[高柳無々々.com]


  
  2018/04/24 [火]   表現教室


 参加者二名。「なむあみだぶつ」と「クリシュナ」を唱えながら、楽器を演じる。

 日本文化の気は“下に、下に”――八百万の神、この地での共生の文化。それに対して西欧文化(インドもふくめて)の気は“上へ”――自己超越、母なる地球の重力から脱しようとする文化。

 ヒンズー教を母胎に(「クリシュナ」)インドに生まれた仏教が――チベット密教の倍音声明では、「m・う・お・あ・え・い・n」――日本に伝来して、「南無阿弥陀仏」と気が反転したのは興味深い。

 さらに、網野善彦によれば、本来、天皇や貴人の発する声や聖なる場は「低声」(内観技法では〈裏〉)とされ、随身が「高声」(内観技法では〈表〉)で告げ知らしめていたそうだが、念仏宗が「南無阿弥陀仏」と声高く唱え始めたために、旧仏教から白眼外道視されたという。

 一遍の念仏踊りが今に続く盆踊りのルーツだということは、この時代に〈声〉(と、身体感覚、ひろくいえば文化の)の転換点があったのではないか。


  2018/04/23 [月]   一日、ダウン


 久しぶりに、寝込む。

 *

 夜、NHKテレビで1994年に放映されたシリーズ『人間は何を食べてきたか』の「スイカ 砂漠の民の水瓶」を観る。

 ボツワナのカラハリ砂漠に暮らす民は、何とスイカを主食にしてきたという。糖度が低い野生のスイカは水代わりに飲み――井戸も何もない――栽培したやや糖度が高いスイカは食用にしてきたのだそうだ。

 そして、木にロープを結わえつけた罠で捕らえた小動物や、槍で突いて殺した獣の肉とスイカを煮込んだ鍋がごちそうで、スイカの果汁に砂糖(飼っているヤギと交換した高価なもの)を入れて発酵させた酒が恵みだという。

 このビデオを観て、「整体で野生を取り戻す」などとは口が裂けても言えない、と思った。殺したばかりの野牛の乳房にむしゃぶりついて喉のかわきをいやす少年。

 私たちにそんなことができるだろうか?


  2018/04/22 [日]   京都自然教室の野外観察会に参加


 福王子から沢の池、往復。子どもさん五、六名をふくむ参加者約三十名。

 自然林の多い、気持ちの良いコース。道々、木や花の名前を教えてもらい、一時間半ほどで池に着くと、あらかじめ野草料理の数々(つくし、こごみ、いたどり、かんぞう、ぜんまい)が用意され、その場で藤の花やたかのつめ(という名の木の芽)をてんぷらにあげてくれたり。
 
 おみやげに缶ビールまでいただき、いたれりつくえり。会のみなさんのボランティア精神に感服。千晶と、また来月も来たいねと話す。

 好天の、春(初夏?)の一日。

 *

 夜、七時のニュースでは、オリンピック選手の故郷での金メダル凱旋パレードを、えんえんと放映していた。仙台では十万人が集まったという。

 日本国民の愚民化、ここにきわまれり。今、国権の最高機関である国会でどういうことになっているのか、北朝鮮問題で国際情勢がどう動いているのか。この人達は何も考えないのだろうか。あるいは、アベシンゾウの危機の時に、あえてこの手の(どうでもいい)番組を、NHKは“意図”して作っているのか。

 アベsの幼児的な振る舞い(言動)は、国民の幼児化の反映に過ぎない。では、What will we do next?


