[高柳無々々.com]


  
  2018/06/16 [土]   美しい精神、美しい自然?


 街路樹の梔子(くちなし)の花が咲き始め、香りがただよってきた。

 千本丸太町の交差点に、安倍晋三`s の一人、自民党の参議院議員・西田昌司のポスターがはってあった。

 「伝えよう、美しい日本の精神(こころ)、美しい日本の自然(こくど)」

 国会中継での彼の口汚い罵りと、醜い人相、バカ丸出しの挙動を見ている者にとっては、この国家主義者が“美しい”日本語を駆使していることには、何ら驚きを感じない。

 *

 バス通りの植え込みに、生姜が生えているのを見て、面白おかしくなる。


  2018/06/15 [金]   頭部への打撲は、要注意


 午後から、頭(左側頭部から後頭部、頭頂、そして目の回りにかけて)が痛くて仕事にならず、一階の居間の座布団の上で横になる。

 雨で低気圧のためかと思ったが、思いあたる節は、二週間前に隣家に回覧板を届けに行って、半開きのシャッターで左の耳の上
を打ったこと。

 大きな音がして、その時は痛みがはしったが、後にひかなかったので、特に何もせず、翌日からいつものように朝風呂に入っていた。

 ところが、三日後ぐらいから頭が痛み出した。内観をすると、頭に――感覚としての――大きな三角形ができている!(内観技法では、肉体的・精神的な打撲は、からだに三角形をつくる、と捉えている)。

 愉気(手当て)を続け、風呂も止めてシャワーだけにし(髪は洗わず)、ようやく十日ほどして痛みがやわらぎ、内観しても“陥没”が消えていた。

 「古傷の痛み」とはよく言うが、雨で、打撲の後遺症がうずいたのだろうか。


  2018/06/14 [木]   俳優・勝新太郎(かつ・しんたろう)の言葉


 昨夜、BS朝日で放送された「昭和偉人伝 勝新太郎&三船敏郎」を録画で観た。

 勝新太郎が設立した「勝アカデミー」の第一期生、俳優のルー大柴が勝から聞いたという言葉。

 「影のない役者は、光のない役者だ。俺はいつも影をつくって始める、仕事の時は」

 影=〈裏〉が主、光=〈表〉が従。からだの感覚にとって、光が影をつくるのではなく、影が光をつくるのだ。勝の言葉の「役者」を「人間」と置きかえてもよいだろう。


  2018/06/13 [水]   糠漬けの極意


 一昨日、糠漬けを始めたいというお客さんが、糠を買われた。

 どうしたらいいんですか、塩の分量は? 等々聞かれたので、う〜ん、塩は塩梅(あんばい)の適当、一緒に入れるのは、こんぶやするめ、唐辛子、それに野菜くず(野菜の切れ端)が一般的ですね、と答えた後、

 僕はホーロー容器で何十年とやってますが、自分の糠だけでなく、僕のお袋と千晶のお母さんのそれぞれうん十年の糠をブレンドし、さらに店で残った(賞味期限が切れたり、売れ残った)スパイス(例えば、シナモンとか)やドライフルーツ(例えば、プルーンとか)を、何十種類もてんこもりで入れてますよ、 

 と自慢しておいた。

 極意ですか? しばらく考え込んで、生き物として扱うことかな。よく豆を一晩水戻しするのが面倒だというお客さんがいますけど、ペットを飼っていたら、一日餌をあげないなんてことはないでしょう。

 豆は乾物扱いですけど、生きてるんです。畑にまけば、芽が出てくる。糠漬けも、同じように生きてます。だから、冬は寒さであまり動けないので、数日、ほっておいても大丈夫。まあ、夏は一日に一回は、かき混ぜて息をさせてやったほうがいいでしょうね。

 これから、夏野菜の胡瓜や茄子がおいしい季節ですよ。

 と、講釈をたれて、僕の糠を茶碗いっぱいと、ちょうど漬けていた蕪と胡瓜をわけてあげたら、喜ばれた。


  2018/06/12 [火]   応答なき社会


 朝、歯医者に行く。

 三週間ほど前、右奥歯の銀がとれてしまった。このままやり過ごそうかなと思っていたが、やはり噛み合わせがよくないので、近くのやさしい女医さん・米沢歯科へ。

 午前は受付順なので九時前に順番をとりに出向くと、玄関のシャッター前に先客が三人。年配の男性二名に女性が一名。

 「おはようございます」と私が三人に挨拶をすると、おじさんが一人だけ軽く会釈しただけで、女性はスマホをいじったまま、後の一人もあらぬ方をみたままで何の返答もない。

 「対話のない社会、日本」とは言われてきたが、今は、対話以前の「応答なき社会、日本」ではないか。

 何もこれは私一人の印象ではなく、飲食業にたずさわる人達から、ここ何年かの客の傾向として聞いている話だし、何より、テレビの国会答弁を観れば、アベシンゾウ`sの態度そのものではないか――他者への質問に真面目に答えず、えんえんとモノローグを繰り返す、礼節も誠意も欠いた不遜さ。

