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町屋から100年計画 by 高島千晶

 夫婦で商売をやっています。五年前に京都で小さい町家を借りて豆屋をはじめてからは、店と家が一緒。三畳くらいの店、四畳半の事務所、三畳の茶の間があって、奥に六畳の座敷兼作業場、これだけの小さなスペースで一日中顔をつきあわせて仕事し、おまけに二歳になったばかりの子どもがちょろちょろしていた開店当初はけんかばかり。仕事と家事が終わって、子どもを寝かしつけるために二階に上がるとほっとしました。、ただし、二階はしっちゃかめっちゃか。きれい好きな夫はがっかりして、夜おそくからそうじを始める。

 でも、それから五年たった今は、この家の住み心地はなかなかのものです。それぞれの得意分野を担当し、夫はそうじと事務全般、わたしは台所仕事と接客をしています。

 わたしたちの家は築百年になる昔ながらの町家ですが、町家というのは商売するのに便利なようにできていて、細長い土間の台所から、すりガラス引き戸ごしにお客さんが来られたのがわかります。あわてて出ていって、最初の頃こそよく鍋を焦がしていましたが、今は子どもたちが手伝ってくれるから大丈夫。お客さんと話しこんで台所に戻ってくると、茹でかけのほうれん草が茹でてあったり、焼き魚の番をしてくれていたり。

 店と家が一緒、いわゆる職住一致のいいところのひとつは、子どもの仕事がたくさんあることです。たとえば、お店の商品を紹介するカードは娘がつくります。「パンにつけるとGOOD!」とか「激ウマ!」とか、ちょっとわたしが使わないような言葉が踊っています。息子の方は、「ひよこ豆、おいしいよ。ぼく一番好き」などとお客さんに話しかけています。ちょっと立ち寄っただけのお客さんに「あれ?お豆買わないの?もうすぐ銀手亡なくなるよ」と声をかけたりして、お客さんもわたしもびっくりします。

 そして、この町家は、パブリックな場でもあります。この家で豆料理クラブの会員と話し合ったことは数え切れない。共同で豆を煮るための保温調理用鍋カバーを開発しました。社会や政治の話もします。イラク戦争が始まった翌年の春、日本人人質事件に端を発してマスコミでは自己責任論がとりざたされたのですが、あの頃からでしょうか、何だかおかしいよということがある度に、店先で、あるいはご飯を食べながら、わたしたちは話すようになりました。いまさらながら、豆料理はそんな風に人が集まる場所には最適です。

 それにパソコンのおかげで、井戸端会議には全国の会員が加わっています。メーリングリストに、毎日のように誰かが書き込みをしている。笑いあり、涙あり。

 イギリスのコーヒーハウスから政党政治が生まれたと、歴史の本で読んだことがあります。100年後の教科書に、「日本では、豆屋、米屋、八百屋、酒屋などから民主主義が広まり根づいた」と書かれていることを想像すると、ちょっと楽しい。ちなみに、豆料理クラブのメーリングリストには、「100年計画」という名前がついています。
(地湧社発行 雑誌『湧』2008年3・4月号から転載)