  2018/04/21 [土]   今日の一日


 午前:舞鶴から農家の定方さんが家族で来店(納品)。手作りのどぶろくをお土産にいただいたので、糠漬けの床をさしあげる。

 お昼から:京都駅南の東九条で開かれた東九条春まつりに参加。

 焼きお握りとタイのグリーンカレーを食べ、アイスコーヒーを飲み、するめキムチをお土産に買って帰る。カトリック教会の力(奉仕の精神)にあらためて敬服。

 午後から夜遅くまで:クロネコヤマトの伝票発行システムが、webのクラウドに移行したため、その“慣らし運転”に四苦八苦する。こちらで合わせないと仕方がないが。


  2018/04/20 [金]   久々に、テレビの取材を受ける


 KBS京都放送の番組で、女優が下立売通りを歩きながら、ふらっとお店に入ってみる、という趣向。NHKの「ブラタモリ」の民放&地方版。

 私は稽古でいなかったが、十五分ほど、カメラが回っていたという。後でディレクターから「話がお上手ですね」と言われて、千晶は喜んでいた。

 六月の放送。


  2018/04/19 [木]   未定在(みてつざい)


 他力の捨て聖(ひじり)・一遍上人が、自力門の禅僧から諭された言葉、「徹底せよ」。

 朝、寝床の中で行気をしていた時、からだとことばを育む会のコンセプトを、「私塾」に徹底することに思い至る。

 もう、多数や衆知を追い求めるのは止めよう。“私”塾なのだから、好きにやらせてもらおう。それで一人でも二人でもついてきてくれたら、嬉しくあり楽しくもある。

 午前中は、そのためのホームページ&配布用チラシの修正作業に追われる。


  2018/04/18 [水]   黒澤明(くろさわ・あきら)『天国と地獄』


 千晶がレンタルショプで借りてきたDVDを観る。

 何と言うことはないサスペンス映画。二点。三船敏郎(みふね・としろう)が少年を右腕で難なく抱き上げて行くシーン。三船のこしづかいが――“普段着”である故に一層――きわだつ。

 昭和三十年代後半、横浜・黄金町の歓楽街の猥雑さと、対称的な鎌倉・腰越の漁港のローカリティー。東京オリンピックの直前、高度経済成長の欲望がうずまいていた日本の姿。


  2018/04/17 [火]   姓名判断


 めだかの睡蓮鉢のあやめが、咲いた。例年より半月はやい(いつもはゴールデンウイークの頃)。

 *

 このごろ、名字と名前が“与えるもの”について、考えることがる。姓名判断は、あながちナンセンスではないのではないか、と。

 父は、信州中野の出身。高島という姓は、諏訪湖にある小島から由来する、と郷土史の研究家に聞いたことがある。

 父の名は登(のぼる)、その長男で一登(かずと)。分かりやすい。

 人生ここまで生きてきて、自分の性分(しょうぶん)というか器量がすこしは分かってくると、オレは高い島に、一人で登るのか、一つを登るのか、そんな定めなのかな、とつらつら思ってしまう。

 とにかく他人(ひと)とつるむのが苦手で、村(の人間関係)は“天敵”。凡才型のアスペルガーの気(け)あり、虚飾を嫌う。

 苗字で思い浮かべるのは、教師時代に出会った生徒たちだ。

 工業高校で教えていたころ、大久保博文という名前の生徒がいた。大久保利通(おおくぼ・としみち)と伊藤博文(いとう・ひろぶみ)という二人の“偉人”を抱き合わせたような姓名。

 底辺校でコンプレックスをかかえた生徒が多く、クラスメートのごんたたちからはいつもイジられていた。彼の顔も、はすかいにゆがんでいた。両親は、どんな思いで名づけたのだろう・・・。もう五十路(いそじ)半ばに届いているはずだ。


  2018/04/16 [月]   謙譲の美徳


 郵便局へ行った時の一こま。

 まずATMで振り込みをしようと思い、おばさんが操作しているうしろで待った。が、数分たっても、終わる気配がない。どうも“うとい”人のようだ。

 そこで郵便の窓口に移って、娘の大学の授業料免除手続きを入れた封筒を配達証明+簡易書留で出した。

 ATMに戻ると、まだ件のおばさんがトロトロやっている!!しかも、二人が待って・・・。ためいきをついて列の最後に並ぶ。

 十分近くたって、ようやくおばさんが終わった。すると、次の番だった若い女性(黒のスーツを着ていた、就活の学生?or 新卒の営業ウーマン?)がふりむいて、私に
 「先に並んでいたので、どうぞ」
 と、番を譲ってくれたのだ。