 山歩きでも、つとに感じる。都会の引き籠もりをそのまま運んできたような、挨拶なきすれ違いを。 

 先日の新幹線での殺傷事件でも、容疑者は殺された男性を無言で刺し続けたという。彼も、「応答なき社会」=共感を喪失した人間関係の被害者であり、加害者なのだろう。

 この(自我の)殻に閉じこもった人達は、何を幸せに生きているのだろう・・・。人は関係性の中でしか、人生を味わえないのに、他者への不安や恐怖のなせるわざか、それとも自我が確立してないゆえに関係をもつことに尻込みしてしまうのか・・・。

 *

 路地には、鉢植えの合歓木(ねむのき)の花が咲いていた。吊りしのぶが軒先にかかり、夏も間近だ。


  2018/06/11 [月]   武満徹(たけみつ・とおる)『音、沈黙と測りあえるほどに』(新潮社)


 朝日新聞の朝刊コラム〈折々のことば〉by鷲田清一(わしだ・きよかず)で紹介されていた一節の前後が知りたくて、図書館で借りてきてあたってみた。

 「人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の嘴(くちばし)によってひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものになっちゃった。音楽も詩も、そんなに仰山ありがたいものではない。くしゃみとあくび、しゃっくりと嗤(わら)うことといったいどこがちがうのだろう? もし異なるとしたら、それはいくらかでも精神に関係するということだけだろう。

 自然科学の発達につれて、われわれの語彙は際限なく膨らんでいるけれども、言葉は真の生命のサインとしてではなく、単に他を区別するだけの機能になりさがった。もはやそれ自身には、恐怖も歓喜の響きもない。言葉は木偶のように枯れて、こわばった観念の記号と化している。文を書くということは、やわな論理と貧しい想像によって言葉を連絡することだけのようである。(中略)

 音と言葉を一人の人間が自分のものにする最初の時のことを想像してみたらいい。芸術が生命と密接に繋がるものであるならば、ふと口をついて出る言葉にならないような言葉、ため息、さけびなどを詩とよび、音楽とよんでもさしつかえないだろう。そうした行為は、生の挙動そのものなのだから・・・。それは論理の糸にあや織られるまがいものではなく、深く〈世界〉につらなるものであり、未分化のふるさとの豊かな歌なのだ。

 音や言葉に、そうした初源的な力を回復しなければいけない。音楽も詩もそこからしか出発しないように思う。発音するという行為の本来の意味を確かめることからはじまる」(同書 pp.69-70)

 *

 今から半世紀前、1971年に出版された本で作曲家・武満が語っていることは、私が〈からだとことばを育む会〉を始めた動機そのものだ。そして、情況はさらに悪化し、言葉が“電子化”されている。

 そうだ、言葉が身体性をまったく喪い、単なる記号として、脳内パソコンの中で「隠匿」され、「改竄」され、「廃棄」されているのだ。

 Where is a music? Where is a poem? 

 はらで母音を発声する――稽古会で行っている地道な稽古から、生まれてくるものに賭けたい。そこまで戻らなければ、降りてゆかなければ、言葉に魂をとりもどすことはできないだろう。

 「声は、その人の魂の音色である」by歌手・三波春夫(みなみ・はるお)


  2018/06/10 [日]   山崎正和(やまざき・まさかず)『リズムの哲学ノート』(中央公論社)


 次の〈からだノート〉「ことば遊び」のための読書。

 テーマは、声の高音と低音、そこに“リズム”がどうかかわるのか。そして、歴史的な転換(中世において、神から人へ)との関係。

 探求課題は、つきない。

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 一晩寝る、というのは、よい校正作業だ。

 昨日の手紙は、出すのを止めて待つことにする。


  2018/06/09 [土]   稽古の眼目(がんもく)は、他者への敬意を育むことにもあるのでは


 稽古会は、“来る者は拒まず去る者は追わず”のポリシーでやってきた。今まで、何十人もの人が稽古会に加わっては離れていったが、今日、稽古を休んだ○○さんに、初めて次のような“退会のすすめ”の手紙を書いた。明日、送ろうと思う。

 *

 ○○さん、

 今朝、千晶から、「今日が稽古日なのを忘れていて、行けません」というメッセージが、昨夜、あったことを知らされました。この理由を聞くのは、初めてではありません。正直、落胆しました。

