[高柳無々々.com]


  
  2018/01/21 [日]   豆ランチパーティー


 参加者十五名。“若者格差”を痛感する。

 今日のゲスト・Kさんのように、十九歳で起業し、二十五歳の今、ルーマニアの「経営者ビザ」を取得し、日本(京都)とルーマニアに拠点をもってケイタリングサービスを行っている若者もいれば、二・三十代の有権者(投票者)の六割が自民党に投票するという現実。

 しかし、いつの時代でも、フロンティアをきりひらく若人は圧倒的に少数で、大多数は、“体制順応”なのだろう。今、「下り坂の日本」(平田オリザさんの言葉)にあっては、若年寄が族生(ぞくせい)し、若者=変革、という図式が崩壊するのはやむをえないのかもしれない。


  2018/01/20 [土]   体を耕す 講習会


 二名。会費を無料にして、初回。予定を二時間半オーバーして、六時半に終わる。稽古の後、澄んだ気持ちに。


  2018/01/19 [金]   明日の稽古に備えて


 からだノートを修正する。


  2018/01/18 [木]   指で歯を磨く


 虫歯の治療を昨年秋からつづけている。歯医者さんからは、歯間ブラシで歯の間を磨くのとへいこうして、歯茎を歯ブラシでマッサージするように言われた。

 今は夜寝る前に“とげ抜き歯ブラシ”で歯と歯の間をブラッシングし、朝、風呂につかりながら、普通の歯ブラシで歯茎をマッサージしている。

 今朝も湯船につかりながら、気持ちよく母音発生+はらの行気をしていた時、ふと、マッサージをするなら、工業製品の歯ブラシより、自分の指で刺激した方がいいのでは、と思い浮かんだ。

 昔、昔、歯ブラシなんかなかった時代は、指で磨いていたのでは?


  2018/01/17 [水]   病は避けえぬもの


 相撲の大鵬か野球の王貞治か、足の裏が赤ちゃんのようにやわらかかった、と読んだことがある。

 このごろ、ベッドの中で寝る前に、踵にふれてみる。体調がよいときは、肌のがさくれが少ない。とはいっても、年齢相応の干からびた沼地だが。

 三年前に、胸を手術して以来、体が――特に内臓が――リセットされたようでシンドかったが、還暦――生き直す――を迎える際の通過儀礼だったのではないか、と今では思っている。


  2018/01/16 [火]   小春日和


 久しぶりに、剣術の稽古。児童公園には、近くの保育園の子どもたちがかけまわっていた。

 若者に期待する。しかし、若者に媚びない。このスタンスが大事ではないか、と思う。


  2018/01/15 [月]   テレビ 日本の芸能『伝心〜玉三郎かぶき女方考〜娘道成寺』


 落ちることの美しさ:「色気の表現はむずかしい。色気は、地球の地面と引力の関係から生まれる。手ぬぐいが、ふっと落ちる。恋に落ちる。精神的にも魂も、どこか下に行く」

 踊ることの意味:「重力に縛られていた人間が、重力から解放される瞬間を共有するということが、「おどる」ということの大きな意味。

 (歌舞伎の)踊りは、かぶき様式で表現する体の詩。空気を吸ったり、滝を浴びたりするように、お客様に入って行かないと」

 芸術とは:「(『娘道成寺』の華やかさと恨みという)二つが、どちらが重いかということは、今、簡単には言えません。それは両方とも大事ですから。

 華やかな踊りを見せるだけでしたら簡単でしょうし、恨みを見せるだけでしたら簡単でしょう。それがこう編み込まれていって、簡単に解決し解説できない所に持って行くことが、芸術というものなのではないでしょうか」

 *

 板東玉三郎氏の所作、基本的に腰椎その四の「閉」で踊りながら、時にのけぞる仕草などで、「開」を見せている。女性的、といえば女性的。

 「鼓のばちは、回さないときれいに動けない」→はらの間和り、すなわち“間和るまる”の別の表現?