 後で思い返してみると、私がATMを離れる前後に、入店したのだろう。私はうれしくなって、前後、二度礼を言った。

 譲るは、美徳。


  2018/04/15 [日]   HP〈からだノート〉を書く


 (1)ことば遊び B「まじめ」。毎日、十割蕎麦を食べているからか、お腹の具合がよい。今日も、午前二時過ぎまで、作業ができた。


  2018/04/14 [土]   表現教室


 参加一名。

 「くりしゅな」を〈表〉、「なむあみだぶつ」を〈裏〉で発声しながら、動いてみる。チベット密教の倍音声明では、第一チャクラから第七チャクラに向けて、「m音→う→お→あ→え→い→n音」と発声する。〈表〉タテの感覚世界を、下から上へ、自己超越を希求。

 内観技法の母音発声では、〈裏〉タテの感覚世界を「あ→お→う」と上から下へ、続いて「え→い」とヨコの感覚世界を左から右へ発声する。すなわち、気は天から地へ、そして、この地に永劫回帰を願う。

 「あ→い→う→え→お」を(内観技法の)はらの調律点に則って発音すると、反時計回りに円環がえがかれる。面白いことに、北半球で水が渦を巻くときと同じである。

 *

 こしの感覚+体癖の稽古:腰椎その一からその五に対応する感覚の焦点(外股・内股・仙椎・鼠径部(そけいぶ)・恥骨)に心眼を向け、同時に肉体の表出箇所である背・尻・腰・肘&膝・胸を意識しながら、前へ歩くときは〈表〉で、後ずさりする際は〈裏〉で、感覚+肉体の増幅を用いて歩行する。

 気づき:
 腰椎その二(左右体癖)では、〈表〉=前へでは、重心はすべて片足にのって外側に体がかたむき、〈裏〉=後へでは、逆に、重心をのせた足の内側に体がかたむくこと。

 腰椎その四(開閉体癖)では、〈表〉=前へでは、チャプリンのトレードマークのポーズになり、〈裏〉=後へでは、両膝が交差して×じるしを、また両肘が限りなく近づいて胸の前で腕が×じるしをえがく。

 いずれにせよ、極端なまでに肉体を誇張させないと、体癖感覚は分からないだろう。


  2018/04/13 [金]   朝、布団の中で行気をしていて思いつく


 世阿弥の言う「陰・陽」は、内観技法では〈裏〉と〈表〉ととらえている。この表裏を、動静という表現に置きかえてみるのもよいかもしれない。

 例えば、整体の鍛錬法にあてはめると、行気が〈裏〉=静、活元が〈表〉=動になる。確かに、脊髄行気は基本的に正座をして静かに行うし、活元は肉体の(時として激しい)動きが出る。

 ただ、活元はさらに、〈動〉と〈静〉に分かれるのではないか。つまり、同じように〈裏〉の呼吸+はらの間和りで行っていても、一般的な(=整体協会で推奨している)肉体を刺激する方法が〈動〉、それに対して内観技法で感覚的に行うのが〈静〉にあたる。

 *

 ゲゲゲの鬼太郎は、左目がない(左目=目玉親父)。一方、戦国武将の独眼竜(どくがんりゅう)伊達政宗(だて・まさむね)は、右目がない。

 内観技法では、左目(『古事記』では、天照大神(あまてらすおおみかみ))−右半身:表出の感覚世界、右目(同じく、月読命(つくよみのみこと))−左半身:受容の感覚世界、と位置づけている。言いかえれば、左目は生、右目は死(おおいなる生)である。

 鬼太郎が妖怪で、物の怪(け)と通じるのは、右目でしか世界を見られないからとも言えるだろう。

 世阿弥のいう「離見(りけん)の見(けん)」とは? 上心(肉眼)、中心(心眼)のさらに下(奥)=下心に、離眼(りがん)を持つこと。自己を客体化する目で、成熟の第三段階にあたる(第一段階は、動物的な肉眼、第二段階は、自己省察を行いうる人間としての心眼)。

 その技法とは? 左手小指をはらの調律点その二(下心の中央)にあて、(肉眼の)右目は開け左目は閉じて、もの(者・物・霊)をはらへ受容すること。しばらく実践していると、自ずと半眼(坐禅の時の)になっていた。

 果たして、この仮説は検証されるのか?


