょうが、神社にお詣りにいくときの、まず手水で手を洗う儀式のようなものだと捉えていただければ結構です。


3)大切にしたいこと

 自分自身でものを考える際に気をつけていること、そしてからことっちの場でも大切にしたい点が三つあります。

 みづから・共生(ともいく)・世直し、です。

 @みづからは、二つの意味をかけています。「自ら」と「身づから」です。

 自らというのは、いうまでもなく主体的にものを考える、誰かに考えることを委ねない、誰かの考えを受け売りしない、ということです。

 身づからというのは、自分の身(肉体的でもあれば感覚的でもある)を離れて、考えない、ということです。どういうことかというと、自分が生活する場所、つまり家庭や職場や地域を離れて――逃れて――考えない、という姿勢です。

 思考・思想の源泉は、ここ(此処/個々)にあり。

 それは必ずしも抽象的な事柄、あるいは地理的・時間的に遠くの(=身を持って行きようのない)問題を考えない、ということでは決してなく、その場へ身を置くようにして考えたい、ということです。

 あるいは「人の身になって考える」と言ってもいいですし、「現場に身を置いている人の言葉に謙虚になる」とも表現できると思います。

 整体における“感覚する私”、哲学における“思考する私”、二つの私の共通基盤である〈身〉というものが、これからの私自身の探求課題になるのでは、と予感しています。

 A共生(ともいく)とは、何のために考えるか、ということです。

 飛躍して聞こえるかもしれませんが、究極的な目的は、殺すため、ではなく共に生きるため、です。民主主義の担い手としての、責務です。

 B世直しとは、共生(ともいく)のための行動・実践です。

 人間は、感じ→考え→動く、存在ではないか、と思います(かならずしもこの順番どおりではないかもしれませんが)。考えて考え抜いても、ただそこ(=現状)に留まっていたら、宝の持ち腐れでもあれば、他者からの検証を欠いた自己満足に過ぎないのではないでしょうか。

 日本社会や世界を見渡せば、共生(ともいく)とはほど遠い現状があります。

 それに対して絶望に陥ることもなく、根拠なき夢想にもふけらずに、脚下照顧(きゃっかしょうこ)、自分の持ち場で、少しでも力を尽くしたい。

 明日の活動への元気をもらい、自分もお返しする――カフェからことっちが、そんな場になればいいなと願っています。


PS:「からことっち」は、はじめは「からことッ知」と表記していました。からだとことばによる知恵の探求、それをひらがなとカタカナと漢字の三つの文化表象で表そうという意図だったのですが、女房から「分かりにくい」と反対されたのでひらがな表記に落ち着きました。



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