 手ぬぐいを、「ふれるようなふれないような」→手ぬぐいと一体化した、手間(真にふれる手)。

 「地球の地面と引力」「恨み」=〈裏〉、「重力からの解放」「華やかさ」=〈表〉と、図式化できようか。


  2018/01/14 [日]   〈小さな仕事塾〉 起業講座第三回


 自営業は、単なる職業のジャンルではなく、生き方の選択、自由への道であることを、熱く語る。


  2018/01/13 [土]   引き込めなくなる所まで、腕を伸ばすな


 表現教室 稽古会。二名。新年の書き初め―今年の抱負を、漢字一文字で墨書。

 Hさんは「考」、千晶は「笑」、私は「灯」から「隅」、「一隅」、「贈」へ移り、最終的には「転」へ。

 三十二から三十三歳になろうとする時、人生の転機があった。それから三十年。これからの人生は、「一隅を守り、千里を照らす」(最澄)、今まで与えられてきた事に対して返礼として、贈与に生きたい。

 タイトルは、稽古場にお借りしているお寺さんの門前に、掲げられていた一文。


  2018/01/12 [金]   ことば遊び(二)


 「手間をかける」は、なぜ「かける」のか?

 「服を掛ける」、「橋を架ける」、「野原を駆ける」、「お金を賭ける」・・・いずれも、時間と空間の移動をともなう。すなわち、主体的に行動して、“二つのもの(者・物・霊)をつなぐ”場合に用いられている。

 今まで、「手間(てま=真にふれる手)」と理解してきたが、さらに一歩踏み込んで、“主客をこえて一つにつなぐ手”“主体と客体をともに包む間=真を創る手”と解した方がよいのでは。

 捨て聖・一遍上人が

 「唱ふれば 仏も吾も なかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」

 と詠んだ歌を、禅僧から「徹底せず」とダメだしされて、

 「唱ふれば 仏も吾も なかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

 と、詠みなおしたように。

 この二句は、整体の愉気の三段階〈序・破・急〉にあてはめて考えると、間(あいだ)から間(ま)へ:序、間(ま)から真(ま)へ:破、にあたるのではないかと考えられる。

 すると、急:最後に活=喝を与えるのは、真(ま)から間(あいだ)へ、ということになろう。禅の十牛図でいえば、娑婆(しゃば)への還路(かんろ)である。


  2018/01/11 [木]   今日の「塩の日」にかけて


 「イタリア人と結婚し、異国での暮らしを多くの随筆に残した須賀敦子さんが書いている。

 あるとき姑(しゅうとめ)から、こう言われたという。『ひとりの人を理解するまでには、一トンの塩をいっしょに舐(な)めなければだめなのよ』」

 ――朝日新聞 1/11付け朝刊 〈天声人語〉


  2018/01/10 [水]   ことば遊び(一)


 今日は、休暇をとって、こたつでごろ寝。目を閉じてうつらうつらしながら、〈からだノート〉で解説する用語について考える。

 言葉を自分で定義するというのは――誰それがこう言ったとか、どこそこの本にこう書いてある、といって“逃げる”のはたやすいが――あらためて、難しいものだと思った。特に、ふだん何気なくつかっている言葉ほど、てごわい。

 いのち:「ち」は、漢字の「地・血・乳・父」があてられるように、人間にとって根元的な存在。「いの」は、強調(例 「いの一番」)。すなわち、命は、人(をはじめとする生き物)の大本(おおもと)であり、古来から、転生して命(みこと)=神となる。

 ちから:「から」は起源・由来をさす(例 家柄)。すなわち、力とは、根元的な「ち」から生み出されるエネルギー。

 き:「気力」という言葉があるように、気と力とは、本来、一つの存在ではないだろうか。分子生物学者 ・福岡伸一氏の著書 『生物と無生物のあいだ』 (講談社現代新書) の 「DNAはどのようにして形質を運ぶのか」 という文章には、次のような記述がある(pp.59-60)。

 「DNAが運んでいるのはあくまで情報であって、実際に作用をもたらすのはタンパク質である」

 そして 〈DNAとタンパク質の対応関係〉 と題された表には、 「核酸 (DNA) の機能:遺伝情報の担い手、 タンパク質の機能 :生命活動の担い手」 と書かれている。

 この情報と活動の一体性(?)という概念を援用すると、生命活動のエネルギーは、「力」として作用し(生命力)、その情報は「気」として感覚される(生命感覚)、と言えないだろうか。

 我々が「き」と聞いて、まず思い浮かべるのは、漢字の「木」であろう。ではなぜ、「き」という言葉に対して、木・気の字が、あてられたのか?それは、二つともに生命活動の表象であり、実質は力=地から、として、古(いにしえ)、感覚&認識されたためではないだろうか。