  2018/04/12 [木]   はや、姫睡蓮がさいた


 桜とおなじように、例年より一、二週間、早いように思う。睡蓮鉢におよぐめだかも、卵をだいている。

 近くの児童公園に剣術の稽古に行ったら、遅咲きの白い八重桜が満開だった。この短い時を、さくらの花とともに稽古できる幸せに、感謝。

 ただ・・・公園の隅に、子どもたちの食べた(らしい)お菓子の包装紙や、空き缶、それに煙草の吸い殻が散らばっていた。かにばさみで拾って、家に持ち帰る。

 公園の隣に住む、おやじさん、いつも毎朝、園内を掃除していたのが、体調でもくずしたのだろうか。


  2018/04/11 [水]   世阿弥はなぜ、序・破・急と言ったのか


 手間(真にふれる手)におきかえて考えてみる。

 序:まず自らのからだを(内観技法の基本で)調え、からだの内に(感覚としての)間を創る。

  この段階は、一遍上人の和歌では、「唱ふれば」にあたる。自己=「吾」と他者=「仏」は、個に分かれて在る。

 破:他者に手をあて(三角技法で)自らの感覚に集注する→他者を身内(しんない)の間に招き入れる。
   
  この段階は、一遍上人の和歌では、「仏も吾もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」」にあたる。

  自己の集注が深まるにつれ、主体(「吾」)と客体(「仏」)が胸の中心の間(情け=名裂け、個としての〈表〉の感覚が少しずつ失われる)から腹の下心の間に移り、「なじむ」(名染む、〈裏〉として和の感覚が生まれる)状態へ。

 急:最終的に、主体と客体が一体化する(一遍上人の和歌では、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」にあたる)と同時に、ここまで〈裏〉の呼吸+はらのたまの間和りで行っていた手当を、〈表〉に一瞬で転換することによって、和の感覚から再び個へ(ただし、和に裏打ちされた個なので、序の段階とは質的にことなる)。

 一遍上人は禅僧から印可を得て、二人は別れる。

 能においては、旅の僧が老女に出合い(序)、実は××の怨霊であったことが謡われ舞われ(破)、再び現実世界に戻ると、一本の柳の枝がゆれている(急)――シテが余韻のなかを静かに橋掛かりから去ってゆく・・・。

 余韻、この語られぬ(語れぬ)間こそ、人生の真(ま)ではないか。


  2018/04/10 [火]   一冊の本 書評会


 五月から行うことをプランニング。

 一冊の本を参加者で読み合う“読書会”ではなく、各自が読んで感動した本や他の人にすすめたい本を、一冊ずつ紹介しあう会。ジャンルは問わず(漫画やコミックもOK)。

 〈対話カフェ i-think〉を二年前に行って、二回でポシャッてしまった――私たちには、対話の技(スキル)が身についていない――その体験を踏まえたうえでの、新たな試み。

 家庭で、学校で、職場で、地域で、果たして対話はあるか?学校教育で、社会教育で、対話を学んできたか?身近に、対話を“普段着で”行っているロールモデルは存在するか?

 おそらく、NOであろう。

 対話の前段階として、「自らの思いを自らの言葉で語る&他者の発言に静かに耳をかたむける」そんなトレーニングが必要なのではないか。

 月に一度、とにかく「日頃の思いや考えを言葉で表現できる場」を継続させることを第一に、始めたい。


  2018/04/09 [月]   街を歩く


 娘の授業料免除手続きに必要な課税証明書をとりに、区役所へ。

 長者町通りの金光教教会に、

 「道を迷うことこそ 道を知ることだ――東アフリカのことわざ」

 と、掲示されていた。お寺の“悟ったような”標語より、よほど気がきいている。

 *

 今出川通りの元(?)店らしき家のシャッターに設けられた郵便受け口に、「二木清」とマジック書きしてあった。治安維持法で獄死した哲学者の三木清(みき・きよし)を想い出す。