 言うまでもなく、稽古は義務でも何でもありません。「学びたい」「続けたい」という自由意志が唯一の根拠です。

 ですから私は、休む人も辞める人にも、何も言ってきませんでした。他に優先する課題(仕事であれ、家庭であれ、趣味・道楽であれ)があれば、そちらを優先すればよいのです。ただ、主宰者の気持ちとしては、できれば、継続して稽古を受けてほしい。そして、「ここで学ぶものはもう何もない」と感じたら、別の道を歩んでもらえれば、と思っています。中途半端に辞めるとか、ランダムに来たり来なかったりを繰り返してほしくない。

 内観技法というのは、自己のからだの感覚に集注するものです。ある意味では“ジコチュー”そのものです。でも、そこから他者(のからだ)との感応・共感・感動が――逆説的に――生まれる。そのような体験を通して、“いのちの水平性”を知るのです。

 私たちの肉体も頭脳も、絶対不平等です。私にメジャーリーグの大谷選手のようになれと言われても100%不可能ですし、今からノーベル賞を受賞するというのもありえません。ですが「いのちは絶対平等である」――稽古の究極の目的は、それを頭ではなく身体知として知ることにある、と私は確信しています。

 何らかの資格を得る(段や級、免状といった)ためでもなければ、お金や現世利益のためでもない。ただ、生きるために、学ぶ。仲間と学び合う。今期から会費を無くしたのも、その一環です。金銭(カネ)という拘束をなくしたい。そんなものに縛られずに、本当に学びたい人と稽古をしたい。それが私の望むところです。

 ○○さん、ここ三年というもの、稽古には遅刻が常習でしたね。人それぞれ事情がおありと思います。(中略)でも、他の稽古仲間が会場の清掃を行い、場を整えて待っているのです。いつまでもそれで良いのでしょうか。他者におんぶで良いのでしょうか。 

 私は、稽古を通した人間的な成長とは、自己の感覚やものの見方、人生観が豊かになるだけでなく、他者への敬意がおのずと生じてくることにあると思います。敬意は、身近な人間への慮(おもんばか)り、気配りに通じます。

 稽古が絶対などとは私は思っていません。先にも書いたように、他に優先事項があれば、どうぞそちらに時間を振り向けて下さい。人生は短い。今のような状態が続くのは、決して望ましいことではありません。いったん退会されてみてはいかがでしょう。

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 ホームページの手直しを行う。

(一)〈表現教室〉を稽古会に、〈整体 1 day レッスン〉を講習会に名称を改める。
(二)「はじめに」の前口上を書き直す。
(三)稽古会の登録制を止め、稽古への参加・不参加はあくまで各自の自発性にゆだねる。


  2018/06/08 [金]   乞食も自営業者である


 去年の正月、娘が留学していたイギリスとイタリアへ、初めて旅行に行った。

 どちらの国にも、物乞いがいた。帰ってから、今、日本にはナゼ、乞食が存在しないのだろう、と考え込んだ。私の子ども時代には、繁華街に物乞いがいたように記憶している。

 日本は、乞食が許されない社会になってしまったのだろうか。

 豊かだから? そんなことはあるまい。現にホームレスは存在するし、子どもの貧困率も深刻である。

 先月イタリアへ行って、千晶はいろいろな乞食に話しかけたそうである。フレンドリーに、一緒にカメラにおさまったおばあさんもいれば、写真をとるなと怒ったムスリムもいたそうな。

 乞食も一人一人ちがう、(あたりまえだが)個性があるという結論だった。ということは、それぞれ工夫して――自前の才や勘で――お金を稼いでいる自営業者なのだ。

 イタリアは、先進国で最も自営業の割合が高い。さもありなん。この風通しの良さは。


  2018/06/07 [木]   店主の差


 今日は、梅雨の晴れ間のためか、客足が多く、珍しく二桁(十二万円)の売り上げがあった。

 先週、千晶がイタリア旅行に行っている間は、私が店主代行で売り上げ目標は一日二万円。それさえもクリアーできなかった日があった。小さな自営業は、店主の魅力が第一、それでもっているのだと、つくづく思う。


  2018/06/06 [水]   ひろば 本を読む会@吉田寮 主催:自由と平和のための京大有志の会


 テキスト:倉橋耕平(くらはし・こうへい)『歴史修正主義とサブカルチャー』(青弓社) 参加者・二十名弱。

 自己紹介の時に、二十代の若者が、小林よしのりの漫画や『正論』『諸君!』を愛読し、『朝まで生テレビ』を熱く視聴していた過去を“告白”したのが出色だった。

 彼曰く、「プロレス感覚だった」と。そして、“憑き物”が落ちたのは、特に何か契機があったわけではない。しいてあげれば、宮台真司が天皇主義を唱え始めた頃かな、と語っていたのが興味深かった。

 「プロレス」とは、言い得て妙。肉体の商品化による、劇場型ゲーム。“ネトウヨ”には身体性がない――観念の肥大化したオバケ、他者(特に被害者)と人間的な交わりを欠く――という私の仮説に、裏づけを与えてくれる?