 さらに、漢字では分別された「者・物・霊」も、やまとことばでは、「もの」として等しく感覚&認識されていたが故に、生命をもたない存在に対しても、「気」や「力」が用いられたのでは。(例 「天気」、「地力」)

 少しズレるが、「記憶力」は、英語では単に memory であって、power of memory ではない。私たちが「記憶力」に限らず「○○力」「○○の力」という表現を多用するのは、日本語の身体性(ことばがいのちから生まれるということ)を――DNAにおいては――まだ失っていないことの、証(あかし)であろうか。

 続いて、〈内観技法〉とは?――明日へ持ち越し。とりあえず、基本の三「はらの間和り」の表現を、「まわるまるの腹」へ変えることにする。


  2018/01/09 [火]   決算


 一年間働いて、千晶は160万円(青色申告控除前)の所得、私は120万円。二人合わせて、一人前か。


  2018/01/08 [月]   棚卸


 一日中、作業をおこなう。

 いつも疑問に思うのだが、植木屋さんやペット屋さんは――年ごとに成長 or 老衰する生き物を販売している――どのように“原価計算”をして、棚卸しをするのだろう?

 明日は、「期末商品棚卸し高」の数字を計算して、年度末の(仮)決算を出す予定。


  2018/01/07 [日]   老人格差


 老人の(経済的・社会的)格差、のことではない(それ自体、重要な問題であるが)。

 人が老いてくると、人格の差が、露わなほどに(目を伏せたくなる、背けたくなるほどに)、顕著になるのではないだろうか。

 一方で、幼児化して、ミーイズムの権化のようになってしまう老人が、いる。「人欠(か)く」=人間性の欠如、ある意味では動物への退行、である。こうはありたくないと、思ってしまう。

 一方で、「人斯(か)く」=かくありたいと思わせるような、気高い老いも、ある。

 どこで、分かれてしまうのだろうか。それまでの人生の軌跡――若い時には見過ごされた小さな亀裂の拡大――と言ってしまえばそれまでだが、種はいつ播かれるのか? 自分の高校教師の体験から、十五歳ではもう遅い、という気がする(あくまで一般論だが)。

 もちろん、何歳になっても、人間は移植(=生まれ変わり)が、可能だ。

 *

 こんなことを考えたのは、今日の昼前、店は日曜で店休日だったが、縁のあるAさんがふいに現れて、買い物をしたことから。

 八十一歳の誕生日に、お金の持ち合わせがなく、ツケで食品(すぐに食べられる餅とドライフルーツ、それにジュース)を買っていった。二度の離婚、今は身寄りなく、右京区で独り暮らし。年金と生活保護で暮らしている。正月にお餅が食べられず、家に鍋も持ってないと言う。

 離婚や生活保護云々が問題なのではない。老いが、人としての矜持(きょうじ)を失わさせ、なおそのうえに言葉で飾らずにはいられない、その汚醜の姿に、暗澹とした気持ちになる。


  2018/01/06 [土]   冬に耐えて


 一日中、さぼっていた(半年ぶんの)経理の入力を行う。

 息ぬきに、みみずのコンポストを一週間ぶりに開けてみる。寒さにめげずに、食べている。十一月に飼い始めた当初、柿の皮を――自分は熟柿が好きなので、どろどろに溶けたのを――そのまま与えてうじをわかしてしまった。

 その反省から、果物の皮や野菜くず、それにお茶殻は、よく乾かしてから、千切った新聞紙――朝日を購読しているが、大豆インクがみみずによいという――と混ぜ合わせて入れるようにした。

 それがよかったようだ。暖かくなったら、さらに活動的になって繁殖が期待できる。


  2018/01/05 [金]   年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず


 今年も、正月に、めだかの鉢の脇で、すみれの花が、咲いた。朝、ゴミ出しの時に気づいて、うれしくなった。

  *

 一年のめぐりに、縁のあった亡き人を想う。


  2018/01/04 [木]   今日の一日


 十時半に梅田で待ち合わせて、豆料理クラブ会員のAさん、Tさん夫妻とホームレス支援団体・ホームドアの新年餅つきに千晶と参加。

 会場で、楽天堂が扱っている玄麦の生産者・水田夫妻と落ち合う。この玄麦の選別や、レシピ折り・シール貼りなどの軽作業を、ホームドアに集うホームレスの人々に行ってもらっている。