  2018/04/08 [日]   京都府知事選挙、投票日


 午前中に仕事を片づけ、午後一時すぎに近くの小学校の投票所へ。

 閑散としていた。福山和人(ふくやま・かずひと)さんに投票。投票率は三十%から四十%か・・・。静かな街をあるきながら、何かがくずれさる前の静寂を感じる。


  2018/04/07 [土]   「はみ出すこと、それは才能」


 朝日新聞・夕刊の〈ココハツ〉に、「24歳で性別適合手術を受け、29歳の時にはマンションから飛び降りる自殺未遂も経験したモカさん(31歳 女装サロンバー「女の子クラブ」経営)」のインタビューが掲載されていた。

 ――モカさんは、自殺未遂の後、どうやって立ち直ることができたのですか?
 「人生相談のような誰かのために行動することを知ったから」
 ――それで世界が変わった?
 「世界自体は変わりません」
 ――え?
 「でも自分が変われば、自分にとっての世界は変わるんです。今、悩んでいることが、ずっと続くなんて思わないで。だから、私は生きることができたんです」

 彼女のツイッター、今日のつぶやき:

 「幸せな人たち、闇から目を背けるな!自己満足に浸って自分が平和だからと、満足するな。平和なら、闇を見つめて行動しろ!日本は、皆が想像する以上に病んでいる!!真の優しさとは勇気があることだ。いい顔しているだけの優しい人間は、自分のことしか考えていない。それは、とても残忍な人間だ。」

 2017年7月11日のツイート:

 「狭間になにかあると思う。朝と夜の狭間、夕焼けと日の出。未来と過去の、この瞬間。冷静と情熱の狭間。愛とシステムの狭間。男女の子供。潮目。中性の美。ハーフ。ハイブリッド。言葉で表現できないのが、もどかしい。プラスにもマイナスにも寄り過ぎず、バランスを保つことに意味がある気がする・・。」

 彼女のホームページを見ると、「お悩み相談」(一対一のカウンセリング)や「みんなと会う会」(月に一度の仕事や人生についての講話会)を、すべて無償で行っているという。

 自分が六十二歳ではじめて、ライフワークのからだとことばを育む会の会費を無料にできたことを思うと、感動という一言では言い表わせない想いが、うずまく。


  2018/04/06 [金]   腰痛


 ぎっくり腰というほどでもないが、一昨日から腰に痛みを覚えて動作が緩慢に。

 久しぶりに一本歯の高下駄で剣術の稽古をしたためか、それにしても体は慣れているはず。他に思いあたるふしもない・・・。

 感じるところあって母に電話。すると、おふくろも腰が痛くてなやんでいた。週に一回かよっているデイサービスは、万が一のことを考えて休むようにアドバイス。

 母と子は、いつまでもつながっているんだな、と実感。


  2018/04/05 [木]   二つの脳


 新聞広告を見て、日清ファルマという会社から、ビフィズス菌のサプリメント「ビフィコロン」をとりよせる。

 「腸内環境が気になる方に」――“初回お試し価格 2週間分14カプセル 500円(送料込み)”という触れ込みだった。

 実は飲むためではなく、手づくりの豆乳ヨーグルトに入れて、乳酸菌+(あわよくば)ビフィズス菌を体内に、という構図を描いた試み。

 送られてきたパンフ『健康の秘訣は腸にあり』に、こんな一節があった。「大腸には脳と同様の神経伝達細胞があり、独立した神経系をもつことから『第二の脳』と呼ばれています。つまり、脳からの指令を介さずとも直接ストレスの影響を受けてしまうのです」

 しかし、「第二の脳」というのは、間違いではないか。脳科学者の池谷裕二(いけがや・ゆうじ)氏の本に、確か人間の(人間としての)脳の誕生≒言語の発生ととらえると、一年のカレンダーになおせば、十二月三十一日の大晦日、それも夜十一時五十何分かに、事態が出現した、と書かれていた。
 