  2018/06/05 [火]   整体 1 day レッスン


 参加者一名。

 先月、カラスマ大学で十一名に〈1 day レッスン〉を行った後――予期していたこととはいえ――〈表現教室〉への参加希望がなく、残念ながらつながらなかった(現時点では)。

 それだけに、今日、ホームページを読んで参加してくれた人があったのは、うれしかった。

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 私のパッションの原動力となっているもの、それは

 「整体の伝道師たれ」という先生の言葉と、

 「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るべし」という、一遍上人(いっぺんしょうにん)への熊野権現(くまのごんげん)の夢のお告げである。

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 朝日新聞の夕刊を見ていたら、京都の“わらじ医者”早川一光(はやかわ・かずてる)さんの訃報が、社会面の隅に載っていた。

 「いのちにふれる手」を語ってくれたことに、感謝。


  2018/06/04 [月]   武満徹(たけみつ・とおる)『ノヴェンバー・ステップス』


 初めて聴く武満のCD.

 でも私には、よいと感じられなかった。武満は、あえて和楽器(尺八&琵琶)を“ノイズ”として入れることで、西洋音楽を攪拌(かくはん)したかったのか? そして、それゆえ、海外で評価されたのだろうか。

 図書館で何冊か借りた武満の著作を斜め読みすると、私と問題意識(日本人の主体性の欠如、主客の調和の追求)は、共通しているように思える。


  2018/06/03 [日]   若い人に贈る言葉 


 今、尋ねられたら、こう答えるだろう。

 一、虚業に生きるな、実業に生きよ。

   いのちを活性化させる仕事に就(つ)き、魂を腐らせる職業は止めよ。嗅(か)いで見分けよ。

 二、手を否定して、後に手を肯定せよ。

   この便利な“さわる手”を打ち消し、打ち消して、後にからだから生まれる“ふれる手”にまかせよ。

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 5/20に京都カラスマ大学で行ったレッスン〈自分でできる「整体のススメ」〜初夏の禅寺ではじめる、健康セルフメンテナンス〜〉のレポートが、upされた。


  2018/06/02 [土]   蒲(がま)の穂 


 昨年の夏、乾窓院でいただいた蒲、二苗。

 鉢に植えてめだかの睡蓮鉢の横に置いておいたら、今年はそのうちの一本から花が咲いた。

 枯れた茶色の穂は見たことがあるが、パステル調の葱色の穂は、美しい。


  2018/06/01 [金]   「僕はこの手で何をなすのか」


 朝日新聞・朝刊の投書欄〈声〉より:

 「94歳のピアニスト、メナヘム・プレスラーの演奏をネットで見た。彼の優しい演奏には、見る者を引きつける何かがある。印象的だったのは彼の手だ。鍵盤に優しく触れるしわだらけの手。1923年、ドイツにユダヤ人として生まれた彼の歴史を思った。

 2年前に95歳で亡くなった曾祖父も同じような手をしていた。僕と将棋を指すしわくちゃの手。戦争も経験した曾祖父の年月の重みを感じた。曾祖父は人生を振り返ったとき、何を思っただろう。

 僕の手はどうか。しわ一つないこの手で、これから何をなすのか。今の浪人生活が人生においてどんな意味を持つかは想像もつかない。だが、今やれることをがむしゃらにやるしかない。意味は後からついてくるはずだ。90歳になった時に、僕はこの手を見て何を思うだろうか。振り返って『懸命に生きた』と思えるよう、誠実に生きたい」(予備校生 山下 唯 京都府 18)

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 何気なく新聞を読んでいたら、投書の主が、八年前に家族で一緒に和歌山の無人島・友が島へキャンプに行ったY君だと気づいた。その時は小学校五年生の、釣りが好きなあどけない少年だったが。

 クラッシック音楽には無知な私が、初めて聞く名前「メナヘム・プレスラー」。さっそくユーチューブで観たら、たしかに――識別の「さわる手」ではなく――「ふれる手」でピアノを弾いている。

 アマゾン書店で、バイオリニスト・庄司紗矢香(しょうじ・さやか)とのライブを録音したCDを購入。楽しみだ。