 私も二回ほど、餅米をこねる(杵でつくまえに)。着物+袴姿で参加したが、できたての餅をほおばっていると、参加者の男子中学生二人組から「話を聞かせてもらえませんか」と求められる。

 はじめは、身体感覚やからだとことばを育む会の活動について話していたが、なぜここに来たのか尋ねると、二人は大阪の私立高槻中学のボランティア委員会に属していて、社会問題に熱心な担任の先生の影響を受けてホームレス問題に関心をもち、昨年十二月に事務所を訪れて今日のイベントを知ったとの由。

 その経緯(いきさつ)を聞いてからは、楽天堂の社会的な活動(鍋カバープロジェクトや豆ランチパーティー、小さな仕事塾など)について語る。

 芽吹いた作物がどんよくに水を吸うように、私の話に耳をかたむけてくれる姿に、打たれる。社会的な問題意識をもった若人に――普段ではまったく出会うことのない――希望を感じてあつくなる。

 *

 餅つきの間に、大学に行っていた娘から電話が入る。二月から半年間、国連のインターンシップ(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントを促進する国連機関「UNウーマン」の東京事務所)に受かったとのこと。

 *

 三時に散会し、京都にもどってから近所のスーパーで買い物をすると、「新春スクラッチ」と銘うたれたカードをもらう。

 帰宅し、家事などをかたづけていると、山口時代からの友人で、今は兵庫の篠山で介護事業を営んでいるOさんから電話があり。この春から、京都大学の法科大学院に通って弁護士を目指すとのこと。

 理系のOさんが法曹の道に?!事情をたずねると、数年前に家族が交通事故の犠牲者になり、その裁判過程と結果の理不尽さ(加害者の誠意の無さはいうまでもないが、検事や弁護士の姿勢に疑問を感じた)故に、交通事故や犯罪の被害者の側に立つ弁護士を志したという。

 「この歳で」と謙遜していたが、まだ四十代の彼が一念発起し、踏み出したことを応援したい。

 *

 Oさんの電話の後、スクラッチをけずってみると――「大吉」二百円の商品券が当たっていた。鎌倉の銭洗弁財天の御利益が、さっそくあったようだ。


  2018/01/03 [水]   帰京


 朝、鶴岡八幡宮へ初詣。新幹線で、午後、京都にもどる。

 車中で、“雀鬼”桜井章一会長の新刊『流れをつかむ技術』(集英社インターナショナル新書)を読み直す。一段と内容が深まった印象をうける。

 例えば・・・

  「世間の価値観に流されない この精神を一言で表したものに、「牌離(はいり)」という言葉がある。「(麻雀の)牌から離れる」と書いて牌離――(中略)目の前の勝ちからも離れ、その勝負特有の流れに乗る。そうすることで、卓を囲む四人の達成感を築き上げるのである」(p.25)→能の大成者・世阿弥(ぜあみ)の「離眼」という言葉を思い起こした。

 「指に力を入れて牌をつかもうとすれば、自然と音が出る。やたらと音を出すのは、自然の流れにうまく乗っている状態とは言えない。」(p.81)→“物音を立てずに、物に対する、動く”というのが、今の私のモットー。

 「「持たないように持つ」とは、麻雀牌を持ちながらも同時に手放すという感覚だ。このイメージを身につければ、自分をがんじがらめに縛りつけているものに対しても、自由な気持ちで相対することができるはずだ。」(p.85)→一言でいって、“ふれる”では。

 「「触れる」という感覚を大切にするのは、何も麻雀に限った話ではない。仕事でも人間関係でも、私はこの「触れる」意識を常に大事にしている。「触れる」という感覚を理解するには、「空気」をイメージしてもらうといいだろう。空気をつかむことはできない。だが、もちろん空気は我々の周りにたくさん存在している」(p.88)→ハンマー投げの室伏広治さんも、この空気を意識することの重要性を指摘し、ワークを紹介している(『ゾーンの入り方』集英社新書)。

 「麻雀にも、公私がある。自分の手牌からひとたび場に出た牌は、すべて「公」のものになる。公の場を荒らさないためには約束事が必要だ。手牌の中の損得を犠牲にしてでも、公の秩序を保つ。この節度こそが、人間の成長につながるのだと思う。」(p.101)→御意。