 それまでは、“はら”で感じ、考えていたのだ。つまり、第一の脳ははらであり、第二が、頭脳ではないだろうか。

 すると、近年、腸内フローラが脚光をあびているのは――科学によって再び光があてられた――“腸ルネッサンス”とでも呼ぶべきものかもしれない。

 さらにストレスを受けると腸の生態系がくずれる――私などは、すぐ下痢をしてしまう――というのはそのとおりだと思うが、逆にいえば、腸=“はら”を鍛えることによって、ストレスへの耐性が強められる、とも言えないだろうか。


  2018/04/04 [水]   街を歩く


 下町にある業務スーパーに向かう途中にある、町工場沿いの“野の小径”には、花にらが咲き、のびるが茂っていた。子どものころ、たんぼのあぜみちで摘んで、お袋にゆがいて「ぬた」にしてもらったなあ。

 こんな下町にも、「民泊反対 左馬寮町一同」の掲示が氾濫。

 *

 北野商店街のメッサ北野へ買い物に行ったら、以前、フレスコ御前店で警備にあたっていた警備員のおじさんと目が合い、おもわず会釈する。数ヶ月前から姿が見えなくなっていた(他の人に代わっていた)ので、どうしたのかなと思っていた。

 帰りがけ――初めて――言葉をかわす。

 「派遣先が変わったんですか」
 「会社が契約を打ちきって、今は別の会社が入ってるんです」
 「今は、ここで?」
 「いや、七店舗ぐらい回ってます。お元気ですか」
 「元気です。がんばって下さい」

 警備だけでなく、トレーの分別や、清掃もこまめにしていた。誠実な人柄を感じて、いつしか、フレスコに買い物に行くたびに、会釈していた。

 あたたかい心持ちになった。


  2018/04/03 [火]   整体 1 day レッスン


 5月から、第1・第3火曜&土曜に行うことにする。

 〈整体の行気&活元運動を学ぶ〉をテーマに、内観や“はら・こし”の感覚にはふれない。肉体や健康に(のみ)目が向いてる人でも、十人に一人(百人に一人?)は、表現教室につなげられれば。


  2018/04/02 [月]   三つの心、三つの目、手間の序・破・急の三段階


 (一)心、(二)目、(三)手間、の相関関係

 (一)心:上心@頭、中心@胸、下心@腹

 (二)目:肉眼@上心、心眼@中心、離眼(世阿弥のいう「離見の見(りけんのけん)」@下心

 (三)手間:序(内観技法の基本=心眼・呼吸・気力で、自らの心身を調える)情け(名裂け)=「こ(個)」の感覚、破(手をふれる)なじむ(名染む)=「わ(和)」の感覚、急(〈裏〉から〈表〉へ、一瞬で転換)かつ(活・喝を与える)=「わ(和)」に裏づけられた表の「こ(個)」

 *一遍上人の
 「唱うれば、仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」:「破」の第二段階
 「唱うれば、仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」:「急」の第三段階

 *お茶では、
 濃い茶(一碗のお茶を回し飲む):「破」の第二段階
 薄茶(一人ずつお茶を飲む):「急」の第三段階

 *例えば、「食」にあてはめてみれば、
 序:(あたまが)からだによいと思うものを食べる
 破:(あたまが)からだの声を聞いて食べる
 急:からだが食べる

 *図で表せば、
 序:個×個    自己と他者が、個である
 破:個(和)個  自己と他者が、和である
 急:和(個×個) 自己と他者が、個でありつつ和である(和でありつつ個である)


  2018/04/01 [日]   久しぶりに家族で外食


 バスと電車を乗り継いで、伏見の手打ち蕎麦・いまふくへ。

 こだわりを“超えた”というか、趣味・道楽ここに窮まれり。そばの産地まで行って、仕入れる(収穫の手伝いまでする)蕎麦屋の主人というのも、そうそういるまい。

 店の造りも飾りがなくよい。惜しむらくは、そば打ち(こね)にもう少し“こし”がはいれば、やさしいそばになるのでは。