 「制約が自由を生む(中略)雀鬼流麻雀の約束事も、この「自由には制約が伴う」(イギリスの劇作家バーナード・ショーの言葉「自由とは、責任を意味する」より)ことを表している。(中略)制約は、一見自由とは正反対に思えるかもしれない。しかし、人は「自由に何でもしていい」と言われると、却って動けなくなるものだ。制約があるからこそ、自由な麻雀が生まれる。」(pp.115-116)→「制約が仕事を生む」という千晶の言葉。

 「そもそも絆というものは、誰かの作為によって生み出したりつくりだしたりできるものではない。わざわざ絆などという言葉を持ち出さなくては築けないような関係など、たとえ一時はつながることができたとしてもすぐに壊れてしまう。」(p.118)→御意。あの震災後の、キャンペーンの胡散(うさん)臭さ。「ふれあい」という表現――役所の広報誌で御用達の――もそうだが、言葉がもてはやされる時、往々にして、それは瀕死にある。

 「感情という川の流れをよくするためには、自分の気持ちを常に表へ出すことだ。素の感情を出す相手がいないのなら、誰も見ていないところで一人叫んだり喚(わめ)いたりしてみるのもいいだろう。まずは、感情を露にする練習から始めて欲しい。」(p.132)→身体感覚をとりもどす道は、逆説的だが、自己の――どんなに小さな、つまらないと思える、意に反するものであっても――感覚を抑圧しないことである。

 「答えを拙速に出してはいけない。「わからない」ことは「わからない」ままにしておくことが大事なのだ。「わからない」ことを「わからない」ままにしておくと、気分が落ち着かないかもしれない。だが、「わからない」ことは未知の可能性を含んでいるという点で、非常に魅力的なのである。」(p.154)→いわゆる“棚上げ”の極意。

 「人生のコツは「一口いただく」(中略)「一口いただきますよ」という感覚で身体を動かすと力みが入らず、「剛」の力とは明らかに違った強さがフッと湧き出てくる。コツは、ほんの「一口」のところにある。「二口」ではダメだし、もちろん「一口」が多すぎてもよくない。あくまでも「ほどほど」という適度なさじ加減が大切なのだ。

 なぜ一口でなければいけないのか――それは我々の身体に、「何をするにしても力を入れすぎてしまう」という習慣が染み込んでしまっているからである。「楽に」とか「軽く」と考えた時点で、すでに身体には力が入っている。そのような力みを身体から抜くためには、触れるか触れないかくらいの微細な感覚――つまり「ほんのわずか」という程度がちょうどいいのだ。」(p.162&pp.163-164)→「大きく、多く、早く、強く」が、我々近代人の宿痾(しゅくあ)である。いかにしてそこから脱却するか?が、まさに表現教室のメインテーマである。


  2018/01/02 [火]   気持ちよく晴れあがった、三が日


 鎌倉へ戻る。

 銭洗弁財天で小銭(570円)を洗う。商売繁盛。

 その後、源氏山公園でくつろぐ。ベンチで、日だまりの猫よろしくまどろみながら、からこと会のメインメッセージを考える。

 <真面目に、手間をかけて、心身の居間を調える> 
 <間(ま)を生きる、間を活かす>

 山道を、寿福寺に降り、若宮大路で、昼食に肉まんを買って食べる。

 夜、息子のリクエストで“しらす丼”が食べられるレストランで食事。宿にもどって、ショートケーキで誕生日を祝う。


  2018/01/01 [月]   元旦


 二ヶ月ぶりに、母の顔をみる。元気な様子にひと安心。

 弟夫婦と甥、姪あわせて九人でお節を食べる。

 食後、一人で衣笠神社に初詣。展望台から城址のほうに降りると、驚くべく──何もなかった山間(やまあい)に、四車線の道路が造られていた。自然破壊、ここに極まれり。

 帰り道、高度経済成長期に、田圃を埋め立てて無秩序に開発された住宅地は汚なく見え、駅前の商店街にも空き店舗が散見されて活気がなく、街全体が汚れたように感じたのは、哀しかった。

 *

 元旦に、一年の計。一日の終わりを、活元(心身の解放、“現れる”)と日誌(今日の足跡、“表わす”)で締める事。